花咲き誇る今日という日
目を開くとすぐ前に冬獅郎の顔があって、乱菊は一瞬息を呑んだ。男の表情はひどく気遣わしげで、乱菊は自分が魘されていたことを悟った。
「起こしちゃいました?」
と申し訳なく感じたが、冬獅郎はいや、と首を振り、
「水でも飲むか? 」
と尋ねた。乱菊が頷くと、彼は寝室を出て、冷たい水をコップに注いで持って来てくれた。
夢織に捕らえて以降、乱菊は頻繁に悪夢を見て魘されるようになった。殊に助けられた直後は毎日のように、悪夢に悩まされ、睡眠不足でかなりやつれた。絢女の婚礼の準備に携わるようになってからは急速に落ち着いて、悪夢を見る頻度も減っていた。しかし、ここ数日というもの、再び魘されことが多くなってきたのが、冬獅郎には気掛かりだった。
「ごめんなさい、冬獅郎さん。起こしてしまって」
「丁度、咽喉が渇いて目が覚めたところだったんだ」
冬獅郎は言ったが、乱菊はそれを気遣いと受け止めた。
水を飲み干し、乱菊はほっと息をついた。じっと見守る冬獅郎の視線に、安心させるかのように微笑を浮かべ、乱菊は冬獅郎の髪に触れた。
「ねぇ、冬獅郎さん」
乱菊の呼び掛けに、ん、と冬獅郎は僅かに首を傾げた。
「あたし、今になって、ようやく、ギンの苦しみを本当に理解出来た気がします」
ぽつぽつと彼女は小さな声で呟く。冬獅郎は無言のままで、彼女の言葉に耳を傾けた。
「アイツがずっと苦しんでいたこと…。ちゃんと理解しているつもりだった…。でも、頭で理解していただけなんですよね。実感としては全然分かっていなかった…」
「…」
沈黙を保ったままの冬獅郎に構わず、乱菊は続けた。相槌すらなかったが、彼が真剣に聞いているのは感じ取れていた。
「絢女が大怪我をした時、あたし、処置室の前でギンをぶん殴って説教しましたよね。あの時に言ったことは間違っていなかったと思います。だけどね…、だけど、あの時は『何、馬鹿なこといってんの』としか思えなかったアイツの言葉…。『自分の子供じゃない』ってあの言葉を思わず口走ってしまったギンの気持ちが、今なら判るんですよ」
幸せであればあるほど、それが本当に現実なのか不安に駆られる心境を、鏡花水月、否、夢織に捕らえられ、現実と違わぬ幻覚に苛まれて、漸く実感した。そう語る乱菊に、
「だから、この頃、悪い夢ばかり見るのか?」
と冬獅郎は返した。
「そうですね…。よく『幸せ過ぎて怖い』って言いますよね。多分、あたしはそういう気持ちなんです」
つい先日、結納を終えた。
冬獅郎は身寄りのない乱菊に立派な結納品の数々を贈った。対抗したわけでもないだろうが、ギンが絢女に贈ったものと比しても全く遜色のない、
「一体どこの上級貴族の姫君のお嫁入りですか?」
と問いたくなるような結納の品を前にして、乱菊は言葉を失ってしまった。同程度の品は絢女の時に目にしていたとはいえ、人に贈られたものと自分自身に寄越されたものでは圧倒感が全く違っていた。嬉しくて、こんなにも想われていることが幸せで、結納の日は一日中ふわふわと心が浮き立っていた。それなのに、夜になって、急に怖くなった。もしかしたら、これも幻覚ではないのか、いつの間にか背後に偽物の冬獅郎がいて、また、
「逃げられないぞ」
と囁くのではないかと怖ろしくてたまらなくなった。結果、乱菊はその晩、悪夢に魘された。むろん、既に夢織は消滅しているのだから、夢は単に乱菊の不安を投影したに過ぎない。その証拠に、夢織の幻覚のように鮮やかでも、論理だってもおらず、はっきりと記憶にも残らなかった。どんな夢をみたかと問われても、精々僅かに覚えている断片を語れるばかりだ。
「明日のことが楽しみだったんです」
もう日付は変わっているから、乱菊の言う「明日」というのは、夜が明けた後を意味している。彼女は非番で、同じく非番を取ったギンと一緒に花嫁衣装の注文に行くことになっていた。
「それなのに、布団の中で色々と考えているうちに何だか不安になってしまって」
「夢織の後遺症だけじゃなくて、現世でいうところの『マリッジ・ブルー』も入っているのかもな」
或いはマリッジ・ブルーが引き金となって、落ち着きかけていた夢織後遺症がぶり返したというべきだろうか。
冬獅郎はそっと手を伸ばして、乱菊の頬に触れた。
「今も不安か?」
問い掛けに、乱菊はゆるゆると首を横に振った。
「冬獅郎さんの髪…」
「あん?」
「満願成就もしていないのに切る羽目になっちゃって」
六年前から伸ばし始めた冬獅郎の髪は、肩甲骨を過ぎるくらいの長さになっていた。彼の髪をひとつに括るのは、乱菊の日課であり、朝の楽しみでもあった。だが、現在の彼の髪には括れるほどの長さはない。かなり短髪に整えられている。
冬獅郎が髪を伸ばしていたのは願掛けだった。尊愛する姉の嫁入りを見届けてからでないと、自らの結婚はないと考えていた冬獅郎である。しかし、絢女の恋人であるギンは血塗られた厄介な過去を抱えた男で、為に相愛でありながら絢女に結婚を言い出せずにいた。冬獅郎はそんな二人が早く落ち着き、自身も結婚に踏み切れるようにという願いと、姉に遠慮して乱菊を待たせるのは髪が腰帯にかかるまでと期限を切る為に髪を伸ばすことを決めた。従って、本当ならば髪を切るのは満願成就の日、即ち、乱菊と正式に婚姻を終えた日であるはずだった。
夢織と一乗寺鏡花によって拐かされた乱菊は、冬獅郎らによって夢織の幻覚から解放された。だが、眩惑術に翻弄され、幾度も助け出されては裏切られることを繰り返し刷り込まれていた彼女は、漸くやって来た冬獅郎を本物と認識出来ずに錯乱し、霊力を暴走させてしまったのだ。冬獅郎はそんな彼女を狂気から救う為に、敢えて結界なしで暴走する霊圧の渦中に飛び込んだ。そして、完全には自分の身を守りきれずに体の表層を切り刻まれたのである。身に着けていた死覇装はいうに及ばず、腕から、背中から、足から、ありとあらゆる箇所の皮膚を切り裂かれた中で、髪が無事であろうはずがない。あの霊力の暴走によってざんばらに切られた髪を整える為には短く刈り込まなくてはならず、満願成就の前に断髪に至ったのだ。
とはいえ、実際、冬獅郎自身はほとんど気にしてはいなかった。大体、乱菊と結婚する為の願掛けだったのだから、肝心の相手の身が無事でなければ意味がない。髪と引き換えに愛しい女を救えたなら安いものだと、彼は考えていた。また、ここまで髪を短くしたことは初めてであるが、洗うにしても、乾かすにしても長髪に比べて非常に楽で、快適だったのだ。一方、無理もないことであるが、乱菊は相当に落ち込んだ。落ち込んだ余りに、けじめをつけると、自分の髪までばっさりと切ってしまうという暴挙に出た。首筋にかかるくらいの長さに整えられた髪はそれはそれで可愛らしかった。しかし、彼女の蜂蜜色の髪の手触りがとても好きだった冬獅郎は閨で少しばかり物足りない思いをしている、というのが正直なところだ。もう少し彼女が落ち着いたならば、上手いこと言いくるめてもう一度伸ばさせようと画策しているが、今のところは髪の話題には極力触れないようにしていたのだ。
「おまえを助けられたんだから、髪のことは気にするなと言っただろう?」
前に散々に言い聞かせたことを蒸し返した乱菊に、冬獅郎は再び諭した。
「そうじゃないんですよ」
「何がだ?」
乱菊はもう一度、冬獅郎の髪に触れた。
「この頭を見ると、やっぱり現実なんだって納得出来るんです」
と彼女は弱い笑みを浮かべた。
「あたしが霊力を暴発させたことも、冬獅郎さんが命懸けで助けに来てくれたのも、全部現実だって実感出来るから…」
「…そう…か…」
返す言葉が見つからず、冬獅郎は彼女の頭をぽんぽんと柔らかく叩くことで誤魔化した。
「もう寝ろ。明日、早起きなんだろう?」
「はい。…もう嫌な夢をみないように抱きしめていて下さいますか?」
「それくらい、お安い御用だ」
冬獅郎はにっと笑みを浮かべると、乱菊を腕の中にがっちりと閉じ込め、そのまま布団に横たわった。腕の中で擦り寄って来た彼女を、少し姿勢を変えて抱え直し、
「乱菊」
と冬獅郎は囁いた。
「はい」
「あいつが青くなるくらい豪勢なのを選んで来い」
人の悪い恋人の言い種に、乱菊は、ふふ、と含み笑いを漏らした。
小洒落たカフェやアンティーク・ショップと一般住宅が混じり合った静かな住宅街の一角にその店はあった。「マダム」と呼ぶのがしっくりくる品のよい熟年婦人がオーナーを務めるフルオーダーのウェディングドレス専門店「プリマヴェーラ」である。
ギンと冬獅郎の壮絶な舌戦は絢女と桃を味方に付けたギンの完全勝利に終わり、乱菊の花嫁衣装はギンが用意することに決定した。撤退を余儀なくされた冬獅郎はしばらく、ぶちぶちと不満を漏らしていた。だが、
「イヅルくんから聞いたんだけどね」
という桃の情報で不平を引っ込めた。
イヅルの語るには、絢女の婚礼衣装の選定に携われなかったギンも、当初、ぶつくさ言っていたらしい。だが、実際に式に臨むと、どんな衣装か知らされていなかっただけにお色直しの度に新鮮で、予備知識がない分花嫁の美しさを堪能出来たと喜んでいたそうだ。考えてみれば、確かにその意見には一理あり、冬獅郎は大人しく花嫁衣装は式でのお楽しみに取っておくことにした。
ウェディングドレスがいいと主張したのは、乱菊自身である。メリハリの効いたグラマラスな四肢に、目を引く金糸の髪。華やかな顔立ちの自分には、白無垢よりもドレスの方が映えるという判断である。
その見解に、真っ先に全面的に賛意を示したのギンである。冬獅郎は即座に、
「西洋風のウェディングドレスの式で、乱菊と腕を組んでヴァージンロードを歩くのを狙っていやがるな」
と突っ込んだが、ギンはへらりと笑って肯定し、
「この役は譲れへんよ」
と嬉々として言ってのけたのだった。彼の野望は措いても、乱菊の選択は頷けるものだった。絢女や桃や女性死神協会の面々も賛同した結果、冬獅郎はタキシード、乱菊はドレスで式に臨むことになった。
そうなると、問題はドレスの調達先である。洋装が一般的ではない瀞霊廷では、日常着の洋服を扱う店さえ絶対数が少ない。まして、フォーマルなウェディングドレスとなると、納得のいくものを手に入れるのはほとんど無理だ。そこで、女性死神協会が現世駐在の死神を使って情報収集し、選定したのが、この「プリマヴェーラ」だった。
ギンと乱菊は成功した若手実業家とその妹という触れ込みで店を訪れた。無論、義骸に入っているが、乱菊のそれは技術開発局が作り直した新品である。盗難された義骸はギンによって真っ二つに切り割られた上に、小屋の倒壊の際に瓦礫の下敷きになって潰れてしまって使いものにならなくなったのだ。尤も、冬獅郎も、ギンも、口を揃えて、
「あんな婆あに入り込まれた義骸なんて、汚らしくて、二度と乱菊に使わせられるか」
と主張していたので、仮に無傷で戻っていたとしても廃棄されて作り直しとなっていただろう。
オーナーのマダムに対して、営業スマイル全開のギンは、
「両親を早うに亡くして、兄妹ふたりきりでずっと頑張ってきたんです。やっと、仕事も軌道に乗って、お金には不自由せんようになりましたからなァ。妹には苦労させましたし、亡くなった両親の分まで最高のドレスで飾ってやりたい、思とるんです」
という半分だけ真実を交えたほら話を語り聞かせた。マダムは感銘を受けた様子で、とても親身に相談に乗ってくれた。
乱菊が用意してきた雑誌からの切り抜きのウェディングドレス写真と、過去にプリマヴェーラが手掛けた履歴から選んだイメージに近いドレスを参考に、マダムはその場でデザインを起こした。
「ここにボリュームのある花飾りを加えるのはどうでしょう?」
「色は純白よりオフホワイトぽい方が…」
「ウェディングドレスがこのラインなら、お色直しのカラードレスはAラインでは如何ですか?」
と真剣に、けれども、楽しそうにマダムと討論する乱菊を、ギンはにこにこと見守っていた。乱菊がかなり具体的にドレスのイメージを固めて臨んだこともあって、デザインはすぐに決まった。採寸をし、素材と色味を決定し、再度の打ち合わせの日を決めて、二人は店を辞した。
初夏の風が爽やかな皐月吉日。
護廷十番隊隊長・日番谷冬獅郎と同じく十番隊副隊長・松本乱菊の華燭の典が執り行われた。
式を挙げるに当たって、問題となったのは結婚式及び披露宴の会場である。二人は婚礼衣装をウェディングドレスとタキシードという洋装に決めていた。そうなると、式次第も西洋形式になるが、まず瀞霊廷にはチャペルが存在しない。また、大勢の招待客を収容可能な広い宴会場を備えている料亭も和食専門店に限られていた。ドレスで畳の間に正座というのは、なかなか厳しいものがある。苦慮する二人に助け舟を出したのは、すっかり十番隊主従と懇意になった四楓院家当主・月詠である。彼は四楓院の別邸の庭園を会場としてはどうかと提案して来たのだ。
件の別邸は貴族の寮が集まっている岸谷地区にあり、先々代の四楓院当主の正室と側室、即ち、夜一の実母と月詠の実母が仲良く屋敷を二等分して暮らしていた。夜一の実母に西洋趣味があって、建屋自体が
「義母は華やかな催しが大好きでして。別邸の庭園では、これまでに何度も貴族のご婦人方を集めて園遊会を催したことがございますので、使用人たちも慣れております。義母の申しますには、義母と私の母の参加を条件として、庭園とお抱えのシェフやメイドたちを貸し出しても良いとのことなのですよ」
という月詠の申し出を冬獅郎らは有りがたく受けることにした。
屋外の宴では天候が案じられるものだ。しかし、天候を操る斬魄刀・氷輪丸の主である冬獅郎が、
「絶対に晴れにする」
と断言したので、その点も心配がいらなかった。そして、実際に迎えた当日は、氷輪丸の力を借りるまでもない爽やかな晴天であった。
結婚式場となった四楓院の別邸は、丁度、メインに植えられた薔薇が花盛りの一番美しい時節に当たっていた。夜一の母親ご自慢の仏蘭西庭園は周囲をぐるりと蔓薔薇の壁で囲まれており、そこから一段低くなった長形の空間に招待客の座るテーブルが据えられた。長形の庭は中央に睡蓮を植えた細長い池があって、その左右に円や菱形の花壇が幾何学的に配置されている造りだった。花壇は専属の庭師が四季折々に花を楽しめるように丹精していた。咲き誇る薔薇で囲まれた花壇にはジャーマンアイリス、
庭園を囲む薔薇の壁は半円形のフェンスに蔓を這わせて、花のトンネルに仕立ててたものだ。花嫁控え室として提供された一室を出た乱菊は、母屋から見て左手側の薔薇のトンネルを抜けて、庭園の一番奥に着いた。そこにはブラックスーツをぴしっと着こなしたギンと白いワンピース姿のやちるが待ちかまえていた。
やちるは今回、フラワーガールの大役を担っている。身に付けているワンピースはウェディングドレスをオーダーする際に一緒に注文したもので、乱菊のドレスと同素材である。ノースリーブのワンピースに長袖のレースのボレロといういでたちで、大きく膨らんだバルーンスカートが殊に愛らしい。白のタイツに薔薇の小さな飾りが付いたホワイト・サテンの靴を履いて、花びらがぎっしりと詰め込まれた籠を抱えている。頭に飾られた花冠は、絢女が庭の薔薇とカーネーション、アイビーを組み合わせて手作りしたものだ。
「うっわぁ、らんちゃん、きれーい!!」
ウェディングドレスの乱菊に、やちるが歓声を上げて飛びついて来た。
「ありがとう。やちるもすっごく可愛いわよ」
やちるの身体を柔らかく受け止めて、乱菊は微笑んだ。やちるは嬉しそうに、
「ゆみちーも誉めてくれたよ」
と報告した。
「だけど、つるりんは『馬子にも衣装』だって」
「失礼やなァ。やちちゃんは普段から可愛えのに」
日頃からやちるを可愛いがっているギンの言葉に、やちるはえへへと笑い、
「ギンちゃんもかっこいいよ」
と彼女には珍しく、世辞を口にした。
「やちる、お願いね」
乱菊に改めて頼まれ、やちるは、
「まっかしといて」
と胸を張る。
音響係として参加している十番隊の平隊員に、ギンは頷いた。会釈して応えた彼が機材を操作し、会場にチャイコフスキーの「花のワルツ」が流れた。
しゃんと背筋を伸ばしたやちるがまず、薔薇のトンネルから庭園に向かって足を踏み出した。常日頃の傍若無人なお転婆ぶりを封印し、真面目くさった顔で、彼女は花びらを振り撒きながら歩んでゆく。
先導するやちるの後ろから、父親代わりのギンと腕を組んで、乱菊も庭園に進んだ。
ほう、という感嘆の溜息と、大きなどよめきが起こった。
晴れた空の下、ウェディングドレスを纏った乱菊は圧倒的に輝いていた。
庭園を縦に区切る細長い池は板で覆われていた。その上にレッド・カーペットの代わりに緋毛氈を敷き詰めて、花嫁の歩くヴァージンロードを作ったのだ。庭園の反対側の端、母屋の前の広いテラスでは冬獅郎が花嫁の到着を待ちわびていた。招待客が見守る中、長いヴァージンロードを、乱菊はゆっくりと進んで行った。
「素敵ね」
「乱菊さん、綺麗…」
彼女の歩みに従って、賞賛の囁きも移動していく。
大理石の階段を上がり、漸く、乱菊は鈴懸の木漏れ日が躍るテラスに辿り着いた。やちるは冬獅郎から少し離れたところに佇む雀部に駆け寄ると、携えていた籠の底に花びらに埋もれて納められていた
「ありがとうな、草鹿」
冬獅郎に頭をひと撫でされて労われ、役目を終えたやちるは途端に素に戻った。先ほどまでのすまし顔はどこへやら、ばびゅんと勢いよく剣八の許へと飛んで行った。
乱菊をテラスまでエスコートしたギンは組んでいた腕を解くと、彼女を花婿たる冬獅郎に引き渡した。受け取った冬獅郎は、貴婦人に対するように彼女の手を取った。
「綺麗だ、乱菊」
冬獅郎は感に堪えた声で呟いた。
乱菊のドレスはオフホワイトのシルクサテンに繊細なアイリッシュクロッシェ・レースを重ねた生地だった。ストラップレスで上半身はビスチェのような形状のドレスである。胸から腰、膝までは身体の線に沿い、膝下辺りからたっぷりとしたフレアを入れてボリュームを出したデザインは、現世ではマーメイドラインと呼ばれている。スタイルのよい乱菊に実に良く映えて、とても優雅な雰囲気である。胸元の縁とスカートのフレアを入れた裾部分には、アイリッシュクロッシェ・レースの特徴である立体的に編まれた薔薇のモチーフが散りばめられている。ヴェールと二の腕までの長さの手袋も同素材のレースを用いたものだ。デコルテには真珠と
「ありがとうございます。冬獅郎さんもとっても格好いいです」
と乱菊はうっとりと、白いタキシードに身を包んだ冬獅郎を見返した。
手を取ったまま、冬獅郎は雀部の前に乱菊をいざなった。
テラスには乱菊の胸下ほどの高さの台が据えられており、その向こう側に神父の衣装を纏って、雀部は立っていた。西洋式の婚礼で契りの儀式を交わすなら、仕切るのは巫女ではなく神父だと考えた女性死神協会は、神父役を務めて貰えまいかと、雀部に打診したのだ。英国紳士に憧れる雀部は、むしろノリノリでこの申し出を快諾した。厳かな表情で立つ雀部の前の台上には、銀のゴブレットが一組と白
雀部はおもむろに冬獅郎を見据えた。
「日番隊冬獅郎。貴方はこの女、松本乱菊を妻に娶り、健やかなる時も病める時も等しく愛し、慈しみ、共に歩んでいくことを誓いますか?」
と雀部は問い掛けた。
「誓います」
冬獅郎はよく通るはっきりとした声で宣誓した。頷いた雀部は次に乱菊に向き直ると、同様の問いを発した。
「松本乱菊。貴女はこの男、日番谷冬獅郎に嫁ぎ、順風なる時も逆風逆巻く時も変わらず彼を支え、愛し、共に歩んでゆくことを誓いますか?」
「誓います」
乱菊も明瞭に誓いを告げる。
「では、契りの杯を」
雀部はゴブレットに白葡萄酒を注いだ。瀞霊廷の伝統に則って、榊の葉を千切り、それぞれの杯に沈めると、両手で二つのゴブレットを掲げた後、新郎新婦に手渡した。
受け取った杯を手に、冬獅郎と乱菊は一瞬、見つめ合った。それから、ぴたりと寸分違わぬ呼吸で、同時に中の榊ごと
雀部はその拍手が静まるのをしばらく無言で待った。会場に流れるBGMが「花のワルツ」から「アメイジング・グレース」に切り替わり、すぐに客席は落ち着いた。
「指輪の交換を」
と雀部は先ほどやちるから受け取った
この指輪は大前田宝飾店で誂えたものだ。先に婚礼を挙げたギンは、大前田が絢女に横恋慕していたこともあって、婚約指輪も結婚指輪も現世のオーダージュエリー店に注文したが、冬獅郎は護廷隊長格の同僚の経営という義理をないがしろには出来ず、大前田宝飾店に指輪を任せた。大前田が趣味で作っているブレスレット類は乱菊も冬獅郎も好みに合わなかったのだが、さすがは瀞霊廷最大手だけあって、大前田宝飾店は何人もの専属デザイナーを抱えていた。彼らのデザイン画集を見せて貰った冬獅郎たちは、その中でとても好みに合うデザイナーを見付けることが出来たのだ。彼にデザインさせた婚約指輪は上品で、乱菊も一目で気に入って喜んでいた。
ギンと絢女の結婚指輪は
雀部が差し出した小箱から、まず冬獅郎が乱菊の指輪を手に取った。二人の指輪は台に膨らみのない表面が平らなデザインだった。乱菊の指輪は本体部分が艶消しの
冬獅郎は乱菊の左手を取ると、レースの手袋をするりと抜き取った。それから、彼女の左薬指に優しく指輪を嵌めた。
「ありがとうございます」
囁いた乱菊は素早く手袋を着け直すと、冬獅郎の指輪を摘み上げた。彼の指輪は乱菊と逆に本体が艶消しの十八金で縁取りが白金である。但し、十八金は配合する金属に占める銀の割合を少し多めにして一般的なイエローゴールドよりも淡めの色合いに調整してあった。埋め込まれているのは乱菊の眸に合わせた
向かい合ったままで、冬獅郎の両手が乱菊のヴェールに掛かった。そっとヴェールを上げると、乱菊はひとつ瞬きをした後、静かに目を閉じた。冬獅郎の顔が乱菊に近付いてゆく。
ふわりと唇が重なった。
会場は再びどよめきと歓声に包まれた。BGMが掻き消されるほど、無数のシャッター音が重なり、カメラのフラッシュがいくつも瞬いた。
今回の披露宴の司会進行を任されたのは四番隊の荻堂である。
十四郎と烈、ギンと絢女の披露宴で司会を務めた修兵は、なかなか達者な進行ぶりで評判も良かった。しかし、此度は他でもない乱菊の結婚披露宴である。修兵の長年に渡る乱菊への片恋は、隊長格の間では公然だった。未だに彼女に心を残す彼に司会をさせるのは酷であろうということで、荻堂に白羽の矢が立ったのだ。
司会を免除された修兵は片恋仲間の鉄左衛門と同じテーブルで、輝くような乱菊の晴れ姿を見つめていた。
「綺麗じゃのう」
「綺麗ですねぇ」
溜息混じりに繰り返す二人の表情は複雑そうだ。彼女の傍らに立つのが自分でないことが何とも悔しくてたまらず、一方で惚れた女の幸せを祝福せずにはいられないのだ。いっそ、未練と嫉妬だけのつまらない男であれば、披露宴など欠席して居酒屋で管を巻くことも出来たのだろうが、なまじ漢気に溢れた誠実さを持ち合わせているばかりにそれも出来ない。周りが祝賀ムード一色なのに対して、顔で笑って心で泣いて、を地でいく者が二人もいるこのテーブルだけが微妙な雰囲気を滲ませてしまうのもむべなるかなといったところだろう。
「射場さん、グラス空いてますよ」
「先輩、こっちの
同席のイヅルと恋次は二人を飲み潰させる作戦のようだ。しきりと酒を勧めている。もちろん、二人が潰れてしまったなら、恋次が修兵を、イヅルが狛村と協力して鉄左衛門を連れ帰る算段もついている。
「ここで、花嫁はお色直しの為、退出です」
荻堂が宣言する。テラスに設けられた高砂から、立ち上がった乱菊が中央のヴァージンロードを通って退出していくさまは、まるで現世のファッション・ショーで花道を歩くモデルのようだ。
「綺麗…」
「私もウェディングドレスで結婚式を挙げたくなっちゃった」
「あのドレス、素敵…」
主に女性たちの憧れの眼差しを痛い程に感じながら、乱菊は花嫁控え室に引っ込んだ。
お色直しのカラードレスは二着、用意されていた。
「絢女も色打掛と引き振袖と二枚着たんや。乱菊も二回くらいはお色直しせな」
というギンのよく分からない主張と、
「ドレスでの結婚式は珍しいから、みんな楽しみにしているんです。お色直しは最低でも二回は欲しいですね」
という女性死神協会理事長の要請があったからだ。
「ファッション・ショーと間違えてねえか?」
と冬獅郎は呟いていたが、乱菊のドレス姿を開き直って楽しみにしていたので、実は女性死神協会と同じ穴の狢である。
一枚めのドレスは深いボルドーである。ウェディングドレスがマーメイドラインだったので、プリマヴェーラのマダムの勧めに従い、こちらのドレスは正統派のAラインにした。ネップと呼ばれる節がある無地のシルク地でドレスを作り、スカート部分にひだを寄せたレースを重ねたデザインである。基布と同じボルドーに、漆黒と艶消しの金糸でアラベスク文様を表現したレースはベネチアの手工業製品だ。髪にはドレスと合わせた深紅の薔薇を飾った。この薔薇の髪飾りはやちるの花冠と同様に、絢女の手作りである。五番隊長舎も、ギンとの新居も、庭に花を溢れさせている彼女は、親友であり、今日より義妹となる乱菊の為に髪飾りやブーケを全て手作りしてくれたのだ。ドレスの胸元中央にも髪飾りと同じ薔薇で作ったコサージをつけた。この薔薇はギンと恋人になった初めての誕生日にプレゼントされた苗に咲いたものだそうで、
「だから、幸せになれるおまじないがかかっているの」
と絢女は笑っていた。花びらが幾重にも重なったカップ咲きのイングリッシュ・ローズは豪華で存在感があり、乱菊の美しさを際立たせていた。
四楓院家が用意してくれたブライズメイドに付き添われ、乱菊は再びヴァージンロードを抜けた。最早、お約束になったかのような感嘆と賞賛の声を嬉しく感じながら、乱菊は高砂の冬獅郎の傍らに戻った。
彼女が席に戻って直ぐに、絢女、ギン、桃と冬獅郎の祖母が揃って祝いを述べにやって来た。月詠らの好意により、今回も無事に結婚式への参列を得た老婆は嬉し涙で顔をぐしゃぐしゃにしていた。乱菊の両手を包むように握りしめ、
「松本さん、冬獅郎をお願いします」
と幾度も繰り返す老婆に、乱菊も涙ぐみながら何度も何度も頷いた。
西洋形式の披露宴ということで、招待客も洋装での参加が多かったが、冬獅郎の親族である絢女と桃は格式を慮り、和正装で臨んだ。桃は五つ紋付きの濃い藤紫の振袖である。胸元から帯下、袂の高い位置に桐の花が群れ咲き、前身に桐の枝に留まった白孔雀が羽を休めているという図柄だ。裾と袂の先は卵色から柳色にぼかし染められ、牡丹・芍薬・
「乱菊、とても綺麗よ」
微笑んで祝意を述べた絢女に、乱菊もまた深い笑みを浮かべた。
「絢女のおかげよ。ブーケも、この髪飾りやコサージュもすごく素敵。忙しいのにごめんね」
「作るのは楽しかったからいいのよ。よく似合っているわ」
乱菊は留袖姿の絢女をつくづくと見直すと、
「その留袖と帯って、ギンの結納でしょう? 初おろし?」
と指摘した。
「そうよ。冬獅郎と乱菊の結婚式で着たかったの」
「ありがとう。絢女がそういう着物を着ていると、なんか若奥様って感じがするわね」
「そう?」
絢女は照れた様子で、頬を染めた。
「今日から乱菊も若奥様でしょ?」
「うん、そうね。改めてよろしくね、義姉さん」
敢えての乱菊の呼び掛けに、絢女はぱちぱちと瞬きした後、
「…何か、くすぐったいかも」
と呟いた。
「乱菊~。ボクのことは『義兄さん』て呼んでくれへんの?」
会話に乗ってきたギンに、乱菊はわざとぞんざいに、
「はいはい、義兄さん、なんですか?」
と応える。
「ひどっ。絢女と態度違いすぎや」
ギンはよよよと泣き真似をしてみせた。
「桃、次はあんたよ。頑張りなさいな」
いきなり、乱菊に振られて、
「え? ええー?」
必要以上に狼狽えたのは桃だ。
「あたしなんか、結婚なんてまだまだ…」
「なーんて言ってて、横から攫われても知らないから」
揶揄する乱菊に、
「いや、あいつを攫うような気合の入った女、そうはいねぇだろう…」
とぽそっと冬獅郎は呟いた。その視線は、離れたテーブルから高砂の前の桃を見つめているイヅルに注がれている。
「おばあちゃん、冬獅郎の花嫁さんと桃ちゃんの花嫁姿を見たいって、ずーっとおっしゃっていたものね。冬獅郎の花嫁さんは、今日、見届けたから、次は桃ちゃんが花嫁姿を見せておばあちゃんを安心させなきゃ」
「そうそう。その時は絢女と一緒に、あたしも留袖でお祝いするから」
「あんまりのんびりせぇへんように、ボクからも誰かさんに言うとくわ」
口々に
祝いを告げようと、次の客が待っていることに気付いたギンが絢女たちを促して、彼女たちは自席に戻っていった。
乱菊は冬獅郎に視線を投げた。
「何だ?」
「いえ…。冬獅郎さんと結婚して、絢女と義姉妹になったんだなって、何だか不思議な感じがして…」
冬獅郎は頷いた。
「そうだな…。こうやって家族になっていくんだな」
「はい。旦那さま、今日からよろしく」
「こちらこそ、よろしく、奥さん」
冬獅郎と乱菊は、どちらからともなく微笑みあった。
西洋形式の結婚式の場合、「ウェディングケーキ入刀」という儀式を行うという七緒の調査により、件の儀式は式次第に取り入れられた。二回目のお色直し後にケーキ入刀という段取りになっている為、乱菊は着替えの為に二度目の中座となった。
最後のドレスは、
結婚指輪の上に婚約指輪を重ね付けした乱菊の手元を見て、ブライズメイドが、
「見事な翡翠ですね」
と感嘆の溜息を洩らした。四大貴族四楓院家に仕えている彼女は、高価な宝飾品を見慣れている。それだけに、婚約指輪に用いられている翡翠が滅多にない上質のものだと分かったのだ。
硬玉翡翠の最高峰とされる
「冬獅郎さんの瞳が綺麗な翡翠色だから、婚約指輪も翡翠がいいって我儘を言ったのよ」
「言われてみれば、確かに日番谷さまの目の色に近いお色ですね。デザインも上品で、松本さまによくお似合いです」
「ありがとう」
楕円形のカボーションカットの翡翠を縦ではなく、横置きに配したのはデザイナーの青年の感性である。爪で留めずに伏せ込みになっている為、宝玉の大きさの割にすっきりとまとまった。翡翠の両脇にはスクエアカットを施した小粒の
支度を終え、乱菊はブライズメイドと共に披露宴会場に戻った。テラスにはすでに三段重ねのシュガーケーキが据えられている。三段重ねには意味があって、最下段は結婚披露宴の列席者と一緒に食し、中段は披露宴に列席出来なかった招待客へのプレゼント用、そして最上段はいずれ生まれる赤ん坊の洗礼式の時に家族で食べる為のものなのだそうだ。赤ん坊が産まれるまで保存する必要があることから、洋酒に付け込んだドライフルーツをたっぷりと使用したパウンドケーキの本体を糖衣でコーティングして保存性を高めたものが使用される。
とはいえ、現世の由来通り招待客と食べるとなると、相当巨大なケーキを作らねばならず、子供が産まれるまで下手をすると何十年もかかる尸魂界では赤ん坊が産まれるまでケーキを保存しておくことは現実的ではない。そこで、冬獅郎と乱菊で話し合った結果、列席出来なかった十番隊の隊員たちに配ることに決めていた。ギンの結婚式の時と同様に、平隊員までは招待しきれなかったし、隊を空にするわけにはいかないと、涙を呑んで勤務に廻った席官もいるからだ。
「それでは、ケーキ入刀です」
荻堂の進行に、乱菊は刃の長いナイフを両手で握った。冬獅郎がその上から手を添える。
日頃から、斬魄刀を振り回している死神である。ケーキは鮮やかな一閃で二つに切れ、拍手の中で、冬獅郎と乱菊は笑顔を弾けさせた。
儀式としては二つに切れば完了なので、ケーキはすぐに引っ込められた。四楓院家の厨房で人数分に細分された後、十番隊に届けられる手はずになっているのだ。
冬獅郎は高砂に戻ったが、乱菊は逆にテラスの縁に歩み寄った。
「披露宴の締めくくりに、幸せな花嫁よりブーケトスが行われます。花嫁の投げたブーケを見事、受け取ることが出来た女性は次に結婚できると言われているそうです。未婚の女性の皆さま方、花嫁の幸運を分けて貰う為、どうぞ、テラスの前にお集まり下さい」
司会の言葉に、桃やルキア、虎徹姉妹、十番隊の未婚の席官らが席を立って、わらわらと集まって来た。日頃、結婚には無関心そうな顔をしている砕蜂も参加しているのを認め、乱菊は密かに笑みを零した。
幸せだ、と乱菊は改めて強く感じた。
同時に、ずっと悩まされていた悪夢と不安が、不意にとてつもなく馬鹿馬鹿しく感じられた。この幸福はまやかしなどではない。紛れもない現実なのだ。
(あたしは冬獅郎さんの花嫁になれたんだ)
ゆっくりと、乱菊はテラス下の女性たちに背を向けた。ブーケをしっかりと両手で握ると、飛び過ぎないように加減しつつ、後ろに向かって放り投げる。
ブーケは初夏の青空の下、高く、高く、舞い上がった。
----------------- 《 了 》 -----------------