遠回り、回り道
絢女に諭されたからか、言葉や態度で自分を責めている素振りこそ面に出さなかったが、冬獅郎の怪我について、乱菊は相当に責任を感じて落ち込んでいることは明白だった。無理もないだろう。ごく普通の恋人同士であったとしても、自分の能力で相手を傷付けたとしたら責任を感じずにはいられない。まして、冬獅郎は乱菊にとって、恋人である以前に、副隊長として命を賭しても守らなければならないと思い極めている上官でもあるのだ。この為、冬獅郎は揃って四番隊で寝泊まりしていた十日間を、乱菊が自分を責める必要はないのだと説得し、宥めることに費やした。
そして、もうひとつ。
退院した冬獅郎は、乱菊に絢女の婚礼衣装の準備を任せることにした。
彼としては、鏡花水月の消失事件が片付いた以上、絢女の腹が目立ち始めるより前に婚礼を挙げさせてやりたかったのだ。それと、慶事の準備に奔走することで、乱菊の痛めつけられた精神が癒えるかもしれないという期待もあった。冬獅郎の思惑は吉に転んだようで、もともと着道楽でお洒落が大好きな乱菊は、百年来の大親友の花嫁衣装を整えるという役割を嬉々として受け入れた。瀞霊廷中の呉服商から集めたカタログを花嫁本人である絢女や、七緒や桃も交えて、ああでもないこうでもないと選び出す様子は楽しげで、冬獅郎は彼女に任せて正解だったと安堵した。
花嫁衣装は冬獅郎が準備すると宣言した為、手を出せなかったが、花婿たるギンも粛々と結婚準備を進めていた。手を抜くな、と冬獅郎に宣言されていた結納も、どんなに口うるさい者でも文句の付けようがない立派なものを用意した。
鶴の水引飾りを添えた長熨斗、亀の水引飾りを添えた金銀の末広、松の水引飾りを添えた帯地と仮仕立ての訪問着地、そして留袖地。竹の水引飾りを添えた
ギンと絢女の婚礼の準備が水面下で進んでいる中で、今回の事件の始末も進んでいた。
一乗寺家は、砕蜂が予測した通りに取潰しの裁定が下った。禁止薬物を不正に商っていたので当然である。そして、一乗寺と不正な取引があったという咎で、連座して取潰しにあったのが二貴族と一妓楼。取潰しは免れたものの、莫大な額の赦免金を支払うことになったのが五貴族ほど。一乗寺家と繋がっていた犯罪組織も摘発され、隠密機動の金星となった。
一乗寺家の当主と貴紗は処刑された。貴紗については狼に変化する特殊能力に涅マユリが大いに興味を示していた為、引き渡しを拒むのではないかと懸念された。しかし、案に相違して、マユリはあっさりと貴紗を手放して、砕蜂を拍子抜けさせた。
そんな中、冬獅郎、乱菊、絢女にギンの四人が四楓院家からの呼び出しを受けたのは、貴紗らの処刑から数日が経ってからのことだった。
四楓院家を訪れると、先に到着していたらしい砕蜂が、当主の月詠とともに冬獅郎らを出迎えた。
「お呼び立てして申し訳ございませぬ」
と月詠は相変わらず、飄々とした好青年ぶりである。彼はにっこりと微笑んで、
「市丸隊長、絢女隊長、まずは御婚約と御懐妊、お祝い申し上げます」
と挨拶した。
「ありがとうございます」
「おおきに。そやけど、ボクら呼んだん、そんなこと言う為やあらへんのと違います?」
ギンの切り返しに、
「それはもちろんです。ですがまぁ、いの一番にお祝いを申し上げるのも、このような場合、世間の常識というものではございませぬか?」
「まぁ、そうですなぁ」
「まま、とりあえず、粗茶でも」
と月詠は四人に着座を勧めた。しとやかな侍女が茶を給仕してから下がって後、
「狼女のことですが」
といきなり、彼は核心を突いた。
「あなたがたにだけは打ち明けておいた方がいいと判断しましたので申し上げますが、あれは四楓院家から出た術でした」
「…はぁ?」
とんでもない機密情報をさらっと世間話のような口調で打ち明けられて、四人とも、咄嗟に反応を選び損ねてしまった。
「そうなのですか…?」
「はい。そうです」
呆然とした絢女の呟きに、はきはきと肯定が返って来た。間違いなく深刻な話をしているはずなのに、月詠の表情はにこにこと屈託なく、底が読めない。
(こん人が藍染はんを嫌っとったんて…)
ギンだけは月詠と初対面だった。ただ、冬獅郎や乱菊から、十一年前の裁判の際にギンに味方して処刑回避に動いてくれたことと、彼が藍染を嫌っていたことだけは聞かされていた。
(もろに同族嫌悪やん)
初めて目の当たりにした月詠は今は亡き上司の狸っぷりを想起させ、ギンは思わず偏頭痛を覚えた。一方、彼の底知れなさに、ある意味、一番耐性をつけてしまった冬獅郎は真っ先に立ち直ると、
「前に聞いた話と矛盾するようだが、四楓院の先祖が術を洩らしたのか?」
と問い返した。
「いえ、そうではありません」
「じゃ?」
「何代か前の当主が一乗寺の女を側女にしていたことは申し上げましたな」
「ああ」
と冬獅郎は思い出して首肯した。
「確か、正室が不審死したことの原因を疑われて離縁された…?」
「はい」
とここで月詠は初めて真顔になった。
「その女には他人の夢に入り込み操る能力があったこともお話しいたしましたな」
「そうだな」
それは一乗寺家に伝わる秘術らしいと月詠は語っていた。だが、道切の語った話によって、秘術などではなく、鏡花から娘へ、その娘からさらに娘へと受け継がれてきた遺伝的な能力だと明らかになった。
「それから、正室が身罷った時、一乗寺出の側室が妊娠していたことも」
「ああ。聞いた」
「正室を殺したのは、おそらくですが、側室の腹にいた赤子だと思われます」
と月詠は告げた。
「どういうことだ?」
冬獅郎は不審に眉を寄せた。
「側室の腹にいた赤子は女の子でした。道切は夢操りの能力を女児にのみ受け継がれて来た能力だと語ったそうですなぁ」
「…つまり、側室の子も夢操りの能力があったと?」
「そういうことになります」
「で?」
「側室の赤子は母親が夢操りの術を遣う時、一緒に他人の夢の中に入り込んでいたようです」
「なるほど」
「それでまぁ、父親の夢の中にも入り込むことがあったわけですが…」
何となく、冬獅郎は嫌な予感がした。絢女も同じらしい。少し顔色を青褪めさせている。
「赤子は父親から盗み取ってしまったのですよ。変化の術の根本を」
やっぱり、そうか。と冬獅郎は予感が当たったことを悟った。
「四楓院家の者が厳しい鍛錬に耐えて会得する術です。しかし、赤子は父親から奥義の根本の部分を盗み取ってしまった。それ故、鍛錬さえ必要とせずに赤子は変化を会得してしまったのです」
「そんなことが…」
余りのことに茫然となった冬獅郎らに、
「善も悪も、理非もない無垢な赤子だからこそ、可能だったのだと考えられます」
と月詠は息を吐いた。
「…それが貴紗にまで伝わったんは、やっぱり母から娘へいうことですか?」
「のようです」
「けど、それやったら何で狼なん? あ、もしかして、一乗寺の女を妾にしとった月詠はんのご先祖は狼に変化する人やったんかいな?」
ギンの疑問に、
「四楓院の変化は代々猫です」
と月詠は応じた。
「狼への変化はこれは推察の域を出ないのですが、殺された正室が関係しているようです」
月詠が語るには、亡くなった正妻は幼い頃、狼に襲われた経験があったのだそうだ。正妻の父が狩猟を楽しむ人だったらしく、娘を連れて狩猟に出た際に色々と偶然や不手際が重なって、彼女一人になった時に狼に襲われたらしい。彼女を見失ったことで泡を食って捜索していたお付きの者にすんでのところで救われたが、この一件は彼女に恐怖記憶として刻み込まれた。
一乗寺出身の側室は正室に良夢を見せる為に共寝していた。だが、側室も知らぬ間に彼女の胎内にいた赤子までが、夢操りで正室の夢に入り込んた。その結果、理非を知らない赤子は無意識で、正室の深いところに眠っていた恐怖記憶を強烈に揺さぶってしまったのではないか。
「で、正室はショック死したわけか?」
「正室の恐怖の源泉の狼が、その時の赤ん坊に記憶されたというのですか?」
月詠は、
「合理的に説明しようとすると、それくらいしか思い当たらぬのです。父親から術を盗み取っただけなら、やはり猫に変化するのが妥当なところですからなぁ」
と頷いた。
何とも言えない心地で、四人は沈黙した。ややあって、躊躇いがちに乱菊が口を開いた。
「あの…。その能力を受け継いだ人って、貴紗姫の他にはいない…のですか?」
男の子供で受け継いだ者は本当にいないのか。仮に、道切の語った通り、女系にしか遺伝しないにしても、過去に姉妹が産まれていれば傍系に能力が流れている可能性もある。乱菊の危惧に対して、月詠は、
「松本副隊長」
と穏やかに微笑んだ。
「その件については、松本副隊長たちは知る必要はありませぬ」
茶を口にしながらの、いつもののほほんとした口調。だが、そののんびりした言葉の裏にある真意は明らかだった。
既に調査済なのだ。そして、おそらく、貴紗同様の能力を受け継いでしまった者は一乗寺に連座して粛清されたか、或いは、次代に力を伝えられぬよう監視されているか。何にせよ、野放しはあり得ない。四楓院の力でもって、処理が終わっているということが、その一言ではっきりと分かった。
「あの事件では四楓院から出た術が悪用され、松本副隊長と絢女殿を傷付ける結果になったことを深くお詫び申し上げまする。日番谷隊長にも市丸隊長にもご迷惑をおかけいたしました」
月詠に改まって謝罪をされると、もう冬獅郎らには何も言うことが出来なかった。それに、狼への変化が四楓院に連なる能力だったとしても、それを悪用したのはあくまでも一乗寺貴紗であって、四楓院家ではない。はなから、彼らは四楓院に悪感情は抱いていなかった。
「四楓院にとって不利なことを打ち明けてくれたのは俺たちを信頼してくれたからだと思っている」
代表して、冬獅郎が返答した。
「俺たちは四楓院に含むところはないし、今の話も他言しないと約束する」
「ありがとうございます」
話が済んだのなら、これで、と冬獅郎たちは辞そうとした。だが、月詠は、
「市丸隊長にお渡ししたいものがあるのですが」
と留めた。
「何?」
胡乱に目を殊更細めたギンに、
「喜助さんからの言付かりものですが」
と月詠は応じる。思い当たることがあったのか、ギンの頬に喜色が浮かんだ。
「もしかして、見付かったん?」
「はい。ご希望通りの極上品が手に入ったので、ご注文通りに加工を依頼して仕上がったとのことで。姉を通じて、私に届けられました。今日、お呼び立てしたのは市丸隊長にお渡ししたかったというのもあるのです」
月詠は三寸四方くらいの桐の小箱を取り出すと、ギンに渡した。
「何だ?」
「何?」
と怪訝に箱を見遣る冬獅郎や乱菊を余所に、ギンは小箱を検めた。
小箱の中には黒いビロード張りの一回り小さな箱が納められていた。そのビロード箱の形状で中身の見当がついたらしく、絢女が俄かに緊張し、乱菊と砕蜂は目を輝かせて箱に視線を集中した。
「絢女」
「は、はい」
返答が上擦ってしまった絢女を、冬獅郎と月詠が微笑ましく眺める。
「こんなとこでいうのもあれやけど、乱菊も砕蜂はんもえらい期待してはるようやし?」
とギンはわくわく顔を隠しもしない二人にちらと視線を走らせた。途端に砕蜂はしかつめらしい仏頂面を無理矢理に表面に浮かべ、乱菊は澄まし顔を取り繕った。
「絢女ももう中身が分かっとるみたいやから、ここで渡してしまうな?」
「はい」
「遅うなってかんにんな。婚約指輪や。やっと用意できた」
ギンはビロードの箱の蓋を開け、絢女に指輪を見せた。
「…きれい」
うっとりとした絢女の呟きに、ギンの頬に満足そうな笑みが浮かんだ。彼は恭しく絢女の左手を取ると、薬指に指輪を滑らせた。
「ギン、ありがとう」
絢女が礼を述べ終わるのを待ち構えた様子で、乱菊と砕蜂が傍に寄って来た。
「ほう、綺麗だな」
「これ、エメラルド?」
やや青味を含んだ深みのある緑の宝玉に、乱菊がギンに確認をする。ギンは首を横に振った。
「エメラルドやったら、わざわざ浦原はんにお願いしいへんでも、尸魂界で質のええのが手に入るで」
「ということは、現世でしか採れない宝玉か?」
興味深げに砕蜂も問うた。
「何? ギン。何ていう宝石?」
「アレキサンドライトや」
馴染のない名に、砕蜂と絢女、冬獅郎が揃って首を傾げ、乱菊が目を瞬いた。
「前に聞いたことがあるような…気がする。確か、偏光性のある宝石じゃなかったっけ?」
「そうや」
ギンが肯定し、月詠がゆったりと、
「お見せした方が早いでしょう」
と侍女に火を燈した燭台を持ってくるように命じた。彼は外光が入るように明け放していた襖をぴっちりと閉め、窓も閉じてしまった。
侍女が捧げ持って来た燭台を受け取ると、月詠は部屋の照明を消して、蝋燭の火で絢女の手元を照らした。
「…!?」
絢女が目を瞠った。砕蜂も、
「これは…」
と絶句する。つい先ほどまで深い青緑だった宝石は、ごくわずかに紫を帯びた深紅に変化していた。
「絢女がボクの目の色と同じ色の宝石がええ言うから、手に入れたん」
ギンは
月詠が再び襖と窓を開け放った。途端に婚約指輪は青緑に戻り、その鮮やかな変彩に一同は溜息をついた。
「本当にギンの眸みたい…。嬉しい。ありがとう、ギン」
自らの左薬指に嵌った指輪を矯めつ眇めつ眺めながら、絢女は心から嬉しそうに微笑んでいる。幸せそうな姉を横目に、
「プレッシャーをかけやがって」
と対抗意識を刺激されたらしい冬獅郎が小さな声で呟いた。
寒さはまだ厳しいが、梅の花が綻び始めた早春。数ヶ月前に、十三番隊長・浮竹十四郎と四番隊長・卯ノ花烈の婚姻の義が執り行われた「石雲楼」で、再び婚礼の宴席が設けられた。
ギンと絢女の婚礼である。
烈らの婚礼と同様に、女性死神協会が主体となって宴を進行していた。花嫁の介添え役は、今回は乱菊が務めた。白無垢の打掛、綿帽子の絢女は乱菊に導かれて入場し、花婿の隣りに着座した。介添え役と入れ替わりに緋袴を纏った巫女が現れる。数ヶ月前の婚礼の時と同様に、巫女装束に身を包んでいるのは七緒と清音だ。
「これより、護廷三番隊隊長・市丸ギン、五番隊隊長・日番谷絢女の婚姻の儀を執り行う」
厳かな宣言が山本元柳斎重國から発せられるのも、数ヶ月前と同じだ。異なっているのは主役の名である。
千切った榊の葉を沈めた盃を、ギンは万感の思いで受け取った。ゆっくりと噛みしめるように、
「日番谷絢女を娶り、妻とすることを誓います」
と宣言し、盃の酒を一息に干した。
盃を七緒に返すと、七緒は再び千切った榊の葉を盃に落とした。すかさず、清音が神酒を満たした。
「市丸ギンを夫とし、共に歩んで行くことを誓います」
声が僅かに震えているのは、絢女にもこみ上げるものがあったのだろう。声と同様に少し震える手で盃を捧げ持った絢女は、榊ごと酒を干した。
千切った榊は「契る」に通じる。一枚の榊の葉を二つに千切って、それぞれを神酒とともに飲み下すことで、契の完了とするのは、瀞霊廷で昔から執り行われている婚姻の儀式だった。
「以って、両名の婚姻の成立を宣言する」
山本の宣告が痺れるように、ギンの身に沁み渡った。ちらと、花嫁席の絢女に視線を投げると、絢女は俯いて唇を噛みしめていた。
前回の司会進行がなかなか堂に入っていたということで、今回も檜佐木修兵が宴の司会を務めていた。乾杯の音頭も十四郎の時と同様に、京楽春水が執った。
「艱難辛苦を乗り越えて結ばれた二人の、末永い幸せを祈念して、」
と春水が盃を掲げる。
「乾杯!」
宴席の盃が一斉に干された。
ギンも絢女も流魂街最貧区の出身で貴族の縁者は居ない為、宴席の招待客はほぼ全員が護廷関係者である。さすがに平隊員までは入りきれなかったが、三番隊と五番隊は席官はほぼ全員が列席していた。隊を空にするわけにはいかない為、公平にくじ引きで決めた勤務組が何名か不参加であるが、それ以外は宴席にはせ参じ婚礼を喜んでいた。また、絢女が一時期十番隊の預かりだった関係で、十番隊からも上位席官が参列していた。さらに各隊の隊長・副隊長に、女性死神協会、男性死神協会の幹部といったところが主な招待客である。
その中で、絢女にとっては思いも掛けず嬉しかったのは、流魂街の老婆を招待出来たことだった。
流魂街の住人が瀞霊廷に入るのは難しい。嫌がらせかと感じるほどにとてつもなく厳しい審査がある上、身元保証人となる貴族も必要となる。この壁は非常に厚く、また老婆自身が瀞霊廷に入ることを望んではいなかったこともあって、十番隊長・五番隊副隊長の祖母であり、五番隊隊長の縁者であるという立場にも拘わらず、これまで彼女は瀞霊廷に足を踏み入れたことがなかった。だが、今回は他ならぬ絢女の婚礼である。無論、老婆は出来るなら絢女の花嫁姿を見たいと切望し、冬獅郎と桃も列席させたいと動いたのだ。そして、中央四十六室の議員でもある四楓院月詠が審査を通し、朽木白哉と京楽春水が身元保証人となったことで、ついに実現した。美しい絢女の花嫁姿を目にした老婆は感慨無量といった様子で、しきりに目元を拭っていた。
冬獅郎と桃は絢女の親族の位置づけである為、今回、高砂を謡い納めたのは死神を引退した先代の三番隊副隊長である。ギンが隊長に就任してからイヅルに副隊長を譲るまで実に三十年以上三番隊を支えた彼も、ギンの意向で宴席に招待されていたのだ。
「十番隊副隊長、松本乱菊。六番隊第七席、逆瀬川顕子。両名より祝い舞の奉納です」
修兵の進行に、わぁと宴席が湧いた。
華やかな美貌の乱菊と、日舞界では名花と讃えられ、母親の跡を継いで何人もの弟子を持つほどの舞い手である顕子の競演など、まず目に出来ない。身を乗り出す宴客の前に美しい二人の舞姫が登場した。二人とも、白無地の着物の上に小袖を諸肩脱ぎに着付けている。乱菊の白無地は十四郎と烈の婚礼の時と同じ鶴地紋、顕子は蓑亀地紋で鶴亀を表わしている。上に着付けた小袖は、乱菊は飛び鶴地紋の綸子の黒地に松竹梅を花の丸に散りばめた意匠で、一方顕子は檜垣地紋の緋色地に源氏香を染め、四君子を繊細な刺繍で散らした図案である。
顕子が準備した逆瀬川家専属の囃子方が隅に座して伴奏を受け持ち、賑々しく舞いが始まった。演目は「
最初はゆったりとした旋律が徐々に早くなり、くるくると舞い踊る乱菊と顕子の位置も目まぐるしく入れ替わった。笛太鼓の音が一際高くなった時、舞姫たちは手にしていた鈴を空中に投げ上げた。鈴は空中で交差し、乱菊が顕子の鈴を、顕子が乱菊の鈴を手に納めた。最後に一度両手を大きく振って、しゃん、と鈴の音を響かせ、二人は静止した。
割れんばかりの拍手が注がれる。
「今日の善き日を心よりお祝い申し上げます」
声を揃えた舞姫に、絢女は涙を浮かべて、
「乱菊、あきちゃん、ありがとう」
と頭を下げた。
冬獅郎が絢女の為に用意した婚礼衣装は三種である。
まず、入場は白無垢である。これは松竹梅地紋の掛下に緋裏の打掛を合わせた。白打掛は松喰鶴の地紋の綸子に白一色の刺繍で飛び鶴を、裾には白と銀糸の刺繍で蓑亀を表わしたものだ。縮緬地に白と銀糸で蘭、竹、菊、梅の四君子を散りばめた綿帽子も緋裏のものを揃えた。
お色直しは二着。色打掛は茄紺地の縮緬に金糸と色糸で鶴亀と松竹梅を表わした落ち着いたものである。裾には亀の遊ぶ浜辺を示しているのか波模様も表現されている。呉服商から集めたカタログは緋色を中心に華やかで派手やかなものが多かったのだが、絢女自身が、
「これがいい」
と選んだものである。冬獅郎は地味なのではないかと危惧していたが、実際に着付けたのを目の当たりにすると、金糸の刺繍が上品に華やいでいて、絢女にとても似合っていた。
もう一枚のお色直しは引き振袖である。下着に竹、中着に梅を配した三枚襲で、表着は上部を黒、裾を青に染め分けて、裾の青地部分に白波を進む宝船を友禅染と刺繍で表している。更に宝船の左右には常磐の松が枝を広げ、左の前身頃から後身頃、右袖から左袖に向けて、円を描くように鶴が群れ飛んでいるという意匠が施されていた。襟元と裾ふきは赤白の二枚を襲ねて格式を示していた。帯は落ち着いた金地に松竹梅を織り出した丸帯で、これを末広立矢に結んだ。抱え帯は白地に金糸で桐と橘の刺繍、また、帯揚げも白の総絞りとすることで華やかでありながらも品よく纏まった装いとなった。
冬獅郎は披露宴の進行に従ってお色直しに立つ絢女を、ずっと自席で見守っていた。
最後の衣装である引き振袖に着替えた絢女が席に戻ったのを確認し、彼は初めて花婿、花嫁の許に向かった。
桃や乱菊、老婆が絢女がお色直しに立つ前の早い時間に祝いに来ている中、動こうとしない彼に内心でやきもきしていたギンは、漸く近付いて来た冬獅郎にすっと姿勢を正した。
「姉さま、市丸。結婚おめでとう」
二人の前に座した冬獅郎はまず、型通りの祝いの言葉を述べた。
「ありがとう」
「おおきに」
冬獅郎は敢えてギンから視線を外し、姉に向き直った。
「姉さま。すごく綺麗だった。こんなに綺麗な花嫁はいねぇよ」
「ありがとう。全部、冬獅郎のおかげよ」
「今まで、姉さまがしてくれたことに比べたら、花嫁衣装なんてささやか過ぎるお返しにしかならねぇよ」
「ううん。もう充分すぎるくらいよ」
と絢女は微笑んだ。
「次は冬獅郎ね…。ごめんなさいね、今までずっと、冬獅郎を待たせていて」
「いや…。俺の自己満足だから姉さまが謝る筋はない」
彼はかぶりを振った後、視線をギンに向けた。
「市丸…」
「何、若さん?」
ギンは敢えて冬獅郎が嫌がる「若さん」という呼び掛けを使ってみたが、冬獅郎の反応は常とは異なっていた。
「…若さん…な」
内心で首を傾げたギンに、冬獅郎は続けた。
「俺はもう記憶がねえけど…。市丸は俺の家臣筋だったそうだな」
「うん。そうや」
「俺が主家の跡取り息子で、姉さまが姫君だったわけだ」
「そうなるね」
とギンは肯定した。
「そうか」
冬獅郎は俄かに威儀を正した。
「ならば、市丸。これは日番谷家嫡男として、最初で最後の命令だ」
いきなりの宣言に、絢女が瞠目する。一方のギンはまっすぐにその視線を受け止めていた。
「姉を、日番谷絢女を生涯をかけて愛し、幸せにしろ。姉を泣かせるような真似は二度と許さない」
冬獅郎の言葉に、ギンは両手を付いて、深々と頭を下げることで返した。最初で最後であるという主命に、
「御意」
と明瞭な了承を述べ、彼は頭を上げた。
厳かな冬獅郎の視線と、きっぱりと潔いギンの視線が絡まる。
ゆっくりと冬獅郎は立ち上がった。ギンに背を向けた冬獅郎は、最後にぼそりと吐き出した。
「姉さまを頼む。義兄さん」
どれくらい惚けた面を晒していたのやら、ギンはよく分からなかった。
「ギン…」
と小さな声で絢女に呼ばれ、彼ははたと我に返った。
「絢女…」
見返した絢女の眸は僅かに潤んでいる。ギンは吐息をついた。
「絢女、ボク、幻聴を聞いたような気ィするねん」
絢女の唇が弧を描いた。
「多分…、もう二度と聞けない幻聴だと思うわ。だから、一生、覚えていてね」
「そっか…。もう二度と聞けへんか…」
「ええ」
「一回で充分や。心臓に悪すぎる」
絢女は再び、泣き笑いのように微笑んだ。
褥の上に胡坐をかいて、ギンはいつになく緊張している自分に苦笑した。
既にしっくりと馴染んで、その身体の隅々まで知り尽くしているというのに、ただ、夫として抱くのは初めてだというだけで、これほどに心持ちが違うものかと、ギンは感慨を覚えていた。
「ここも…はじめてやしな」
と彼は独り言ちた。
五番隊隊長舎でも、三番隊隊長舎でもない。晴れて夫婦となった絢女と共に暮らす為にギンが用意した二人の家の寝室なのだ。
家屋はそう大きくはない。だが、夫婦二人とやがて生まれる子供と三人で暮らし、たまに客人を泊めたりする程度ならば充分に足りるだけの部屋は有していた。何よりもギンが気に入ったのは庭が広く、日当たりの良い点だった。花木を好む絢女は五番隊隊長舎にも、薔薇や牡丹や木蓮など季節ごとに楽しめるように花木を植えて丹精していた。だから、新居でも絢女が存分に園芸を楽しめるだけの庭があった方がよいとギンは考えたのだ。絢女もこの家を気に入り、結婚式の前から荷物を運び入れていつでも暮らせるように準備していた。だが、実際に二人がここで夜を明かすのは今日が初めてであった。
廊下を歩む絢女の足音が聞こえて、ギンは僅かに息を整えた。
すっと襖が開いて、湯上りの身体に夜着を纏った絢女が現れた。膝立ちで室内に入って来た彼女は襖を閉めると、正座してギンに向き直った。
「あの…」
絢女が躊躇いがちに口を開く。
「うん?」
ギンが見返した時、彼女は三つ指をついてきっちりと頭を下げた。
「不束な者ですが、今日より、幾久しく可愛がって下さい」
「 」
まさかに改まって初夜の口上を述べられるとは考えておらず、ギンは咄嗟に言葉を返せず沈黙した。絢女は顔を俯かせたまま、上目遣いでギンを窺っている。
「こちらこそ、よろしゅう」
ややあって、ギンはいささか間の抜けた応えを返した。襖の前に正座したままの絢女をちょいちょいと手先を動かして呼ぶと、彼女はおずおずと近付いてきて、ギンの目の前に再び正座した。
「ギン…」
すっと伸びて来た腕が絢女の上半身を抱え込み、胸に閉じ込めた。彼女の右肩に顔を埋めるように寄せたギンは、
「ほんまに…結婚したんやねぇ」
と溜息のように囁いた。
「ずっと一緒よ」
絢女もまた、夢見るように囁き返す。
「絢女…。綺麗かったよ」
「ありがとう」
絢女がギンの背中に腕を廻して来た。どことなく手付きがぎこちないのは、結婚式を挙げ、正式に夫婦になったという現実を実感して戸惑っているせいだろう。
「姫さん…好きや」
「私も好き」
いつもの睦言さえ照れくさくて絢女は小さな声で応えた後、ギンを見上げた。
「…ギン?」
だが、彼の表情を見た途端、絢女は思わず息を呑んだ。
「どうしたん?」
ギンもまた、絢女を見た。腕の中で、一転して身体を強張らせている彼女に気が付いて、ギンは心の中で舌打ちをしたくなった。一瞬の思考を面に出したつもりは毛頭なかったのに、聡い絢女は見逃してくれなかったらしい。
「絢女、何や変なこと考えてへん?」
「変なことって?」
「ボクの気に障ることしてしもたんやないやろかとか、また、後ろ向きなこと考えてへんかなって心配になったんや」
とギンの言葉に、絢女はふるりと身体を震わせた。
「さっき…」
絢女は怖々と口を開いた。
「うん」
「私が好きだって言った時…」
「うん」
「ギン、ほんの一瞬だけど…、すごく嫌そうな顔をしたわ…」
ああやっぱり顔に出てしまっていたのかと、ギンは今度こそ内心で舌打ちした。
「絢女。嫌そうな顔をしたのは認める。けど、絢女に対してやない。それだけは誤解せんといてや」
と彼は返した。
「じゃ、何に?」
「自分に腹が立ってん」
「…どうして?」
「さっきな、ボク、『姫さん、好きや』て言うたなぁ」
「ええ…」
「ボクは姫さんの家来やってから、本当やったら、姫さんをお嫁さんに出来るような身分やなかったん」
絢女に出会い、救われるまで、一人ぼっちで暗闇を歩んできた。呼ばれる為の名すら持たなかったギンは、正にどこの馬の骨とも知れない子供だった。日番谷家の家臣に引き取られ、居場所を得たが、家臣が主家の姫君を望めるはずもない。家臣と言っても、例えば大名家の家老の家柄であるとか、天皇家に対する左大臣・右大臣家くらいの高貴な身分であれば、姫君の降嫁を得ることもあろう。だが、ギンのように素性の分からぬ者に大切な姫を与えることはないはずだ。
「せやから…、もし、あのまんま現世で生きとったら、ボクはええ家にお嫁に行く絢女を見送らんならんかったかもしれへんて思うてしもたんや」
「ギン…」
「けど、せやったら、藍染はんが絢女や冬獅郎はんやボクを殺したから、ボクは絢女をお嫁さんに出来たということになってまうやん」
「…だから、嫌そうな顔?」
「ん…。あのおっさんのしたことを一瞬でも肯定しそうになった自分に腹が立ってん」
強張ったままだった絢女の表情が緩んだ。ギンの背中に廻った彼女の腕に僅かに力が籠った。
「あのまま現世にいたとしても、私はギンのお嫁さんになっていたわ」
きっぱりと絢女は言い切った。
「やって…」
「霊術院であなたに初めて会った時から、私はあなたが好きだったの…。記憶がなくても、現世でずっと一緒だったのだから、懐かしくて好きだったというのはもちろんあると思うわ。でも、それだけじゃなくて、私は初めからあなた以外目に入っていなかったの。あなた以外の男の人には、恋愛感情っていう意味ではどうしても関心を持てなかったわ。私はギンだけがずっと欲しかったの」
と絢女は重ねた。
「きっと、現世でギンと一緒にいた幼かった私は、子供なりにギンのことがとても好きだったのよ。だから、霊術院で乱菊に紹介されたその時から、私はギンに恋してしまったんだわ」
「…」
「もし、現世で大人になっていたとしても同じよ。私はギンが好きで、ギンでなければ駄目だったはずだから、きっとギンのお嫁さんになっていたわ」
「やって…、絢女の親が許さへんよ。ボクみたいな馬の骨…」
彼らが命を落としたのは幕末の頃。封建制がきっちりと残っていた時代である。名家の姫君となれば親の命ずるままに政略結婚するのが当たり前で、好きだからといって一緒になれるというものではなかったはずだ。だが、
「父上は絶対に許して下さったはずよ」
と絢女は再び断言した。
絢女に父の具体的な記憶は残っていない。唯一といっていい思い出は、あの最期の夜のものだ。
「冬獅郎を護れ。命に代えてもこやつらに渡すな」
という言葉と背中だけが彼女に残った全てだった。
だが、具体的な想い出は消えてしまったとしても、絢女は父から愛された実感があった。最後の父の命令はそれだけを取り出すならば、絢女にとって残酷なものである。絢女の命と引き換えにしても冬獅郎を護れと命じているのだから、絢女よりも冬獅郎が大事だと言われたも同然だ。だが、絢女はあの命をそんなふうには受け取らなかった。父は娘を信頼していたのだ。姉としての彼女がどれほど冬獅郎を愛おしんでいたかを承知した上で、彼女に冬獅郎を預けてくれたのだ。冬獅郎の霊力を歪んだ目的に利用させるわけにはいかないという陰陽師としての矜持もあっただろう。父の命令を信頼の証だとまっすぐに受け止め、弟を護るという決心の礎に出来たのは、具体的な記憶は失っても愛されたことだけは魂が記憶していたからだと絢女は信じている。娘として、愛され、慈しまれた記憶が確固として存在していたから、歪むことなく父を信じていられた。
「私はギンでなければ駄目なの。ギンでなければ幸せになんてなれないのに、父上が私を不幸せにするような縁組を押し付けるはずがないのよ」
絢女に自信に満ち溢れて言い切られると、ギンには反論の余地はない。
「もし、現世で結婚していたら、私はもっと大威張りでお嫁入りしていたかもしれないわね。お姫さまがお嫁に来てあげたのよって」
「大威張りくらいで丁度ええよ。絢女はそれでのうても遠慮がちなんやから…」
「私たち、回り道したのよ」
と絢女は呟いた。
「遠回りして、道に迷って、そして、やっと辿り着いたの…」
「うん」
ギンは絢女を抱きしめる腕を更に強くした。
「ボクももう覚えてへんけど…、でも、絢女の両親とボクを引き取ってくれた両親にも誓うな。一生、大切にする。絢女、愛しとるよ」
そのまま、褥に押し倒せば、絢女は抵抗もなくそれを受け容れた。
甘い吐息が絡まった 。