狼少年の誠
サハラ砂漠の砂嵐の中を歩くのは、このような状態なのかもしれない。
一歩、結界を出た瞬間から、ほんの二、三寸先さえ、たち込めた微細な砂埃や細かい木の粉に遮られて、定かに見えなかった。乱菊の霊圧が巻き上げたそれらの粒子は冬獅郎を包み込み、凄まじい圧力で切り刻もうと襲い掛かっていた。
むろん、冬獅郎も無防備ではない。霊圧を上げ、身体の表面に細かな氷の層を形成させて、自分の身を護ってはいる。だが、霊圧の鎧は結界に比べると脆い。下位席官程度の攻撃であれば、冬獅郎の霊圧ならば完璧に防御出来るが、上位席官級になるとそれなりのダメージの覚悟は必要だ。まして、乱菊は副隊長である。しかも、今の彼女の霊力は理性でコントロールされていないのだ。
ギンが結界でこの攻撃を完全に遮断しているように、冬獅郎も自身を囲むように狭い結界を張れば、怪我を怖れる必要はない。だが、冬獅郎は敢えて、結界を張るという選択を避けた。結界を張ってしまえば、冬獅郎の霊圧も内部に閉じ込められ、外に洩れないからだ。
今の乱菊は、一応、幻惑からは脱している。だが、繰り返し見せられた悪夢のせいで、助け出されたことを納得出来ないでいるのだ。ギンの「自分たちは今、狼少年ではないのか」という推測はおそらく当たっているだろう。幻覚の中で繰り返し繰り返し助け出され、そして、裏切られた。だから、今、本物の冬獅郎たちを前にしても、また裏切られると疑心暗鬼に駆られているのだ。夢織の幻惑下では乱菊は巧みにコントロールされていて、まともな反撃が出来なかったはずだ。だが、夢織の支配下を逃れた彼女は攻撃出来る。彼女は冬獅郎たちを幻惑だと思い込んで、身を護ろうともがいているのだ。
ならば、判らせなければならない。もう幻覚は終わったのだと。ここにいる冬獅郎は夢織が真似た偽物などではなく、正真正銘、本物なのだと。乱菊に冬獅郎の霊圧を感知させる為に、冬獅郎は結界を捨てた。
ギンが張った結界の壁から乱菊までの距離は、せいぜい一間がいいところだろう。乱菊に突き飛ばされるまで、冬獅郎は彼女の真ん前にいたのだから。普通なら、二、三歩だ。だが、微粒子の嵐からの圧力が強く、冬獅郎はなかなか前に進めなかった。台風の真っただ中で荒れ狂う風雨に逆らって進むのが困難なのと同じ道理だ。
微粒子の高速旋回で床が削られ薄くなっているらしい。すり足で移動する冬獅郎の動きにつれて、床板がぎしぎしと軋みを上げ、折れそうに撓んだ。
すでに、死覇装は至るところがずたずたに裂けていた。無論、皮膚も無傷ではない。冬獅郎が纏った氷の層さえも削って皮膚に達した高速の微粒子は、夥しい擦過傷をもたらした。じわりと、皮膚が熱を持ち、血が滲んだ。
だが、この程度の傷が何だというのか。
今日一日、彼女が苛まれて来たおぞましい幻覚に比べれば、それこそ、掠り傷だ。
乱菊が攫われてから、時間にしては丸一日もまだ経過していない。しかし、乱菊の感覚では、もう何日も過ぎているかもしれない。転寝中に夢を見て目覚めた時、夢のボリュームからしてずいぶん長い間眠っていたのではないかと感じたのに、時計を確認するとほんのひとときだったということはよくあることだ。中国の故事の「一炊の夢」もそのあたりに由来があるのだろう。肉体の動作に制約される現実と異なり、純然たる脳内活動である夢の中での時間は物理的な時間よりも遥かに高速に進むことが可能であるらしいのだ。おそらく、脳内では大量の情報量を一気に処理してしまっているのに、その情報を現実の時間に当てはめて認識する為に実時間との乖離が発生すると推測出来る。夢織の幻覚も脳内活動で起こったことだ。現実で起こったことならば何日分をも要する出来事を、この一日の間に認識してしまっていたとしても矛盾はない。
荒れ狂う粒子の砂嵐は、乱菊の恐怖と絶望そのものだ。冬獅郎さえも拒み、厚い粒子で武装して、その中心で乱菊は泣いている。
ざく、と右腕に鋭い痛みが走った。
腕を持ち上げ目の間近に引き寄せて確認すると、手首の少し先から肘の少し手前まで、結構な深さで切り裂かれていた。
(…道切か?)
と冬獅郎は推察した。いくら、乱菊の霊力で高速旋回して破壊力を与えられていても、砂埃や木の削り屑にはここまでの切断力はない。錆びて崩れてしまったといえ、元は斬魄刀である道切の欠片なら、可能かもしれない。
ちびちびと、寸刻みの移動では乱菊までどのくらいの距離があるのかよく分からない。本当は声を上げて乱菊を呼びたいのだが、そんなことをすれば口の中に粒子が入り込み、口腔内が血塗れになってしまうだろう。下手をしたら、肺や胃までやられるかもしれない。とにかく、彼女の姿を視認し、触れられる距離まで近づかないことには、手立てはない。
(待っていろ、乱菊。絶対に助けてやるから)
と冬獅郎は靄嵐の向こうにいるはずの乱菊に心の中だけで語りかけた。
恐怖と不信に満ちた圧力に逆らい、更に足を進める。その時、めりっ、という嫌な音がした。その音が耳に届くよりも早く、すり減った床板は既に折れていた。床が抜け、折れた板の切っ先に足を突き通されながら、冬獅郎の身体は床下に落下した。咄嗟に、手を付いて支えようとしたが、手を置いた床板もが大きな音を立てて折れ崩れて、更に腕を傷付ける結果に終わった。
(痛ってえ…)
腕に突き刺さった先端がやたらと鋭い木片を、冬獅郎は引き抜いた。途端にどくどくと脈動を感じるほどに出血した。足にも深々と折れた先が突き刺さっている。だが、周りを床板で囲まれていて自由に身体を動かせない為に、こちらはすぐには抜けなかった。冬獅郎は身を捩って、周りを囲む床板をさらにばきばきとへし折った。そうやって、身体を動かせるだけの空間を作ってから、漸く、足に刺さった木片を抜き取ることを得た。その間にも、ざく、ざくりと、彼の膚は容赦なく切り刻まれ続けていた。
乱菊の霊力によって、板は極限まで削られているようだ。床に上がれば、再び冬獅郎の体重で抜けてしまうのは目に見えている。かといって、進行方向に残った床板を破壊しながら進むのもまだるっこしい。冬獅郎はやむなく、氷輪丸に手を掛けた。
「霜天に坐せ、氷輪丸」
冷気の龍が床下を走り抜けた。周囲の水気を集めて、氷の塊を出現させる。分厚い氷塊のブロックで床を補強してから、冬獅郎はおもむろに床上に戻った。
(…あ?)
乱菊の霊圧が微妙に変化していた。相変わらず、巻き上がった埃や木屑は辺りに立ち込め、高速旋回して冬獅郎の行く手を阻んでいた。だが、圧力がごくわずかに緩んでいるように感じられたのだ。近づこうとする者を闇雲に拒絶していた霊力が、僅かに揺れている。
(…そうか…)
と冬獅郎は悟った。
(氷輪丸の始解の霊圧に気が付いたか)
目を凝らすと、靄の向こうにうっすらと乱菊の影が認められた。影はぼんやりとしていたが、距離は近いはずだ。見極めた冬獅郎は全身の力を込めて、拒絶の圧力を振り切った。影を目指して大きく一歩、踏みだした。
影の腕を捉える。
同時に、冬獅郎は肺活量の全てで、その名を呼んだ。
「松本!!!!」
そう。敢えて、「松本」と呼び掛けた。
二人きりでなくとも、仕事中であっても、よほどに公式の場でない限りは「乱菊」と呼ぶ方が自然になってしまって久しい。だが、冬獅郎は恋人としての「乱菊」ではなく、副官の「松本乱菊」を呼んだのだ。
「松本!」
と彼は繰り返した。
女として、愛する男に護られること。
副隊長として、隊首を護ること。
その二つを天秤にかけたら、乱菊は迷わずに隊首を護ることを選び取る女だ。松本乱菊という女が幻覚に怯え、現実を認識できないでいるのなら、十番隊副隊長の松本乱菊を揺さぶるまで。
冬獅郎の思惑は正鵠を得た。
「…たい…ちょう…?」
聞き取れないほど微かな、覚束ない返答。だが、「冬獅郎さん」ではなく、「隊長」と呼んだことで、副隊長の乱菊が反応したことが分かった。
「ああ、俺だ。迎えに来た」
と冬獅郎は答えた。冬獅郎は乱菊を抱く腕に、更に力を籠めた。
まだ戸惑っているのだろう。霊圧が脈動するように、大きく膨れ上がってはしぼむのを繰り返している。
「松本。終わった。霊力を治めろ」
耳もとに、きっぱりとした命令を流し込む。
「終わった…?」
「ああ」
乱菊の顔を覗き込み、冬獅郎は頷いた。
「おまえを苦しめていた幻覚は終わった」
「…」
蒼い眸に宿る、不信と怯えを落ち着かせようと、冬獅郎は静かに語りかけた。
「幻覚の中の俺が何百回、何千回、おまえを裏切ったとしても、本物の俺は絶対におまえを裏切ったりしない。そうだな、松本?」
「…はい…」
「だったら、信じろ。千回が幻覚だったとしても、千一回目が本物じゃないなんて言えるのか? 千一回目がやっぱり幻覚で裏切られたとしても、その次はどうだ?」
「あ…」
「いいか、必ず、本物は助けに来る。おまえを見捨てたりしない」
翡翠の双眸が、真っ直ぐに乱菊を射抜いた。冷気の塊であるはずなのに、奇妙に温かい霊圧が彼女を包み込んでいた。
「…とう…しろう…さん…」
乱菊の声が震えた。
「遅くなって悪かった」
冬獅郎はそっと乱菊の髪を撫でた。
「乱菊」
今度は、姓ではなく、名前を呼んだ。
「迎えに来た」
力強い断言に、乱菊の中の迷いと怖れが溶け崩れた。
間違いない。今度こそ、本物だ。今度こそ、終わったのだ。
安堵が全身を包み込み、身体を縛っていた緊張が解けた。
すう、と乱菊の霊圧が収束した。渦を巻いていた埃や砂粒が旋回を終え、床に沈んでいく。
そのまま、気を失ってしまった乱菊をもう一度、強く抱きしめ、
「遅くなって、本当にごめん」
と冬獅郎は囁いた。
直後、みしみしという大きな軋み音が響いた。
乱菊の霊力で削られていたのは床板ばかりではなかった。柱も、板壁も、梁も、当然の如く削り取られ、細っていたのだ。崩壊を止めていたのは皮肉にも、荒れ狂う乱菊の霊力の圧だった。だが、彼女の暴走が治まり、圧力が消えたことで、弱った柱や梁は、小屋を支えられなくなったのだ。
天井が音を立てて崩落した。
結界の壁を梁や、屋根板が滑り落ちていく。
絢女を腕に抱いて支えたまま、ギンは冷静にその崩壊を観察していた。
もともと、安普請の簡素な小屋だっただけに崩落も長いものではなかった。ギンの張った結界の周りだけを綺麗に避けて、折れた柱や屋根が堆く積み上がり、舞い上がった埃が落ち着くと、辺りは夜の森の葉擦れの音だけに支配された。
ギンは自分の隊長羽織を脱いだ。外の夜風が絢女の身体に障らぬように、羽織で彼女をくるみこんで抱き上げると、おもむろに結界を解いた。
彼の結界の一間ほど向こうに、やはり、丸く瓦礫が避けている空間があった。乱菊を抱えた冬獅郎が張った結界である。
ギンは絢女を抱えたまま、器用にバランスを取って、瓦礫を踏み越えて、冬獅郎の傍らに立った。
ギンを認めた冬獅郎が遅れて結界を解く。
「乱菊は?」
問いかけに、冬獅郎は、
「安心して、気が緩んだらしい。気を失っちまった」
「そっか…。冬獅郎はんもえらい気張りはったみたいやね」
夜目にも冬獅郎が血塗れなのが分かった。
「ちょう、待っとって」
とギンは踵を返し、瓦礫の山から抜け出すと、少し離れた木の根元に絢女を座らせた。
「冬獅郎はんの応急措置をしてくるから…」
彼の言葉に、
「お願い」
と絢女は頷いた。全霊力を傾注しなければならない奥義でもって夢織を消滅させた彼女は疲れきっていて、とても弟に手当てを施せそうになかったのだ。
ギンは冬獅郎のところに戻ると、まず、意識を失っている乱菊を受け取って絢女の許に連れて来た。
「乱菊を見とってやって」
と絢女の隣に、木の幹に背を凭せ掛けるように乱菊を座らせる。それから、彼はもう一度、冬獅郎の方に歩んで行った。
刑軍の男と二言、三言会話を交わした後、ギンは屈み込んで冬獅郎へ応急処置を開始した。
「かなり、やられはったね」
「結界を張っていなかったからな。霊圧だけじゃ、あの攻撃は防ぎきれねぇ」
「うん、そうやね。むしろ、こんくらいで済んで幸いかもしれへん」
「灰猫がなかったのが不幸中の幸いだろうな。…あれが灰猫だったら、俺は死んでいた」
「そうかもしれへんね」
伝令神機で瀞霊廷に連絡を取り、応援を要請した刑軍の男は、崩れた小屋の瓦礫の中から焚き木に使えそうな短めの木片を集め始めた。絢女と乱菊は疲労で、冬獅郎は怪我で身動きが取れそうにない。瓦礫の下に埋もれてしまった乱菊の義骸と鏡花の遺体も回収しなくてはならないが、ギンと男だけで乱菊らと義骸と遺体の全ての面倒を見るのは無理だ。要請した迎えが来るまではここに野営しなくてはならない以上、暖を取る必要があった。
「あと何時間かしたら、四番隊の席官が来てくれるから、それまでは応急処置で堪えてや」
譬えひとつひとつは浅手の擦過傷であっても、それが全身に及べば侮りがたい出血量になる。しかも、傷は擦過傷ばかりではなかった。かなり深い切り傷も無数に刻まれていたし、床が抜けた時に木片が突き刺さった傷もある。強がって受け答えを続けてはいるが、本当は相当につらいはずだと、ギンは見てとった。
刑軍の男が木切れを集めて火を点けた。燃え上がる焚火の炎が、辺りに立ち込める冷気を払った。応急処置を終えると、ギンは肩を貸して、絢女たちがいる焚火の前まで冬獅郎を運んだ。
「かなり出血しとるから、寒気がすると思う。救護の者が来るまでは焚火に当たっとき」
ギンの言葉に冬獅郎は億劫そうに頷いた。
ゆっくりと乱菊は覚醒した。
はちぱちと火の爆ぜる音と遠くで囀る鳥の声に、不審げに目を瞬く。
「気が付いた?」
聞き馴染みのある柔らかな声がすぐ耳元で響いて、乱菊は顔を動かした。至近距離に絢女の顔があって、乱菊は自分が絢女に寄りかかって眠っていたことを悟った。
「ここ…?」
どうやら森の中らしい。乱菊も傍らの絢女も木の幹を背もたれに地べたに座り込んでいて、目の前に焚火の炎があった。
「一乗寺家の領地の森や」
焚火の向こうからやはり聞き慣れた京訛りが響いた。
「乱菊な、鏡花水月とその主に攫われて、ここに連れて来られたんや。そいで、ボクらが助けに来たん」
「攫われて…」
乱菊の胸にまざまざとつらく、苦しかった幻惑の数々が甦った。それと同時に、「迎えに来た」という冬獅郎の力強い声を思い出し、乱菊ははっと辺りを見回した。
「冬獅郎さん! 冬獅郎さんはっ!?」
「ここ」
絢女が自分の足元を指差した。乱菊がその指し示した先を目で辿ると、絢女の膝を枕にしてぐったりと横たわる冬獅郎がいた。
「冬獅郎さん…」
冬獅郎の死覇装は至るところがずたずたに裂けていた。そして、黒い着物地にもかかわらず、はっきりとわかるほどに血に塗れていた。呼吸が僅かに荒い。
「…あたし…」
乱菊は茫然と目を見開いた。気を失う直前のやり取りを思い返し、乱菊は震える声で尋ねた。
「これ…、あたし…が?」
絢女は答えず、ギンが仕方ないといった口振りで、
「うん、まぁ、そうなるかなぁ」
と曖昧な返答を返した。
「とりあえず、応急処置は済ませとる」
焚火に木切れを継ぎ足しながら、ギンが続けた。
「もう少ししたら、救援隊が来てくれるし心配せんでもええよ」
「救援隊…?」
「うん」
と今度は絢女が説明した。
「実は私も、鏡花水月を消滅させるのに霊力を使い切ってしまって動けないの。乱菊、あなたも自力で動くのは無理みたいだし、冬獅郎も怪我しているし、ギンとそちらの刑軍の方だけでは対処できなくて、救援を呼んだのよ」
絢女の紹介を受けて、漸く乱菊に存在を認識された男が軽く会釈する。
「絢女…」
乱菊の手がきゅっと絢女の袖を掴んだ。
「あたしが冬獅郎さんに怪我をさせたのね?」
「乱菊…」
「あんたが霊力を使い切ってしまったのも…」
そこで、乱菊ははたと気が付いた。
「絢女、あんた怪我は!? 無理してお腹の赤ちゃんに何かあったら…!?」
「大丈夫よ」
と絢女は宥めたが、乱菊は納得できないらしく、俯いて小さな声で、
「ごめん…」
と謝った。
「怪我は四番隊に急速回復して貰ったから大丈夫なの。さすがに、体力までは回復しきれなくて、『滅びの風』で疲労困憊しちゃったけど、そう無理をしたわけではないのよ。赤ちゃんも平気。私とギンの子供ですもの…。これくらいじゃびくともしないわ」
絢女の声は確信に満ちていた。
「でも…、冬獅郎さんまで…」
「こんなの、四番隊にかかればあっという間の怪我よ」
乱菊を落ち着かせる為だろう。殊更に何でもないような口調で、絢女は言った。それから、袖を掴んでいる乱菊の手に、そっと自分の掌を重ねた。
「あの時のあなたは怖ろしい幻覚に惑わされ続けた直後で、普通の状態じゃなかったわ。でも、私たちがそう言って、あなたのせいじゃないって慰めても、自分を責めないでって言っても、乱菊が自分を責めないではいられないことは分かるの」
と絢女は静かな声で語った。
「もし、私が乱菊の立場だったら、あなたと同じに自分を責めてしまうと思うから…」
大切な人を、自分の能力で傷付けて平気でいられるわけがないのだ。
「でもね。逆に私が冬獅郎の立場だったとしても、やっぱり冬獅郎と同じことをしたと思うの」
絢女は続けた。
「軽くはない怪我を負うことも、自分が傷ついてしまったら、乱菊が責任を感じて苦しむことも、冬獅郎には分かっていたはずよ。それでも、乱菊を見捨てて悔やむくらいなら、怪我してでも助けたかったのよ。自己満足でも、結果的に乱菊を苦しめることになっても、あなたを失ってしまう未来と自分の怪我を秤にかけたら、怪我する方がいいと考えたのよ」
「絢女…」
「さっきも言ったけれど、私が冬獅郎だったら、同じ行動を取ったと思う…。乱菊を失うつらさに比べたら、怪我するくらいどうってことないもの」
「…」
「乱菊はどう? もし、冬獅郎と乱菊の立場が逆だったら?」
絢女は問い掛けた。
「…あたしも…」
と乱菊は小さく呟いた。
「同じことをすると思う…」
冬獅郎の霊力で切り刻まれたとしても、彼が我を失って暴走したとしたら、命懸けで止めに行くだろう。
「でしょ? だから…、仕方がないの。…冬獅郎は命に代えてもあなたを助けたいって思ってしまったんだから」
と絢女は結論した。
ぱちぱちと、焚火は燃え続けていた。傍らで、ギンと刑軍の男は、黙って木切れを足し続けている。
乱菊は荒い呼吸で眠る冬獅郎を見つめていた。焚き木で暖が取れるといっても、冬の朝の屋外である。しかも、冬獅郎はずたずたに裂けた死覇装の他には、毛布代わりにギンの隊長羽織が掛けられているだけだった。冬獅郎自身の隊長羽織は、薄い夜着一枚の乱菊を包むのに使われていた。その隊長羽織も血に塗れている。
(冬獅郎さん、ごめんなさい)
心の中で、ずっと乱菊は謝り続けていた。
(ごめんなさい。冬獅郎さん、ごめんなさい)
その声が届いたのか、絢女の膝上で冬獅郎の頭部が動いた。ぴくぴくと睫毛が小刻みに揺れる。乱菊が息を凝らして見守っていると、彼はぽっかりと目を開けた。覗き込む乱菊の眸を捉え、冬獅郎は小さく微笑んだ。
「気が付いたのか、乱菊…。良かった…」
と彼は呟いた。
「冬獅郎さん…」
謝りたくて、けれど謝ってしまったら、却って冬獅郎を傷付けることになりそうで、乱菊はもどかしい思いで、
「冬獅郎さん…」
とただ彼の名を繰り返した。
冬獅郎の手がそろそろと乱菊に向かって伸ばされる。乱菊はその手を両の掌で包み込んだ。
「ごめんな…、遅くなって」
と冬獅郎が謝った。ふるふると、乱菊はかぶりを振った。
「あたしこそ、ごめんなさい」
俯いて小さな声で謝罪する乱菊に、
「これくらい、どうってことないから、気にすんな」
と彼は再び微笑した。
乱菊の掌の下で、彼の手は、掌も、甲も、指先に至るまで傷だらけだった。
助け出された乱菊と、乱菊を救う為に大怪我を負った冬獅郎はやって来た救援隊によって瀞霊廷に運ばれるや、直ちに四番隊の救護病棟に収容された。疲労困憊していた絢女も大事を取って入院となった。尤も、彼女は急速回復の施術により背中の怪我は癒えていたので、疲労回復の為に一日だけ病棟に泊まり、すぐに退院することが出来た。
問題は十番隊の主従である。冬獅郎の方は失血が酷かったのと、切り裂かれた傷が見た目以上に深かったせいで、結局、十日間の入院となった。十一年前の叛乱時は、死にかけるほどの大怪我を負いながら意識を取り戻した途端に隊務に復帰した冬獅郎である。今回も当時のことを引き合いに出して、すぐに退院するとごねたのだが、烈のひと睨みで沈黙した。
「あの時は非常事態でしたから、復帰を認めましたが」
と烈は一見するとにこやかな、けれども、隊長格からは悉く、この笑顔が出たら逆らうなと認識されている微笑でもって続けた。
「今回の場合、非常事態は収束しておりますでしょう?」
「…はい。おっしゃる通りです」
「では、怪我がきっちりと癒えるまでの十日間、入院することに問題はありませんわね」
畳み掛けられたら、
「…はい、ありません」
以外に答える言葉などあり得ない。十日間、冬獅郎はしっかりと四番隊に軟禁されたのだった。
一方、乱菊の方は最後の霊力暴走で疲労した以外には身体的なダメージはなかった。だが、鏡花水月、否、夢織に弄ばれた心の傷が重篤だった。しかも、霊力暴走で冬獅郎に重傷を負わせたことに関しても責任を痛感していた。乱菊は冬獅郎の半分の五日間の入院で隊務に復帰したが、烈の判断で、冬獅郎が入院している間は彼の病室に寝泊まりすることになった。
「精神的に安定するまでは日番谷隊長と離れない方が良いと判断しましたから、乱菊さんも四番隊に泊まって頂きますが」
と冬獅郎と乱菊を前にして、烈は厳かに宣言したものだ。
「ここは病棟です。そして、日番谷隊長、あなたは怪我人です」
「はぁ」
何故か、冬獅郎だけを見据えて、烈は最凶の聖母の笑みを繰り出した。
「夜中に妙な声が洩れるようなことがあれば、他の患者さんの迷惑だということをわきまえて下さいね」
「 」
一体、俺を何だと思っているんだ?
心の中では色々と突っ込みを入れてはいたが、面と向かっての反論など、怖ろしくてとても出来たものではない。下手に逆らえば、精神的な意味で、乱菊の霊力で切り刻まれたことなど目ではないほどのダメージを負う。そう判断した冬獅郎は、
「はい。肝に銘じます」
と神妙に頷いたのだった。