不器用な咎人
暁九つ *1 を過ぎた深夜。現世で言えば午前さまの時刻。
当然、とっくに寝ているものだと思っていた奥さんが、灯りもついていない玄関で正座していたら、そりゃあ驚く。まして、灯りをつけた途端、にっこりとおどろ線をしょった黒い微笑を浮かべられたら、たとえ、何ひとつ悪いことをしていなくたって、つい、
「ごめんなさい」
と謝ってしまうのは亭主の
さらに深められた真っ黒な笑みで、
「あら、何か謝らないといけないようなことなさったんですか?」
と尋ねられ、しまった、と思っても後の祭り。
「いや、こんなに遅いのに起きて待ってるとは思わなかったから。その、遅くなってすまないと…」
「こんな時間まで呑んでらしたんですか?」
「ああ、まぁな」
「誰と?」
「志藤とか、竹添とか」
と部下の名を挙げる。
これは紛うことなき事実だ。冬獅郎はほんの少し前まで、自隊の上位席官の部下たちと居酒屋で呑んでいた。時には命を賭けるような危険な討伐に赴くことのある死神稼業では仲間同士の信頼感や結束はとても大切なものだ。だから、上司たる者、時には部下に奢ってやり、酒の席でしか出てこないような本音や不満を汲み取るのも立派な仕事の一環である。その点については、冬獅郎の妻であると同時に副官でもある乱菊は重々わきまえている。普段であれば、
「そうでしたか、それで、みんなの様子はどうでした?」
と納得するはずなのだが、今日に限って、不信感丸出しで目を細めてみせたのは、冬獅郎の午前さまが本日で四日連続であるからだろう。
「ほんとうにそれだけですか?」
「あ? 他に何だってんだ? 疑うなら、志藤でも、竹添でも、宮内でも確認してみろ」
乱菊の眸に昏い炎が揺らめいた。
「志藤たちと呑んでいたのは本当なんでしょうね」
「おう」
「でも、それだけですか?」
「あ?」
「飲み屋にお目当ての可愛い娘でもいます?」
「はあぁ!?」
ちょっと待て、飲み屋の可愛い娘って誰だ? つか、確かに連日、午前さまはまずかったかもしれないが、何でそれが浮気と結びつく!?
思いもよらない乱菊の言葉に混乱する冬獅郎の前で、乱菊はゆらぁ、と立ち上がった。
「あたしに飽きたんですか?」
「ああっ!?」
「飽きたんですよね。あたしって、こんなみっともないし」
咄嗟に反論の言葉が出ずに口をぱくぱくさせる冬獅郎の前で、乱菊は機関銃のように捲し立てた。
「そりゃ、みっともないってあたしだって思います! だけど、こんなのってあんまりです。冬獅郎さんは誠実な人だって信じてたのに、あたしの見る目が間違ってたってことですか!? 不満があるならあるで、言えばいいじゃないですか! あたしを避けるなんて、姑息なことしないで!! 大体、あたしがこんなみっともない身体になったのだって、責任の半分は冬獅郎さんにあるんですからね! ひどいです! ずるいです! 卑怯です!!」
呆然としてしまったのは、乱菊が何を言っているのか理解できなかったからだ。
みっともない身体ってどういうことだ? 何で、乱菊に飽きたとかなるんだ?
明晰な頭脳を誇る冬獅郎にして、ほとんどヒステリー状態の乱菊の怒りについていけず、立ち尽くすしかなかった。だが、それが乱菊の怒りに油を注いだらしい。
「言い訳も億劫ってことですか?」
「え…? おい!?」
冬獅郎が我に返った時、乱菊はすでに家を飛び出していた。
夜中に叩き起こされたのは、正直言うと迷惑と言えないこともなかったが、半べそをかいた乱菊のただならぬ様子をみれば、そんな不満など吹き飛んでしまった。とにかく上がって下さい、と家に上げ、春先のまだまだ寒さの残る夜の空気で冷え切った身体を毛布と茶で温めて、どうにかこうにか彼女を落ち着かせる。
温かい茶の入った湯呑を両の掌で包み込むように持っている乱菊は、不安げで頼りない表情をしており、ルキアと恋次は何が何だか訳が分からずに顔を見合わせた。
「一体、どうなさったのです?」
まず、ルキアが尋ねた。乱菊は、現在、産休中である。近々、産まれて来る赤ん坊を心待ちに、幸せいっぱいであるべきはずなのに、乱菊の眸は虚ろで、どこか昏い。
「…あたし…、冬獅郎さんに飽きられちゃった…」
ぽつり、と転げ落ちた言葉。
ええええぇぇっ!!!!!?
ルキアと恋次は心の中で絶叫した。
(あり得ないだろう!?)
ルキアは縋るように恋次を見る。
(ねぇ、ねぇ。絶対、ねぇ! 考えられねぇ!)
蛇尾丸で虚をぶった斬るような勢いで、恋次はぶんぶんと首を横に振った。
「あの…、乱菊さん。勘違いじゃねぇんスか? 日番谷隊長が乱菊さんに飽きたなんて、俺、考えられねぇッスけど」
「そ、そうですよ!」
とルキアも添えた。
「数日前も合同演習の打ち合わせで伺った時に、乱菊殿のご様子を伺いましたら、乱菊殿も元気だし、赤ん坊も順調で予定通りに夏には産まれそうだってそれは嬉しそうにおっしゃっておいででした」
ルキアは六年前に十三番隊の副隊長の任に就いた。以来、十番隊はしょっちゅう訪れている。というのも、十三番隊の隊首である十四郎と冬獅郎が個人的に親しい間柄であることもあって、十三番隊と十番隊は比較的頻繁に合同演習を行っているからだ。また、討伐などで隊士の貸し借りをすることもある。十三番隊の場合、十四郎が病弱なこともあり、本来であれば隊長が出向くべき用件を副隊長が名代となって捌くケースが他隊に比べて圧倒的に多い。そんな訳で、必然的に十番隊への訪問は頻繁となり、夫婦としても、隊長と部下としても非常に息の合った二人を、ルキアは間近で観察していたのだ。
冬獅郎が一途に乱菊を愛し、大切にしていることは、ルキアの目から見ても妬けてしまうくらいにあからさまだった。独占欲は強いくせに、鈍くて、気の利いたことのひとつも言えない恋次を見慣れているルキアには、冬獅郎の乱菊に対する言動は羨ましいほどだった。
(日番谷隊長の十分の一でもいい。恋次もムードを出してくれたら…)
と密かに溜息をついたこともある。
その冬獅郎が、どこからどう見たって、乱菊以外には目に入っていない彼が、乱菊に飽きた?
(考えられねぇ!)
(あり得ぬ!)
と恋次とルキアは再び、心の中で叫んだ。
「恋次」
と乱菊に真剣に声を掛けられ、恋次は居住まいを正した。彼は一年半前にめでたく九番隊の隊長に就任したので、階級からいうと乱菊よりも上官になってしまった。だが、根が先輩・後輩の序列を重んじる体育会系気質の上に、死神としては圧倒的に先輩である乱菊には山のような恩義を抱えている為、未だに彼女に対しては後輩としての態度で接してしまう。
乱菊はゆっくりと立ち上がった。
「みっともないでしょ?」
「へ?」
「お腹…。ぽこって飛び出してて、すごくみっともないでしょ?」
確かに、臨月の乱菊は腹部がぽっこりと半円形に膨らんでおり、その上に豊満な乳房が乗っているという、純粋に造形的に語れば美しいとは言い難い姿ではある。だが、ここで肯定など出来るわけがない。恋次はおそるおそる、
「あの…、まさかと思いますが、乱菊さん、その体型のせいで日番谷隊長に飽きられたとか考えているんですか?」
と問い掛けた。
乱菊は肯いた。
「だって…、もう半月も冬獅郎さん、あたしに触れてない…」
突然、生々しい告白が始まって、新婚一年目の恋次とルキアは硬直した。
「一緒にいるのに、こんなに触れてこないなんて、今までなかったのに…」
「そ、すか…」
「ねぇ、恋次。あんた、隣にルキアが寝てて、半月も指一本触れないなんて出来る?」
「 無理ッスね」
とここは正直に恋次は答えた。隣でルキアが顔を真っ赤にしている。
「冬獅郎さん、もてるのよ」
「知ってます」
「可愛くて、スタイルのいい女の子が周りにたくさんいて、その娘たちと比べたら、腹ボテの妊婦なんて萎えるわよね。その気にならなくても無理ないわよね」
頼むから俺に同意を求めないでくれ、と恋次は叫び出したいのを辛うじて堪えた。
(日番谷隊長~、何、やってるんスか?)
語りながら悲しくなってしまったのだろう、いったんは落ち着いていた乱菊の眸が再び潤み始めた。
「乱菊殿…」
どう慰めていいか分からず、ルキアも途方に暮れた。
おそらく真っ先に逃げ込むだろうと考えた七緒の家ははずれだった。もしかして、匿っているのかとも疑ったが、乱菊の身を案じる七緒の表情は真剣そのもので、すぐに疑いの余地はなくなってしまった。
次に訪れたのは、雨乾堂だ。だが、ここにも乱菊は来ていないと応対に出た烈は告げた。
「そうか…」
「こんな夜中に家を飛び出すなんて、一体、何があったんですか?」
烈は咎めるように冬獅郎を見たが、答えられるのなら苦労はない。とにかく、何が何だか、さっぱり分からないのだ。四日連続で深夜に戻ったのは確かに怒られても仕方がないかもしれない。だが、浮気だとか、飽きただとかいう乱菊の主張の根拠が全く見当がつかなかった。
「すまなかった」
と辞そうとしたところ、
「ちょっと待っていて下さい」
と烈は奥にいったん引っ込んだ。すぐに、彼女は戻ってくると、
「乱菊さんは身重ですから心配です。私も捜しましょう」
と告げた。
乱菊は完璧に霊圧を閉じているらしい。探査を得手とする冬獅郎と烈が二人がかりで探っても、行方は知れない。いくら親しい副官仲間でも、こんな夜中に男の部屋を訪ねるわけがないから、修兵や鉄左衛門は行き先から除外される。七緒がはずれだった以上、あとは勇音か桃くらいしか思いつかないが、
「勇音のところでしたら、勇音から私に連絡が入ると思うのですが…。日番谷隊長の浮気を乱菊さんが疑ってらっしゃるなら、絢女さんに泣きついたとは考えられませんか?」
烈は尋ねる。
絢女は乱菊にとって親友である。だから、家を飛び出した乱菊が頼る先として、本来ならば筆頭に上げられる候補だ。だが、彼女は同時に冬獅郎の姉であり、しかも、彼女の夫は乱菊の兄同然の市丸ギン。となれば、浮気疑惑が原因の家出なら絢女のところには行かないのではないか、と冬獅郎は考えていた。無駄にこじれそうだし、乱菊の性格からして絢女とギンには心配を掛けたくないと考えそうだ。
「では、雛森さん…?」
「それも考えづれぇんです。あいつのところに駆け込んだなら、とっくの昔に、俺は雛森から呼びつけられてます」
「そうですねぇ…」
とすると、やはり、烈が想像したように絢女を頼ったのだろうか。
二人はギンと絢女の住まいに向かった。家はしんと静まり返って、灯りも消えていた。だが、冬獅郎たちが門の前に来た時、玄関に照明が灯った。引き戸が開き、絢女が顔を覗かせた。
「こんな夜更けに何かあったんですか?」
どうやら、近づいてくる霊圧に気付いて出て来たらしい。ここもやっぱりはずれかと落胆しながらも、冬獅郎は手短に事情を打ち明けた。
「乱菊は霊圧を閉じているのね」
「ああ…」
「分かった。風で聞いてあげる。上がって」
と絢女は冬獅郎と烈を居間に招じ入れた。
絢女の斬魄刀「秋篠」は風を操る。また、彼女には木々と交感することが可能な特殊能力があった。この為、風を媒介に遠く離れた場所に生えている樹木と会話することが可能なのだ。以前、烈の息子が迷子になった時も、彼女は風を遣って、瀞霊廷中の木々に捜索を願い、見事に子供を発見した。それと同じ要領で、今度は乱菊の居所を探ろうというのだろう。
居間のガラス戸を開け放ち、絢女は伝言を乗せた風を吹かせた。後は、乱菊を見た樹木からの返答を待つばかりだ。
その間に、ギンも交えて、起こったことを再度、説明する。
「…そりゃ、深夜帰宅が続いたのは悪かったって思うが、どうして浮気したとか、飽きたとか飛躍するのかわからねぇんだ」
溜息を零した冬獅郎を、ギンは目を細めて観察していたが、やがて、
「ちょっと下世話なこと訊いてもええ?」
「何だよ?」
「最後に乱菊とシタのっていつ?」
「あ?」
冬獅郎の眉間の皺が深くなった。
「ほんっとに、下世話だな」
「うん。けど、大事なことなん。答えて」
ギンの表情は真剣でいつものような
「あ…と確か、先月の…終わりくらい?」
「…今日は十三日ね」
「つまり、半月も乱菊と致しとらん、いうわけ?」
ギンと絢女と烈、三人は思わず顔を見合わせた。
「それが原因や」
ギンの断言に、冬獅郎は唖然とした。
乱菊には今までさんざんに世話になった。
その彼女が、妊婦の自分に夫が幻滅したのではと悄然と落ち込んでいるのだ。何とか、慰めたいと思う。だが、口下手な恋次にすらすらと慰めの言葉が出てくるわけがない。傍らで、ルキアが男の立場で何か言えと、目だけでせっついている。
(えーっと、腹のでかい妊婦に欲情するか…だよな…)
年上好み、デブ好みというように人の好みは千差万別だから、臨月の妊婦に興奮する輩がいても不思議ではない。しかし、一般論で言えば、まぁ欲情しないだろう。恋次と乱菊は純粋に先輩・後輩の間柄であったし、恋次にはルキアがいたから、乱菊を欲望の対象として欲したことはない。とはいえ、男の
(うーん、だとすると、もし、ルキアに赤ん坊が出来て腹がでかくなったら、俺はルキアが欲しくなくなるのか?)
恋次は自問する。
そして、はたと気付いた。乱菊が恋次に対して、「萎えるか?」と問うのがそもそも誤っているのだと。
「乱菊さん」
ようやく、彼女に対して語るべき言葉を見付けた。
「…何?」
「その…、ルキアも気付いているみたいだから、正直に言っちまいますけど、俺、女の胸はでかい方が好みなんスよ」
「え…?」
思いがけない恋次の告白に、乱菊は目を丸くし、ルキアは文句を言いたくて言えずに固まってしまった。
「むっかーし、色里に行ってた時とかも胸がでかい妓を買ってたし、現世とか行って、お、とか目が行くのも胸がでかい女ばっかなんスよ」
「ちょっと、恋次?」
傍らで俯いてしまったルキアに、乱菊は慌てて恋次を遮ろうとした。だが、恋次は目だけで大丈夫だと告げると先を続けた。
「けど、それって、すっげ、生理的な欲求を単純に満たすならって話なんスよね。言ってみりゃあ、ダッチワイフの体型の好みを話してるようなモンです。けど、俺にとって、ルキアは違うから」
「違う…?」
震える声でルキアが呟いた。
「ルキアのことは、戌吊で浮浪児だった頃から特別だったんスよ。ルキアの胸がでかかろうが小さかろうが、そんなの関係ない。ルキアの胸だって思うだけで、どんな爆乳より俺にとってそそるし、すげぇ、欲情する」
朴訥で、女を嬉しがらせるおべんちゃらを持たない恋次だからこそ、この言葉は思いもかけず、ルキアは真っ赤になって絶句している。
「さっき、乱菊さん、俺に訊いたっしょ? 腹ボテの妊婦は萎えるだろう、って」
「…う、うん…」
「例えば…、俺にはルキアがいるんでもう必要ねぇから、ほんとに例えばですけど、色里に行って、
「うん…」
「けど、ルキアに赤ん坊が出来て、腹がでかくなったとしたら、それって俺の子なんスから…。多分、でかくなった腹ごと大事っつーか、萎えるなんて絶対ねぇと思うんスよ」
「…」
「だから、今の乱菊さんに男としてそそられるかって尋ねられたら、俺は萎えるって答えるしかねぇけど、腹がでかくなった未来のルキアに同じこと訊かれたら、そんなことねぇって言えます」
ルキアが顔を火照らせたままで、ほうっと大きく息を吐き、乱菊は握りしめた自分の拳を見つめた。
「これ、俺の想像なんスけど、日番谷隊長、もしかして怖ぇんじゃねぇッスかね?」
「怖い?」
と言っている意味が分からず、乱菊はまじまじと恋次を見返した。
「どうして…?」
「だって、潰しちまいそうじゃないですか? さっき、もし、ルキアの腹がでかくなったらって想像してみたんスけど、ルキアってこんな小柄で、俺はそれに比べて無駄にでかいし、それでなくても壊しちまいそうで怖えってのに、腹がでかくなったりしたら、
男は妊娠している当事者じゃないから、加減の想像がつかないし、と恋次は言った。
「乱菊殿…」
ルキアが乱菊を覗き込んだ。
「その…、恋次にしては鋭いところを突いておるのではないかと思います。あんなに乱菊殿を大切にしておられる日番谷隊長に限って、浮気だの、乱菊殿に飽いただの考えられません。むしろ、乱菊殿を大事にする余り、手が出せないとか…、そっちの方が納得がいきます」
「乱菊さん。ちゃんと日番谷隊長と話し合ってみちゃどうです?」
後輩二人の真摯な慰めは、乱菊の闇に囚われていた心をゆっくりと溶かしていった。
「あたし、悪い方にばっかり考え過ぎてたかな?」
乱菊の呟きに、
「そうっスよ」
と恋次が力強く同意し、ルキアもうんうんと肯いてみせた。
ギンはまっすぐに冬獅郎を見つめると尋ねた。
「で、なんでまた半月も乱菊を放置しとったん? 臨月の乱菊には
横に絢女がいるというのに、平気でそんなことを口に出来るギンの神経は脱帽ものだ。だが、質問自体は真剣だから、きちんと返答する必要がある。
「んなわけねぇだろ? 萎えたのなら、苦労しねぇ」
「つまり、欲情はしとったわけや」
「ああ」
何で、実の姉と護廷の女帝の前でこんな生々しい話をしなければならないのだ。これは何かの罰ゲームか?
冬獅郎は情けなさそうに姉を窺ったが、絢女にギンを制止する意思はないようだった。
「ほんなら、何で何もせんかったん?」
「…その、どこまでしていいものなのか、分からなかったんだ」
「で?」
「仕方ねえから、出産経験のある部下に何人か訊いてみたんだが…」
「うん、それで?」
「シタくなかったって言われた」
医学的な見地からいうと、まだ腹も膨らんでいない妊娠初期の方が性交するにしても危険度が高く、無茶は禁物である。しかし、実際に妊娠することの出来ない男性は、自分の目でしか赤子の認識が出来ない。相手の腹が膨らんできて、赤子がここにいるのだと目に見える形で主張を初めて、ようやく、怖くなるのだ。
妊娠初期の頃は、烈から無茶はしないようにとくどいほどに念を押されていたこともあって、激しい交接は控えていたが、それは多分に理性に拠るものだった。だが、安定期に入り、乱菊の腹が目立つようになるにつれて、本能的に交接に怯えが混じった。乱菊のことは愛している。もちろん、欲しいと感じる欲情自体は大いにある。だが、はっきりいうと、どこまでやっていいのか分からない。妊娠していない頃のように奔放に乱菊を抱いて、無理をさせたり、赤子に負担をかけることは避けたい。かといって、中途半端なことをして、乱菊をがっかりさせたくもない。思い余った冬獅郎は出産経験のある部下に懇願して、どの程度ならば心配いらないのかを恥を忍んで尋ねてみたのだ。
「全然シタくなくて迫って来た旦那を足蹴にした、とか、あんまり応じなくて浮気されたら困るから一応相手はしたけど、早く終わって欲しくて苦痛だったとか…。そんなふうに言われたら、乱菊もシタくねぇんだろうなって…」
ギンが大げさなほどに深く溜息をついた。
「冬獅郎はん、それ、何人に訊いたん?」
「三人」
「サンプリング不足やな」
とギンは断じ、烈も頷いた。
「妊娠中は身体はもちろん、精神的にも女性は大きく変調します。ただし、その変調は個人差が大きくて、一概にどうこういえるものではないのですよ」
と烈は語った。
「医師としての経験からいうと、性欲については減退する女性の方が多数派ではありますが、逆に増進する人もいますし、減退するにしても程度はさまざまです」
「これは極端な例やけど、妊娠中、シとうて、シとうて気ィ狂いそうやって女を抱いたったことあるで」
「は?」
「大昔やけどな。普段は貞淑な奥さん。どっちかいうと淡白で、旦那以外とは絶対にせぇへんような女。それが、妊娠した途端、滅茶苦茶に淫乱になってしもて、旦那だけじゃ満足できひんようになってしもたんやね。後腐れのない男、いうんで頼まれて、抱いたったことあるわ」
絢女の前でそういう告白はやめてくれ、と冬獅郎は眩暈がしそうになった。これにはさすがの絢女も困惑したように視線を泳がせているが、昔のギンの行状について、今更責めても仕方がないし、咎める気持ちもないのだろう、
「冬獅郎、乱菊には確認しなかったの?」
と話を戻すかのように質問した。
「してねぇ」
と冬獅郎は答えた。
「敗因はそこ、やな」
とギンは呟いた。
「乱菊、自分の身体を『みっともない』って言ったのね」
「ああ」
「その気持ち、理解るわ…。あのね、冬獅郎。お腹が大きくなるって、女にとってはすごく複雑なのよ」
「複雑…?」
「お腹が大きくなるってことは赤ちゃんが元気に大きくなっているってことだから、すごく嬉しいの。お母さんとしては、ね。だけど、女としてはものすごく悲しいのよ。お風呂上りとかに鏡に自分の身体が映るでしょ? 口の悪い男の人なんかが、妊婦のことを『
「マタニティ・ブルーってやつ?」
とギンが合いの手を入れ、
「ええ、多分、それ」
と絢女は肯いた。
「私は主真を産んだ時はどちらかというと性欲減退した方だけど、ギンに求められるのは、ちっとも嫌じゃなくて、むしろ嬉しかったわ」
「そうなのか?」
「こんなにみっともない身体になっても、ギンは変わらずに愛してくれるんだって…、そう思えたから、すごく嬉しかったの」
諭されて、情けないと冬獅郎は息を吐いた。乱菊を思いやっていたつもりで、完全に空廻っていた自分の姿が何とも滑稽だった。
「あんなぁ、冬獅郎はん。乱菊に負担かけとうないって自分を抑える気持ちはあっぱれやけどな。溜まってしもたら、それこそ、加減が利かへんようになってまうで」
とギンが言った。
「ちょっとずつ、軽めに。そのへんが極意やろねぇ」
開け放したままだった居間に風が吹き抜けた。纏わりつくように身体を包んだ風に目を閉じて身を任せていた絢女は、やがて、ゆっくりと目を開いた。
「見つかったわ」
と彼女は冬獅郎を顧みた。
「恋次くんのところ」
姉の言葉に、冬獅郎は目を瞠った。
「阿散井だって?」
盲点だった。確かに恋次は乱菊の呑み友達で親しい間柄であるし、副隊長仲間の後輩として、ルキアも乱菊に可愛がられている。だが、冬獅郎に不信を持って家出をした乱菊が、新婚ほやほやの二人を頼るとは思えずに立ち回り先から除外してしまったのだ。
「迎えに行く、でしょ?」
絢女ににっこりと促され、冬獅郎は立ち上がった。
「きちんと謝って、話し合う」
「それが一番ですわね」
「頑張ってね」
出て行きかけ、冬獅郎は振り向いて深々と頭を下げた。
「卯ノ花隊長、ご迷惑をおかけしました。姉さまも、市丸もありがとう」
襖が閉まり、残された三人は目を見合わせて苦笑した。
「不器用ねぇ」
「ほんま。他のことは何でも器用にこなすんやけどなぁ。乱菊のこととなったら、何であないに不器用になるんや?」
「それだけ、乱菊さんを愛してらっしゃるのでしょう。男の方って、真剣な相手であるほど不器用になりますね」
意味ありげな烈の視線が注がれて、ギンはわずかに首を竦めた。
さわさわと庭の木々が、風に梢を揺らした。
*1 暁九つ=午前一時前後。
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10万打キリリク小噺
リクエストは「大人日番谷隊長と乱菊さんが、護廷十三隊の隊長格を巻き込んで大ゲンカする」でした。
あんまり、リクエストに沿ってないですよねぇ(溜息)。単に乱菊さんが一方的に落ち込んでいて日番谷隊長はただただ困惑しているという状態で、とても大ゲンカとはいえないです。巻き込まれた隊長格も五人。巻き込まれたというより、一生懸命相談に乗ってやってる感じですし。
これは、10万打企画フリーリクエストで書いた「アンカーのいないリレー」からおよそ一年半弱、叛乱の年から数えて四十年後の想定です。原作のルキアちゃんは叛乱の二年後には副隊長に就任していますが、拙宅の昇進はもっとゆっくり。叛乱の三十四年後に副隊長です。恋次の隊長就任も遅いですよね。副隊長にして、すでに卍解してたっていうのに。ちなみに副官は修兵さん。隊長・副隊長だってのに相変わらずで、どっちが上官なのか分からない掛け合いを繰り広げているイメージです。ついでに、ルキアちゃんとの結婚は隊長昇進と同時。兄様が隊長として恥ずかしくないように手塩にかけて恋次を育てて、隊長昇進の祝いとして結婚を許したらいいなぁという妄想の産物です。
さんざんにお待たせした挙句に、こんなものしか出来なくて、本当に申し訳ありません。苦情はキリ番ゲッターのmammyさまのみお受けいたします。