終章


 ギンが十番隊執務室を訪れた時、執務室には先客がいた。
 隊長職の同僚としては古株の大先輩、京楽春水と浮竹十四郎である。京楽は珍しいことに仕事の話で十番隊を訪ねていた。近々、十番隊と八番隊で合同演習を行う予定があり、その打ち合わせだった。浮竹は現世駐在から引き上げてきた部下から届けられた土産の菓子を冬獅郎にお裾分けに来て、そのまま演習の打ち合わせに加わって色々とアドバイスをしているところだった。
 入室してきたギンに、冬獅郎は素っ気ない口調で、
「何の用だ?」
と尋ねる。
 気を利かせた京楽が、
「ボク達、席を外そうか?」
と告げたのに、
「それには及びません。すぐ済む話やし、聞かれて困る話でもないねから」
とギンは二人を制した。
「で、何の用だ?」
 冬獅郎は繰り返す。
「うん、まぁ、冬獅郎はんにもずいぶん迷惑かけたし、いっぺん、ちゃんと謝っとかなあかんなぁ思て」
 ギンの返答に、
「確かに、ずいぶん迷惑を被ったな」
 冬獅郎は冷たい声音で言い放った。
「せやろ? いっぱい嫌がらせとかもしてしもたし」
「ああ」
 冬獅郎はソファから立ち上がると、ギンの前に立った。
「確かに、てめえには散々、嫌がらせされて煮え湯を飲まされたな」
「うん。せやから、謝りに…」
「てめえから受けた嫌がらせと厭味の数々を思い出すと、今でもむかついて、はらわたが煮えくり返りそうになるがな」
 冬獅郎はまっすぐにギンを見据えた。
「金輪際、忘れてやる」
 きっぱりと言い切ったその言葉に、ギンはにっと笑った。
「さっすが、若さん。つくづく漢前やわァ」
 ぴく、と冬獅郎のこめかみが僅かに引き攣った。
「誰が『若さん』だ」
「誰って、冬獅郎はん。他におらへんで、若さん」
    その呼び方は止めろ」
「何で?」
 ぎろりと睨んだ冬獅郎の視線を、ギンは平然と受け流した。
「俺は『若さん』じゃねぇ」
「若さんやで」
「有り得ねぇんじゃなかったのか?」
 冬獅郎は言った。叛逆の裁判の際、彼が絢女の弟であることを知らされて、ギンはそんなふうに叫んでいた。
「うん、確かに、京楽はんから教えられた時はそう思たけどなぁ」
と、ギンは答えた。
「せやけど、絢女はボクの姫さんやし」
(所有格をつけるな)
 冬獅郎の内心の突っ込みは意に介さず、ギンは飄々と続けた。
「冬獅郎はんが絢女の弟や、いうん、間違いなさそうやし?」
「何で疑問形なんだ? 弟だ。間違いなく」
「やったら、『若さん』や」
 言うなり、ギンは芝居がかった動作でその場に跪いた。
「若とは露知らず、数々のご無礼、お許し下さい」
「何の真似だ?」
 はっきりと冬獅郎のこめかみに青筋が立った。
「市丸。これ以上、ふざけた真似をしやがると蹴り出すぞ」
 冬獅郎の眼下で、ギンはにったりとほくそ笑んだ。
 二人のやりとりを黙って見守っていた乱菊が大きな溜息をついて、割って入った。
「ギン、ふざけるのも大概にしときなさい。謝りに来たんじゃなかったの?」
「せやから、謝ってるし」
 立ち上がりながら、ギンは答えた。
「怒らせてるわよ。ったく…。隊長も落ち着いて下さい」
 乱菊の仲裁に、冬獅郎は息をつくとギンに向かって、
「話が済んだんなら帰れ」
と突き放した。
「まだ、話は残っとる」
「何だ?」
 すっかり投げ遣りに、冬獅郎は続きを促した。
「絢女のことなんやけど」
「ああ」
「冬獅郎はんの姉さんと、ボク、お付き合いすることになったから」
「そうか」
とだけ応じて、京楽たちのいるソファに戻ろうとした冬獅郎に、
「そんだけ? えらいあっさりしたはるね」
 ギンは意外そうな顔をした。
「姉さまが誰と付き合おうと、俺の口出しすることじゃねぇからな」
「ふうん。大事な姉さん、ボクみたいなんに誑かされて平気なんや」
「てめえに誑かされるほど、姉さまは馬鹿じゃねぇ」
と、冬獅郎は再びギンに向き直ると反論した。
「てめえが姉さまを騙したり、嫌がる姉さまを無理矢理ってことなら、今すぐにでも膾に叩いてやるとこだがな」
「へぇ?」
「姉さまがてめえがいいって選んだんだろうが?」
 途端、ギンの頬に僅かに赤味が差した。
「うん…」
と彼は頷いた。
「ボクやないとあかん、言うてくれた」
「なら、仕方ねぇだろう」
 冬獅郎は淡々と応じたが、傍らで二人を観察していた者たちは驚愕していた。
(あの市丸が照れた!!!!!!)
 態度にこそ狼狽を表さなかったが、乱菊も、浮竹も、京楽も浮き足立った。
(見た? 見た、今の?)
(見た!)
(見ちゃいました~)
(長生きはするもんだなぁ)
(どうしよう、今晩、夢に見て魘されそう)
(いやぁ、絢女ちゃんてすごいな)
(帰ったら、清音や仙太郎にも教えてやらないと)
 心象世界で大騒ぎを繰り広げている三人をそっちのけにして、冬獅郎とギンの対峙は続いていた。
「姉さまは俺なんかよりよっぽど分別もあるしっかりした大人だ。その姉さまが自分の意思で市丸を選んだんなら、反対する権利は俺にはねぇ」
「それは、おおきに」
「だいたいだ、市丸」
「何、若さん?」
「その呼び方、やめろ」
「へぇへぇ、冬獅郎はん」
「たかが髪留めひとつ渡すのに、てめえはどんだけ時間かかったんだよ? へたれ野郎」
「うっ…。悔しいけど、反論出来ひん」
 冬獅郎は軽く前髪を掻きあげると、続けた。
「反対はしねぇが、市丸、これだけは言っておく」
「何やの?」
「姉さまは俺をずっと守り、慈しんでくれた大事な人だ」
 いつの間にか、冬獅郎の手には氷輪丸があった。彼は鞘を抜き払うと、白刃をギンの咽喉笛に突きつけた。
「姉さまを泣かせるような真似をしやがったら、許さない。氷輪丸で氷漬けにした上で、跡形も残らないくらい念入りに砕いてやるからそのつもりでいろ」
 凄みを利かせた冬獅郎の脅しは、席官クラスならそれだけで卒倒しそうな迫力だった。だが、ギンは冬獅郎の気迫も、咽喉もとの刃も全く意に介したふうなく、あっさりと返答した。
「無理や」
「あ?」
 このシチュエーションで否定を返されると思わず、冬獅郎は石化した。
「なっ!?」
「やってなぁ、冬獅郎はん。キミの姉さん、めちゃくちゃ可愛いんやで」
「…」
 瞬間、冬獅郎の頭で警報が鳴り響いた。次にギンが発する言葉を止めなければ、と焦ったものの、制止は間に合わなかった。
「あんな可愛い女、目の前にして、啼かさんなんて、絶っ対に無理や」
 その言葉に冬獅郎は凍りついた。
「そんなん、男として有り得へんやろ。無理や。絶対、無理」
と、ギンは滔々と主張した。
    
「冬獅郎はんかて、乱菊、啼かすな、言われたら困るんと違う?」
    
 沈黙が辺りを支配した。
 ギンに刃を突きつけたまま、冬獅郎は彫像と化していた。そんな彼を、ひどく楽しそうにギンは眺めている。
 乱菊や京楽が固唾を呑んで見守る中、重たい時間が経過していく。
    ぴしっ
 不意に窓ガラスが鋭い音を立てた。
 室温が一気に零下30度まで下降した。
「『泣かす』の意味が違うだろうが、くそ狐ッッ!!!!!!」
 冬獅郎は肺活量の全てで怒鳴った。
 同時、ごおっという鈍い音がして、執務室にブリザードが吹き荒れた。
 ぴきぴきと音を立てて、氷柱が生じ、ガラス窓は凍りつく。
 しかし、この凄まじい吹雪と極地並みの凍気を食らうべき正当な相手は、雲を霞と逃げ去った後だった。
「たいちょー、寒いです~」
「冬獅郎くん、執務室で凍死なんて洒落にならないよー」
 野次馬根性が災いして逃げ遅れ、とばっちりを受けた乱菊と京楽ががちがちと歯を鳴らしながら抗議する。浮竹はというと、比喩ではなく凍り付いている。
「たいちょ~」
「冬獅郎く~ん」
 吹雪が治まった。
 乱菊が震えながら、窓辺まで這い寄り、窓を開けて外気を取り入れようと試みた。外は木枯らしの冷たい冬日であったが、南極大陸同然の室内に比べれば、まだ外の方がましだ。
 しかし、窓は完全に凍り付いていて、乱菊の力ではびくともしなかった。
「たいちょおぉ」
 泣きそうな顔で副官に振り向かれ、冬獅郎は大またに歩み寄ると、べきっと力任せに窓を開いた。それから、仮眠室に行って毛布を取ってくると、半ば氷像になりかかっている浮竹にどさどさと着せ掛けた。
「お茶、淹れてきます」
 乱菊が給湯室に向かった。すぐに彼女は熱い茶を用意して戻ってきた。いつもの湯飲みでは追いつかないだろうと、彼女は茶を丼になみなみと淹れていた。丼を受け取り、京楽と毛布に埋もれた浮竹は無言で茶を啜った。
「はぁぁ~。死ぬかと思った」
 茶を流し込んで、ようやく一息ついたらしい京楽がしみじみと述懐した。
「浮竹隊長、大丈夫ですか?」
「ああ、何とか」
と、浮竹が苦笑いとともに答える。
 気まずげに立ち尽くす冬獅郎に、
「冬獅郎くん、落ち着いた?」
と、京楽が尋ねた。
「京楽」
「なに、冬獅郎くん?」
「市丸が俺に嫌がらせしてたのは、俺が姉さまに似てるんで姉さまを思い出してつらかったから、だったよな」
「そう言っていたねぇ」
 裁判の際、ギンの尋問を担当し、彼の告悔を直に聞いた京楽は肯いた。
「姉さまは生きてたわけだし、あいつと晴れてくっついたんだ。あいつが俺に嫌がらせする理由はもうねぇはずだよな」
「うん、まぁ、一応ね」
「だったら、今のは何なんだ?」
 京楽は何とも形容しがたい表情を浮かべた。
「冬獅郎くんには災難だと思うけどさぁ」
「新手の嫌がらせですね」
と、乱菊が結論を述べた。
「何でだよ? もう必要ねぇだろ?」
 憤懣やるかたないと言いたげに主張する冬獅郎だったが、
「新しい嫌がらせの理由が出来たんだろうねぇ」
と、京楽はあっさりと言い切った。
「新しい理由だと?」
「うん、そう。以前の市丸くんはさぁ、冬獅郎くんに嫌がらせしてる時、顔は例によって笑っていても、どことなくつらそうだったんだよね。だけど、さっきの市丸くんは、」
「楽しそうでしたね」
「生き生きしていたな」
 乱菊と浮竹が止めを刺した。
「…」
「市丸くんって、気に入った女の子はやたらと甘やかすけど、気に入った男に対しては意地悪したがるねぇ」
「そうそう。執務さぼって抜け出すのも、あれって、吉良にかまってもらいたいからですよ。アイツ、そういうトコ、ホント、餓鬼だから」
 だったら、おまえはどうなんだ、という突っ込みを辛うじて冬獅郎は封じた。
「でまた、冬獅郎くんがいい反応するしねぇ」
「いちいち、ツボに入ってるんでしょうね」
と、乱菊と京楽の容赦ない分析は続く。傍らではようやく解凍したらしい浮竹がしきりに頷いていた。
「…あんの、くそ狐が」
 ぼそ、と冬獅郎が零した。それに対して、
「ダメだぞ、冬獅郎。そんな言い方」
と浮竹が諭した。
「『くそ狐』で充分だ。それ以外の何ものでもねぇ」
「仮にも義兄さんだろう? 『くそ狐』だなんて言うものじゃあない」
    あ?」
 ぴしっと、再び、冬獅郎は固まった。
 唖然として浮竹を見返す姿に、京楽と乱菊は目を見合わせた。
「あの~、隊長?」
「冬獅郎くんに限ってまさかと思うけど、もしかして、気が付いてなかった?」
 京楽の問いかけに、
    
 冬獅郎からの返答はない。
「気が付いて、」
「なかったんですねぇ」
と乱菊が嘆息した。
「気がついてなかったんなら、これから注意しないとな。冬獅郎、市丸は義兄さんになるんだから、『くそ狐』だなんて言っちゃだめだぞ」
 浮竹が真顔で説教を繰り返したのに、
「義兄さんなんかじゃねぇ」
と冬獅郎は言い返す。だが、
「近い将来、義理の兄さんになるはずだろう?」
と大真面目に告げられて、がっくりとうなだれた。
「…」
 彼はついに、その場にしゃがみ込んでしまった。
 頭を抱えて落ち込んでいる上司兼恋人を、乱菊が腰を屈めて覗き込む。
「たいちょ、しっかりして下さい」
 のろのろと、冬獅郎は顔を上げた。
「松本ォ」
「はい?」
「今更、『市丸はやめとけ』って反対したら、姉さま怒るだろうな…」
「絢女ですからねぇ。怒ったりはしないと思いますよ。ただ…」
 乱菊が濁した言葉を、京楽が容赦なくすっぱりと言ってのけた。
「悲しむだろうねぇ、絢女ちゃん。たった一人の弟に好きな人との仲を反対されるんじゃ」
「そうか、悲しむか…」
 冬獅郎にとって、絢女を悲しませたり、傷付けたりする行為は、第一級の禁忌事項である。
 はぁ、と盛大に溜息をついた後、
「市丸やめて、他の男に走るなんてこと、」
 未練がましく言い募る冬獅郎に、
「絢女がすると思います?」
と乱菊は問いの形で反駁した。
「しねぇな」
と答え、冬獅郎はまた溜息を零した。
「隊長、元気出してください」
 乱菊の励ましも届かない。
「そんなに悲観しなくても大丈夫ですよ」
と、彼女はことさらに明るく続けた。
「何でだ?」
「だって、ギンって、絢女が相手だととことんへたれますもん。プロポーズに至るまで百年はかかると見ました。ギンが本当に義兄さんになるまでまだまだたっぷり時間はありますから、その間に心の準備をすれば」
 笑顔で言ってのける彼女に、
(結局、義理の兄は確定じゃねえか)
と心の中だけで悪態をつく。
 恋人へ内心の呟きは届かなかったらしく、
「百年後。百年後。たいちょ、元気出して」
と励ましているんだか、からかっているんだか、判然としない口調で乱菊は重ねた。
 対して、
「松本」
と、冬獅郎は乱菊を見据えた。
「言っておくが、姉さまが嫁に行かねぇのに、弟の俺が嫁を貰うわけにはいかねぇぞ」
 今度は、乱菊が凍りついた。
(えっ?)
 たった今、思いっ切りさりげなく、プロポーズとお預け宣言を同時に出された気がする。
(今のって、今のって!?)
 うろたえながらも、
「たいちょ、あの…」
と問い質そうとした乱菊だったが、それ以上の言葉は発せられることはなかった。
 彼女の恋人は乱菊を置き去りにして自閉モードに突入しており、ぶつぶつと自問を始めていたのだ。
「…百年…、耐えられるのか、俺は。いや、それ以前に松本が待てるのか…。…市丸が義兄さん…。有り得ねぇ。…それこそ、有り得ねぇ。…姉さまだって、百年なんて…、いや、あの姉さまだ…」
 姉に対する尊愛の念に加えて、古めかしい長幼の序列に縛られている冬獅郎は、絢女が嫁ぐのを見届けてからでないと、嫁を貰う訳にはいかないと決め込んでいる。つまり、乱菊を晴れて娶る為には、絢女に早めに嫁いでもらわないと困るのだ。だが、絢女の嫁入り先はどう転んでもギンのところ以外は有り得そうにない。
 乱菊を娶るという明るく希望に満ちた未来と、ギンが義兄になるという寒気を催す未来がセットであると悟り、冬獅郎はハムレット並みに苦悩していた。
「…俺が先に松本と…。いや、姉さまを差し置いてなんて駄目だ。しかし、松本は…」
 すっかり危ない人と化して、自問自答を繰り返す恋人を前に、乱菊もまた途方に暮れて固まっていた。
 客人の存在を忘れたかのように堂々巡りを始めた十番隊主従を見守り、京楽と浮竹はぬるい笑みを浮かべつつ丼の茶を啜り続けていた。

 ----------------- 《 了 》 -----------------

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2010.07.19