夢幻の終焉


 冬の日暮れは早い。
 傾き始めた太陽が空の色を染め替え始めた中、冬獅郎らは流魂街の荒野を走っていた。
 斬魄刀の共鳴が切れた為、道切の声はもう冬獅郎らに届かなくなっていた。だが、氷輪丸が自らの精神体に一時的に道切の精神体を同居させたことで、氷輪丸を通じて、道切の指示は冬獅郎らに伝えられた。錆びてぼろぼろの道切の本体は絢女が抱えている。
 乱菊が連れ去られたのは南流魂街にある一乗寺家の領地の森だということだ。そこは稀少な薬草が採取できるところで、もちろん管理する者が住み暮らしている。しかし、管理人の住居と別に森の奥に薬草採取に来た者が宿泊する為の簡素な小屋が設けられており、鏡花と夢織はそこに乱菊を連れ込んだ、と道切は語った。
 氷輪丸経由で道切からの伝言を聞き取ることが出来る冬獅郎を先頭に、絢女を背負ったギンが続き、殿に刑軍の男が続く。道切と遭遇した冬獅郎たちが乱菊を助けに流魂街に行く旨を伝えた際に、刑軍の部隊長が一緒に連れて行くようにと寄越した男だ。乱菊の早急な保護と、冬獅郎たちに勝手な振舞いをされては困るという刑軍の誇りを秤にかけた結果の妥協として、部隊長は見届け人を付き添わせた上で冬獅郎らの行動を許したのだった。
 領地の森は十七番街区の外れにある。死神が疲労も厭わずに限界まで瞬歩を使って走ったとしても、三刻みときはかかる。乱菊の下に辿り着けるのは深夜を過ぎるだろう。
(耐えてくれ、乱菊)
 今の冬獅郎は祈るしか出来ない。乱菊の精神を徹底的に弱らせる為に、けれども、ショック死しない程度に、じわじわと嬲るような悪夢で苛まれている乱菊を思うと居ても立ってもいられない。一刻も早く、彼女の下へと逸る心を裏切って、物理的な隔たりは大きかった。
 ぜいぜいと息を弾ませ、最初に音を上げたのは刑軍の男だった。ギンも乱菊が心配で焦る想いとはうらはらに、かなり負担が掛かっていて足が重くなっているのが、冬獅郎には分かった。身軽な冬獅郎と異なり、ギンは絢女を負ぶっているのだ。だが、絢女をギンに任せて冬獅郎一人が先行することは出来なかった。主を失い、朽ちかけている道切には夢織が乱菊に見せている悪夢への道を断つのが精一杯で、夢織に対抗し、冬獅郎を護るだけの余力はないのだ。絢女の浄めの風がなければ、救助に行った冬獅郎まで幻惑に捕まってしまい、ミイラ取りがミイラになるのは確実だ。そうなれば、道切によって一旦は解放された乱菊も、再び夢織の幻惑に翻弄されることになる。
「冬獅郎。体力を温存する為にも、もう少しゆっくり走った方がいいわ」
と絢女が忠告した。彼女とて、一刻も早く乱菊の下に辿り着きたいと願っているのは、冬獅郎やギンと同じだ。体力が落ちていて、ギンに運ばれている我が身が恨めしくさえあった。だが、自分まで焦りに我を忘れてはいけないと、極力冷静さを保つ努力をしていた。
「乱菊のところに、ただ辿り着くだけじゃだめなのよ」
 ギンや、刑軍の男が諭すよりも、自分が告げた方が冬獅郎は素直に聞き入れると思って、絢女は進言を続けた。
「鏡花や夢織と戦わなくてはならないの。体力を使い果たすのはまずいわ」
「…冬獅郎はん…。乱菊はそう簡単に心が折れてしまうほどやわな女やないで」
とギンも添えた。
「乱菊はボクらを信じて耐えとるはずや」
 乱菊を案ずる心は勝るとも劣らない。そう信じられる二人からの説得に、冬獅郎は頷いた。
「すまない…。焦り過ぎて、冷静さを失っていた」
 少し休み、冬獅郎から簡単な回復鬼道を施されたことで、刑軍の男も立ち直った。
 四人は再び、一乗寺の森を目指して走り出した。

 美しい女だ、と鏡花はつくづくと感じ入った。
 簡素な小屋の中、莚の上に無造作に横たえられた女を、鏡花は見つめていた。
 鏡花の為の新しい霊体に選ばれた乱菊は横たわったままであったが、眠っているわけではなかった。意識は覚醒している。だが、その精神は夢織の紡ぎだす幻覚に支配されていた。現実には小屋の板敷に横たわっているだけ、であるにもかかわらず、乱菊の認識においては、強力な虚に追い立てられて逃げ惑い、仲間であるはずの者たちから狩り回され、あるいは、ならず者に嬲られして、身体も、心も疲弊しきっている。恐怖、悲しみ、怒り、不安、そして絶望。負の感情だけを揺さぶるおぞましい幻惑に翻弄されて、乱菊の顔は苦悶に歪み、唇からは絶えず悲鳴や呻きが漏れ出ていた。
 それなのに、その歪んだ表情からさえぞくぞくするほどの艶めかしさを感じずにはいられない。このことに、鏡花は感嘆した。この美しい身体が自分の持ち物になるのだと思うと、痺れるような興奮が湧き起こって来た。
 つ、と鏡花は指を伸ばして乱菊の唇に触れた。やや肉厚の色っぽい輪郭をなぞり、口許の艶ぼくろにちょんと指先を滑らせる。
「本当に綺麗な女だこと…」
 この女なら、甦った水月を失望させることもあるまいと、鏡花はほくそ笑んだ。本来の鏡花はすっかり老いて、往年の容色も衰えきっている。だが、このように美しい女の身体に鏡花が宿れば、本来の姿でなくても水月は喜ぶはずだと、彼女は疑いもしなかった。
 ふと、思いついて、彼女は乱菊の夜着の腰帯を解いた。前をはだけて、生贄の裸身を検める。
「ふふ…、身体も綺麗…」
と満足げに鏡花は笑みを零した。水月が甦ったならば、別離のつらさの分だけたっぷりと愛してもらわなければならない。容貌ばかりでなく、身体も水月を満足させるに足る素晴らしいものであることが、鏡花の歓びを深くした。ゆっくりと、鎖骨から胸元、腰、腿と無遠慮な視線を彷徨わせて、検分する。と、その目が腰の一点に留まった。
「何、この傷?」
 一転して苦々しい口調になって、鏡花は呟いた。その傷は十一年前の藍染の叛乱の決戦の際に、アヨンという化け物に腹を引き千切られた名残だった。織姫の事象の拒絶により、生命の危機を脱した乱菊だったが、完全に傷が塞がらないうちに戦場に戻った為に、腰にわずかばかりの傷痕が残ってしまったのだ。烈や勇音は、その程度の傷ならば四番隊の力で跡形もなく綺麗に治癒することが出来るからと、痕を消すことを申し出てくれた。しかし、乱菊は断った。彼女は自らの油断と慢心の戒めとするつもりで、敢えて完全に治癒させずに痕を残したのである。だが、そんな乱菊の決意など、鏡花の知るところではなかった。鏡花にとっては自分の新しい器に醜い傷があるのが不満だった。
 しばらく、忌々しげに傷痕を睨んでいた鏡花だった。しかし、すぐに、
「…まぁ、いいわ」
と気を取り直した。
「この程度の傷、この身体が私のものになってからゆっくりと消せばいいのよ。卯ノ花なら簡単でしょうし…」
 嘯いた彼女は、傷痕を乱暴に指先で弾いた。途端に、びく、と乱菊の身体が小さく痙攣した。
「あら?」
 目を瞠った鏡花は、今度はそうっと腰の線を撫で上げてみた。
 再び、乱菊の身体が痙攣するような反応を示した。
「ふうん…」
 意識は夢織の幻覚に捕らえられたままである。従って、触れられたことを認識しているはずがない。にもかかわらず、刺激に対して、身体は生理的に鋭敏な反応を示していた。先ほどまでは不愉快そうだった鏡花の口許が、今一度、満足げに緩んだ。
「ますます水月が喜びそう…」
 鏡花は乱菊の剥き出しになった胸をそっと掌で包み込んでみた。予測通りに、ぶる、と震えて反応を返した乱菊に、鏡花の笑みがいっそう深くなる。ゆるゆると乳房を揉みしだきはじめた鏡花に、
『何を悪戯しているの?』
と夢織が問いかけて来た。
「いずれ私の身体になるのですもの。どのあたりが弱いのか確かめておこうと思って」
 鏡花は答えた。
『そう。ならば、丁度いいわ。次は自分自身に凌辱される幻覚にしましょう』
と夢織は応じた。
「自分自身?」
 鏡花は鸚鵡返した。
「生ぬるいわ」
 酷薄に言い放つ。
「どうせなら、卑しい、獣のような男どもに輪姦まわされる幻覚にしたら? その方が衝撃は強いでしょうし」
 現実に凌辱させることなどは絶対に許さない。鏡花の器になるべき霊体だからだ。だが、幻覚の中で、乱菊の精神だけが凌辱される分には、どんなに非道なことになっても鏡花は一向に構わなかった。
『あんまり強すぎる幻覚を与えて、狂い死にでもされたら困るでしょう?』
と夢織は鏡花を諌めた。
『淫乱な見かけのわりには、精神構造は古風な女なのよ。そんな幻覚は強すぎるわ。さっき、未遂までいかせて様子をみたけれど、それだけでもかなり弱ったわ。輪姦では持たないかもしれない』
「私は早くこの女に入り込みたいの」
『それは、私だって同じよ。だけど、その為には、この女の魂魄を死なせるわけにはいかない。生かしたままで、鏡花が潜り込めるくらいまで弱らせないとならないの。鏡花だって、分かっているでしょう? 狂い死にしない程度に追い詰めるのは加減が難しいのよ』
「わかったわ。それなら、私は勝手に遊んでいるから、夢織はこの女を痛めつけて」
『ふふ。楽しんでいて』
 夢織は現実に幻覚を同調させた。
 ゆっくりと乱菊の眸の焦点が合って、彼女は目の前にいる鏡花を    自分自身の義骸を認めた。
「なっ…!?」
 慌てて逃れようとするが、単に現実と同調しただけで夢織の幻覚に捕まったままの意識は、自らの身体がきつく縛められている、と認識してしまっていた。大きく身体をのたうつことは出来ても、起き上がることも、立ち上がることも出来なかった。
 元来は気持ちが優しく、他人が痛めつけられるさまに恐怖と嫌悪を覚える女だった鏡花だ。しかし、水月を殺されて発狂した時に、彼女は優しさも、繊細さも、良心や倫理観も、全て投げ捨ててしまっていた。正邪の観念が未発達で、好奇心の赴くままに行動が出来る幼子のように、彼女は目の前の生贄をいたぶることに没頭し始めた。
 ある意味、自分自身とも言える義骸に胸を強く揉みしだかれ、乱菊は混乱した。
「なに…、何で?」
 逃れようと必死になって暴れるが、実際には存在しない縛めが強く肌に食い込んで苦痛を増しただけだった。腰に馬乗りになった義骸は、乱菊のもがくさまさえ楽しんでいる態で、容赦なく身体に唇を這わせてきた。
「いや、いやぁ!」
 男であろうと、女であろうと、自分自身であろうと、乱菊には関係がない。彼女が身を許しているのは、触れても構わないと思っているのは唯一人、冬獅郎だけだ。それ以外の者に身体を玩ばれるのは屈辱と嫌悪でしかなかった。
 顎を掬い取られ、口腔を犯された。義骸の両手は乱菊の乳房を玩ぶことを止めない。
(いやぁああ!! 冬獅郎さん、助けて!!)
 自分自身に嬲られるという異様な状況に惑乱を極めながら、乱菊はただ、ただ、呼び続けていた。

 破壊音と共に、小屋の扉が消し飛んだ。
 直後、飛び込んできた四つの人影に向かって、
「破道の五十四、廃炎」
と焔が放たれる。だが、
「縛道の八十一、断空」
 縛道の壁がそれを弾き返した。
 廃炎の焔と断空の壁がほぼ同時に消滅する。
 小屋の中では、乱菊が仁王立ちになっていた。
 そんな彼女の背後には、壁に背中を預けてぐったりと座り込んでいるもう一人の乱菊がいた。背後の乱菊が身に着けているのは、薄い夜着一枚きりで、しかもそれは無惨に乱れていた。腰帯は解かれて床に抛り捨てられており、完全に開けた前からは胸元がほとんど露出していた。床に投げ出された脚は太腿まで完全に剥き出しになっている。それを素早く見て取ったギンはさりげなく刑軍の男の視界を、自らの長身で遮った。
「冬獅郎はんから氷漬けにされとうなかったら、ボクの後ろから出んようにしとき」
 低く、だが鋭い声で囁かれ、男は事態を察した。無言で頷いた気配を背中で感じ、
「さすがは刑軍や。呑み込みがええな」
とギンは笑んだ。
 幻覚に囚われたままで、助けが来たことさえ認識できないのだろう。霊体の乱菊は虚ろな眸で虚空を見詰めている。冬獅郎は爪が掌に食い込むほど、きつく拳を握り込んで怒りに我を忘れそうになる自分を抑えた。
「夢織」
 ギンの傍らに立った絢女が呼び掛けた。彼女は乱菊の義骸に入り込んでいる鏡花ではなく、彼女の手に握られた夢織の名を口にした。「鏡花水月」ではなく、絢女が知るはずのない真実の名を告げられて、夢織が俄かに動揺する。その隙に、絢女は大事に抱えて運んできた道切の本体を冬獅郎に差し出した。
「…道…き…り?」
 鏡花が大きく目を瞠った。愛する水月の斬魄刀を前にして、鏡花は思わず、心を奪われた。
 途端、氷輪丸が鳴動した。
 弱り切った道切の最期の仕事を支える為に、氷輪丸は道切に共鳴し、自らの力を分け与えたのだ。
『還れ』
 道切が自ら始解する。直後、絢女の両掌に乗せられたぼろぼろの太刀が変化した。尺が詰まり、崩れかけの柄は完全に崩れて消え去り、刃の厚みが増した。変化が完了した時、道切は両端の尖った棒状の形状に変わっていた。現世の仏教で使用される独鈷という法具によく似ている、と絢女は思った。
 冬獅郎が道切を掴んだ。深く息を吐いて心を落ち着けると、彼は大きく手を降り上げた。次の刹那、鋭い軌跡を描いて、道切が放たれた。乱菊の頭上ぎりぎりを掠めて、背後の板壁に道切は突き刺さった。
 鏡花も、夢織も、茫然とそれを見ていた。道切の出現は、完全に彼女たちの意表を突いたのだ。

 道切が強く発光した。
『輪廻往還』
 広がった光が乱菊を包み込む。

 息を呑んだ鏡花が、道切を遮ろうと足を踏み出したその時。

「射殺せ、神鎗」

 始解の言葉を認識した時には遅かった。
 神鎗の刃は迷いもなく、乱菊の義骸を両断してのけた。
「な…?」
 ゆっくりと上肢と下肢がずれ、そして、一瞬の後、ごとんと音を立てて、義骸の上半身が床に転げた。吹き上がる血飛沫が小屋の床と天井に飛び散る。義骸の腕が掻き毟るように板敷の上を蠢いた。
 飛沫と血臭が絢女に及ばぬように結界を張り巡らせながら、ギンは冷えた眼で義骸を観察した。
 苦しげに面を上げた乱菊の義骸は、
「…おのれ…」
 憎悪の籠った目でギンを睨んだ。直後、かはっ、と義骸は血を吐いた。
 血反吐とともに鏡花の霊体が這い出て来た。
 義骸に入っていたのが仇となった。一時的に乱菊の義骸と結合していた鏡花の霊体は、義骸が両断されたのと当時に上下に分断されてしまっていた。
「おのれ…」
 白髪を振り乱した老女が、下肢を失った血塗れの姿でずるずると若い美女の身体から這いずり出す光景は、いっそ作り物のような非現実感をもたらした。苦悶に満ちた血走った眸と憎悪に歪んだ表情は、その場の全員に安達ヶ原の鬼女を想起させた。
「何故、私の邪魔をする…」
 鏡花は呻いた。
「乱菊を護りたいからに決まっとる」
とギンは応じた。視線は冷徹だったが、その声に憎悪も怒りもなかった。凪いだ声音で彼は続けた。
「乱菊の身体を乗っ取ろうなんて、許せるはずない」 
「…何を…偉そうに…」
 鏡花の顔がさらに歪んだ。
「きさまに…私を…責める資格がある…と…でも…」
「別に責めてへん」
とギンは遮った。
「キミと夢織は水月を甦らせ、自分自身が生きながらえる為に乱菊を乗っ取ろうとした。ボクはボクで、乱菊を乗っ取られるんが嫌やったから、キミを斬った。それだけの話や」
 他人の霊体を乗っ取るのは明らかに外法である。だが、ギンはそれを責めるつもりは全くなかった。絢女の復讐の為ならば、世界に背いても構わないと己の道を突き進んだかつての彼と、鏡花や夢織は合わせ鏡だ。
「正義なんてどこにもない。キミらの望みとボクらの望みとがぶつかり合って、キミらは負けたんや」
 鏡花と夢織をギンに任せ、冬獅郎は土足のまま三和土たたきから板敷に上がり込んだ。大股に乱菊に近付くと、前が開けた夜着を覆うように、自らの隊長羽織を着せかけた。
 乱菊を覆っていた道切の光が徐々に弱まった。やがて、すう、と蝋燭が燃え尽きるかの如くか細い光が消え果てた。同時に、道切の変化が解けた。柄さえも失った錆び付いた刀が姿を現し、直後、ぼろぼろと崩れ落ちた。芯まで錆び切った鉄は、形を保てない。道切であった赤錆びた鉄粉が、乱菊の髪や冬獅郎が着せ掛けた隊長羽織に赤い雪のように降り注いだ。

     !!!!!!

 言葉にならない悲痛な絶叫が狭い小屋の中に響き渡り、幾重にも木霊した。
 道切が崩れるのと、ほとんど時を同じくして、鏡花がこと切れた。

 ぐにゃり、と景色が歪んだ。哀しみに我を失った夢織が自らの力を暴走させたのだ。
 しかし。
「噎び啼け、秋篠」
 絢女の始解が夢織を抑えた。
「卍解。鷺姫秋篠」
 静かな、決して強くはない、けれども、不思議な力に満ちた風が渦を巻いて、夢織を覆った。秋篠の刀身が風そのものに変わり、どこからか立ち現れた白鷺が、夢織の傍らに降り立った。
「道切との約束です。夢織を霊子に還します」
と絢女は背後に立ち尽くしたままの刑軍の男に告げた。
「見届けて下さい」
 彼女の言葉に、男ははっと姿勢を正した。
「はい」
 短い了承の言葉に頷いた絢女はギンに目配せをした。頷いたギンは絢女と鷺姫、そして夢織を囲うように結界を張り直した。九十番台の強力な結界術の詠唱に息を呑んだ刑軍に、
「こうせんとボクらまで霊子に還ってしまうからな」
と結界を張り終えたギンは物騒な呟きを洩らした。
 絢女が夢織の傍らに移動した。鷺姫が羽ばたいて、彼女の肩に留まった。
「夢織…」
 秋篠で抑えられたまま、憎しみの波動だけを放っている夢織に、絢女は語った。
「道切の願いは揃って、輪廻の流れに還ることでした」
    
「遠い昔に逝ってしまった水月も、今、亡くなった鏡花も、そして道切も、あなたを待っています」
『…いや…』
 夢織が呻いた。
『消えるのはいや』
 だが、絢女は緩く首を振った。
「あなたを霊子に還すことが正しいことなのかは私には分からない。ただ、道切は私たちに力を貸してくれた。その恩義に報いる為に、約束を果たします」
 ギンの言ったように、これは正義ではない。水月や道切が輪廻の流れの中で鏡花と夢織を待っているなどと考えたのも、自分を慰める為の願望に過ぎないだろう。ただ、絢女は道切との約定を守りたかった。狂ってしまった夢織をこれ以上、暴走させたくないという道切の願いを叶えたかった。
「滅びの風。たまゆら」
 息を吐き出すほどの、短い間の出来事だった。
 刑軍の男には、夢織は砂で作られた飾りの刀のように見えた。もろもろと夢織は崩れていった。錆びた道切が崩れたのよりもさらに細かく、微細な霊子の塵になって、夢織は消えていった。
 そして、風が再び、秋篠の刀身を形作った。鷺姫が溶けるようにその姿を消した。
「終わったんですか…?」
 男の問いに、
「終わったで」
とギンは答えた。
 結界を解くと、ギンは絢女に歩み寄った。疲れたのだろう。彼女はギンに身体を凭せ掛けた。ギンもまた、支えるかのようにその肩を緩く抱き止めた。
 冬獅郎が乱菊の前に跪いた。
「乱菊…」
 そっと呼びかける。
 漸く正気を取り戻した蒼い眸が、冬獅郎を映した。
「…とう…しろう…さん?」
 細い呟きが唇から落ちた。
「ああ」
と冬獅郎は頷いた。
「遅くなって済まない」
 嬲りものにされて傷付いた心身を労って、冬獅郎は細心の注意を払って優しく乱菊を抱き寄せた。
「…冬獅郎さん…」
 おとなしく乱菊は冬獅郎の両腕に納まる。冬獅郎は安堵の息を吐いた。
 だが、
「いやあぁ!!」
 いきなり乱菊は絶叫した。力一杯、突き飛ばされて、冬獅郎は尻餅をついた。
「乱菊!?」
 狼狽えた冬獅郎は、乱菊に手を伸ばそうとした。だが、一瞬早く、背後から襟を掴まれ、ぐいと後ろに引き寄せられた。目の前に結界の壁が出現し、乱菊と冬獅郎を隔てた。
「市丸!?」
 抗議を込めて振り返った冬獅郎は、ギンが左手で絢女を支えたまま、怖ろしく真剣な顔で乱菊を凝視しているのを認めた。
「何…?」
 嫌な汗が背中を流れるのを冬獅郎は感じた。もう一度、冬獅郎は乱菊に視線を戻す。
 乱菊の周りを、靄のようなものが覆っていた。
「…あれは…?」
 唖然と呟いた冬獅郎に、
「乱菊の霊力が暴走しているのよ」
と絢女が答えを返した。
「ここに灰猫はおらんからな。灰猫の代わりに、この小屋に溜まっとった埃やら砂やら道切の錆やらを巻き上げて、高速回転させとるんや」
 始解した灰猫の微粒子の刃は金剛石ダイヤモンド並みの硬度を持つ。それが高速旋回して、敵を切り裂くのだ。乱菊の巻き上げた埃や砂粒は、灰猫のように物体を切り裂く力は本来持っていない。しかし、乱菊の霊力により高速旋回すれば、話は異なってくる。灰猫には及ばなくとも対象を擦り切るくらいの力を得る。乱菊の周りの板壁も、床も、彼女が巻き上げた埃によって磨り削られ、それによって生じた木の粉が新たな乱菊の武器となって、彼女を覆う靄は濃度を増していた。
「…どういうことなんだ?」
 みるみるうちに靄に霞み、その姿さえ薄ぼんやりとした影になってしまった乱菊から目を逸らせないまま、冬獅郎は誰にともなく問い掛けた。
「まさか、道切は…」
 弱っていた道切は失敗したのか。乱菊は夢織から解放されていないのか。
 最悪の予感に顔を蒼褪めさせた冬獅郎に、
「道切は確かに、夢織の幻覚を断ち切ったわ」
と絢女が強く否定を返した。
「夢織の幻覚は終わったはずよ」
「だったら、何で、乱菊はっ!?」
 思わず、相手が姉だということも忘れて怒鳴りつけていた。
「…冬獅郎…」
 はっと、冬獅郎は口を噤んだ。
「…ごめん」
 一拍おいて、彼は謝罪した。
 立ち上がった冬獅郎は、絢女を見詰めた。
「間に合わなかったのか…?」
 弟の問い掛けに、絢女は答えられなかった。それは、絢女自身、想像したくもない破滅を意味していた。
 間に合わなかったのかもしれない。夢織に与えられた過酷な幻覚に耐え切れず、乱菊は精神を崩壊させてしまったのかもしれない。
 為す術もなく立ち尽くす姉弟と、茫然としてただ乱菊を眺めるばかりの刑軍の男に向かって、ギンが、
「イソップ物語の狼少年の話…、知っとる?」
と唐突に口を開いた。
 もちろん、知っている。現世において、知らない者はいないだろうというくらいに人口に膾炙した有名な寓話で、瀞霊廷でも死神や貴族にとっては基礎知識に属する話だ。だが、何故、いきなりギンがその話題を振って来たのかが、冬獅郎らには理解出来なかった。この状況で、平素の軽口や悪ふざけを口にしたとは考えられない。現に、ギンの表情は真剣そのものだ。
「多分…、ボクらは今、狼少年なんや」
「…は?」
 一瞬、惚けた後、冬獅郎も、絢女も、ギンの真意を理解した。

 大人たちが慌てふためくさまが愉快で、
「狼が来た!」
と嘘の助けを求め続けた羊飼いの少年。度重なる悪戯に辟易した大人たちは、少年の言葉を信用しなくなった。
「狼が来た!」
と助けを求めても、またか、と誰一人として騙されなくなった頃、本当に狼が現れた。
 少年は慌てて、助けを求めた。
「狼が来た! 本当に来たんだ!! 助けて!!」
と。しかし、大人たちはいつもの悪戯だと相手にしなかった。その結果、狼は羊を襲って食べてしまった。少年自身が食べられてしまったという別説もある。

 夢織の幻覚は夢ではない。乱菊は覚醒し、思考力も理性も正常に働いている状況で、おぞましい幻覚に翻弄され続けたのだ。乱菊は目の前で展開する悪夢のような出来事の数々を鏡花水月の幻惑術に嵌っていると認識した上で、なぶられていた可能性が高い。だとすると、乱菊は信じていただろう。ギンが、絢女が、そして、誰よりも冬獅郎が自分を見捨てるはずがないと。きっと助けに来るはずだと。
 狡猾な夢織は、乱菊の信じる心さえ、追い詰める為の罠に利用したのだ。
 おそらく、乱菊は幻覚の中で、幾度も冬獅郎やギンや絢女に助け出されていたのだろう。幻覚は終わったと、救い出されたのだと、安堵し、気を緩めたところで別の悪夢に苛まれ、救い出されたことさえも夢幻だったと知らされる。それを繰り返すことで、夢織は乱菊を疲弊させ、信頼を萎えさせたのだ。
 道切によって正気に返った乱菊は、一瞬、確かに冬獅郎を認めた。認めて、安堵した直後に、彼女は疑ったのだ。繰り返された幻覚かもしれない。そして、また裏切られるのだと絶望したのだ。
 乱菊を覆う靄は濃度を更に増していた。すぐそこにいるはずなのに、最早、朧な輪郭さえ視認することは出来なかった。
「姉さま」
 やけに落ち着いた声音で呼び掛けられて、絢女は弟を見返した。
「姉さま、俺に聞いたよな。乱菊が本物なのか、まやかしか区別が出来ないようないい加減な関係だったのかって?」
「ええ」
 絢女は頷いた。
「俺は判ると答えた」
「ええ」
「乱菊も判るはずだって、信じていいよな」
「判るはずよ」
 姉の断言に、冬獅郎は笑みを浮かべた。姉からギンに視線を移し、
「市丸、姉さまを頼む」
と彼は告げた。
「何をする気なん?」
 敢えて問うたギンに、
「おまえが俺の立場ならすることだ」
と冬獅郎は答えた。それに対して、
「いち、にのさんでいくで」
とギンは応じた。
「おう」
 ギンは姿勢を正すと、一息吸い込んだ。
「いーち」
 吐く息と共にカウントが告げられる。
「にー」
 そして、
「さん!」
 瞬間、身体の幅に開いた結界の壁をすり抜け、冬獅郎は飛び出した。彼が抜けると同時に結界はその隙間を閉ざした。
 刑軍の男が目を凝らした時には、冬獅郎の姿は靄に溶けて消えていた。

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2013.11.03