絢女
井上織姫が住まうアパートの屋根に座り込む人影を認め、乱菊は軽く溜息をついた。
重力を感じさせない身軽さで、ひょいひょいとベランダごしに屋根に上がり、座り込んでいる上司の傍らに立つ。
「いくら、日が落ちているからって、義骸でこんなトコに上っちゃだめですよ。義骸は一般人にも見えるんですから」
「悪かった、と言いたいとこだが、おまえまで義骸で上ってきちゃ、余計目立つだろうが」
「お食事、お持ちしたんですよ。おなか空いてるでしょう?」
上司の小言を軽く無視して、乱菊はがさがさと音を立てるビニール袋を差し出した。
「すみません。『コンビニ弁当』とやらで申し訳ないのですが」
「いや、いい。助かった」
と、冬獅郎はビニール袋を受け取ると、中に入っている弁当やおにぎり・ペットボトルの飲料を取り出して、膝の上に広げた。傾斜のある屋根の上でも、危なげなく食事を取る冬獅郎を見遣りつつ、乱菊は彼の傍らに腰を下ろして、自分用に買ってきたミルクティーの蓋を開けた。
「隊長?」
「なんだ?」
「雛森と、何かあったんですか?」
前置き抜きで核心を突く質問をしてくる乱菊に、
「ああ」
と、冬獅郎は肯定を返した。
夕刻、総隊長との通信の折、冬獅郎と乱菊は昏睡状態だった冬獅郎の幼馴染が意識を取り戻したのを知った。話したいとずっと待っていた、という幼馴染の姿をスクリーン越しに確認し、冬獅郎が心から安堵しているのを乱菊は確かに見ていた。二人に気を使い、「一角たちに知らせてくる」と出て行った時までは、間違いなく和らいだ表情を浮かべていた上司は、乱菊が戻った時、居候している織姫の部屋からいなくなっていた。ご丁寧に霊圧まで閉じきって。
すぐに戻るだろうと、織姫の部屋で待っていたが、律儀な冬獅郎が夕食の時刻になっても戻らないので、さすがに心配になった。織姫まで不安にさせないように、
「隊長は用事があって出ているの」
と言い訳して二人で夕食を取った後、買い物に行って来ると断って、乱菊は織姫の部屋を出た。
おそらく、空腹を覚えているだろう冬獅郎の為に、コンビニで食事を調達し、彼がいそうなところを捜しまわること一時間。灯台下暗し、とはこのことで、織姫のアパートの屋根でたそがれている冬獅郎を発見したのだった。
ずっと一緒に育った大切な幼馴染で姉妹も同然の雛森桃が昏睡状態を脱したこと、話せるようになるまで回復したことは、彼にとってはどんな知らせにも勝る朗報だったはずである。にもかかわらず、乱菊の隣で黙々と食事を続ける冬獅郎の眉間の縦皴は普段の二割増で、まとう雰囲気は暗い。
「何があったんですか?」
傍から見ると、無遠慮に上司の内面に切り込んでくるような乱菊の口調。だが、それは辛いことや苦しいことをともすれば自分の裡に抱えてしまう冬獅郎を気遣ってのことで、彼もそれを充分に承知しているから、素直に答えた。
「あいつな、まだ藍染を信じてやがる」
「え?」
「なんで、信じられるんだろうな。あんな最悪の形で裏切られたってのに…」
「…」
「『どうにもならない理由があるんだ』とか『無理やり協力させられてるんだ』とか言って…。どうにもならない理由で無理やり協力させられた奴が、微笑いながら、自分の副官を刺すか?」
「…」
「あげくに『藍染隊長を助けて』ときた。…俺にどうしろって言うんだよ」
乱菊は目を見開いて、冬獅郎を見つめた。いつもなら、決してここまで率直に乱菊に愚痴ったりしない冬獅郎の珍しく苛立った声に、本当に悔しかったんだなぁ、と乱菊は深い同情を覚えた。
「雛森は藍染たい…、藍染のこと、本当に慕ってましたから」
「知ってる」
「そう簡単に、気持ちにけりはつけられませんよ」
「分かってる」
分かっている。だが、割り切れない。
桃にとって、藍染以外の世界はそれほど意味のないものだったのだろうか。家族同然の幼馴染。彼女を慕う隊の部下たち。仲のよかった副官仲間。みな、彼女を案じ、気遣っていたというのに、それらに背中を向け、ひたすら藍染だけを信じてすがろうとする桃の姿は、冬獅郎をひどく傷つけていた。
「隊長」
「なんだ?」
「それでも、雛森のことが大切なら、手を離しちゃだめですよ」
やわらかく告げられた言葉。
「どんなに歯痒くても、悔しくても。愛想を尽かしたくなるくらい腹が立ったとしても、大事なものから手を離しちゃだめです」
乱菊はふんわりと綺麗に微笑った。
何度見ても、上司として近くにいて見慣れるほど見ていても、なお、綺麗だと見とれる笑顔だったが、そこに常にはない痛みがあるのを見て取って、冬獅郎も思わず、核心を突いた言葉を発してしまっていた。
「市丸、か?」
「はい」
あっさりと、乱菊も肯定を返す。
「隊長に、あたしと同じ後悔はしてほしくないですから」
「後悔…か」
「ええ」
と、乱菊は再び笑みを浮かべた。
「ギンが何を見出して、何を求めて藍染に従ったのか、あたしには分かりません。あたしがギンの手を離さなかったら、彼は反逆なんてしなかった、なんてうぬぼれるつもりもありません。でも、ね、あたしがちゃんとギンを見ていたら、もしかしたら、止められたかもしれない。止められないまでも、少なくとも、今みたいに、何で、何でって、ぐるぐる悩まなくてすんだかもしれない、そう思ってしまうんですよ」
「そう…か」
「四十年以上前のことです。あたしとギンはとても大切だった人を失くしました。あたしはその時、自分の悲しみでいっぱいいっぱいで、ギンも傷ついていたのに、もしかしたら、あたしなんかよりずっと絶望してたはずなのに、アイツを支えてあげられなかった。ギンがこの世界を壊したいと、いつから考えてたのかわかりませんが、きっかけのひとつは彼女を失くしたことだったと思ってます」
「彼女?」
「ええ、ギンの最愛の
「市丸の最愛の女って、おまえじゃねぇのか?」
「隊長にとって、雛森は『最愛の女性』ですか?」
逆に、乱菊は尋ねた。
それに対して、ゆっくりと冬獅郎は首を横に振る。
「『最愛の家族』だが、『最愛の女』じゃねぇな」
「おんなじ、ですよ。あたしはギンの『最愛の家族』、だったと思います。でも、ギンにとって、あたしは妹みたいなもので、女として見られたことはなかったです。あたしもギンを男として見たことはなかったから、おあいこですけど」
冬獅郎にとって、副官の幼馴染だという市丸ギンは、「天敵」ともいえる存在だった。いつも喰えない笑みを貼り付け、ひょうひょうと世渡りをしているように見えるその男は、冬獅郎が隊長職に就いて以来、彼を目の仇にしていた。歳若い、というよりも、いっそ幼いと言っていいほどの冬獅郎が同格の隊長職を務めるのが気に喰わなかったのか、幼馴染を副官にしているのが癇にさわるのか、と最初のうちは考え、歩み寄ろうと努力をしたこともあった。だが、すぐに諦めた。ギンは冬獅郎本人が気に入らないのだ、といやというほど悟ったから。そんな上司に遠慮してか、乱菊も冬獅郎の見ている前でギンと親しげな振る舞いをすることはなかったし、彼のことを冬獅郎に話すこともなかった。だから、乱菊とギンが幼馴染で親しい間柄であったこと、いつのころからか疎遠になってしまったことを、冬獅郎は乱菊本人からではなく、他隊の隊長から耳にした。
「そういえば、隊長にギンのことを話すのって、初めてですね」
乱菊もそのことに気がついたのか、ふふ、と笑って言った。その笑みはやっぱり悲しそうに見えた。
「そうだな。幼馴染だとは噂に聞いてたが」
「そうですねぇ。確かに幼馴染ですけど、それ以上に恩人なんですよ、ギンは」
「恩人?」
「あたし、ご存知だと思いますけど、流魂街の番号の大きい最下層の出身なんですよ。どうしようもないくらい治安の悪いところ」
「ああ」
「そこに流された時、あたしは今の隊長と同じか、ちょっと大きいくらいでした。自分に霊力があることさえ知らなくて、もちろん使い方もわからなくて、ただお腹が空いて、動けなくて…。…生き延びる方法なんて知らなかったから、死んでここに来たのに、また死んだら、今度はどこに行くのかなぁ、とか考えながら、道に倒れて空を見ていたんです」
「…」
「その時、ギンに拾われたんです。『食べ』って差し出された干し柿は、世の中にこんなおいしいものがあったんだ、って思えるくらいおいしくって、あたしはそれで命を永らえました。それから、ずっと、二人で生きてきたんです。ギンは霊力自体あたしよりずっと強くて、霊力の使い方もよく知っていました。ギンが霊力の扱い方や生き延びる方法を教えてくれなかったら、あたしは無事ではいられなかった。あのまま野垂れ死んでいたか、人攫いにさらわれて売り飛ばされていたか、少なくとも、護廷の副隊長なんて、日の当たる場所にいなかったことは確かです」
「だったら、俺もあいつに感謝しなくちゃならねえか…」
と、冬獅郎は皮肉ではなくそう言った。
「市丸に拾われて、守られて、松本がここに辿り着いたってなら、悔しいが、市丸は俺にとっても恩人だ」
冬獅郎の思いがけない言葉に、乱菊の目が極限まで見開かれる。
「たぁ〜いちょ〜!」
「うぉっ!」
いきなり、飛びつかれるように抱きつかれ、思わず屋根から滑り落ちそうになったのを、冬獅郎は全身の筋肉で押し留めた。
「それって、あたしが副隊長で幸せ、ってことですかぁ?」
乱菊は先ほどまでの寂しげな微笑はどこへ消えたか、というほどの満面の笑みを浮かべている。やはり、こちらの方がらしいな、と内心で笑いながら、冬獅郎はいつもの仏頂面を作る。
「そう思うんなら、思っとけ」
「は〜い、思っときま〜す」
冬獅郎の左腕をまるごと胸の谷間に納めた格好で、そのまま、しばらくにこにこしていた乱菊だったが、不意に真顔になって、腕をほどいた。
「あたしが一人でも安心して生きられる程度に治安のいい地区に辿りついた時、突然、ギンはあたしの前から消えました」
と、乱菊は先ほどの続きを語った。
「あたしを置いて、どこかに行ってしまったんです。それまでにも、あたしを置いてどこかに行くことは何度もあったんですけど、出て行く前には必ず『出かけてくる』って断ってくれてたのに…。どこに行ってるのかは絶対に教えてくれなかったですけど、帰りの約束はしてくれました。でも、その時は、黙って、あたしが眠ってる間に出て行ってしまって…。捨てられたんだ、って思いました」
言葉や態度で表されたことはないが、乱菊が置いてゆかれることをひどく怖れている、と感じる時が、冬獅郎にはままあった。ずっとその理由が分からずにいたが、ようやく合点がいった。おそらく、その時のことが、乱菊の中で傷になっているのだろう。
「寂しくて、捨てられたことを認めたくなくて、必死にギンを捜してた時に、出会ったのが絢女でした」
「…あ、やめ?」
乱菊の口から初めて発せられたその名前に、冬獅郎の表情がわずかに緊張する。だが、眼前の夜闇をみていた乱菊はそれに気付かぬまま、話を続けた。
「
と、乱菊は闇の中に絢女という女を描くように言葉を続けた。
「明るい栗色の髪に、琥珀色の目をした、同性のあたしから見てもうっとりするくらい綺麗な娘でした。知り合ったきっかけは思い出せないくらいたわいのないことだったんですけど、何でか、意気投合しちゃって、いくらそこそこ治安がいいといっても、女一人でいるのは不安があるしってことで、一緒に生活するようになって…」
護廷一の美女とまで評されるほどの美貌の主である乱菊と、その彼女から見てさえ「うっとりするくらい綺麗」な女が一緒にいるのは、相乗効果で却って危ないのではないか。もし、その場に冬獅郎がいたなら、そう突っ込みたいところだが、過ぎてしまったことをとやかく言っても仕方がない。それに、如月絢女という女も、最下層から一人で這い上がってきただけあって、かなりな霊力を持ち、その使用法を把握していたらしいので、その点では、確かに二人の方がより安全というのも頷ける。
「親友でした。優しくて、まっすぐで、あたしが『ギンに捨てられた』って愚痴った時も、ギンはあたしを捨てたんじゃなくて、ギンに依存して、彼が世界のすべてみたいになってたあたしを自立させて、世界を広げさせたかったんじゃないか、って言ってくれて。ギンがあたしのことを大事にしてたのは、あたしの話を聞くだけで分かる、って。絢女にそう言ってもらえると、それが真実みたいな気がしてずいぶん救われました」
乱菊は懐かしそうに目を細めた。
絢女と二人、助け合いながら、流魂街のより番号の小さい地区を目指したのだ、と乱菊は話を続ける。
絢女は、詳しくは乱菊にさえ語らなかったが、どうしても護りたい人がいて、その人を護る為に死神になることを目標としていた。そして、乱菊が死神になることを決心したのも、絢女に感化されたからだという。
流魂街の一桁の地区に辿り着き、ようやく、死神への一歩となる真央霊術院を受験できるようになった時には、二人の出会いからかなりの時が経過していた。そして、霊術院の入学式の日、乱菊は思いがけずギンと再会することになった。
ギンもまた、死神を目指していたのだという。
自分とともにいれば、乱菊も死神になろうとするだろうことは想像に難くなく、けれども、彼女には血なまぐさい死神稼業には就いてほしくない、流魂街の治安のいい地区で安らかに暮らしながら転生の時を待って欲しい、そんな想いで、乱菊の元から去ったというのに、
「台無しやん」
と呆れたように笑うギンに、絢女の言った通りだったと、見捨てられたわけじゃなかったんだと、乱菊は嬉しかった。
「その時に、ギンに絢女を引き合わせたんですけど」
「…ああ」
「ギンとまだ一緒に暮らしてた頃、一度だけ、アイツ、ひどくうなされたことがあったんです。その時に、うわごとで『あやめ』って呟いて。翌朝、尋ねたら、『
と、乱菊は言った。
ギンに「親友だ」と絢女を紹介した時、彼の眼に走った一瞬の驚愕を乱菊は見逃さなかった。すぐに、彼は平静を保ち、
「よろしゅう」
と、笑みを浮かべて、絢女に右手を差し出した。
その右手を握り返した絢女は、何故か、この時、
「はじめまして…、ですよね?」
と、ギンに問いかけた。
「初めて会うたと思うけど?」
「ですよね。どうしてかしら? とても懐かしい気がして…。乱菊にいつも話を聞いていたからかしら?」
小首をかしげた絢女を、ギンはやわらかく微笑みながら見ていた。けれど、
「絢女は気付いてなかったですけど、付き合いの長かったあたしには、ギンがすごく動揺してて、それを必死に隠していることが分かってしまって…」
それで、思い出した。かつて、ギンがうなされながら、「あやめ」と口にしたことを。
「絢女は本当にギンのことを知らない、というか、覚えていないみたいで、二人が昔、どんなかかわりがあったのかはあたしには分からなかったですけど、ギンが呼んでた『あやめ』が絢女のことで、ギンにとって、彼女がすごく大事な人だったんだ、ってことだけは分かりました。聞いても、絶対に教えてくれないのが分かっていたから、問いただしたことはなかったですけどねぇ」
「そうか」
「それから、ずっと、ギンと絢女を見てきて、ギンは一度も絢女に言ったことはなかったけど、彼女のことをとても大事にしているのははっきりと分かりました。アイツ、意外と臆病なところがあるから、絢女のことが大切すぎて手を伸ばせないのかな、なんて思って、『うかうかしてると他の男に取られるわよ』って焚きつけたこともありましたけど、結局、彼女を失くすまで、言えずじまいで…」
俯いた乱菊に、冬獅郎はずっと尋ねたかったことを訊いた。
「絢女…さんはどうして?」
「現世に虚討伐に行った時の事故です。技術開発局が予想もしていなかった強力な
「おまえの友達らしい、な」
冬獅郎は思う。乱菊もまた、同じ立場に置かれたら、きっと自分の身も省みず戦うだろう。一人でも多くの部下を救う為に、自分の命などおかまいなしに。そして、きっと、そんな女同士だったからこそ、馬が合い、親友になれたのだ。
「大虚はギンが倒しました。けど、それ見て、安心しちゃったんでしょうね。絢女は意識を失って、地上に落ちていってしまったそうです。慌てて、ギンが手を伸ばしたけど、ほんの少しで届かなかった、って。指先は触れたのに、捕まえられずにすり抜けていった、って、あんなに苦しそうに話すギンなんて、今まで見たことなかった」
「そうか」
「もちろん、すぐに捜索隊が組織されました。でも、絢女は見つからなかった。霊圧は補足できず、体も、死覇装の切れっぱしさえ見つからなくて、結局、遺体は虚に喰われてしまったと結論づけられました。ギンはその結論に納得できずに、一人で絢女を捜し続けて、衰弱しきったところを藍染隊長に拘束されて、力ずくで尸魂界に戻されたんです」
そこまで語って口をつぐんでしまった乱菊を、冬獅郎もまた無言で見守った。長いようで、短い沈黙の後、
「あたしも信じられなかった」
と、乱菊はぽつりと言葉を零した。
「護りたい人がいる、って言っていたんです。その人を護る為に絶対に死ねないって。遺体も見つからないのに、死んだなんて信じられなかった」
「…松本」
「だけど、いくら待っても、絢女は戻ってこなかった。待っても待っても、帰ってこなかった。あたしは、絢女が死んだと絶対に認めたくなくて、だけど、一方で諦めてしまっている自分にも気がついていて、苦しくて、つらくて、寂しくて、ギンを思いやることが出来なかったんです」
「…まつ、もと」
「ギンは目の前で絢女を見失ったんです。ほんの少しのところで、助けられなかったんです。あたしなんかよりずっとつらかったに決まっているのに、それまでずうっと守ってもらってたのに、あたしは自分のことに精一杯で、ギンのことを支えてあげられなかった。手を離して、顔を背けて、見ない振りして、だから…」
「松本…」
「だから、ギンが反逆なんて気付くことも出来なかった。アイツが何を考えているのか分からないほど遠くなってしまったのは、あの時、あたしが手を離してしまったからなんです。だから、」
乱菊は微笑った。壮絶なほどに美しく、儚い微笑みだった。
「隊長は、絶対に雛森の手を離しちゃだめです」
「離さねぇよ」
と、冬獅郎は答えた。
それきり、二人はまた黙り込んだ。
離れたところにある鉄橋を電車が渡ってゆく音が、やけに大きく響く。
ミルクティーの最後の一口を飲み終えて、乱菊は冬獅郎を窺った。彼がずっと何か言いたそうにしているのが、気がかりだった。はっきりと迷いのない常の姿を見慣れているだけに、逡巡する様子は、乱菊を落ち着かない気分にさせた。
「たいちょ」
努めてゆるい口調で、乱菊は上司に呼びかけた。
「なぁに、難しい顔してらっしゃるんです?」
「別に…」
「言いたいことがあるなら、遠慮せずに言っちゃって下さいよぉ。そんな糞づまったような顔されると気になっちゃいます」
「おまえ、なぁ」
はぁ、と冬獅郎は呆れを込めて、息を吐く。
「仮にも上司に『糞づまったような顔』はねぇだろ? 大体、女がンなこと口にすんな」
えー、と乱菊は頬を膨らます。
「絢女…さんて、どんな人だったんだ?」
冬獅郎は言いたかったこととは、別の問いを口にした。
「珍しいですね。隊長が他人に興味持つなんて」
「うるせぇよ。副官の親友で、あの市丸がそこまで想いつめてた女だってなら、気にならない方が普通じゃねぇだろ?」
「それもそうですねぇ」
と、乱菊は冬獅郎を見つめた。
「見た目はしとやか、可憐なお嬢さま。いつもやわらか〜く微笑ってて、物腰も優雅で、綺麗な着物を着たら、貴族のお嬢さまで通る
「ほぉ?」
「笛がとても上手くて、新年賀会で披露したこともあるほどです。日本舞踊の練習でよく伴奏してもらいました。あたし、絢女の笛で踊るの大好きでした」
見たかった、と冬獅郎は思う。
「自分のことだと絶対に泣かないくせに、他人の痛みにはすごく敏感で、涙もろかったなぁ。…隊長、『鉄道員』って、現世の映画ご存知ですか?」
「いや…」
「私も見たことないですけど、貧しい頑固者の鉄道員が家族と心が離れてしまったり、色々つらいことがあって、それでも最後は家族に看取られながら死んでゆくという、現世では不朽の名作映画らしいです。絢女とギンが任務で一緒に現世に行った時に、たまったま、時間つぶしに入った映画館でそれを見ちゃったらしくて、号泣した絢女を宥めるのに苦労したって、愚痴なんだかのろけなんだか分かんない話を延々、ギンから聴かされたこともありました」
号泣する女を必死に宥めすかす市丸ギンの図、というのがどう頑張っても冬獅郎の想像力を凌駕していて、彼はくらりとめまいを覚えた。ついでに、乱菊にのろけるギンも想像の範囲外だ。
「そのくせ、いざ戦闘ってなったら、鬼のように強くて、戦闘バカの十一番隊の連中からさえ一目置かれてました。黙って立ってれば、お淑やかで虫も殺せない外見だったから、見た目にだまされて、不埒な振舞いに及ぼうとして、血の制裁を下された男なんて、あたしが知ってるだけでも両手じゃ足りませんよ」
「なんつーか、ほんっとおまえの友達だな。…俺の勘だが、酒も強かったんじゃねぇか」
「強かったですねぇ。あたしと違って、積極的に呑みに行ったりはしなかったですけど、呑み始めると、あたし以上にざるでした」
「おまえ以上って、どんだけだよ?」
男でも、乱菊の酒量についてゆける酒豪は限られている。その彼女以上となると…。
「だって、絢女と呑むと、絶対、あたしの方が先に潰れちゃいましたもん。何度、絢女にお持ち帰りされて、五番隊寮で朝を迎えたことか」
本当に仲のよい、大切な友達だったのだろう。絢女のことを語る乱菊は、いつも以上にやわらかく、優しかった。
時に「はしゃぎすぎだ」と冬獅郎にたしなめられるほど、常に明るく振舞う乱菊だったが、絢女と共に在った頃は、今よりももっと屈託なく笑っていたのだろう。そう考えると、冬獅郎は焦燥にも似た感情を覚えた。
「ねぇ、たいちょ?」
「あ?」
「隊長と絢女って、すごく似てるんですよ」
「はぁ? どこが?」
「顔が」
銀髪翠眼でいつも眉間に皺を寄せた仏頂面の冬獅郎と、栗色の髪に琥珀の目、常ににこにこと微笑を浮かべていた絢女。見た目の印象がかけ離れている為、乱菊でさえ、最初は全く気付かなかった。だが、
「隊長が初めてあたしに笑いかけてくださった時、絢女に似てる、そっくり、って気が付いたんですよ」
もちろん、男と女の違いはあるし、乱菊と同じくらいの外見年齢だった絢女と、いまだ子供の冬獅郎とでは歳も違うから瓜二つとまではいかない。しかし、目、鼻、口元などの個々のパーツの造形、全体のバランス、気が付いてしまえば、二人はびっくりするほど似ていた。姉弟といっても違和感がないほどに。
他人の空似だと、乱菊は思っていた。
死者の魂魄からなる尸魂界にも、兄弟姉妹は存在する。もともと尸魂界で生まれて尸魂界で死ぬ定めの貴族はもちろん、ある程度の霊力がある者同士の結びつきであれば、死神や流魂街の住人の間にも子供が産まれるからだ。また、六番隊長・朽木白哉の亡妻と義妹のルキアが典型的な例だが、現世で実の兄弟だったものが事故や災害で同時に死んで、一緒に魂葬されて尸魂界に来る場合もまれにある。さらに滅多に起こらない奇跡、と言われるが、現世で別々に死んだ兄弟が尸魂界で巡り合う場合もあった。一般に、流魂街に流れ着いた魂魄は現世の記憶を失ってしまうので、仮に出会えても互いにそれとは気が付かない。しかし、強い想いを抱えて流魂街に流れてきた魂魄の中には、現世の記憶を断片的に保持し続ける者もあり、それが兄弟に関することだった場合、捜し続けて見つけたという事例が数百年に一度ほど報告されていた。
だが、死んで流魂街に送られてきた冬獅郎と絢女が、現世で姉弟だったということはあり得ない。冬獅郎と絢女では現世で生きていた年代が明らかに違うはずだ。
「そんなに似てるのか?」
「ええ、隊長が笑ってくださると、ほんっと、そっくりです」
「そうか」
と、冬獅郎はわずかに目を伏せた。
「それなら、松本…。おまえ、つらくなかったか?」
「はぁ、どうしてです?」
「大切な親友だったんだろう? いなくなっちまった親友によく似た他人が毎日目の前にいて、つらくはなかったのか?」
「いいえ」
きっぱりとした否定が、返って来た。
「あたしは絢女が大好きで、隊長のことも大好きです。だから、大好きな隊長に大好きな絢女の面影があって、むしろ嬉しかったです」
「そう、…なのか?」
「もちろんです」
と、大輪の笑みを浮かべた乱菊だったが、何かを思いついたかのように、ふ、と表情が変わった。
「どうした、松本?」
「怒らないで下さいね」
「あぁ?」
「ギンは、つらかったかもしれません」
乱菊の言葉に、冬獅郎を目の仇にして、常に厭味や嫌がらせを繰り出してきた男を思い出す。そういえば、冬獅郎の機嫌のよい時に限ってギンは目の前に現われ、神経を逆なでしては去っていったものだ。終いには、姿が視界に入っただけで、条件反射のように不機嫌になった己を思い出し、冬獅郎は頭を抱えた。
「まじ、か」
「…ギンにとって絢女は、助けられなかった大切な
冬獅郎の穏やかな顔はいやでも絢女を思い出させるから、見たくなかったのかもしれない。絢女を連想させないように、ギンは冬獅郎を怒らせていたのではないか、と乱菊は申し訳なさそうに言った。
「仏頂面の隊長は絢女に似ていませんから…」
「悪かったな」
「隊長にはいい迷惑だったでしょうけど…」
「確かにな。けど、もう、怒る気も失せた。つーか、『そこまで惚れてた女に似ててごめん』て、むしろ謝りてぇ気分」
はぁ、と長く息を吐いて、冬獅郎は立ち上がった。
「帰るぞ、松本。井上が心配する」
話を打ち切るかのように、背中を向けたまま命じた冬獅郎に、乱菊も、
「はい」
と、素直に立ち上がった。
結局、冬獅郎は本当に告げたかったことを口にしていない、と乱菊は悟っていたが、問いつめるつもりはなかった。本当に必要なことなら、彼はいつかきっと話してくれる。そう信じられる、ゆるぎない信頼があった。