秋色綾模様
絢女がベッドの傍らに立つや、
「お願い、絢女。あたしの代わりにモデルやって」
と開口一番、乱菊は口にした。
「はぁ?」
余りに唐突な台詞に、絢女は見舞いを述べるのも忘れて、ぽかんと乱菊を見返した。
「『雪月花』の読者モデルをあたしの代わりにやってほしいのよ」
呆気に取られている絢女に、乱菊は言い直した。
「今回、あたしがモデルをすることになっていたの。だけど、この怪我じゃ出来ないし、撮影日まで間がないから、すぐに他なんて見つけられないでしょ? だから、絢女。お願い、あたしの代わりにモデルをやって」
ようやく、絢女は事態を理解した。
「雪月花」というのは季刊で発行されている雑誌である。乱菊がずいぶん前から贔屓にしている香田呉服店の店主が、乱菊が持ち込んだ現世のファッション雑誌に想を得て、六年ほど前に大手の版元と協力して発刊したもので、瀞霊廷に住まう死神や貴族の女性にたいそう支持を得ていた。瀞霊廷には現世のような職業モデルがいなかった為、香田呉服店では雑誌の発刊に当たって、専属モデル兼任となる見目の良い従業員を新たに雇い入れ、徹底的に教育を施した。彼女たちは現在、現世で言うところの「カリスマ店員」兼モデルとして活躍している。
他に、もうひとつ、「雪月花」が現世を真似たものがある。読者モデルという制度だ。「雪月花」は読者の自薦・他薦から選ばれた素人をモデルとして雑誌に登場させたのである。
乱菊は長月初めに発行される「雪月花」の読者モデルを務める約定を交わしていた。ところが、撮影日を目前に控えて、討伐で怪我を負ってしまったのだ。左手の骨折は全治一ヶ月。右足も骨には損傷がないが筋を強打しており、十日ほどは歩くのに杖の補助が要りそうなあんばいだった。
実をいうと、回復鬼道を駆使すれば、もっと早く回復させることは可能である。だが、急速な治癒の実現には、引きかえに手当てに当たる四番隊員に相応の霊力の消耗を強いることになる。また怪我をした当人にとっても、急速回復は負担がかかるのだ。従って、どうしても急速回復が必要とされる緊急事態でない限り、四番隊の施す治療は本人の自然治癒力を補助する形で行われることになっている。当然のことながら、乱菊でなければ務まらない任務が控えている、というのならばともかくも、雑誌の読者モデルの約定の為に急速回復治療を施してもらえるはずもない。
「撮影はいつからなの?」
「実は、今日から五日間の間であたしの都合のいい日、ってことになってた」
香田呉服店の方でも乱菊が死神、それも副隊長という地位にあることを慮って、緊急事態にも対応できるよう余裕をもった日程を組んでいたのだ。しかし、この怪我はさすがに想定外だった。
今回の怪我は、乱菊の油断や失態によるものではない。敵の虚が想定外の非常に特殊な能力を有していた為に、遅れを取ってしまったものだ。むしろ、この程度の怪我で済んで、かつ、きっちりと討伐は成功させたのだから、称賛してもいいほどの働きであった。それだけに、冬獅郎も責任を感じているのだろう。
「姉さま、悪いが俺からも頼む。代わりになってくれねぇか?」
と口添えした。
香田呉服店は冬獅郎や絢女も贔屓にしている店だ。きっかけは乱菊の引きだったが、今では立派に上得意として名を連ねており、場合によってはかなり無理をきいてもらうこともあった。特に絢女など、隊長に就任したての頃に、相当に世話になった。というのも隊長職は絢女の予測よりはるかに慶事・弔事に引っ張り出されることが多く、また、隊を代表している以上、そういう場ではそれなりの装いをしていないと隊やしいては護廷に泥を塗ることになってしまうからだ。もちろん、いくらきちんとした装いでも、毎回、同じ服装であっては謗りはまぬがれない。隊長というのは、本人の意向にかかわらず、衣装が必要になる地位だったのだ。叛乱終結後、いきなり隊長職に就任した上に、それ以前にはほとんどお洒落らしいお洒落をして来なかった絢女は、正装の持ち合わせの絶対数が足りなかった。その為、就任後一年くらいの間のことではあるが、香田呉服店には相当数の晴れ着をかなり無茶な短期間で仕立てて貰った恩義がある。
「仕方ないわね…」
絢女は溜息をついて了承した。実は読者モデルについては、絢女も幾度か打診されたことがあった。だが、その度に断っていたのだ。だが、こんなに差し迫った状況で乱菊が怪我をしてしまったのでは仕方がない。
「ありがとう、絢女。恩に着るわ」
と乱菊は気がかりが晴れたようで、明らかにほっとしていた。
「いいわよ、乱菊。あなたはゆっくり養生して早く怪我を治してね」
絢女の言葉に、
「うん。絢女もこの際だから目一杯、お洒落を楽しんでらっしゃいね」
と乱菊は明るい笑顔を向けた。
冬獅郎と絢女から事情説明を受けた店主は、二つ返事で絢女の代打を了承した。
「すまない。松本のつもりで準備をしていたんじゃねえか?」
冬獅郎が謝ったのに、店主はいやいやと手を振った。
「確かにその通りですが、日番谷さまにモデルをしていただけるのなら、むしろ、願ってもないことです」
絢女にも是非ともモデルを務めて欲しいと野望を燃やしながらも断わられ続けていた店主にしてみれば、禍い転じて何とやら、という心境である。こんな事情がなければ、絢女がモデルを引き受けるなど今後もあり得そうにない。用意の着物を絢女用に差し替える手間とか、コンセプトの微修正など些細なことだ。
「今回は紬のお洒落な着こなしを提案する予定です。それと、秋に向けて婚礼特集も組まれておりまして、日番谷さまには花嫁衣装を何点かお召しになっていただきます」
打ち合わせで告げられた店主の言葉に、
「え?」
と一瞬、絢女は戸惑いを浮かべた。
「花嫁衣裳…ですか? それはそちらの専属モデルの方にお任せした方が…」
「いえ、モデルたちは婚礼に招かれた友人・同僚・部下という設定ですでに撮影ずみなのです」
「そうですか」
「花嫁衣装はいけませんでしたか?」
「いいえ。そうではありません。ただ、いつもの時みたいに、小紋とか訪問着とかを着るのだとばかり思っていたものですから、驚いてしまったんです」
と絢女は笑みを浮かべた。
「ああ。そちらは、今回は紬をお召しになっていただく予定でございます」
つまり、通常の読者モデルの仕事の他、今回は花嫁衣裳という大役まで入っているわけだ。
むろん、店主は相手が乱菊だったからこそ、素人の読者モデルに花嫁衣装を着せるという計画を立てたのだ。しかし、他の者ならいざしらず、絢女であれば、モデルが変更になったからといって計画を放棄する必要はない。
「なぁ、姉さまに花嫁衣装ってことは花婿役もいるのか?」
と冬獅郎が尋ねた。
「はい。男性モデルを用意しております」
「それ、俺が代わっちゃまずいか?」
いきなりの冬獅郎の提案に、咄嗟に店主は声を詰まらせ、絢女も目をまん丸にして弟を見つめた。
「いえ、まずいどころか、願ってもないお申し出でございますが…」
冬獅郎も絢女同様に、こういったモデルの類のことを積極的に自分から務めるタイプではない。その彼が、自らモデルを買って出たのだ。余りの意外さに、店主は驚いていた。
「姉弟で婚礼衣装ってのも妙なんだがな」
と冬獅郎は続けた。
「ただなぁ、いくら雑誌の撮影とはいえ、花嫁衣装を着た姉さまの隣りに自分以外の男が立つのが気に喰わねぇって、臍を曲げそうな男の心当たりがあるんだ。いまいましいことに」
「 なるほど」
「そいつのくだらねぇ嫉妬のせいで、罪もないモデルの男が嫌がらせをされたりしちゃあ気の毒だろう? その点、俺ならあいつも納得、つか、諦めるしかねぇだろうからな」
冬獅郎の説明に、店主は納得した様子で頻りに肯いている。内心では思いがけない幸運な展開にほくほくのえびす顔になっているのだが、表面には毛ほども出さずに、
「とてもありがたいお申し出です」
と慇懃に礼を述べた。
店主は係の者に段取りと衣装の一部差し替えを指示する為に、いったん中座した。冬獅郎と二人きりになって、絢女は、
「ありがとう」
と弟に礼を言った。
「別に。モデルが市丸に嫌がらせされたら、かわいそうだからな」
冬獅郎はあくまで理由はギンの嫉妬だと主張した。だが、絢女は弟が彼女の本音を見抜いて気遣ってくれたのだと理解していた。
花嫁衣裳自体は嫌なわけではなかった。けれども、その姿の自分の傍らに立つのがギンではない別の男であることに、絢女は引っ掛かってしまったのだ。本当の婚礼ではない。あくまで雑誌の撮影の為のモデルだ。頭では納得していても、まるで、咽喉の深いところに刺さった魚の小骨のように疼く心があった。その幽かな疼きは店主には気取られることなく誤魔化しおおせた。しかし、冬獅郎には覚られていたのだ。
冷房が効きすぎるほどに効いた一室で、絢女は花嫁衣装を着付けられていた。
今回の「雪月花」は秋の号であるので、用意された衣装はすべて秋物の袷である。しかしながら、現実の季節は蝉の合唱も大きい盛夏であった。室内に入った瞬間は寒さに震えるほどだったが、着付けが進むにつれ、これほどに効いた冷房でも暑いと感じるほどになった。
最初の衣装は、黒地の打掛であった。飛翔する鶴を隙間なく埋め尽くした地紋の綸子生地で、裾と袂に菊花や橘・桐・松竹梅などの伝統的な吉祥文様を染めと刺繍で表現した
着付け、化粧を終え、撮影の為に用意された部屋に移ると、冬獅郎は紋付き袴姿ですでに待っていた。
「姉さま、凄く綺麗だ」
姉を一目見た途端、冬獅郎は素直に称賛した。結婚式の主役は花嫁で、花婿は添え物というのは着飾った花嫁を見ると納得できる。化粧気なしでも美貌を隠せなかった絢女が本式に婚礼衣装を纏い、化粧を施された姿は、血を分けた実の弟でさえ息を呑むほど、凄絶に美しかった。この時、冬獅郎に横切った感情はかなり複雑である。大好きな姉にはまだ当分、嫁には行って貰いたくないという、花嫁の父親に近い心境。こんなに美しい姉をいつまで待たせるつもりだ、というギンに対する怒り。一方で、彼に姉を渡してしまうことを惜しむ気持ちも確かにあった。
そんな冬獅郎の胸中も知らず、
「相手が乱菊じゃなくて残念だったわね」
と、絢女が暢気に彼を揶揄った。
「あいつと嘘の婚礼なんて嫌だから、別に残念じゃねぇよ」
冬獅郎は答えた。
女性の婚礼衣装に比べると男性の衣装はバリエーションに乏しいが、上質の黒紋付きに仙台平の細縞の袴を纏った姿は、さすがに護廷の隊長というべきか、そこはかとない威儀が漂い、なかなかの男ぶりである。
この装いで何枚も写真を撮り、それから、別の衣装に着替えとなる。冬獅郎は、花婿役はもう着替えはないものと考えていた。だが、花嫁の衣装に合わせて花婿にも別の着物の用意があると聞かされて、がっくりとうなだれた。実は箝口令が敷かれていた為、冬獅郎は最後まで知ることはなかったが、もともと準備されていた花婿衣装は、現在冬獅郎が着用している黒紋付き一式だけだったのだ。花婿はそれこそ刺身のつまのつもりだったからだ。だが、冬獅郎がモデルを引き受けたとなると話は違ってくる。美貌の若き護廷隊長の正装姿が拝めるとあれば、普段は「雪月花」とは無縁の男性死神の購買さえ見込めるのだ。遣り手で知られる店主がこの好機を逃すわけもなく、急遽、花婿用の替えの衣装が用意されたのだ。
次の花嫁衣装も打掛だった。白の流水地紋綸子に友禅と刺繍による地紋起こしで流水と波を現し、花筏をちりばめたものである。花筏は落ち着いた茶の刺繍によるものと華やかな金の箔押し技法によるものがバランスよく配置されている。筏に乗せられた花は菊・梅・桐・橘など四季を問わず吉祥とされるもので、波間には小菊と蓑亀が揺蕩うている。掛下は
一方の冬獅郎も白を基調とした紋付き姿になっていた。白といっても、現世風に言えばオフホワイトというのか、生成りがかった落ち着いた色味の檜垣地紋で、羽織も共生地である。袴は真珠色とも称される白みの強い灰色で、一段濃い銀鼠色の縦糸で極細の縞が七五三に織り出されている洒落気のあるものだった。
「さっきの黒紋付きも素敵だったけど、冬獅郎にはそっちの白紋付の方が似合うみたい。すごくかっこいいわ」
絢女の意見には付き添っていた
「こちらの紋付き、絶対に流行りますよ」
との耳打ちに、店主もわずかに笑みを浮かべて頷いた。
花嫁衣装の最後は振袖だった。といっても、通常の振袖ではなく、花嫁のお色直し用に仕立てられたものだ。裾端に綿を入れ、裾を引いた着付けをする造りになっている。生地はしぼの高い縮緬で、雲取りで地を黒と鳥の子色 *1 に染め分けてあった。黒場には小槌、軍配、柘榴などの吉祥とされる器物や植物を紋様化したもの、及び、七宝紋や紗綾型紋などの幾何模様がとりどりの色糸で絢爛と刺繍されていた。対して、鳥の子色地の部分には刺繍によって大きな扇が散らされており、扇面に友禅染によって源氏物語の場面が描かれていた。合わせるのは落ち着いた艶消しの金地に黒で橘を唐草調に織り出した丸帯で、白地に銀糸と少量の金糸で鶴亀紋を刺繍した抱え帯を重ね、白縮緬地に金糸で松竹梅を縫い取りした揃いの半襟と帯揚げを取り合わせた。髪には大振りの銀細工の簪が飾られて、華を添えている。
「日番谷さまはお綺麗ですから、何をお召しになってもお似合いですけれど、ご自分ではどの衣装が一番お好きですか?」
紅を引き終えた
「そうですね…。敢えて選ぶなら、今、着ている振袖が好きです」
と答えた。
支度部屋から撮影の為の部屋に入ると、三度に渡る着替えでさすがにげんなりした顔つきの冬獅郎に迎えられた。
花嫁衣裳が打掛から振袖に変わったのに呼応してか、冬獅郎も少しくだけた装いになっていた。五つ紋ではなく三つ紋で、市松地紋を裏葉柳 *1 に染めた色紋付きである。袴は老松地に燻し銀糸で亀甲紋を織り出したものだ。眸の翡翠色と着物の色合いが調和していて、とてもよく似合っていた。
「さすがに香田さんです。花婿の衣装なんて、どれもそんなに代わり映えしないと思っていたのですけど、ずいぶん印象が違うものなんですね」
と絢女の感嘆の言葉に、
「並みの男ではこうはいきません。やはり、日番谷隊長という素晴らしいモデルあってです」
と店長も笑みを零して応じた。
絢女たちが定時で仕事を終えてからの撮影開始であったので、この日はここまでとなった。残りの紬については、明後日という予定で、絢女たちは辞した。
緊急の討伐も、至急の書類も廻って来なかった為、二日後、予定通りに絢女は香田呉服店を訪れた。乱菊の代わりに絢女がモデルを引き受ける事態となったことに責任を感じているせいか、今回も冬獅郎が付き添ってくれた。
「昨日、報告も兼ねてお見舞いに行った時に、冬獅郎の紋付き袴姿のことを話したらね」
絢女の言葉に、げっ、と冬獅郎は顔を顰めた。
「乱菊に話したのか?」
「あら、いけなかった?」
「いや、別に悪くないけど…」
語尾が小さくなってしまった弟に、くすりと笑みを浮かべ、
「乱菊ったら、すごーく悔しがっていたわ。冬獅郎の紋付き袴、生で見たかったんですって」
と絢女は続けた。
「…あいつのことだ。撮影で使わなかった写真をどうにかしようって画策しそうだな。店主にはよくよく釘を刺しておかねぇと」
「そんなに心配しなくても…」
「『冬のライオン』が盗撮で出版されたの、姉さまだって知らねぇわけじゃねぇだろ? あいつは金の為なら、上司のプライベートでも売る」
「恋人のプライベートは売らないわよ」
と絢女は苦笑した。
「 いや、油断がならねぇとこがあいつの困ったところだ」
冬獅郎は深刻ぶって、溜息をついたが、
「そんなところまで含めて好きなんでしょ? 諦めなさい」
と絢女に軽くいなされてしまった。
店に着いたところ、何故だか、異様に恐縮顔の店主に出迎えられた。
「日番谷隊長、実は非常に申し訳がないのですが…」
切り出した店主に、冬獅郎は嫌な予感がした。
「今日も、日番谷さまと姉弟揃ってのモデルをお願い出来ませんでしょうか?」
予感的中。である。
「雪月花」は香田呉服店の店主が企画・立案し、主筆となって発行している雑誌であるが、紹介される着物は香田呉服店の商品とは限らない。彼は様々な特徴や強みを持った店が競い合いながら共存共栄していくのが健全な商売のあり方だと考えており、為に、雑誌の創刊に当たって、いくつかの同業者にも声を掛けたのである。彼の考えに賛同した数店が協力の名乗りを上げ、雑誌の成功によってそれらの店も知名度や客層が広がることになった。今では、是非参加させてくれという要請を捌くのに労力を使うほどに協力店に事欠かない「雪月花」であるが、まだ海のものとも山のものとも分からない初期に協力してくれた店は、今でも、雑誌の常連店として特に大切に扱われていた。
「で?」
何となく、先の予想がついてしまった冬獅郎は投げやりに尋ねた。
「先日の婚礼特集の撮影で日番谷隊長がモデルを務めて下さったのを耳にした若狭屋さんと粋風さんが、今回は日番谷隊長もモデルを引き受けて下さったと勘違いなさいまして、本日の撮影用に日番谷隊長の衣装も揃えてみえられたのです」
そんなことだろうと思った。
「その…、私の方もすっかりその気になっておられるお二人に、引き受けて下さったのは花婿役だけだとは、どうにも言い出しにくく…」
これ幸いと、わざと誤解を正さなかっただろう?
問い詰めたいところではあるが、この海千山千の商売人にかかったら絶対に煙に巻かれる、ということを冬獅郎は悟っていた。
「日番谷隊長が当店をご贔屓にして下さっていることで、若狭屋さんにも粋風さんにもずいぶん羨ましがられております。それもあって、困り果ててしまいました。お二方は『雪月花』の初期から資金だのなんだので協力してくださった大切な同業者ですから、無下に断ることも出来ませんで…」
(この狸親父め)
内心で毒づきつつも、
「分かった」
と冬獅郎は了承した。
上得意の客という意味では冬獅郎の方が立場は圧倒的に上なのだが、たまに無理を聞いて貰うこともないではない。ここで恩を売っておいても悪くないだろうと結論した冬獅郎は、店主の頼みを受け入れることにした。ただし、先日の花婿姿のものも含めて、雑誌に掲載する以外には、絶対に写真を流出させないという誓約を取り付けた上でであったけれど。
前回の婚礼特集は異例で、通常の場合、読者モデルは「雪月花」が用意したいくつかの衣装を身に着けた上で、特集のコンセプトに従って屋外や様々な店舗で撮影することになる。
最初の撮影場所は瀞霊廷内の飲み屋街の一角に二月ほど前に開店したばかりの、洋風のバーだった。バーの場合、食事や一軒目の飲みを済ませた遅い時間が勝負となる為、夕刻の早い時間帯では客は疎らである。従って、その時間帯を貸切にしての撮影敢行となった。盛夏に秋物の着物の撮影である為、絢女は店の奥まった一室、冬獅郎は店内の撮影には使用しない一角を利用して着替え、撮影終了後は直ちに着替えるというなかなかに慌ただしい予定である。
大人の夜遊び、という設定で、絢女に供されたのは紫根染めの大島紬だった。大島といえば、泥大島が代表で、他に藍大島、主に夏物として白大島なども知られているが紫根染めの大島は非常に珍しい。紫根で染めた濃淡の葡萄色の糸に泥染めの糸を加えて織り出されたのは
「葡萄尽くしなんです」
と着付け師の女性が笑う通り、生成り色の足袋の親指の部分にも小さな葡萄の房が刺繍されている。草履もまた、深い葡萄色の台に藤色の鼻緒を挿げたものだ。
絢女がバーに現れると、バーテンダーの男性がその美しさに、ほぉっと感嘆の溜息をついた。
冬獅郎は亀甲紋の泥大島の着流し姿だった。亀甲紋は男物の大島の柄としては最も一般的であるが、冬獅郎のまとっているものは亀甲の中心部の点に明るい碧色を配してあるところが目を引く生地であった。俵屋宗達の風神・雷神を織り出した角帯は深い藍色と銀鼠色の桐生織で、これを片ばさみに結んでいた。
写真師の指示に従って、冬獅郎と絢女はカウンターに腰を落ち着けた。バーテンダーはまず、絢女にワイングラスを差し出した。中には美しい深紅の液体が満たされていた。
「赤ワインですか?」
「いえ。カーディナルというカクテルです。ボジョレーの赤ワインをベースにクレーム・ド・カシスを加えております」
とバーテンダーは説明した後、冬獅郎にはウィスキーのグラスを供した。
「京楽さまから大層お強いと伺っております。現世より入荷いたしましたハイランド・クイーンという銘柄のスコッチです」
冬獅郎が撮影担当者たちを振り返ると、
「自然な形での撮影を旨としております。出来れば、普通に談笑しながら飲んで下さい」
と指示された。
「京楽はよく来るのか?」
先ほど、バーテンダーの口から名が出たので冬獅郎は尋ねてみた。
実はこのバーのことは、冬獅郎も名前だけは知っていた。京楽から先日、酒の肴に聞かされ、今度一緒に行こうと誘われていたからだ。京楽が語るには、開店してまだ二月の新しい店であるが、表の壁に組んだ煉瓦も、中のテーブルや椅子、カウンターの板や照明器具に至るまで古い資材を調達してきて、うまい具合に古びた落ち着いた雰囲気を醸し出すのに成功しているということだった。確かに新しい店にありがちな浮いた感じがなく、しっとりと落ち着いており、正に「大人の夜遊び」にはぴったりだ。
「幾度か、足をお運び頂いております」
バーテンダーの返答に、
「七緒さんは連れて行って貰えたのかしら?」
と絢女は首を傾げた。
「もう連れて行ったって聞いたぞ。珍しがって、伊勢には珍しく素直に喜んだって、鼻の下を伸ばしていた」
冬獅郎の言葉で、七緒のことはオープンにしてよいと判断したのだろう、
「副官の方ですね? 確かに一度、ご一緒にいらっしゃいました。京楽さまがご自慢されていらした通りの、聡明な上にとてもお美しい方でございました」
とバーテンダーもにこやかに相槌を打った。
「京楽は伊勢にぞっこんだからな」
バーテンダーは流魂街の住人だと、冬獅郎は聞いていた。流魂街の住人は死神にでもならない限り、瀞霊廷には入れないのが決まりだ。但し、例外はある。身元保証人となる貴族の後ろ盾があり、厳正な審査に通れば、稀に瀞霊廷内で働くことが認められる場合もあるのだ。このバーテンダーが正にその例外で、バーの経営者である貴族が流魂街から見つけ出して来た人物であった。
流魂街の住人は生前の記憶をほとんど失っているが、運よく治安のいい地域に流されてきた者は生前に就いていた仕事で、生活を営むことが多い。特に、板前や大工などの技能職にその傾向が強かった。この店のバーテンダーも以前は流魂街の居酒屋で、女性受けのする甘めのカクテルもどきなどを提供して生活していたそうだ。洋風のバーの経営を思い立ち、バーテンダーを探していた貴族が試しに彼の前に現世の洋酒を並べてみせたところ、鮮やかにカクテルを作ってみせたということだった。
「考えてみれば不思議なものです。洋酒の銘柄もカクテルの名前もすっかり忘れていたというのに、これとこれを組み合わせれば、こんなカクテルが出来上がるということは身体が覚えていたのです。むしろ、自分が作れるカクテルがどういう名称なのか、調べる方が大変でした」
それでも、生前に親しんだ洋酒やカクテルの名は、魂の深いところに刻まれていたのだろう。いったん名称が分かってしまえば反芻して覚え込む必要などなく、すっと馴染んでしまったという。
語りながら、バーテンダーは素早くステアしたカクテルをカクテル・グラスに注いで、絢女に渡した。
「アドニスです。日番谷さまの眸に合わせてみました」
絢女は目の高さにグラスを上げると、
「綺麗…」
と呟いた。
「冬獅郎の目の色に合わせたカクテルも作れます?」
頷いたバーテンダーは、たくさんのボトルの中から迷いなく二本を取り出した。無駄のない動作で振られたシェイカーから注がれたのは、濁りのない淡い翠色のカクテルだった。
「これは?」
「グリーン・アラスカと申します。辛口で、かなりアルコール度数も高いカクテルですから、本当にお強い方でないと出せませんが、京楽さまよりお強いと伺っておりますので」
冬獅郎は受け取ったグラスを、くいっ、と傾けた。
「確かに強いな。けど、美味い。カクテルというと甘めの酒だって印象があったんだが、これは甘くなくて気に入った」
二人ともがグラスをふたつずつ開けたところで、バーでの撮影は終了となった。
「今度は個人的にちゃんと客として来る」
冬獅郎たちの言葉に、
「是非、お待ちしております」
とバーテンダーは丁寧に頭を下げた。
冬獅郎も絢女も流魂街出身なので、同じ流魂街出身者が生き生きと働いているのを見ると嬉しくなる。身元保証人となる貴族がいれば流魂街住人でも瀞霊廷に入れるとは言っても、ことはそう簡単ではない。保証した者が何か間違いを犯せば、重い咎は貴族にも課せられるのだ。それ故、貴族の側もよほどに信頼出来ると見極めない限り、軽々しく身元保証人にはならない。審査だとて、何の嫌がらせかと思うほどに厳しいものだ。先のバーテンダーもその技術だけで買われたのではない。彼ならば間違いがないと人柄まで含めて信頼されたからこそ、瀞霊廷に入れて店を任されたのだ。
バーが早い時間に撮影する必要があったので前後してしまったが、次の撮影場所では軽く食事出来るということで、連れられたのは蕎麦屋だった。
ここでの着物は粋風が用意した結城だった。香田呉服店がどちらかというと、綸子や縮緬などのやわらかものを得意としているのに対して、粋風は紬系統が充実した店だった。それも、遊び着に向く洒落心のある軽めの意匠のものが中心である。そんな店の提供らしく、今度の着物は先ほどのよそいき然とした大島とは違って、ふんわりと可愛らしい雰囲気のものだった。
生地は淡い青紫、というよりも現世風にラベンダー色と言った方がいいだろう。それも、くっきりとしたラベンダーではなく、ラベンダーをシャーベットにしたような雪白を帯びた色味だ。そこにさらに一段淡い色味で、水玉が織り出されている。水玉は輪郭をふわっとぼかされており、色味もわずかに地色より淡い程度なので、遠目には無地の結城紬に見える。それだけなら、軽い遊び着としてありがちなのだが、これに個性的な八掛を合わせたところが、「粋」を店名に持つ粋風ならではだろう。青藍地に
合わせる帯はこっくりとしたチョコレート色の塩瀬の名古屋だった。お太鼓と前部分に、秋桜、松虫草、トルコ桔梗を組み合わせた花束が水彩画のような優しいタッチで描かれている。象牙色と白の組み合わせの二部紐に通された帯留めは、ラベンダー・アメジストを秋桜の形に彫刻したロマンチックなものだ。
「この八掛は面白いですね」
「でしょう? 粋風さんは八掛が個性的で素敵なんです。渋い泥大島に更紗の柄八掛をかけたりとかされるんですよ。私もいろいろと勉強になります」
と着付け師は勢い込んだ。
「日番谷さまは、こういう個性的な八掛はいかがですか?」
「街着なら楽しいと思います。あっさりした無地とか、この着物みたいに淡い柄の着物にこんな八掛はいいですね」
髪は結い上げてしまわず、高い位置で元結で一つに纏め、根元につまみ縮緬細工で出来た小さな秋桜の飾りを散らせた。化粧も、先ほどのバーではやや濃いめにくっきりした化粧が施されたのだが、今度の着物には淡い化粧で、口紅も優しい薄珊瑚色が乗せられた。
着替えを終えた後、店の入口に入るところから撮影開始である。待ち合わせという設定になっているらしく、店に入るところは絢女一人の写真で、冬獅郎はすでに奥の座敷に座していた。
冬獅郎はぜんまい紬の着物に袴姿で、ゆったりと胡坐をかいていた。
山に自生するぜんまいの「綿」と呼ばれるふわふわした繊維部分を真綿に撚り込んだ糸を使って織られたのがぜんまい紬である。ぜんまい綿は保湿性と防水性に優れており、しかも防虫作用もある為、織り込むことで生地の耐久性が増す働きがあった。ぜんまいが撚りこまれた糸は節がある為、平織りにしても真っ平らな生地にならず、ぽつぽつと小さな毛玉のようなふくらみが現れる。この節が生地に素朴な風合いと野趣を与えていた。
冬獅郎に供されたのはくすんだ青練色 *1 の地に、緑、柿、茶などの色合いの糸を不規則な間隔で縦糸に通して細かい縞を現した上に、抹茶色と利休茶 *1 で縦にぼかしを施した着物だった。袴は
座卓に向かい合わせで座った直後に蕎麦が来た。この店の名物だという貝柱のかき揚を浮かべたかけ蕎麦と、天麩羅を添えたせいろだ。他に冬獅郎の好物であるおろし大根を添えた卵焼き、板わさ、鴨の燻製に、徳利に入ったぬる燗の酒まで並べられた。
「これも『大人の夜遊び』か?」
冬獅郎の問いに、
「はい。蕎麦屋で一杯なんて、通好みでしょう?」
「なるほど」
先ほどのバーで何となく要領が掴めたので、二人はとりとめのない話をしながら、食事を始めた。
いただきます、と手を合わせたところで、かしゃっ、卵焼きを摘み上げたところで、ばしゃっ、と合いの手のようにシャッターが切られるのも、かなり慣れてきた。絢女が冬獅郎に酌をした時には、ばしゃばしゃばしゃばしゃ、と連続でシャッター音が響いた。
名物のかき揚蕎麦はなかなか美味であった。出汁巻卵もいい味だ。
「ん、おいしい」
絢女が見かけに似合わぬ酒豪ぶりを発揮して、猪口の酒を一息で飲み干すと、周りは、
「おおっ」
とどよめいた。可憐な彼女が漢前な飲みっぷりをみせたのが、意表をついたらしい。
適当に腹が満たされたところで、店内での撮影は終わった。最後に、店の暖簾をくぐって、姉弟仲良く出てきたところの写真を数枚撮って完了となった。用意された着物はあと二枚である。
次の撮影場所は能舞台だった。
今度の絢女の着物は鳶八丈だった。黒鳶 *1 の無地か見まごうが、近くでとくと見ると、赤鳶と珈琲色に近い極めて濃い黒鳶で細かい市松が織り出されたものである。市松紋様は真四角ではなく矢羽を思わせるいびつな長型なのが、味わいがある。渋い色合いの着物だけに下手な帯を合わせてしまうと、昔、絢女が装うことを禁じていた頃に着ていたような、冬獅郎の言い方だと「ばばくさい」装いになってしまうのだが、そこはプロフェッショナルである。生成り地に茶がかった赤から紫で更紗風の小花柄を型染した甘さのある布と錆朱 *1 の無地布を合わせた腹合わせ帯を引っかけという結び方で結んでみせた。この引っかけというのは、見た目はお太鼓の下部を締めずに垂らしたような結び方である。手は左下に櫂のように斜めにちょこんと出ている。垂れが固定されていないところが重要な点で、歩くたびにゆらゆらと揺れる帯が色っぽさに繋がっていた。
ここは、絢女一人の撮影だった。赤々と篝火の焚かれた無人の能舞台に佇む絢女は、炎の陰影のせいか、いくぶん憂いを帯びて見えた。男なら思わず肩を抱いて慰めてみたいと感じてしまう、古い映画のワンシーンのような風情だ。
(この写真…、市丸が文句つけて来そうだな)
と冬獅郎が内心で案じたほどだ。
夜とはいえ、真夏の屋外で火を焚いているので本当ならば、相当に暑い。だが、ここは冬獅郎が姉の為に一肌脱いで、冷気を送り込んだので、撮影はスムーズに終了した。
最後の撮影場所はとある貴族の寮 *2 を借り受けたというこじんまりとした屋敷だった。どこから調達してきたのか、薄が用意され、団子を供えた月見という舞台設定だ。この日は満月ではなかったが、写真師が言うには、満月の写真はすでに用意してあり、後で合成するので問題ないということだ。
これが最後だと、いい加減に疲れてきていた冬獅郎も気力を振り絞り、着替えに挑んだ。男と女の違いなのか、絢女の方は美しい着物を色々と身に着けられることを、すっかり楽しんでいる様子だ。
月見であることを考慮して、宵闇に映えるように明るい色合いの着物が用意されていた。
絢女の着物は浅黄の真綿紬に後染めで柄付けした小紋だった。サーモンピンク、藤色、撫子色、水色、松葉色などで染め表されたのは欧州更紗紋である。蘭やチューリップ、デイジーなどの洋花と胡蝶がかなり抽象化されて描かれており、ところどころにペイズリーも混じっている。いったん、くすみのないパステルカラーで染めた後、上から白灰色を掛けることで色を上品に落ち着かせてあり、更紗紋様を好んでいる絢女には、かなり心惹かれる一枚だった。
この着物に合わせた帯も更紗であった。こちらは塩瀬帯に野茨の蔓と花実をやや大振りに型染めした江戸更紗である。地色は深い藍、蔓と葉は鶸茶から抹茶、青木賊のぼかしで表現され、実は赤紫を中心に濃い青紫までの諧調をつけてあった。花は紫で花蕊に赤みの強い紫を挿してある。江戸更紗は通常、糸目といって黒で輪郭線を描くが、この帯は地と柄に明度の近い濃い色を使っている代わりに、この糸目の外側を生成り色に細く染め残すことで地と柄の境界をくっきりと際立たせていた。帯揚げは裏葉柳の縮緬で、帯締めは生成りの三部紐である。これに月に見立てたまん丸の
もうひとつ、渡されたのは大判のストールだ。畳一畳分の大きさがあり、縦の六割は黒に染め上げられ、残り部分を紫と緑で縞にぼかし染めてある。生地は皺が目立たないふくれ織で、布端には繊細な黒のレースを細く縫い付けて始末してあった。
冬獅郎に用意されたものは浅緑の大島だった。抹茶の泡立った部分を連想させる煙るような色合いである。この浅緑地に練色で斜めに桝目が通され、その桝のひとつひとつに小さな円を四つ組み合わせて形作った十字が、桝目の線が交差するところにはやや大きめの円が、ともに挽茶色の糸で織り出された非常に細かい手の込んだ柄行だ。半襟、足袋は薄墨色で揃え、帯は京鼠色の総疋田絞りの兵児帯を用いた。袴をつけない着流しで、帯を扱いて、角帯で締める時の浪人結びを変形させたような結び方が施してあるので、兵児帯にしては立ち姿がすらりとあか抜けて見えた。足元は畳表の雪駄履き。庭先に案内された冬獅郎は写真師の指示に従って、濡れ縁に腰かけた。その傍らにショールをふわりと羽織った絢女が正座する。
着付け師の女性が絢女から預かっていた龍笛を差し出した。実は、香田呉服店の店主から龍笛を小道具に使いたいので、持参してほしいと頼まれていたのだ。
「日番谷さま、お願いいたします」
乞われて、絢女は笛を唇に当てた。
澄んだ、伸びやかな音色が宵闇に吸い込まれていった。
冬獅郎は目を閉じた。カメラのシャッター音を意図的に意識から遮断し、姉が奏でる笛の音に集中する。幼い頃から慣れ親しんだ美しい音色が全身に沁み入り、冬獅郎は深く呼吸をした。
月見、という設定に相応しく、絢女は月に想を得た曲を奏でた。まず、雅楽の「想夫恋」。平家物語の小督哀話に曲名が見える哀調を帯びた曲である。続けて、童謡として広く知られる「月の沙漠」。本来は龍笛の曲ではなくとも、絢女にかかれば自在に演奏されてしまう。
「絵になりますねぇ」
着付け師がうっとりと呟いた。
二曲を奏したところで、縁側での撮影は終わりとなった。着付け師が絢女に走りよると、再び笛を預かった。それから、羽織っていたショールの左右を合わせ、柔らかでたっぷりとした布を存分に生かして、大きな薔薇の形を作った。根元をクリスタル・ガラスを連ねたゴム紐で崩れないように纏め、藍と深緑のビーズで縞模様を現した小ぶりなバッグを渡した。
「玄関で、これから出かけるという場面の写真を撮ります」
写真師に告げられて、姉弟は寮の玄関に移動した。玄関の沓脱にはすでに草履が揃えられていた。
「…変わった草履だな」
絢女の為に用意された女物の草履を目に留めて、冬獅郎は言った。
「本当。現世のサンダルみたい」
と絢女も頷いた。
基本的に、草履の台はほとんど傾斜がない。正装用の、かかとに一寸半前後の高さがある草履でも同じだ。つま先の側にもかかとほどではないにしろ、それなりの厚みを置くことによって台の傾斜を押さえてある。だが、今、目の前にある草履は現世で見かけるウェッジソールのサンダルにそっくりな形状をしていた。かかとの側の厚みは確実に二寸はある。現世でもハイヒールと呼ばれる高さだ。対して、つま先の厚みは二分にも満たない。この為、台は真横から見ると傾斜がカーブを描いてはいるものの、全体としては直角三角形に近かった。
「つんのめりそうな草履だな」
と冬獅郎は眉を顰めた。彼は先に草履を履くと、姉に手を伸べた。絢女は彼に手を取られる格好で、その奇妙な草履を履いた。ばしゃ、ばしゃとシャッター音が響く中、よろけることもなく草履を履き終えた絢女は、
「思ったよりもずっと履きやすいわ」
と所見を述べた。
「そうなのか?」
「ええ。案外、安定しているの。意外と歩きやすそうよ」
足元を眺めた絢女は、着付け師の女性を振り返った。
「これ、普通の草履よりも足袋がよく見えますね。最初のバーで履いていたような爪先に飾りのある足袋だと、刺繍が目立って可愛くないかしら?」
「おっしゃる通りです」
と着付け師は微笑んだ。
「これから売り出す、新作の草履なのですよ」
香田呉服店の店主が如才のない笑みで言い添えた。
「その草履は日番谷さまに差し上げます」
「え?」
「現世では『モニター』とか呼ぶそうですが、試し履きをお願いしたいのです。忌憚のないご意見を頂けたらと存じまして」
上手いな、と冬獅郎は思った。護廷の隊長で、しかも並外れた美貌の主である絢女に憧れを抱く女は多い。その彼女が一風変わった草履を履いていたら、注目を集めるのは間違いない。しかも、モニターを頼まれてしまったら、生真面目な絢女は実際にせっせとそれを履いて、履き心地や歩き心地を試そうとするだろう。絢女にその意図がなくても、結果として無言で草履を宣伝して歩くことになるのだ。
「ありがとうございます」
存外に好奇心旺盛な絢女は、この草履に興味を惹かれたらしい。丁寧に礼を述べて、あっさりとそれを受け取った。もちろん、これはモニターの件も了承したことを意味する。
「よろしくお願いいたします」
と店主も丁重に頭を下げた。
玄関を出、門までの短い路と門前で写真を幾枚か撮ったところで、モデルの仕事は完了となった。
「雪月花」の読者モデルには出演料として、撮影に使用した着物と帯の一組が贈られるのが慣例である。今回は別に婚礼特集にも協力したからということで、二組を選んで下さいと告げられた。
絢女はかなり迷った末に、最後に着た更紗柄の着物と帯、それから、鳶八丈の一組を択んだ。
冬獅郎は最後に着た浅緑の大島、及び、蕎麦屋で身に着けたぜんまい紬と袴の下に締めていた博多献上の角帯の揃いを、ありがたく頂戴することにした。
店主は先ほど絢女に贈呈したのと同型の草履を、これは乱菊に、と冬獅郎に預けた。乱菊にもモニターの約束を取り付けていたのだそうだ。絢女に贈られた草履は、しぼのある濃いベージュのなめし革の台にとかげの型押しをした
仲良く並んで家路を辿りながら、
「姉さま、疲れたろう?」
と冬獅郎は絢女を気遣った。
「そうね…。だけど、私はけっこう楽しかったかな。冬獅郎こそ、なんだかぐったりしているわね」
「実際、疲れた。討伐で大虚を相手にしてる方がよっぽど楽だな」
「お疲れさまでした」
「姉さまもすまなかったな。乱菊の代役をさせてしまって」
「いいのよ。そんなこと」
「ああ」
姉弟仲は今でもすこぶるいい。だが、互いに恋人が出来た上、住み暮らす家も異なっていることもあり、水入らずで落ち着いて歩くのはずいぶん久しぶりのように冬獅郎は感じた。
「ねぇ、冬獅郎」
「うん?」
「ひとつ謝らないといけないことがあるの」
絢女に切り出され、冬獅郎は怪訝に姉を見返した。
「何だ?」
「写真…」
と絢女は口にした。
「ああ?」
「雑誌に載せる分以外は絶対に外に出さないようにって、約束させてたでしょ?」
「それがどうかしたのか?」
「私、香田さんにお願いしちゃったの。雑誌に載せなかった写真のうちで、私と冬獅郎が一緒に写っているものを何枚か分けて下さいって。…私が貰う分だけは外に出てしまうわ」
「何だ」
と冬獅郎は笑った。
「姉さまが持っている分には別に構わねぇ。姉さまは俺に無断で写真を売ったりとかしねぇだろう」
「もちろんよ。私が持っていたいだけだもの」
「だったら、全く問題ねぇな。けど、俺と一緒の写真なんてどうするんだ?」
冬獅郎の真顔での問いかけに、絢女は苦笑を零した。
「私、冬獅郎と一緒に撮った写真、一枚も持っていなかったから…」
絢女が行方不明になるより前、もう五十年も昔のことであるが、絢女は弟の写真をずっと諦めてきた。同僚の中には、家族や恋人の写真を肌身離さず持っている者や、執務机に飾っている者もいて、それを目にする度に絢女は羨ましかった。
あの頃の絢女にとって、冬獅郎は庇護すべき対象であると同時に、心の支えであった。たった一人の大切な弟が、何の憂いもなく幸せに暮らせるようにしなければという思いが、彼女の存在意義になっていたのだ。血を分けた愛しい肉親であるのに、弟と一緒に暮らすことが出来なかった彼女は、せめて、同僚たちのように、写真を飾り、それを眺めることで気持ちを奮い立たせたかった。それを諦めたのは、瀞霊廷のどこかに、冬獅郎を狙う者がいたからだ。平和に人間として暮らしていた冬獅郎を襲い、奪い去ろうとした黒幕を探り出せていない以上、迂闊なことは出来なかった。机に飾るのは論外だが、肌身離さず身に着けることさえ、何か間違いが起こってはならないと躊躇われた。
現世の浦原喜助に保護されて生き延びた絢女は、瀞霊廷に帰還して、ようやく冬獅郎と姉弟であることを公言出来るようになった。女性死神協会から写真集を贈られたことで、ずっと欲しいと思っていた弟の写真も手に入れた。だが、彼と一緒に写真を撮ったことはなかったのだ。五番隊長に就任する前、十番隊の隊長舎で寝食を共にしていた頃は、叛乱を起こした藍染との決戦を控えてピリピリしており、暢気に写真を撮って楽しむような状況ではなかった。叛乱が収束した後も、冬獅郎が写真を撮られることを好まないこともあって、一緒に撮る機会がないままに過ぎてしまった。思いがけず、冬獅郎と共にモデルを務めることになって、絢女は二人で写った写真が欲しいと切実に願ったのだ。
「姉さま」
と冬獅郎は穏やかに姉を見つめた。
「俺は確かに、あんまり写真は好きじゃねえ。だけど、姉さまと一緒に写るのはいやじゃないんだ。弟なんだからさ。遠慮しないで、姉さまはもっと我儘を言っていい」
「遠慮したわけでもないんだけど…」
「自覚がないなら、尚更、悪い。姉さまはもっと俺に対して、主張していいんだからな」
「ありがとう」
何となく、今晩は姉弟水入らずをもっと楽しみたい気分になった。
「姉さま、呑みに行かねぇ」
冬獅郎は誘った。絢女は嬉しそうに笑って、
「賛成」
と応えた。
*1 樗 :樗(栴檀)の花色のような赤味を帯びた極薄い藤色。
紅絹 :緋色とほぼ同色、もしくはやや薄い色を指す。
鳥の子:在来種の鶏の卵色。黄色味を帯びたごく薄い茶色。
裏葉柳:柳の葉の裏側のような白味の強い薄緑。
橡 :紫を帯びた黒。
青練 :練色=生成りに薄く藍をかけ黄色味を消した、藍色がかった生成り白。
利休茶:灰緑がかった茶色。
海松 :黒味を帯びた緑茶色。海藻の一種「海松」からきた色名。
鳶色 :鳶の羽のような赤味の強い茶色。
錆朱 :錆色をかけたような朱色。赤茶色っぽい朱色。
椋実 :椋の実の色に似た黒味の強い青紫。ブルーベリー色に近い。
*2 ここでは郊外などにある別荘・別宅の意。
《参考文献・サイト》
「草木染 日本色名辞典」山崎青樹・著 美術出版社。
「池田重子流きものコーディネート 秋のおしゃれ」 実業の日本社。
「七緒 15号/25号」 プレジデント社。
酒ログ カクテルレシピ
スコッチウイスキー銘酒事典
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101010打キリリク小噺
101010打のゾロ目キリ番の小噺です。リクエストは「冬獅郎と絢女の姉弟が呉服屋のモデルをする話」。二人をめいっぱい着飾らせてほしいということでしたので、勢いに乗って、婚礼衣装まで着せてしまいました。
時間軸は叛乱の四年後の夏。ただし、秋に出る呉服雑誌のモデルということで、着物はすべて秋物です。
この話は下書きにものすごく時間がかかりましたが、次はどんな着物を着せようって、自分がスタイリストになったつもりで大変楽しく書けました。絢女と日番谷隊長と二人合わせて、なんと十三着です。ひたすら着物描写に終始する非常にくどい文章ですが、脳内で想像して楽しんでいただけたらと思います。
キリ番ゲッターのくるみさま、お待たせいたしました。納品させていただきます。