Limited Chocolate for You
人工的なベル音を微かに響かせて、エレベーターのドアが開いた。大型のエレベーターの箱の中にすし詰めになっていた客が一斉にフロアに降り立つ。箱の中ほどで身を縮こませていたたつきも、半ば人波に押し出されるようにして目的のフロアに入った。
「…すご…」
思わず、たつきは呟いていた。
人波がばらけたことで視界が開け、フロアの全貌が明らかになった。エレベーターにほど近いところには、でかでかと「バレンタイン特設会場」と書かれた看板が天井から吊り下げられていた。ピンクと赤のハートで装飾された看板の向こうには、夥しいショーケースが所狭しと並び、大勢の買い物客が群れている。
「こんなにあるの?」
再び、たつきは呆然と呟いた。この延々と広がるチョコレート売り場から、ただ一つのチョコレートを選び出さなければならないのだ。
「どうしよ…」
織姫が都合がつかなくても、せめて真花や鈴あたりに連絡を取って付き添って貰えば良かった、と彼女は早くも後悔していた。気恥ずかしさから一人きりで来てしまったが、この甘ったるいのに微妙に殺気立っている売り場に足を踏み入れる勇気が持てず、彼女はその場に立ち尽くした。
たつきにとって、ヴァレンタイン・ディは長らく縁のないイベントだった。もちろん、全く無縁に過ごしていたわけではない。父親には毎年、母と一緒にチョコレートを渡していた。幼馴染みで腐れ縁ともいえる一護や、仲の良い従兄弟たち、部活の先輩や仲間にも、スーパーで購入した大袋入りのチョコ菓子を小分けしてラッピングしたものを渡してはいた。しかし、それらのチョコレートには「ときめき」成分が皆無だ。ありていに言ってしまえば、義理チョコ。好意的表現を用いてみても、せいぜい友チョコ、友愛チョコ、親愛チョコといったところだろう。恋する女の子の勇気とドキドキが目一杯詰まった本命チョコは高校二年のヴァレンタインまで、たつきは全く経験がなかった。
高校生最後の年に、何の間違いが起こったのか、たつきに彼氏が出来た。しかも、告白されて、という、そんなもの好きがいるわけがないから自分の身には絶対に起こらない、と彼女自身が達観していたシチュエーションによって付き合うことになった相手である。
もの好きの名は石田雨竜という。高校一年生の時に同級で、二年でクラスは分かれたものの何だかんだでわりと親しい付き合いがあった友人だった。そんな相手だったから、交際自体は彼に押し切られる形で始まった。たつきとしても当初はそれまでの友達感覚の延長線の気分でいたのだ。けれども、付き合い始めてみると、雨竜の傍はとても居心地が良かった。気が付いたら、彼女もしっかり彼を好きになっていた。
高校最後のヴァレンタインは、結果として本命持ちだったたつきだが、おりしも受験本番まっただ中。イベントに浮かれる雰囲気などまるでなかった。それに、高校生の小遣いでは相手が本命といえども買えるチョコレートなどたかがしれている。スーパーでいつもは見向きもしないちょっとお高めのチョコレートを購入し、彼に渡してあっさりと終わってしまった。
本音をいうと、初めてのヴァレンタインが受験本番中で助かったと、たつきはほっとしていた。何しろ恋愛初心者な上、性格上、女の子らしいふるまいに慣れていないのだ。織姫やみちるのような、可愛い態度など取れない、どう考えたって、自分のキャラじゃない。それなのに、雨竜は目いっぱいたつきを女の子扱いするのだ。一体、どうすればいいのかと実はかなりテンパっていただけに、受験だからと逃げられたヴァレンタインはとても有難かった。
しかし、今年は付き合い始めてから、すでに一年以上経過している。大学にも進学し、バイトだってしているから、未だ親掛かりとはいえ高校時代よりも金銭に余裕がある。昨年は逃げてしまったが、今年はまともにヴァレンタイン・ディという一大イベントに向き合わなければならない。そんなふうに覚悟を決めて、決戦の
しかし。
デパートのヴァレンタイン商戦の凄まじさは、ニュースなどで理解していたつもりだった。だが、あくまで自分には無縁のイベントと流していただけに、初めて現場に立って、たつきは場の雰囲気に呑まれてしまった。
ともあれ、いつまでも売り場前に突っ立っていても
彼女は恐る恐る特設会場に足を踏み入れた。
アンリ・ルルー。フランスの老舗の高級チョコレート・メーカー。ブランド名はチョコレート先進国だったスイスの技術をフランスに広めた功労者でありショコラティエの先駆けでもあった創業者の名を冠している。プラリネ・ショコラやジャンドゥージャなどの粒チョコレートは芸術品の繊細さだと評価も高い。
ピエール・マルコリーニ。ベルギー・チョコレート界の奇才と称されるパティシエ、ショコラティエであるピエール・マルコリーニが主催するチョコレート・メーカー。カカオに強いこだわりを持ち、他ブランドに比べて甘さ控えめな味は、男性にも好評。
デメル。二百年以上の伝統を誇るウィーンの老舗。ザッハトルテなどのチョコレートの焼き菓子が人気が高い。看板商品のソリッド・チョコレートは「猫ラベル」の愛称で親しまれている。
ゴディバ。高級かつ高額チョコレートのブランドとしてはおそらく日本一の知名度を誇るベルギーのメーカー。チョコレート王国・ベルギーでも屈指の地位を確立しており、粒チョコレートは正に贅沢な味わい。その知名度ゆえに、贈答品としての安定感は他ブランドの追随を許さない。
ジャン=ポール・エヴァン。MOF(フランス国家最優秀職人賞)を受賞したショコラティエ、ジャン=ポール・エヴァンが自らの名を冠して立ち上げたショコラ・ブティック。ケーキ、マカロンなど素材の魅力を活かした洋菓子類、カカオの魅力を最大限に引き出した板チョコレートなどが人気。
デルレイ。ヴィタメール。ガレー。ドゥバイヨル。ピエール・エルメ。モンサンクレール…。
ベルギー。フランス。スイス。オーストリア。日本。オランダ。スペイン…。
売り場の熱気に完全に中てられて、たつきはいったんエレベーターホールに戻り、据えられた休憩用のソファに腰を下ろした。
一体、いくつのチョコレートを試食しただろう。
生チョコ、トリュフ、プラリネ・ショコラに板チョコ。
ビターなものから、苺やマンゴーといった果物の酸味を効かせたもの、ナッツの風味が強いもの。味も一欠片の大きさも様々なチョコを売り子に手渡されるままに試食したが、試食すればするほど逆に迷いは深まっていった。
何しろ、世界の一流チョコレート・メーカーが一堂に会しているといっても過言ではない。たつきが常日頃口にしている、スーパーやコンビニでお馴染みのロッテや明治のチョコレートとは全くレベルが違う。どれもこれもグルメ・レポーター風に表現すれば、「まったりとこくがあり、カカオの風味が濃厚でありながら、くどくはない上品なお味」といった感じでとにかく美味しい。中には洋酒が強すぎてちょっとという商品や、個性的過ぎて好き嫌いが分かれそうな代物もないではなかったが、そういうのは例外である。
これが例えば、織姫へのプレゼントであれば、味で選べないなら見た目の可愛さで決めるという手もあった。実際、売り場には男性がこんなチョコを貰って嬉しいだろうかと疑問を抱かせるような妙に可愛らしいチョコレートだってずいぶんと並んでいたのだ。
例えば、桜の形を象ったもの。或いはムーミンやピーターラビットの形のもの。ゆるキャラ風にデフォルメされた動物チョコといった商品だ。最近は友チョコも盛り上がっているから、多分、それ用か、おばあちゃんが孫にプレゼントする用だろうと、たつきは結論付けていた。織姫なら、きっとそういった可愛いチョコを喜ぶ。だから、味が甲乙つけ難いのなら、見た目で選ぶという選択肢もありなのだ。
だが、雨竜に渡すものはそうはいかない。密かに本人が気にしているようなので口にしたことはないが、彼は顔立ちだけならちょっとばかり中性的だとたつきは感じている。料理や裁縫といった一般的には女性が好むような趣味も持っている。だが、顔立ちや趣味がどうあれ、彼は紛れもなく男性だった。しかも、茶渡のように隠れ可愛いもの好きという訳でもない。雨竜にムーミン・チョコなど渡しても苦笑されるだけだろう。それに、
(雨竜って舌が肥えているし…)
とたつきは思わず溜息をついた。
大学進学を期に下宿で独り暮らしを始め、覚束ないながら自炊を始めたたつきとは異なり、独居歴の長い雨竜は料理の腕前もかなりのものである。彼と交際を始めてから、幾度も手料理を振る舞われたが、どの料理も吃驚するほどに美味しかった。下手な飲食店なんかより、よっぽど味も見た目も素晴らしい料理が出てくるのだ。しかも、菓子作りもお手のものらしく、昨年のホワイト・ディにお返しとして貰ったのは何と手作りの愛らしいプティフールの詰め合わせだった。
本命に手作りチョコというのは、定番中の定番だ。しかし、料理を得手とする雨竜に対して、下手糞な手作りチョコなんかとうてい渡せない。雨竜は優しいから、喜んだ顔はしてくれるかもしれないが、自分が惨めだ。だから、せめて、本命らしく、とびきり美味しい高級チョコレートを贈りたいとたつきは目論んだのだ。
けれども、彼女は選べない。余りにも多くの種類があり過ぎて、高級ショコラティエが妍を競い過ぎていて、かえってこれというひとつが選べなくなってしまった。
「しーちゃん、マルコリーニの方が美味しいって言ってなかった?」
ソファで頭を抱えるたつきの傍に、エレベーター待ちで、友人同士らしいOL風の女性二人が立った。一人はゴディバの紙袋を手にしている。
「うん。自分で食べるなら断然、マルコリーニ派だよ。でも、」
しーちゃんと呼ばれた女性は苦笑した。
「あいつにマルコリーニをやっても分からないもん」
「ああ、ゴディバに比べると知名度、全然低いもんねえ」
「そういうこと。パッケージとかで高級チョコなのはさすがに察してくれるかもだけど、有り難がってくれなさそうじゃない?」
「なーるほど」
「下手したら、『知らね』で終わるかもしれないし。その点、ゴディバならあいつもすっごい高いチョコレートだって知っているからね~」
「あ~、分かる、分かる。確かにね~、ほんっとーに高いチョコなんだよって、本命アピールは重要だよね」
「そ。だから、ゴディバにしたんだ」
エレベーターがフロアに到着し、女性たちは去って行った。
「雨竜はどうなんだろう?」
思わずたつきは独り言ちていた。彼は料理が得意な上に、とても博学だ。としたら、先ほどの女性が話していたマルコリーニや他のショコラティエについても知識がある可能性は高い、ような気がする。一方、洋菓子よりも和菓子派だと明言していたから、洋菓子のブランドは余り詳しくないかもしれない。
(なんで、こんな悩んでるんだろ?)
たつきは自嘲した。多分、雨竜の嗜好からすると、高級チョコよりも虎屋の高級羊羹の方が喜ぶだろう。これが、単なる手土産なら、たつきは迷わず羊羹にする。しかし、手土産ではなく、ヴァレンタイン・ディのプレゼントだ。チョコレートを贈ることに重大な意味があるイベントで、敢えて羊羹をセレクトする気概はなかった。無論、チョコレート羊羹などといった色ものに手を出す冒険も出来ない。
特設会場を少なくとも十周くらい巡って、悩みに悩んだ末に、たつきが購入したのはゴディバだった。高級チョコレート・ブランドとしての地位を確立しているせいか試食はなかったが、ゴディバなら、たつきも口にしたことがある。空手道場を経営する父親が、指導している子供たちの保護者から贈答品として頂いたことがあったからだ。今日、試食した他のメーカーに比べてどうかという評価が出来るほど、たつきはチョコレート・グルメではない。だが、美味しいことだけは充分に分かっていた。
結局、味では全く決められなくて、ブランドの知名度で決定してしまった。そのことに、忸怩たる想いがないとは言えない。けれども、バイトで貯めたお金をはたいて購入した高額チョコレートだ。手作りではなくても、本命チョコだというのは伝わるはず、と信じたかった。
ゴディバにはヴァレンタイン限定商品とかで、妙にキラキラしたピンクのハート型ボックスに入った粒チョコレートの詰め合わせが売っていた。売り子曰く、一番の売れ筋商品らしい。だが、恥ずかしさと照れくささが入り混じってどうしてもその商品は購入出来なかった。横に六角形のギフトボックスの商品があったので、そちらにした。その商品もやはり限定商品らしいが、箱のプリントはトロピカルな鳥の図柄で、ヴァレンタインを強調していない分だけ心情的に購入しやすかったのだ。
食堂にやって来た雨竜と一護を目にするなり、井川が、
「大漁じゃん」
と揶揄して来た。
現在、彼らの通う大学は後期定期試験の真っ最中である。一護と雨竜も先ほどドイツ語の試験を終わらせたばかりだ。試験が終わって、食堂に向かおうとしたところ、女の子たちに取り囲まれたのである。
本日は二月十三日金曜日。スプラッタ・ジェイソンが暗躍する日だが、女の子たちにとってはヴァレンタイン当日が土曜日で試験もない為、目当ての男子学生が大学に来ないという方が重大だった。その結果、決戦は金曜日とばかりに、前日のこの日にこぞってチョコレート持参で勝負という事態に至ったのだ。
「彼女がいるから受け取れないって断ったんだけどな」
一護が苦々しげにぼやいた。
「最後には泣き落としだもんよ。気持ちには応えられない、お返しもしない、っつってるのに押し付けられたってなぁ」
贅沢と言われるかもしれない。非モテ男には恨まれるかもしれない。だが、知ったことではない。本命彼女の方が大事だ。彼女が存在する身で、一護は気持ちが重たいものは受け取りたくないと考えているようだった。その心情は雨竜も共有しているもので、受け取ったのは一護同様に嫌々である。一護にせよ、雨竜にせよ、根っこの部分がフェミニストで女の子を邪険に切り捨てられないところに付け込まれたも同然だ。
「女の子たちも今年に賭けているんだろ。専門に進んでしまったら、他学部との交流なんてなくなるもんな」
と井川がしたり顔で解説した。
「石田も、黒崎も、超優良物件だからな。あわよくば、彼女から奪っちまえってとこか?」
渡辺も皮肉っぽく添える。
雨竜は眉を顰めた。一護も胡乱に渡辺を見返した。
「はぁ?」
「優良物件って…」
「どの辺が?」
その問いに、淀みなく渡辺は応じた。
「まず、医学部生。つまり、医者の卵」
「それなら、君たちもだろう?」
「まーな。けど、顔面偏差値に格差があるし?」
再び、雨竜と一護は顔を顰めた。
「だな」
と井川も頷いた。
「同性の俺らの目から見ても、黒崎たちはイケメンの部類に入ると認めざるを得ない」
「悔しいが、性格もまあ悪くねえしな。石田は凄え優しいって、女から認識されてるぞ。黒崎は一見取っつきにくいけど、けっこう気さくって評価だ」
「…へえ。ソウデスカ」
一護が棒読み口調で相槌を打つ。
「後、全員が、だとはさすがに思えないけど、本気で医者狙いの女なら、実家が開業医ってのもリサーチ済みかもな」
雨竜の顰めた眉が最大限に歪んだ。
「何だよ、それ」
と一護もやるせなく溜息をついた。チョコレート群にどんよりと濁った視線を落とす二人に、
「ま、今年だけだって」
渡辺がけろりと言い切った。
「そうそう。先輩たちも言っていたけど、専門に進んだら他学部とまず物理的に接触出来なくなるからな」
「医学部生がモテるってのは、都市伝説だって、嘆いていた先輩もいたな」
と渡辺は続けた。
「デートもままならなくて振られがちだし、学部以外に出会いがなくなるし、学部内恋愛狙っても女の絶対数が少ないからあぶれる奴の方が多いし、よっぽど上手く立ち回れる奴が例外的にモテるだけ、って聞いたわ」
「お前らも今年は入れ食いでも、来年はそうはいかねーって覚悟しておくんだな。専門に進んだら、彼女に振られないように気をつけた方がいいぞ」
井川と渡辺は完全に人ごとと思っているようだ。揶揄の言葉に、雨竜はがっくりと肩を落とし、一護は乾いた笑いを返した。
同じ学部にいる女子学生などから貰った明らかに仲間内に渡す義理チョコと了解出来るものは別として、雨竜も、一護も、彼女以外の女の子からのチョコレートを口にするつもりはなかった。一護は妹たちと父親に任せると言った。雨竜は、見たところ、それなりに値が張りそうなチョコレートが多いようだったので、父親が経営する病院のナースたちなら喜んでくれそうだ、と判断した。いくつか、手作りっぽいものも混じっていたが、これもこだわりのないナースなら食べるだろう。
だが、肉親に処分を任せる一護と異なり、他人に譲渡しようと目論む雨竜はそのまま右から左と持って行くわけにはいかなかった。包装紙にメッセージカードが挟み込んである箱を発見してしまったのだ。他にも、中に手紙が入っている可能性がなきにしもあらずだ。女の子たちには誠に申し訳ないことながら、最初から彼女がいると断っているのに押し付けられた代物に添えられた手紙など、全く読む気にはならなかった。とはいえ、ナースたちの目に触れることで手紙の主が晒し者になるのは忍びない。そこで、雨竜はいったん自宅に持ち帰り、点検してから持って行くことに決めた。
二月十四日。ヴァレンタイン・ディの当日。
空座本町駅の改札を出たたつきは駅前の通りを歩く雨竜を認めた。
ヴァレンタインなので、昼前に雨竜を訪ねる約束をしていた。しかし、その前に一度、実家に戻るつもりで空座町に来たので、彼との約束の時間まではずいぶん早い。当然、彼が駅前にいるのはたつきを迎えに来たとかではなく偶々なのだろう。だが、思いがけず早く会えたことが、たつきは嬉しかった。だから、
「雨竜!」
と呼びかけながら駆け寄ったのだ。
しかし、予想に反して、雨竜は喜ばなかった。彼の表情に浮かんだ強い戸惑いに、たつきは思わず足を止めた。
「たつき…」
「なんか、拙かった?」
視線は厭でも彼が携えた紙袋に向いた。そこに詰め込まれていたのはチョコレートの箱だった。それを認めて、たつきは雨竜の困惑の理由を推し量った。
「そんなに貰ったんだ…」
こんなの自分らしくないと感じながら、声音が低くなるのを止められなかった。それに、どうして声が震えてしまうのだろう。
「義理チョコだよ」
と雨竜は言った。
「義理で、ゴディバは渡さない」
たつきは返した。自分でも嫌になるほど、きっぱりとした物言いになってしまった。けれども、紙袋の一番上に乗っているパッケージは自分が購入したものと同じ商品だ。更に、その横に詰められているのは、多分、手作り 。
「あたしの…要らなかったね…」
ひどく惨めな気持ちに襲われた。思わず踵を返して立ち去ろうとしたが、手首を掴まれ阻まれた。普段、例えば人混みではぐれないようにと握る時の力加減とは明らかに異なる、逃すまいと捕らえる強い力が、そこに籠もっていた。
振り向いたたつきの眸が頼りなく揺れる。
「断りきれなくて、ごめん」
ぽつりと、雨竜は謝った。
「言い訳になるけど、『彼女がいるから受け取れない』って、断ったんだ。でも、それでもチョコレートだけでも受け取って欲しいって粘られて、最後まで断りきれなかった」
「…」
「これは…、父の病院に持って行くつもりだった。ナースの人たちに差し入れすれば、多分、喜んで食べてくれると思ったから…。自分で食べようとは思わなかった」
「…うん」
ようやく、たつきは小さく頷いた。雨竜がほっとした気配が伝わってくる。
「あたしこそ、ごめん。…でも、チョコを受け取ったことに腹を立てたわけじゃないんだ」
きゅっとたつきは唇を噛み締めた。そんな彼女を気遣ったのか、往来で込み入った話をするのは避けたかったのか、雨竜は腕の力を緩めて、
「そこの喫茶店にでも入ろうか」
とたつきを促した。
駅前にある「グリーン・ゲイブルズ」は高校生の頃から利用していた馴染みの喫茶店だ。勝手知ったる店内で、カウンターから一番遠いボックス席を選んで腰を落ち着けた。カフェオレを注文し、ウェイトレスが厨房に引っ込んだのを確認した後、たつきは雨竜に向き直ると、
「さっきも言ったけど、チョコを受け取ったことに怒っているんじゃないんだ。というより、雨竜は悪くない」
とはっきりと告げた。
「でも、さっき…」
「あたしの問題なんだ…」
彼女はゆっくりと息を吐き出した。ちゃんと納得して貰わなければならないと、
「上手いこと説明出来るか自信がないけど…」
と前置きして、彼女は言葉を選びながら続けた。
「あたしには片想いの経験はないけど、織姫とか、他の友達とか見てきたから片想いの切なさとかは分かるつもり。彼女がいるとか、そういう目では見られないって理由でチョコを受け取って貰えなくって泣いてた娘、知っているし。…だから、雨竜が彼女がいるからって一旦断った上で、それでもっていう女の子から受け取ったのは間違っていないと思ってる」
「…」
「むしろ、断固拒否したからってドヤ顔で報告されても、それはそれでむかつく気がするし…さ…」
「そうなのかい?」
「ん…」
たつきは小さく首を縦に振った。
「けど…、それなのに、雨竜があたしから以外にたくさんチョコを貰ってったってことが、なんか嫌だなって…」
「…」
「受け取らなければむかつくのに、受け取ったら、それもやだって、自分でも何言ってんだって呆れているよ。だけど…、でも」
「受け取らなければむかつくっていうのは、たつきが優しいからだよ」
と雨竜が引き取った。
「多分…、今まで見てきた片想いで傷付いた友達を、僕にチョコレートを渡してきた女の子たちに投影しているんじゃないかな?」
「かもしれない」
「受け取ったのが嫌だっていうのは、やきもち、だと思ってもいいかな?」
「…。そうだと思う」
とたつきは認めた。
「やきもちなんだね…。我ながら、情けな…。」
自ら言葉にすることで、彼女は今さらの如く納得した。
「器が小さいったら」
自嘲の笑みを浮かべたたつきに、
「僕は嬉しかったよ」
と雨竜が告げた。
「やきもちを焼いたってことは、僕を好きでいてくれているってことだろう?」
「それは…」
「君が動揺しているのを見て、しまったって思った。君を傷付けてしまったって…。でも、もし、平然とされていたら、ちょっと立ち直れなかったかもしれない。だから、身勝手かもしれないけど、動揺されて嬉しかったのも本当なんだ」
好きの反対は嫌いではなく無関心。
出所は不明だが、一面の真理をついているからこそ流布しているのだろう。殊に恋愛関係に限ると説得力はかなり高まる。
雨竜が言いたいのはそこだと察しがついたので、たつきは黙って頷いた。
けれども、単純に嫉妬しただけではなかった。コンプレックスから来る自己嫌悪の念があったことも、彼女は既に自覚していた。
彼に告白されて、たつき自身は友愛から始まった交際だった。けれども、気持ちはとっくに恋に育ってしまった。柄じゃないのは分かっている。似合わないのも知っている。それでも、彼の前ではちゃんと女の子でいたいのだ。可愛いと思われたいと、願うのだ。
僻んでいる自覚はあった。けれども、雨竜が処分しようとしたチョコレートたちが、たつきの女子力の乏しさを嘲笑っている気がした。好きな男に手作りチョコレートを渡せない不器用さ。選んだチョコレートも知名度頼りの堅実と言えば聞こえはいいが、冒険出来なかっただけ。どこにも特別感がない。やっぱり、可愛い女の子なんて、キャラじゃないんだと突きつけられた心地だった。
「このチョコレートはさっき言った通り、病院に持って行くよ」
雨竜の言葉が俯いていたたつきの頬を撫でた。
「持ってきてくれた女の子には悪いけど、僕が欲しいのはたつきのチョコレートだけだから」
「ありがと…」
彼はたつきのチョコレートが欲しいと、それしか要らないと、はっきりと言ったのだ。女子力があって、空気が読める女なら、このタイミングで渡すものなんだろう。だが、たつきには無理だった。
「後で…」
「うん?」
「雨竜の家に行くから…」
言い訳じみていると思いながら、彼女は早口に続けた。
「父さんにもチョコ渡したいし、一回、家に帰ってから、すぐ雨竜のところに行くから、だから、待って」
「分かった」
察しの良い雨竜は、他の女の子からの貰いものが存在しているこの空間でチョコレートを渡したくないたつきの気持ちを慮ってくれたのだろう。あっさりと頷くと紙袋を手に立ち上がった。
「僕も病院にチョコを届けたらすぐに戻るから」
慌てて、たつきも席を立つと、トートバッグの中を探った。
「雨竜、病院に行くなら、これ」
差し出した小さな箱。
「雨竜のお父さんに…」
「ああ」
雨竜は微笑んだ。
「喜ぶよ」
母親が亡くなって以来、雨竜と父親は不和だった。だが、半年ほど前にもろもろの出来事があって、長年の誤解や行き違いが解け、親子は和解を果たしたのだ。そもそも、雨竜が父親の病院のナースにチョコレートを持って行こうと思いついたのも、和解していればこそだ。
「そうかな?」
「父はたつきを凄く気に入っているからね。あの人は僕に対して辛辣なのが基本姿勢だけど、たつきに会わせた後、女性を見る目があるって、不気味なほど上機嫌で褒められた」
「そ、そう…」
むず痒いような心地で、たつきは顔を赤らめると、
「じゃ、また後で!」
といい逃げして喫茶店を飛び出した。
チャイムの音に雨竜は、玄関の扉を開けた。どこか思い詰めた雰囲気を漂わせて立ち尽くすたつきを不審に思いながら、彼は彼女を部屋に招き入れた。
「寒かっただろう?」
と彼女を炬燵に入れ、まずはお茶でも、と台所で薬罐を火に掛けた。
「コーヒーと紅茶、どっちがいい?」
「コーヒー」
「ナースご一同さまからクッキーを頂いたんだ。食べるだろう?」
ヴァレンタイン用のチョコ・クッキーだが、誰が見ても義理チョコなので問題のない代物である。
「そうだ。父が喜んでいたよ。たつきからのチョコレート」
「…そう。良かった…」
雨竜はコーヒーとクッキーを盛った皿をたつきの前に置くと、炬燵に座った。彼女は僅かに俯いて、雨竜の顔を見ないまま、
「これ」
と小さな紙袋を雨竜の前に押しやった。
高級感のある紙袋はゴディバのものだ。
「ありがとう」
と受け取って中を検めて、雨竜はたつきが自信なさげに俯いていた理由を正確に察した。
南国の鳥の絵がプリントされた六角形のパッケージに見覚えがあった。昨日、受け取らざるを得なかったチョコレート群の中にも、これと同じ箱が間違いなくあったのだ。しかも、父の病院に持って行く際、紙袋の一番上に置いた覚えがある。
「ごめん…。がっかりさせて…」
がっかりなんてしていないが、多分、今、それを告げてもたつきは信じないだろう。言いにくそうに、ぽつり、ぽつりと紡ぎ出される彼女の言葉が終わるまで、彼女が抱えるものを吐き出してしまうまで、雨竜は聞き役に徹することにした。
まだ、彼女と交際を始めたばかりの頃、雨竜は織姫から、たつきは自分が可愛くないと思い込んでいると教えられたことがあった。
たつきはボーイシュな女の子だ。服装もユニセックスというか、どちらかというとシンプルで飾り気のない男物っぽい印象のものばかりで、雨竜は高校の制服以外にはスカート姿を見たことがない。性格もさばさばとして闊達、男勝りでもある。父親の影響で空手は有段者。高校時代の戦歴は一年生の時がインターハイ準優勝。二年、三年は連覇を為し遂げたという立派なものだ。その結果、啓吾を筆頭とした同級生たちからは「日本で一番強い女」だとからかわれたり、恐れられていたから、その辺りも「可愛くない」という思い込みに拍車をかけたのかもしれない。
おそらく、と雨竜が想像しているだけなのだが、たつきの中の「可愛い女の子」の理想形は織姫やみちるみたいなタイプだ。花柄やレースやフリルの乙女っぽい服装が似合って、顔立ちもふんわりと甘く優しくて、どこか庇護欲をそそる頼りなさがある女の子。だから、たつきはその理想形と比べて、女の子らしくないと引け目に感じているのだ。
織姫やみちるが女の子らしい女の子であることを、雨竜は否定しない。同級生だったからよく知っているが、彼女たちは思いやりがあって優しく、間違いなく可愛らしい少女だった。
けれども、彼女たちと比べてたつきがどうこうと判断するのは誤っていると、雨竜は思うのだ。どんなに外見がボーイシュでも、腕っぷしがそこらの男では太刀打ち出来ないくらい強くても、たつきは本質的な部分で実に女の子らしくて可愛い。少なくとも、雨竜はそう感じている。彼女の優しさや、さりげない気配りに雨竜はずいぶんと助けられた。だいたい、本当に女らしくない女なら、自分が女の子らしくないと悩むことさえしないだろう。逆説的だが、そこにコンプレックスを持つ時点で、たつきはやっぱり愛らしい女の子なのだ。
「あたしは料理も下手くそだから、…手作りチョコレートなんて無理だって思った」
「…うん」
「だから、せめて既製品でも…、ちゃんと自分で選んだ特別なのを渡したくて…」
「うん」
「デパートに行って…」
ぽつり、ぽつり。
彼女の言葉は雨垂れだ。
「デパートの特設会場…。なんか凄かったんだ」
「うん」
「凄くたくさんショーケースが並んでて、聞いたこともないような高級チョコレートの店もいっぱい出てて…」
「ニュースなんかで見たことがあるよ。あれは圧巻だね」
「なんかさ、種類もいっぱいあるんだ。柔らかい生チョコとか、ナッツが入っていたり、ドライフルーツが入ってたり、甘いのとか、あんまり甘くないのとか…」
「うん」
「どれがいいのか、どれが喜んで貰えるのか、訳が分かんなくなっちゃって…」
「うん」
「何が何だか迷っちゃって…。それで、結局、たいていの人が知ってるからって理由でゴディバにしたんだ」
「うん」
「さっきの紙袋に…、これと同じ箱を見つけて…」
ああ、やはりそこを気にしたのか、と雨竜は思った。
「見るからに、手作りっぽいラッピングのもあったし…」
「…」
「あたしのなんて、全然、特別じゃないって思ってしまって…」
彼女は分かっていない。雨垂れが石を穿つように、彼女の言葉は雨竜の心を静かに打っていたことを。
「特別だよ」
初めて雨竜は反論した。
「手作りだとか、そうでないとか、ブランドがどうとか、そんなことはどうでもいいんだ」
「え?」
「たつきは僕の為にわざわざデパートまで出掛けて、悩んで、悩んで、買って来てくれたんだろう? その時間と気持ちが、もう充分に特別だよ」
「…でも…」
「それだけ悩んで、考えて、その結果選んだものなら、コンビニのチロルチョコだったとしても、僕は特別だって思うし、嬉しいよ」
「チロルチョコはさすがにないよ」
たつきは静かに笑った。
「でも、ありがと…」
いつものはきはきと強気な彼女からすると消え入りそうな弱い声音が切なかった。
「たつき」
「何?」
「まだ、特別じゃないって思っているなら…、本当に特別に変えられる魔法があるんだけど」
いつもなら、言わない。考えても実行しない。実行した途端、たつきにドン引きされるのが怖いからだ。しかし、今日なら、愛を守護する聖ヴァレンタインの記念日なら、許されそうな予感があった。
「魔法って…?」
雨竜に似合わぬファンタジーな台詞に、たつきは瞬きを繰り返して困惑している。
「そう、魔法。たつきしか使えないけど」
「あたししか?」
「試してみる?」
微かに首が縦に振られた。雨竜はチョコレートの箱の蓋を開けると、中に納められていたチョコレートを一粒、指先で摘まんだ。
「たつき、口を開けて」
雨竜の意図が掴めないたつきは戸惑いを隠せぬままに、反射的に唇を僅かに開いた。そこに、雨竜はチョコレートを押し込んだ。
目をまん丸にして彼女が思考停止に陥っている隙に、雨竜は眼鏡を外すと炬燵の天板に置いた。まん丸だった彼女の眸が更に大きく見開かれた。
たつきが眼鏡が当たるのが気になると告げて以来、キスの時には眼鏡を外すのが二人の間の不文律だ。逆に言えば、眼鏡を外すことがキスのサインになっていた。身構えるように身体を強張らせたたつきの二の腕を軽く捕らえて引き寄せ、雨竜は唇を重ねた。雨竜の腕の中で、彼女がぴくりと身動ぎをした。
チョコレートを押し込まれたまま、半開きになっていた彼女の唇の隙間から、雨竜は舌を挿し入れた。すぐに彼の舌は、彼女の口内のチョコレートを探り当てた。
表面が少し溶けたチョコレートを、雨竜はたつきの舌ごと舐め上げた。それから、ゆっくりとこそげるようにしてチョコレートを自分の舌の上に移動させた。いったん、舌を引っ込めて唇を離すと、呼吸を止めていたらしい彼女がはぁ、と大きく息継ぎをしたのが聞こえた。彼女の口が充分に酸素を取り込む前に、再び雨竜は呼吸を奪った。先ほど自分の口内に移動させたチョコレートの粒を、もう一度、たつきの口の中に押し込むと、彼女は小刻みに身体を震わせた。やがて、彼女の指先が弱い力で雨竜のシャツを摘まんだ。
互いの唾液と混じり合いながらゆっくりと溶け崩れたトリュフが跡形もなく消えてしまうまで。
雨竜はたつきの唇ごとチョコレートを味わい尽くしたのだった。
恥ずかしくて、雨竜の顔が見られず、たつきは顔を彼のシャツの胸元に埋めていた。口の中はまだ甘い。
「ちゃんと特別になっただろう?」
頭上から雨竜の声がする。
自分の口の中に入れたものを、他人の口に入れるとか、逆に他人の口に入ったものを食べるとか。普通なら、汚いと嫌悪するはずの行為なのに、好きな男とのキスを介在したものだと、途端に嫌ではなくなるのは何故だろう。
未だに、心臓がどきどきと煩い。腰も砕けてしまっていて、実は動けない。雨竜にしがみついているのは恥ずかしくて顔を上げられないのが一番の理由だが、縋り付いていないと倒れてしまいそうだ、というのもあった。知ってか、知らずしてか、雨竜はたつきを緩く抱きしめたまま、優しく背中を撫でてくれている。それがとても落ち着く。
こんなに好きになってしまうなんて、たつき自身、想定外だ。自分が保てないことが不安な反面、普通の女の子みたいに甘やかされることに心地よさも感じていた。
「来年のチョコも、これがいいな」
と彼の言葉が落ちて来た。
「考えておく」
とたつきは小さく呟いた。