薔薇色の村へようこそ


 十番隊を訪れた絢女が、
「私とギンから。乱菊のお誕生日プレゼント」
と冬獅郎に封書を差し出したのは、九月に入ったばかりの残暑厳しい朝のことだった。
「あいつの誕生日は月末だが?」
 怪訝に冬獅郎は姉を見遣った。彼女が今更、親友の誕生日を間違うはずもないし、誕生日プレゼントを冬獅郎に持って来たのも解せない。盛大に疑問符を飛ばしている冬獅郎に柔らかな笑顔を向けて、
「開けてみて」
と絢女は促した。おそらく、中身を見れば、冬獅郎の疑問も解けるということなのだろう。
 封筒の中に入っていたのは、フランス語で印刷された文書が二通と、絢女の手書きの書面が一枚。
「託児請負券?」
 絢女の手書きの書面のタイトルに、冬獅郎は目を瞬いた。期日は九月二十七日夜から三十日夕方までの三泊三日。更に、五番隊で緊急事態が発生し託児を請け負えなくなった場合には女性死神協会が責任もって代行する旨の添え書きが、ご丁寧にも理事長の卯ノ花烈の花押付きで記されていた。更に疑問を覚えながらも、フランス語の文書に目を通す。
 そちらはフランスのとある地方のシャンブル・ドットの宿泊予約と、同じく、レンタカーの予約の書類だった。
 顔を上げた冬獅郎に、
「冬獅郎の非番は志藤三席にお願いして、ばっちり確保済みよ。義骸と身分証明書、それに、運転免許証の手配も済んでいるわ。あやちゃんときくちゃんは私とギンで責任もって預かるから、二人っきりで羽を伸ばしていらっしゃい」
と絢女は微笑んだ。
「色々、準備もあると思うから早めに渡したの。特に乱菊には留守中にあやちゃんたちに飲ませるおっぱいを絞って、冷凍保存しておいて貰わないといけないから。本当はいきなりでびっくりさせたかったんだけど。仕方ないわね」
 乱菊は昨夏、双子の女児を出産した。新生児が現世でいう二歳児相当になるまでの期間は霊力の上昇率が際立って高いことから、それ以降の成長に比べると格段に短い。だが、それでもなお、現世に比べるとかなりの日数が必要だ。出産から一年余りが経過した現在、双子の赤ん坊は現世の六ヶ月児相当に成長していた。首が据わって寝返りをうちはじめる時期である。妹の菊音の方は、はいはいまでは至らないが体を擦って短い距離なら移動することを覚え始めている。乱菊はまだ育児休暇中で、現在、十番隊の副隊長業務は三席の志藤が代行していた。
 せっかくの絢女の申し出だが、六月齢児相当の娘たちを三日間も預けることに躊躇いを覚え、冬獅郎は姉を見返した。彼の葛藤など見通していたのだろう、絢女は穏やかに、
「子育てって、冬獅郎が考えている以上にストレスが溜まるのよ」
と告げた。
「お母さんに世話してもらえないと生きられない赤ちゃんは、ひっきりなしに泣いてぐずるし、夕飯の準備中でも、夜中でもお構いなしにおっぱいが飲みたいって泣き出すし…。まして、冬獅郎のところは双子ですもの。二人が交互にぐずったりしたらもう大変。乱菊には自分の時間なんて、今、全くないはずよ。冬獅郎とゆっくり話をする時間もほとんど取れていないんじゃない?」
「それは確かに…」
「だから、こういうプレゼントにしたの。三日間だけだけど、赤ちゃんから解放されて、冬獅郎と二人っきりでのんびり出来たら、いい気分転換になるんじゃないかと思って。あやちゃんたちのことは心配要らないわ。さっきも言ったけど、私とギンで責任もって預かるし、卯ノ花隊長も助けて下さるし」
「…そうか…」
「三日間、盛大に乱菊を甘やかして来なさいよ。冬獅郎だって、乱菊を娘に取られちゃって、ストレス溜まっているでしょ?」
 冬獅郎が三席を見遣ると、あらかじめ絢女から話を聞かされていた彼はにっと笑って親指を立てた。
「隊長、久しぶりに副隊長と水入らずを満喫されて下さい」
 部下たちの後押しもあって、冬獅郎は姉たちからのプレゼントをありがたく受けることにした。

 人気のない郊外で穿界門を開き、冬獅郎と乱菊は現世に降り立った。
 観光地として人気の高い南フランスのリュベロン地方の村である。指定されたレンタカーショップまでは、徒歩で三十分ほどの地点だ。義骸では瞬歩は遣えないから、絢女たちはレンタカーを手配してくれたのである。お伽噺の絵本に出てくるような美しい田園風景が売りの観光地で自然保護区に指定されているので、基本的に交通の便はあまりよくないのだ。
 レンタカーショップのある町までの道すがら、乱菊はほとんどしゃべらなかった。だが、それは不機嫌だからではない。子育てから解放され、冬獅郎と二人で過ごせることが嬉しく、また、キャッチコピーに違わぬ、絵本の世界に迷い込んだような美しい風景に感激していたからだ。その証拠に彼女の眸はきらきらと輝いて、散歩中の仔犬のようにきょろきょろと辺りをせわしなく見廻していたし、冬獅郎と繋いだ手には力がこもっていた。
 程よい散歩といえる道のりを経て、目指すショップに辿り着いた。いかにも田舎の気の良いおじさんという風情のレンタカー屋の親父は、乱菊の美貌をラテン系のノリでさんざんに誉めそやし、こんな美人の奥さんで羨ましいと冬獅郎を持ち上げた後、フル充電済の小型のプジョーを二人に示した。
 技術開発局謹製の偽造パスポートと運転免許証で、二人は何のトラブルもなくプジョーを借り受けた。冬獅郎は過去にも幾度か現世でレンタカーを運転したことがある。フランスで運転するのは初めてだが、この地の交通法規はすでに頭に叩き込んであった。レンタカー屋の親父から簡単に操作の説明を受けた後、
「Bon Voyage(よい旅を)」
と見送られ、二人は予約のシャンブル・ドットへ向かって走り出した。

 シャンブル・ドットとは、いうなれば民宿のことである。田舎家のいくつかの部屋、もしくは別棟の離れを宿泊施設として提供する個人経営の宿だ。
 絢女たちが予約したシャンブル・ドットはリュベロン地方でも特に美しい町並みで知られるルシヨンの村の外れにあった。
 ルシヨンはかつてオークル顔料の生産地として名高く、村自体がオークルの原料となる赤土の崖の上に建っていた。村の家々は特産のオークルの赤土を壁に塗り込んである。色合いは茶褐色から、赤、茶色味のある薔薇色と微妙に異なっているが、全体としては褐色を帯びた落ち着いた薔薇色の村だ。この村までの道のりも大層美しく、乱菊は窓外を流れる風景に目を釘づけていた。だが、この村は格段に絵本度が高く、崖の上の村を目にした途端、彼女は、
「うわぁ…」
と感嘆の声を漏らした後絶句した。
 ルシヨンは崖に囲まれた村だ。宿は村の中心部から見て西側の少し離れた場所にあり、東にルシヨンの街を、西に遠景としてゴルドの村を望むことが出来る立地だった。シャンブル・ドットの基本サービスは宿泊と朝食であるが、宿によっては田舎料理の夕食を供するところもある。この宿はオーナー夫婦の次男が経営するビストロが敷地内にあり、別料金でビストロでの夕食も楽しめるようになっており、絢女たちは夕食付で予約してくれていた。
 チェックイン後、オーナーの夫人が案内してくれたのは、村と同じ、薔薇色の土壁で彩られた離れだった。敷地内の庭にはオーナー夫婦が丹精した花が咲き競い、飼い犬のチョコレート・ラブラドールが人懐っこく纏わりついてくる。
「素敵…」
 うっとりと呟いた乱菊はもう夢見心地だ。足が地についていない。
 室内も乱菊が好みそうな調度であった。彼女が読んでいた現世の雑誌に掲載されたヨーロッパのオーベルジュか何かで似たような雰囲気の写真を見たことがある。
 外壁よりも一段薄く、淡い薔薇色の壁。床は明るい色合いの板張りだ。部屋の中心に据えられたダブルベッドには白地に壁色とも馴染むシックな薄紅で薔薇の花がプリントされたベッドカバーが掛けられていた。ベッドの真上にはベッドカバーとお揃いの布が三枚吊るされていて、一枚は綺麗に襞を寄せてヘッドボード裏に収められ、もう二枚はベッドの足から伸びている飾りがあるポールに括って垂らされており、天蓋付きベッドのような按配になっていた。ベッド脇の小テーブル、小さめのチェスト、座面が布張りされた木製の椅子、クローゼットの扉といった家具は白くペイントされたもので統一されていた。但し、どれも年代物らしく塗装のホワイトはいい感じに黄ばみを帯びて、ところどころひび割れているのが、経年の風格を感じさせた。チェストと小テーブルには庭の花をアレンジしたらしいブーケが活けられていた。
 全体に乙女趣味であるが、やり過ぎ感はない。シックな雰囲気と清潔感が勝っているので、冬獅郎にも落ち着ける部屋だった。二人で、ベッドにどさりと仰向けに寝転ぶ。
「冬獅郎さん」
「ん~、なんだぁ?」
 すっかりくつろいだらしく、いくらかだらけた返事を返した冬獅郎に、うふふと嬉しそうに笑いながら、
「あたし、一遍、天蓋付きのベッドで眠ってみたかったんです」
と乱菊は言った。
「へぇ? 良かったな、夢が叶ったな」
「ええ。嬉しいです」
 冬獅郎は天井から垂れ下がった布を眺めた。男の冬獅郎から見ると、単なる飾りで全く実用性は感じられず、
(こんなもん、なくたっていいだろう)
という代物だが、女性には乙女心を刺激する効果があるらしい。布切れが下がっているだけで、乱菊が幸せな気分になれるというのなら、ある意味で大いに実用性も備えている、と冬獅郎は認識を改めた。
 今回の休暇は乱菊を育児から解放し、のんびりさせるのが目的である。ルシヨンの村の散策は明日に廻すことにして、今日はこの宿でゆっくりと過ごすことにした。日頃、隊長として多忙な日々を送る冬獅郎にとっても、何をするでなく、ぼんやりと過ごせる時間はなかなか貴重である。
「庭に椅子が置いてあったな。天気もいいし、外に出てみるか?」
「賛成」
 バッグから文庫本を取り出して、二人は庭に出た。
 庭には青磁色セラドンにペイントされた木製の椅子とガーデン・テーブルが据えられていた。乱菊と冬獅郎はその椅子に腰を落ち着けた。彼らが庭に出て来たことを目ざとく見つけたチョコレート・ラブラドールのラメダスが構ってくれと駆け寄って来た。犬猫好きの乱菊が背や頭や咽喉元を優しく撫でてやると、ラメダスは気持ちよさそうに鼻先を摺り寄せて来た。尻尾はぱたぱたと振れている。
「かーわいい」
「懐っこい犬だな」
と二人してラメダスを構っていると、三十代後半と見える明るい栗色の髪の女性が現れた。
「自家製の葡萄ジュースです。いかがですか?」
 この宿はオーナー夫婦とその長男夫婦、嫁入り前の末娘の五人で切り盛りしている。栗色の髪の女性は長男の妻であり、日本風に言えば若女将に当たる。
「ありがとうございます」
とジュースを受け取った乱菊は、
「素敵な宿ですね。お部屋も可愛くて、とっても気に入りました」
と弾んだ声音で心からの称賛を伝えた。
「ありがとうございます。夕飯も気に入っていただけると良いのですが」
義弟おとうとさんが経営なさっているレストランなんでしょう? 楽しみにしています」
 オーナーの次男はマルセイユとパリのレストランで三年ずつ修業した後、故郷のルシヨンに戻って来て、両親の経営するシャンブル・ドットの一角を借り受けて、ビストロを始めたのだそうだ。宿の客が夕飯も希望する場合が多く、予約などは宿の客が優先されるように協力し合っているが、経営としては独立しているらしい。
「この葡萄ジュースもおいしいですね」
「先日収穫したばかりの葡萄でつくったものです」
 リュベロン地方はワインの生産地としても有名で、この宿に至る道にも葡萄畑がいくつも点在していた。九月は葡萄の収穫シーズンで中旬ごろであれば、村々で収穫祭が催されており、観光客も一段と多かったそうだ。
「今晩は、久しぶりにワインが飲めるな」
 妊娠が明らかになってからずっと、以前の酒豪ぶりが嘘のように、乱菊は酒を断っていた。現在も授乳中なので滅多に酒は口にしない。たまに、グラス一杯程度の梅酒や、猪口に一杯程度の酒を嗜む程度である。しかし、今晩と明日は授乳から解放されているから、飲んでも大丈夫なはずだ。
「ええ。それも楽しみにしていたんです。何といっても本場ですもの」
「だからって飲みすぎるなよ?」
「わかってますよぉ。久しぶりだから、ちょっとで酔っぱらっちゃうかもしれませんね」
「たまにはいいだろう」
 乱菊は微笑んだ後、
「絢乃も菊音もいい子にしているかしら? ぐずって、絢女を困らせたりしてないといいけど…」
と母親の顔になった。
「大丈夫じゃないか? 姉さまには絢乃も菊音も懐いているし、それに赤ん坊はぐずるのが仕事だと言っていたくらいだから、少々ぐずったって動じやしないだろう?」
 齢九つにして冬獅郎を育て上げた絢女である。九歳というのは数えのはずだから、満年齢は七つ八つで、絢女は弟を育てたことになる。彼女の記憶によれば、おむつの交換も、沐浴も、離乳食の世話も、要するに授乳以外のあらゆる世話をしていたらしいので、おそらく冬獅郎の母親は彼を産んで間もなく亡くなったか、赤ん坊の世話も出来ないほど病弱だったのか。どちらにせよ、彼女の育児の手腕は弟の冬獅郎と実の息子の主真で証明済みなので、冬獅郎は全く不安を感じていない。
「心配なら、明日の朝にでも連絡をいれてみよう」
 現世と尸魂界には時間のずれがあるが、特にヨーロッパはずれの大きい地域である。二人は実は九月二十七日の深夜に瀞霊廷を出たのだが、現世の穿界門をくぐった時には昼下がりだった。今、連絡を入れても向こうは寝入ってる時間だから迷惑なだけだ。
「はい」
「せっかく、姉さまが羽を伸ばしてこいって、絢乃たちを預かってくれたんだ。あんまり、気にするな」
「そうですね。気分転換にって気を遣ってくれたんですもの。今だけ、子供を産む前に帰って楽しんでもいいですよね」
 冬獅郎に向かって伸ばされた手に、彼は自分の手を重ねた。
 赤ん坊に邪魔されることなく、ゆったりと語り合い、ラメダスと遊んだり、持参の文庫本を読んだりしながら、二人は夕食までの時間をゆっくりと過ごした。

 揺り起こされて、乱菊はうっすらと眸を上げた。
 辺りはまだ薄暗い。夜明け前だ。
「もうちょっと寝かせてくださいよぉ」
 乱菊は拗ねた声音で、ごろんと寝返りを打った。
 妊娠が分かってから、昨日まで。妊娠中は腹の赤ん坊を気遣って、出産後は夜中に突然ぐずり出す赤ん坊に振り回されて、落ち着いて睦み合うこともままならなかった。子供を気にしないでもいい夜は本当に久方ぶりで、昨夜はつい濃密に愛し合ってしまったのだ。禁欲をしていたわけではないが、奔放に、存分に交わったのは二年ぶりで、熱を帯びた身体は気怠く重かった。
「まだ、夜明け前じゃないですか…」
「ああ、夜明け前だ。もうすぐ、陽が上るぞ」
と冬獅郎は返した。
「夜明けのルシヨンの村を見るんじゃなかったのか?」
 途端に、乱菊はがばと跳ね起きた。わざわざ目覚ましを掛け、寝起きの良い冬獅郎に自分が寝惚けていても叩き起こして欲しいと頼んでいたことを思い出したのだ。
 ビストロで夕食を楽しんでいた時、給仕の女性が夜明けのルシヨンの美しさを語り聞かせてくれた。シャンブル・ドットはルシヨンの西に位置しており、村を一望できる。朝、早起きすれば、夜明けの光の中で刻々と色を変えていく村の姿を堪能できるという彼女の説明を、乱菊は身を乗り出すように聞き入っていた。そして、部屋に戻った後、宿の主人にわざわざ夜明けの時刻を確認し、目覚ましをセットしたのだ。絶対に早起きして、夜明けのルシヨンを見るんだと乱菊がとても張り切っていたので、冬獅郎は疲れているだろう彼女を敢えて揺り起こしたのだ。
「陽が上ってから二度寝してもいいぞ」
 跳ね起きたものの、まだ眠そうにしきりと目を擦ってる若妻に、冬獅郎はくつくつと忍び笑った。
「正直、俺もまだ眠いしな」
 裸の身体にバスローブを引っかけただけの姿で、東に面した窓のカーテンを開け放つ。まだ、陽は昇っていないが、夜明けは近いらしく辺りはうっすらと白んでいた。窓の桟に手をついて、子供のようにわくわくと、まだモノクロのシルエットでしかない村を凝視している乱菊を冬獅郎は背後から包むように抱きしめた。
 夜明けの空は、刻一刻と色を変えてゆく。天空に漆黒を残したまま群青色に明るんだ空は、やがてオレンジがかった紫を帯び、そして丘の端に近いところが茜に染まった。それから、明るんでいた辺りが一瞬、ふっと暗くなり、直後、ぴかり、と一条の光が空を切った。
「あ…」
 息を呑む乱菊の前で黒いシルエットだったルシヨンが、瑠璃色に変わった。天空の縁は丹色に照り映え、朱色、緋色、薔薇色、葡萄色、茄子紺、紺青、そして黒と決して人の手では染め出せない複雑な段絞りが空と雲に広がった。瑠璃色だった村は、いったん鈍色に沈み、すぐに明るい紫に変わった。深紅に照り映え、金色に輝き、薔薇色に染まりながら、輪郭を強めていった。
 朝日が昇りきり、村がくっきりとその姿を現すまで、乱菊も冬獅郎も身動ぎひとつせずに、その光景を眺めていた。
「…綺麗…でしたね」
 溜息のように零れ落ちた言葉。
 詩人ででもない限り、この光景を前にしては「綺麗」としか出て来ないだろう。圧倒的な美に呑まれてしまうと、言葉は単純明快なものしか浮かばなくなってしまう。
「すごく…、すごく綺麗」
 感動の余りに、微かに涙ぐんでいる乱菊を、同意を込めて、冬獅郎は強く抱きしめた

 二度寝後の遅い朝食の後、乱菊は絢女に連絡を入れてみた。こちらでは朝だが、尸魂界は夕刻で、そろそろ定時の業務が終わろうかという頃合いのはずだ。
 すぐに応答した絢女は、
「二人ともすごくいい子にしてるわよ」
とあっけらかんと笑った。
「ほんと? お乳はちゃんと飲んでる? 二人とも、哺乳瓶って慣れていないはずだけど…」
「ああ、うん。最初ちょっとだけ嫌がったけど、すぐに慣れたみたいよ」
「むずがったりはしてない?」
「赤ちゃんだからね。全然、むずがらなかったら、そっちの方が大問題でしょ? 普通にぐずって泣いたりはしているけど、極端に不安がったり、何しても泣き止まない、なーんてことはないから安心して。むしろ、いっぱい構って貰えるからご機嫌にしているわよ」
 絢女は主真が使っていたベビーベッドを物置から引っ張り出して、五番隊の執務室に据えたらしい。ベッドに寝かされた双子見たさに、五番隊の席官たちが入れ替わり立ち代わり執務室を訪れ、ひとしきりあやしてから帰るのだ。
「さっきは総隊長までいらっしゃったの。さすがに吃驚しちゃった」
「ええっ!? 山本総隊長が?」
「そ。双子を見たくてうずうずしてらしたみたいよ。だけど、まさか、産休中の乱菊を訪ねるわけにもいかなかったみたいでね。私が預かって執務室に連れて来たから、チャンス到来って感じでいらしたの。どういうわけか、きくちゃんが総隊長に懐いてね。総隊長のお髭をずっと引っ張っていたのよ」
 絢女の報告に、乱菊も、すぐそばで漏れ聞こえる声に耳を傾けていた冬獅郎も硬直した。
「総隊長のお髭を…」
「…引っ張っただと…」
 赤ん坊だから許されるとはいえ、何という怖ろしいことを。
 だが、絢女は意に介さず、のんびりと続けた。
「総隊長、満更でもなかったみたいよ。『痛い、引っ張るでない』なんて口ではおっしゃっていたけど、あれは、どこからどう見ても、孫娘にじゃれられて目尻を下げているおじいちゃんの図だったわね。もの凄く上機嫌で、幸せそうに帰っていかれたわ」
「…そう…」
「とにかく、こっちは心配しなくても大丈夫だから。ゆっくりと休暇を楽しんでらっしゃい」
 根が子供好きの絢女も、久しぶりの赤ん坊の世話がむしろ楽しくて仕方がない様子だ。
 伝令神機を切った後、乱菊は溜息をついた。
「何か、嬉しいような嬉しくないような複雑な気分です」
 娘たちが伯母を困らせたりせず、機嫌よく過ごしているということには安心した。だが、一方で、母親がいなくても結構平気そうにしているという事実が寂しくもあるのだ。母親恋しさに泣き続けられても困るが、あんまり機嫌がいいというのも面白くない。母親心は、確かに複雑だ。
「まぁ、赤ん坊なんてそんなもんだろ? で、母親がいなくてもそれなりに過ごす癖に、乱菊の顔を見たら、今まで放っておかれたのを急に思い出して大泣きするんだ、きっと」
と冬獅郎は帰宅時の予測を立てた。
「そうでしょうか?」
「そうだ。二人から解放されていられるのも、今日明日だけだぞ。姉さまの台詞じゃないが、目一杯楽しんでおけ」
「そうします」
と乱菊は肯いた。

 リュベロン地方は小高い丘に小さな村々が点在している。村と村の間は数kmほどしか離れておらず、車があれば、余裕で数ヶ所は観光出来る。
 昨日は、敢えてどこにも行かず、宿でのんびりと過ごした。今日は少し観光しようということで、朝食の後、まず、ルシヨンの村に向かった。宿から村までは徒歩で十分ほどである。車を使うほどの距離ではないし、暑からず、寒からずの気持ちの良い天候だったので、二人は歩いて宿を出た。
 村を目指して歩きながら気が付いたのだが、オークルで彩られた村は光の加減によって、微妙に表情を変える。太陽が雲に遮られ陽射しが柔らかくなると桃色っぽく見え、一方、まともに陽の光に照らさせると、赤茶が強くなる。かと思うとベージュにくすみがかかったりもして、
「見飽きない村ですねぇ」
と乱菊は感嘆した。
 村に入って間近で建物を眺めると、一口にオークルの漆喰塗りといっても色合いは一軒一軒異なっていることがはっきりと見て取れた。オークル顔料の赤味は酸化鉄によるものだから、漆喰に混ぜた顔料の比率、塗ってから経過した年月によってそれぞれに違いが出て来るのだろう。
 洗朱、丹色、真赭、黄丹、東雲、浅緋、柿色、赭、赤茶。
 あるいは、ベージュピンク、コーラルレッド、インディアンレッド、アガット、オールドローズ、ローシェンナ、テラコッタ。
 表現する色の名前に違いはあれど、全体としてはピンクブラウンに統一された、正に絵本のような村の散策を、乱菊はたいそう楽しんでいた。このあたりは葡萄とともにハーブの栽培も盛んで、特にラベンダー畑は夏場の観光の目玉となっている。九月も下旬の現在は残念ながら生のラベンダーは見当たらないが、民家の軒端にさりげなくドライフラワーのラベンダーが吊るしてあったし、土産物店にはラベンダーを利用したグッズが大量に並んでいた。荷物になるので土産は帰る直前に買おうと決めていた。とりあえず、何を買うかだけは決めておこうと土産物屋をゆっくりと物色する。
「ね、冬獅郎さん、あれ、可愛くないです?」
 乱菊が指差したのはルシヨンの土を使って焼かれた陶器を扱っているショップだった。店にはこれらの陶器を焼いているという陶芸作家の男性がいた。年齢は五十代。頭はすっかり薄くなっているが、立ち居振る舞いや肌の色つやは若々しく、金縁眼鏡の奥のブルーグレイの眸が子供のように愛嬌のある男だった。素朴で優しいタッチで絵付けされた陶器はなかなか趣きがあり、乱菊はかなり気に入った様子だ。
「この絵皿。絢女が好きそう」
と指差したのはピーグリーンの地に白い花を絵付けした四角い皿だった。惣菜を大皿盛りにする時によさそうな大きめのもので、同じモチーフで小皿もあった。
「そうだな。おまえはこっちのが好みだろう?」
 冬獅郎が示したのは赤土の生地を生かしたテラコッタ色の皿だった。縁に控えめに金彩が施され、中心部に太陽ともダリアとも見えるモチーフが描かれていた。
「ええ、素敵!」
 乱菊は目を輝かせた。
「じゃ、これは俺がおまえに買ってやる。姉さまの土産はあのグリーンの皿でいいな」
「はい、いいと思います」
 冬獅郎は店の男性に交渉して、先ほど選んだ商品を明日まで取り置きして貰うことにした。男性は快く承知してくれた。
 店を出て、ぶらぶらと散策する。ルシヨンは村自体は小一時間もあれば一巡りできるくらいの規模だった。雑貨屋や土産物屋にいちいち引っ掛かっていたので余分に時間が掛かってしまったが、別に目的があって急ぐ旅ではない。乱菊を楽しませることが目的なのだから、冬獅郎は彼女の気が済むまで土産物巡りに付き合った。
 昼になったので、村の中心部にある広場に店を構えているカフェ・レストランで昼食を取った。ここは宿の若夫人のお勧めの店だった。広場を見渡せるテラス席で、サンドウィッチやトマトのファルシ、ミモザサラダ、よく分からないが米を使った郷土料理風の小鉢、鴨の燻製などの料理を楽しむ。
「昨夜のビストロの本格的なフランス料理もおいしかったけど、ここの軽めのお食事もおいしいですね」
「ああ。このサンドウィッチなんか、結構ボリュームもあっていけるぞ」
「こっちのトマトのお料理もおいしいですよ」
「鴨のローストも美味い。ただ、ちょっと塩気がきついな」
「ハム類は全部、少ししょっぱいみたいです」
 広場には、様々な露店も出ていた。中に、絵を売っている店を認め、食事を終えた二人は覗いてみることにした。
 店主は六十がらみの小太りの男で、陽気そうな風貌がどことなくシェイクスピアの劇に出てくるサー・ジョン・フォルスタッフを髣髴とさせた。並べられている絵は水彩画で、すべて水彩用のボードに描かれていた。手作りらしい素朴な味のあるフレームも付属していて、そのまま壁に飾って楽しめるようになっていた。繊細で柔らかなタッチで描かれた絵は、ほとんどが風景画だ。ルシヨンや近隣のゴルドやボニューの街並みやラベンダー畑などが描かれている。中に一枚、夕焼けに映えるルシヨンの街を描いた絵があり、これを乱菊は気に入ってしまった。夕焼けと朝焼け。時刻は違えど、今朝眺めたばかりの美しい光景と重なる一枚に心を惹かれたのだ。
 店主によると、絵を描いたのは彼の甥で、まだ売出し中の画家なのだそうだ。木製のフレームは店主の作だという。冬獅郎もこの画家の作品が気に入った。彼には専門的な絵の知識はないが、眺めていると優しい気持ちになれる絵だと感じたのだ。乱菊が気に入った夕焼けのルシヨンの絵とこれから訪ねるゴルドの村の絵、それから、このあたりの田園風景を描いたという一幅。計三枚の絵画を買い上げた冬獅郎に店主は相好を崩して大喜びし、おまけだと葉書サイズに印刷したいわゆる絵葉書を数枚付けてくれた。

 ルシヨンの外れにあるオークルの採掘場跡を見学した後、二人は宿に戻り、プジョーに乗って改めて出かけることにした。目的地はルシヨンの隣村、ゴルドである。この村もリュベロン地方では特に人気の高い場所で「天空の村」という異名を持つ。この村をモデルに何十年か前にアニメーション映画がつくられたこともあるそうだ。シャンブル・ドットからも遠景を望めていた。
 昨日、レンタカーショップから宿まで走っただけのエレクトリック自動車は充分な蓄電量を残していた。ルシヨンからゴルドまでは地図上の直線距離でもざっと7km。車なら十分ほどで辿り着ける距離である。丘陵地帯を西に走るとやがて、ゴルドの街の全容が見えてきた。
「さっき買った絵の通りの村ですねぇ!」
 乱菊がはしゃぎ声を上げる。
 石灰岩の丘陵に、石積みの城壁が積み重なっている。この村は水源を失って人の住まない廃墟だった期間が長らく続いていたそうだ。今は観光業に携わる人々が入っている為、無人の廃墟ではないが生きた村とも言えないようだ。丘の頂には中世の城が残っており、ビスケットのような色合いの建物も中世の雰囲気を色濃く残している。赤い村・ルシヨンが絵本の村だとすると、ゴルドは三銃士の世界に迷い込んだ印象だ。もちろん、三銃士はゴルドのような田舎ではなく、パリにいたわけだが、ダルタニャンの扮装をした竜騎兵が現れても違和感がないような村の佇まいだった。
 中心部には観光客向けの洒落たカフェや土産物店があり、冬獅郎らはカフェに入って休憩することにした。カフェオーレと焼き菓子を注文し、しばし、ぼんやりと村を眺める。頭上に澄んだ青い空、鳶の仲間だろうか、大きな鳥が飛んでいる。
「ねぇ、冬獅郎さん」
「ん?」
「あたし、昨日から、何度、『綺麗』を連発しているんでしょうね…」
「数え切れないくらい、なのは確かだな」
と冬獅郎は答えた。
「仕方ないんじゃないか、実際、綺麗なところだと俺も思う」
 古い趣きを保った村の建物も、翠に囲まれた渓谷も、葡萄畑やハーブの畑も、ただただ美しかった。もちろん、観光の為に新しく作られた施設なども数多いが、どこも外観に工夫を凝らし、このお伽噺の風景に馴染むように作られているから、違和感はない。
 カフェオーレと焼き菓子を堪能した後、二人はゴルドの村を離れた。

 ゴルドからボニュー、ルールマランを巡り、ルールマランで夕食を取った。移動距離はたいしたことはないし、歩きまわった距離も死神が日常としている見廻りや演習、討伐からしたらどうということもない程度だ。しかし、目的のないのんびりとしたそぞろ歩きというのは案外疲れるもので、帰りの車中で、乱菊はぐっすりと寝入ってしまった。
 ルシヨンの宿に帰り着き、夢の中にまどろむ彼女を助手席から宝物でも持ち出すように抱え上げていると、車の気配に出てきた主人がドアを閉めるのを手伝ってくれた。
「奥様はよく眠っていらっしゃいますね」
「ああ」
 冬獅郎は優しい眼差しで腕の中にいる女を見下ろした。
「この辺りは本当に美しいから…。感激して、はしゃぎっぱなしだったから疲れたんだろう」
 夕食のワインも効いたようだ。
「今日はどちらを廻られたのです?」
「ゴルドとボニュー、それから、ルールマランに行ってきた。この辺りを巡って思ったんだが、あのオークルの漆喰のせいだろうな。ルシヨンは他と印象が違う」
「みなさん、そうおっしゃいます」
 壊れ物でも扱うように、そうっと乱菊を運ぶ冬獅郎に目を細めて、
「仲がよろしいのですね。奥様をとても大切にされているのがよく分かります」
と宿の主人は言った。
「実際、大切なんだ。西洋では『ベターハーフ』という言い方をするみたいだが、こいつはもう、俺にとって半身だからな」
「生涯を共にと願える相手と巡り合えて、共に生きられることに勝る幸せはありませんよ」
「実感が籠っているな。親父さんも奥さんにベタ惚れだったんだろう?」
 オーナー夫婦の睦まじさは乱菊も微笑ましく思っていたようで、
「宿のご主人たちみたいに仲良しのまんま、素敵に歳をとりたいですよねぇ」
と話していた。
「ええ、そうですね。マリーと結婚できたことが一生の勝利を約束してくれたと感じています」
 さらりと言ってのけた主人に、冬獅郎は得たりと頷いた。
「俺もだ。こいつと結婚できた以上、人生勝ったも同然だ」
 眸の奥で優しく微笑んだ宿の主人は、両手が塞がっている冬獅郎の為に部屋のドアを開け、照明を付けるのまで手伝ってから、
「Bonne nuit(おやすみなさい)」
と出て行った。

 乱菊の誕生日当日である九月二十九日は、アヴィニョンに行くことにした。少し遠出にはなるが、ルシヨンからアヴィニョンまでは直線距離で40kmほどだから、車での移動ならたいした距離ではない。
 人口約9万人の地方都市であるが、カソリックの教皇庁が置かれていた時代もあり、歴史的価値のある建造物も多い。
 目当ては教皇庁跡の建造物とかつての大司教館を利用したプティ・パレ美術館だ。この美術館は中世からルネッサンス期のアヴィニョン派、及びイタリア宗教絵画においてはフランスでも屈指のコレクションを誇っているそうだ。「ヴィーナスの誕生」や「プリマベーラ」などの作品で有名なボッテチェッリの初期作品である「聖母子」も所蔵されているという。
 朝食後、絢女に連絡を取ると、ほぼ昨日と同様の答えが返って来た。昨晩は十四郎と烈夫婦の息子、柊也まで泊まりに来たとかで、たいそう賑やかであったらしい。柊也と主真は競い合って、双子の面倒を見ているそうで、
「あいつら、『俺の嫁計画』を着々と進行中だな」
と冬獅郎は苦笑を落としたものだ。
 ローヌ河畔に発展したアヴィニョンもなかなかに興味深い都市だった。教皇庁跡の建造物群も重厚である。さすがにかつての宗教中心地だっただけにやけにただっ広い敷地内の一角に、目当てのプティ・パレ美術館はあった。美術館の前にノートルダム・デ・ドン大聖堂を見学し、見事な宗教彫像に感服する。ここにあるマリア像にしろ、磔にされたキリスト像にしろ、あるいはギリシャ・ローマの神像であれ、仏像であれ同様なのだが、宗教美術品は本来のあるべき場所    教会や神殿や寺社の御堂    の中に安置されているのが、一番美しく、かつ心を震わせるものらしい。死神である冬獅郎や乱菊には信じるべき神などいないが、大聖堂の中でマリア像に向かい合うと、信仰心とはまた別の敬虔な気持ちが呼び覚まされるのをはっきりと自覚した。心が洗われた気分で、美術館に向かう。
 この美術館の目玉は、むろんボッテチェッリの「聖母子」であるのだが、他にも、テンペラやフレスコ画による同時代の宗教絵画や、彫刻類が充実しており、なかなかに見応えがあった。「聖母子」もボッテチェッリのものの他に幾人かの画家の作品が収蔵されていた。だが、やはりボッテチェッリの「聖母子」は際立って美しい。赤いドレスの上に青いローブを羽織ったマリアは慈愛に満ちているが、その表情に憂愁を色濃く感じ、乱菊は溜息をついた。
「このマリアは、きっと我が子が歩む苦難の道を予測していたんでしょうねぇ」
「かもな」
と言葉少なに冬獅郎は応じた。
 美術館を出て、フランス民謡「アヴィニョンの橋の上で」で有名なサン・ベネセ橋を見に行った。この橋はローヌ川が氾濫を起こす度に崩壊を繰り返し、その修復はアヴィニョンの財政を圧迫するほどだったという。現在は四つの橋脚だけが残されており、橋としての機能は失っている。
「『輪になって躍る』って歌にあったでしょ? もっと広い橋だとばっかり思っていました」
「橋が完成した時に輪になって躍って祝ったのは史実らしいぞ。ただ、橋の上じゃなくて、橋の下の小島で躍ったらしいが」
「そうなんですね。確かに輪になって躍るにはちょっと狭いですよね。輪になる人数にもよりますけど」
 アヴィニョンの中心街に出て、昼食を取る。
 フランス人はワインを水のように飲むというのは大げさだが、国柄として飲酒には大らかである。また、白人種コーカソイド黄色人種モンゴロイドに比べてアルコールに強いという民族的特徴があるせいか、呼気中のアルコール濃度が0.50g/l未満であれば運転を認められている。酒には極めて強く、まずがぶ飲みしても酩酊することのない冬獅郎は、乱菊と共に昼食に少量のワインを楽しんだ。
 食後、他にいくつかの観光名所を見て回ってから、早めに帰途に着いた。ルシヨンの街で調達したい土産があったし、昨日、取り置きを頼んでいた陶器も引き取らねばならないからだ。この旅行中で乱菊が欲しがったものは、全て誕生日のプレゼントとして冬獅郎が買ってやった。ひとつひとつは高価なものでなくとも、想い出になる品々に乱菊はとても喜んだ。だが、やはり、彼女にとって一番のプレゼントは冬獅郎が傍に居て、彼女が行きたいと望むところに全て付き合ってくれたことだった。彼を独占し、たくさん甘えた。本場のおいしいフランス料理も、菓子類も堪能できた。また育児に忙殺される日々に戻るが、乱菊はこの三日ですっかり愛情の充電が出来た心地だった。

 翌朝、三晩世話になったシャンブル・ドットの人々に別れを告げ、二人は帰途についた。
 九月三十日の朝だが、尸魂界に戻ったら、同日の夜のはずだ。
 レンタカーを返却し、お土産で重くなった荷物を抱えて人気のない郊外まで移動する。
 穿界門を開いたのはフランスのサマータイムで丁度、午前十時。だが、辿り着いた尸魂界はすっかり日が落ちていた。いったん、自宅に戻り、義骸を脱いでから、霊子変換済みの土産物を携えて姉夫婦の家に向かう。
「おかえりなさい」
と出迎えた絢女は、二人の為に夕食を準備して待っていてくれた。
「どうだった?」
「すっごく楽しかった。絢女、ありがとう」
と乱菊は親友であり、義姉である絢女に抱きついて感謝を示した。
 部屋に上がり、双子の娘たちを引き取る。乱菊の顔を見るまで機嫌よく、ギンや主真にあやされていた娘たちは乱菊の顔を見るなり大泣きした。
「なんや。さっきまでご機嫌さんやったのに、お母さんの顔、見た途端に大泣きかいな」
 憮然とするギンを、
「母親に敵うわけがないでしょ」
と絢女が嗜める。乱菊の方は娘たちの反応があまりにも冬獅郎の予測通りだったので、思わず笑ってしまった。
 三日ぶりに乱菊から直接おっぱいを飲ませて貰うと、双子はすぐに泣き止んでご機嫌に戻った。
「絢女」
 娘たちに乳を与え終えた乱菊は、食事を並べている絢女に声を掛けた。
「なあに?」
「この子たちが着ている服。見覚えないんだけど、あんたが買ってくれたの?」
 絢乃と菊音は真新しいベビー服を着せられていた。手触りのよいタオル地の生地で、絢乃は淡いオレンジ色とクリーム色の縞模様、菊音はベビーピンクの無地のカバーオールタイプの服だ。お尻の部分に絢乃は細くて長めの、菊音はもこっと丸い尻尾がついているところをみると着ぐるみ仕様らしい。
「ギンよ」
と絢女は笑いながら答えた。
「昨日買って来たの」
「いやぁ、やっぱ、女の子は着せ替え甲斐があるいうか、男の子と違うてベビー服も華やかやからなぁ。店で目が合ってしもて、つい、買うてもうたん」
 ギンが補足するなり、
「お揃いの帽子もあるんやで」
と素早く取り出してきた帽子を双子に被せた。絢乃の帽子にはちょこんと三角の耳が、菊音のものには少し長めの楕円形の耳が付いている。
「なるほど、猫と兎か…」
 呟いたきり冬獅郎が絶句したのは、帽子を被った我が子の愛らしさに、ちょっとやられてしまったからだ。
「かわええやろ? やっぱり、着ぐるみはこの時期の特権やねぇ」
 ギンの意見に素直に賛同するのは冬獅郎的には不本意なのだが、今回ばかりは激しく同意せざるを得ない。乱菊も、
「やーん、可愛い~」
と大はしゃぎだ。
 ちょこなんと両親の膝上でお座りをしている絢乃と菊音は、冬獅郎と乱菊の嬉しそうな反応を不思議そうに見つめていた。

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 141414打キリリク小噺

 リクエストは「出産後の日番谷家の家族の話」か、「隊長夫婦の甘いお話」ということだったので、隊長夫婦の甘い話を念頭に家族の話をちょいと交えて。丁度九月で乱菊さんのお誕生日なので、ギン絢夫婦の計らいで、ふたりっきりで旅行する話にしました。
 海外旅行に行かせたのは、日本国内だと「翡翠の宿」と被るから。アルハンブラ宮殿とか、エジプトとか色々候補はあったのですが、姉夫婦が「子育てを忘れてのんびりしてらっしゃい」と送り出すなら、のどかな田園地帯か高原の避暑地(秋だけど)みたいなところだろうってことで、最終的に候補に絞ったのはスコットランドのハイランド地方、アルプス、南仏・リュベロン。で、リュベロンにしたのは、ネットの画像検索で見たルシヨンの街の可愛らしさに思わず、おお! と見入ってしまったのと、非常に特徴のある村なので文章にしやすいという創作上の理由から。
 スコットランドのヒースの原も捨てがたいものがあったのですが、書きやすいのはルシヨンということで、おフランス旅行決定。ちなみに、管理人はアジア圏から出たことがないので、おフランスにはもちろん行ったことがございません。いちいち、参考文献を上げることはできませんが、実際に旅行した方の色々なブログとか旅行会社の紹介文とかネットの写真画像の印象を頼りに書きました。なので、実際にあの辺りに行ったことのある方は描写に妙なところがあっても、突っ込み厳禁で。一応、地図見ながら書いたので、距離とかは間違っていないと思います。
 出産が叛乱から四十年後、さらにその一年後の乱菊さんの誕生日ですから、かなりの未来想定です。文中に特に説明は入れなかったのですが、四十年後なら車はガソリン車から電気自動車にシフトしているだろうってことで、黙って電気自動車です。管理人の脳内ではガソリン車:ハイブリット車:電気自動車は1:2:7くらいの割合と想定しているのですが、実際はどうなるでしょうね?
 たいへん、お待たせいたしました。キリ番ゲッターのこう多朗さま、納品です。ここに受け取りの印鑑おねがいしまーす。(笑)

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2012.09.17