告白
如月の肌寒い夜だった。
望月に一夜足りない月が、煌々と闇を照らしていた。
「私がいいと言うまで、目を開けないで。絶対にここから出ないで」
いつになく、厳しい声音に頷くことしか出来なくて…。
言いつけられた通りに、ぎゅっと目をつぶって隠れていた。
「この子は渡さない!」
悲鳴のような叫び声。
乱れた足音。
符呪の詠唱の声。
剣戟の音。
爆発音。
そして 。
「隊長ッ、隊長!」
「冬獅郎くん!」
目の前に副官と家主の顔が並んでいた。
「…どうした?」
ひどく不安げな切羽詰った二人の表情に、思わず尋ねれば、
「『どうした』じゃありませんよ」
気が抜けたのが半分、呆れたのが半分といった声音で、乱菊が答えた。
「うなされていたんですよ。ひどく」
「ああ…、そうか」
「汗びっしょりで苦しそうだったから、びっくりしちゃった」
と、織姫はまだ心配そうだ。
「すまん…。夢見が悪かっただけだ」
と、冬獅郎は素直に謝った。
「怖い夢を見たの?」
子供をあやすような織姫の口調にめまいがしそうになったが、迷惑をかけている家主だ、と己を宥め、
「ちょっと、昔の夢を、な」
と冬獅郎は答える。
乱菊が流しから冷たい水を汲んできて、冬獅郎に差し出した。
「ああ、ありがとう」
と受け取って、口に含めば、悪夢のせいで重かった頭がはっきりしてくるのを自覚した。
外はまだ暗い。壁の時計に目を遣れば、時刻はいわゆる丑三つ時。
「わりぃ。起こしちまったな」
「ううん、気にしないで」
優しい織姫は微笑み、寝室に戻っていったが、彼女の寝室を間借りして寝泊まりしている副官は一緒に戻ろうとしなかった。
「松本、俺は大丈夫だから、もう寝ろ。起こして悪かった」
と告げても、ゆるゆると首を横に振り、冬獅郎の傍らから離れようとしない。
乱菊は無言のまま、ひたと冬獅郎を見つめている。
「…」
「…」
互いに無言のまま、睨み合いにも似た時間が流れる。
先に折れたのは、冬獅郎の方だった。
「松本、ひとつ、訊きたいことがある」
「何でしょう?」
「おまえの親友の、如月絢女…さん、だが」
ここで、夕べの話を蒸し返されるとは思わず、乱菊は、
「へ?」
と、自分でも呆れるほどにまぬけな声をあげてしまった。
「絢女…さんが行方不明になったという場所、おまえ、知っているか?」
「はい?」
「現世で行方が分からなくなったんだろう? その場所を知っているのか?」
上司の質問の意図がどうしても掴めず、乱菊はわずかに眉を寄せた。
「知らねぇのか?」
答えない乱菊に、少し苛立った様子で、冬獅郎は繰り返す。
「知っています」
ようやく、乱菊は答えた。ここ 空座町よりさらに南に下った隣町だと。
「ずいぶん近くなんだな」
「そうですね。でも、たいちょ、どうし…」
乱菊は最後まで問いを続けられなかった。彼女の言葉を遮るように、冬獅郎が、
「明日、連れて行ってくれ」
と告げたからだ。
呆然とする乱菊を尻目に、もう話は済んだとばかりに、冬獅郎は布団に潜り込む。
乱菊は溜息をつくと、織姫の寝室に引き上げた。
絢女が行方不明になったという場所は、ごみごみとビルが立ち並んでいた。
「四十年前は、こんなに建物はなかったんですけどねぇ」
足元に広がるおもちゃのようなビル群を上空から見下ろして、乱菊が言った。
冬獅郎と乱菊は義骸を義魂丸に預け、死神化して隣町に来ていた。
「正確ではありませんが、このあたりが絢女が討伐を命じられた地域です。ここで大虚に襲われて、絢女は…」
現場に来てこみ上げるものがあったのか、言葉を詰まらせた副官を見上げ、冬獅郎はただ一言、告げた。
「如月絢女は生きてるぞ」
「え?」
それは、四十数年間、乱菊が信じたくてたまらなくて、けれど、信じきれず、かといって否定もできずにいたことだった。誰かに言ってほしかった言葉を、敬愛する上司から告げられ、乱菊は唖然として冬獅郎を見返した。
「何…を…」
いつもなら、乱菊は冬獅郎の言葉を疑わない。外見以外は老成した隊首の言葉は、いつも迷いがなく、まっすぐで、乱菊をはじめとする隊員たちの指標だった。彼が「大丈夫」だと言えば、どんなに困難と思える任務でも本当に大丈夫だった。彼が出来ると言ったことは必ずやり遂げることが出来た。しかし、今、告げられた言葉は信じるには唐突すぎた。
「生きているのに、なんで尸魂界に戻らないのか、連絡も寄越さねぇのか分からない。どこにいて、どういう状況で生きてるのかも知らねぇ。でも、如月絢女は生きてる。それだけは保証してやれる」
「どうして?」
乱菊の声が思わず高くなった。
「どうして、隊長がそんなこと言えるんです? 絢女がいなくなった時、隊長はまだ流魂街にいたただの子供だったじゃないですか? 絢女のこと知らないのに、どうして…」
乱菊は知らず冬獅郎の腕を掴み、詰め寄っていた。
惑乱した空色の瞳を、翡翠の光が射抜く。
「松本」
と、一言。乱菊は口を噤んだ。
「おまえを信じて話すことだ。だから、当分、おまえの胸ひとつに納めていてほしい」
「…はい」
「おまえの親友の如月絢女は、本当の名を『日番谷絢女』という。…俺の実の姉だ」
驚きのあまり、呼吸することさえ忘れた。声も出せず、乱菊は冬獅郎を見つめた。
「おまえは昨日、俺と彼女が似ていると言ったな。似てて当たり前だ。姉弟なんだから」
「嘘…」
やっと搾り出せた声は震えていた。
「隊長、
「冗談じゃねぇよ」
「だって、隊長が現世で亡くなったのって、…たとえ、生まれてすぐ亡くなったとしたって、百年以上前には遡れないでしょう? 私と絢女は百年前に知り合ったんです。知り合った時には、私も絢女も尸魂界にきてから何十年も経っていました。姉弟なんてありえない」
「松本、俺が現世で死んだのは百四十年前だ」
「え、でも…」
乱菊と冬獅郎が初めて会ったのは四十数年前、絢女の失踪から二年ほど過ぎた初冬のことだった。当時の冬獅郎は今よりももっと幼かった。その時から経過した年月と今の外見年齢を比較して、冬獅郎は死神になれるほどの霊力を持った子供として平均的な速度で成長している、と乱菊は認識していた。だからこそ、彼の現世での死は、どんなに遡っても百年以内だと考えていたのだ。もちろん、霊力を持つ子供の成長速度は個人差が大きい為、「百四十年前に死んだ」という冬獅郎の言い分を完全に否定することは出来ない。だが、彼が仮に百四十年前に死んで、なおかつ今の見かけだとするなら、成長速度は平均よりかなり遅くなければおかしい。四十数年前に出会った時、彼はもっと大きくなければつじつまが合わないのだ。
「百四十年前、俺と姉は一緒に死んだ。殺されたんだ。俺たちを殺したのは、死神だった」
「隊長、現世の記憶を持ってらっしゃるんですか?」
「死ぬ間際のことだけだ。他のことは何も覚えていない。姉以外の家族のことも忘れちまった。だが、死んだ時のことだけははっきり覚えてる。 俺は現世にいた頃から霊力の強い子供で、俺の霊力を利用しようとした死神に狙われたんだ」
「そんな馬鹿な…。死神が人間を…」
死神は現世と尸魂界との間のバランスを保つ役割を担っている。死神にとって、人間は保護すべき対象で、襲って殺すなど則に背く行為だ。絶句する乱菊に、冬獅郎は淡々と続ける。
「姉は俺を護ろうと、死神と戦って殺された。俺は、目の前で姉が殺された衝撃で霊力が暴走して…」
と、冬獅郎は息を吐いた。
「現世で死んだ時、俺は本当にまだ幼かった。自分の身も自分で護れず、霊力があっても姉の助けがないとうまく制御できず、目の前で何が起こってるのかも本当の意味では理解していなかった。悲鳴で目を開けたら、姉が血まみれになって倒れていて、大声で叫びながら縋り付いたのまでは覚えてる。気が付いたら、俺は死んでいて、姉に抱きしめられていた。姉が言うには、俺の霊力が暴走して俺自身を傷つけてしまったそうだ。死んで、魂魄になったことで、先に死んでた姉の声が届いて、俺は暴走を治めることが出来たんだ」
「隊長たちを襲った死神は…」
「俺の暴走に巻き込まれて、跡形もなく消えちまったらしい」
その後、冬獅郎と絢女は、霊力の暴走に驚いて駆けつけてきた現地駐在の、冬獅郎たちを襲った者とは無関係な死神に魂葬されて尸魂界に来た。
尸魂界で、絢女もまた、自分の死の間際の出来事と弟の記憶だけを手放さずにいた。まだ少女だったとはいえ、弟よりずっと年長だった絢女は、事態を冬獅郎よりももっと正確に認識していた。彼らを襲った死神は、誰かに命じられて動いていた下っ端に過ぎない。黒幕は別にいる。そして、彼らを襲ったのが死神である以上、黒幕もまた死神かそれに近しい存在であることは確実だった。黒幕が冬獅郎を手に入れてどうしようとしていたのかは分からない。けれど、禍々しい目的であることを、絢女は疑わなかった。尸魂界に来たことで顔さえおぼろげになってしまった父の背中と、最後の命だけが絢女に残っていた。
「冬獅郎を護れ。決して、彼らに渡すな」
今まで生きてきた世界とは全く異なる未知の世界で、たった一人で弟を護る為に、絢女が取った手段は冬獅郎を封じることだった。人間として生きていた頃から、弟には及ばないまでも高い霊力を持っていた絢女は木々や草、大地の精霊と交感する能力に長けていた。その能力は尸魂界でも消えてはいなかった。絢女は年を経た楠と心を交わし、霊木の力を借りて、冬獅郎を楠の中の結界空間に封印したのだ。
「 八十年、俺は結界の中で眠り続けていた。俺が目を覚ました時、俺は死んだ時のままほとんど成長していなかったが、少女だった姉は大人になっていた」
冬獅郎の覚醒を察知した絢女により、彼は潤林安の老婆のもとに預けられ、そこで雛森桃とともに育った。
絢女は一ヶ月に一度か二度の割で、冬獅郎のもとを訪れたが、どこで生活をしているのか弟に明かそうとしなかった。おそらく、冬獅郎が彼女を追ってくるのを怖れたのだろう。黒幕の正体を突き止める為に死神になった絢女にとって、冬獅郎は瀞霊廷から隠しておきたい存在だったからだ。
「だから、俺は姉が討伐で行方不明になったことを知らなかった。ただ、待っても待っても来てくれない姉の身に何かあったのかと、おろおろと心配するしか出来なかったんだ。そんな俺に引導渡してくれたのが、松本、おまえだ」
四十数年前、偶然に冬獅郎と出会った乱菊は、幼い少年の中に猛る強い霊力を感知した。流魂街で生きるにはあまりに強大なその霊力が周りの人々を怯えさせ、あまつさえ、共に暮らす老婆を衰弱させていることに気付き、乱菊は彼に死神になるよう促したのだ。
乱菊は、二重の意味で冬獅郎に道を示すことになった。己の中で荒れ狂う竜の存在に戸惑い、行く先を見失っていた冬獅郎に力のありどころを見極め、制御する為の方向を示したこと。そして、もうひとつ、
「あの時、おまえに会ったことで思い出した。姉は俺を訪ねる時、いつも地味な着物を着ていたが、一度だけ、目覚めた俺を迎えに来てくれた時の姉は、確かに、死覇装姿だった。それと、俺と姉を襲った奴らも死覇装を着ていた、と」
幼かった冬獅郎は自分たちを襲った者が死神であることさえ、その時まで認識していなかったのだ。だが、思い出してしまえば、パズルのピースが収まるべきところに収まったも同然だった。
「じゃ、隊長は絢女を捜す為に死神になったんですか?」
「それだけが目的じゃねぇけど、大きな理由のひとつだ」
「絢女が言っていた、どうしても護りたい大切な人って…」
「俺のことだな。間違いなく」
「隊長は絢女の行方をずっと捜してらしたんですよね?」
「ああ」
「だったら、絢女が五番隊にいて行方不明になったことも、あの
「いや、松本、」
冬獅郎の否定の言葉は、乱菊の傷ついた声で遮られた。
「どうして、今まで話して下さらなかったんですか? あたし、そんなに信用ありませんか?」
「信頼してるから、打ち明けただろ?」
「だって、今まで話して下さらなかった。絢女も、だわ。あたしには何にも教えてくれなかった…。あたしは…」
唇を震わせた乱菊に、
「俺は誰より、松本を信頼してるぞ」
と、冬獅郎は断言した。
「おまえと姉さまが親友だったと知っていたら、もっと早く、打ち明けてた。話さなかったのは知らなかったからだ。俺はゆうべ、松本の話を聞くまで『如月絢女』という隊士の存在さえ知らなかったんだ」
「どういう、ことですか?」
乱菊の空色の目が揺れる。
「松本の言う通り、俺は姉の行方が知りたくて、護廷はもちろん、鬼道衆や隠密機動まで調べられる限りの隊士を調べた。偽名を使っているかもしれないと思って、年齢や身体的な特徴まで、だ。だが、それらしい隊士はどの隊の記録にも見付けられなかった。『如月絢女』なんて、名前だけで姉だとピンと来たはずだ。だが、五番隊の公式記録に『如月絢女』の名はなかった」
乱菊は息をのんだ。たとえ席次のない平隊士であっても、護廷に正式に配属されたのなら記録は残される。ましてや、五番隊の三席という責任ある地位に就いていた者の記録が存在しないなどありえない。
「それって、つまり…」
「『如月絢女』という隊士の記録は五番隊の公式文書から抹消されている、ってことだ」
と、冬獅郎は告げた。
「おそらく、姉さまを襲った大虚は偶然現われたんじゃねぇ。姉さまを殺す為に意図的に差し向けられたと、俺は思う」
「…藍染…、が?」
「断定は出来ねぇ。だが、その可能性が一番高いだろう。大体、市丸とのことはともかく、おまえが今まで、俺に姉さまのことを話題にしなかったのが変だと思わねぇか?」
「言われてみれば…。確かにそうですね」
「松本だけじゃねぇ。雛森は五番隊だ。『如月三席』の話を耳にすれば、雛森は名前や容姿からすぐに姉さまだとわかって、俺に教えてくれたはずだ。だが、雛森も俺に何も言わなかった。藍染が姉さまを殺して、さらに姉さまを皆の記憶から遠ざける為に噂も出ないように操作していたと考えるのが自然だろう。多分、鏡花水月なら出来たはずだ」
「どうして、絢女を…」
「わからねぇ。色々、推測は出来るが決め手に欠ける。何より、討伐の際の不幸な事故で片付いている姉さまの記録を、何でわざわざ消す必要があったのかが知れねぇ」
絢女のことを知る護廷の隊員は数多い。彼女が行方不明になった当時上位席官の地位にいた者なら、当然、三席だった絢女のことは見知っていたはずだし、五番隊の隊員なら平隊士でも覚えているだろう。そして、彼女の記憶を持つ者が五番隊の文書を閲覧したならば、絢女の記録が存在しないことに不審を感じるはずだ。そんな危険を冒してでも、絢女の記録を抹消する必要がどこかにあったのだろうが、その理由は乱菊にも見当がつかなかった。
もうひとつ、乱菊には分からないことがあった。冬獅郎が「絢女は生きている」と言い切れる根拠だ。乱菊の問いに対し、冬獅郎は静かに答えた。
「俺に施された封印がまだ生きてるからだ」
と。
正体の知れない敵の目から冬獅郎を隠したい絢女にとって、最も厄介だったのは、成長と同時に高まる冬獅郎の霊力だった。そもそも、冬獅郎が八十年の眠りから覚醒したのも、絢女と楠の霊木とによって施された結界の力を冬獅郎の霊力が上回ったからだ。絢女が弟を預けた西流魂街一番区潤林安は治安がよい点は安心だったが、その分、死神の本拠である瀞霊廷に近く、霊力の高い子供が死神に見出される確率も高かった。そこで、絢女は死神の目から弟を隠し続ける為に、冬獅郎の霊力がある程度大きくなる度に封じを施してその力を抑えてきた。絢女が失踪して、彼の霊力の高まりを抑える者がいなくなったからこそ、乱菊は冬獅郎の霊力に気付いたのだ。
「姉さまの封印は、自分の霊力を封じの鎖に変えて、俺の霊力を縛るというやり方だった。だから、もし、姉さまが死んだのなら、俺に施された封じの鎖も弾け飛ぶはずだ。姉さま自身、俺にそう言っていた。だが、封印はまだ生きてる。俺の霊力は姉さまの力で抑えられたままだ。だから、姉さまは生きている」
こともなげに告げる冬獅郎に、乱菊は呆然とした。
たった一年で真央霊術院を飛び級卒業し、護廷入りと同時に一番隊の上位席官に任じられ、史上最短、かつ、最年少で隊長まで上りつめたのが、日番谷冬獅郎という男だった。外見は子供でも、隊長としての実力はトップクラスであることは他隊の隊長格からも認められている。
天才児。数百年に一度の逸材。麒麟児。
いずれも、冬獅郎を形容するのにしばしば用いられる言葉である。だが、それほどの実力さえ、「封じられた状態」だと、彼は言いきったのだ。封じられてもなお、並外れた霊力を保持する冬獅郎と、その彼の霊力を封じた絢女に対して、初めて乱菊は畏れを覚えた。
「あと、な、松本。さっき、おまえは、姉さまが俺のことを打ち明けなかったのはおまえを信用してなかったからだ、と言ったが、それは違うと思うぞ」
翡翠の両眸が、まっすぐに乱菊を捉えた。
「姉さまのことは絶対、松本の方が解ってるはずだから、納得してくれると思うが、姉さまは『護る人』だ」
「護る人?」
「松本、おまえもそうだな。弱い者や力のない者が危地にあれば、理屈じゃなくて本能で護ろうと体が動くだろう? それが自分にとって大切な人間なら尚更、体張って、命投げ出してでも、護り抜こうとするだろう? 松本と姉さまはそういうところが親友なだけあって、そっくりなんだよ」
「たいちょ、絢女はともかく、あたしのことは買い被りすぎです」
「買い被ってねぇよ。俺が隊長になってからずっと副官として見てきた松本乱菊は、そういう女だ」
「あの…」
「だから、わかるだろ? 姉さまがおまえに言わなかった理由。 松本が大事だから、巻き込みたくなかったんだよ、姉さまは」
乱菊の頬に泣き笑いのような表情が浮かんだ。
「隊長と絢女も姉弟ですよ。ほんと、そっくり」
「あ?」
「絢女はいつもあたしが欲しい言葉をくれました。そういうトコ、隊長とそっくりです」
がしがしと、冬獅郎は頭を掻いた。照れているのをごまかす時のくせだ。ふだんは落ち着き払っていて、やけに老成した雰囲気を持つこの少年が、時折見せる、歳相応の表情を見るのが乱菊は好きだった。
「松本」
「はい」
「ありがと、な」
「はい?」
唐突な冬獅郎の礼の言葉に、乱菊は目を丸くした。
「何です、いきなり?」
「ずっと、姉さまと一緒にいてくれたんだろう? だから、ありがとう」
乱菊は目を細め、笑みを浮かべた。
「側にいてもらってたのは、あたしの方ですよ」
やわらかく吹き抜けた風が乱菊の髪を揺らした。
もう一度、絢女に会える。
乱菊は確信に近い強さで、そう感じた。