閨心
三番隊隊長舎の玄関先に佇む人影を認め、ギンの足は止まった。
煌々と輝く月あかりも建物の影になって玄関までは届いておらず、その人物はぼんやりとした輪郭を闇の中に浮かび上がらせているだけだった。だが、それでも、ギンは相手を見誤らなかった。
「こないなところで、何しとるん?」
「あなたの帰りを待っていたの」
返って来た答えに溜息をつく。
「女が男の部屋を訪ねる時間と違うで? 妙な誤解されたらかなわんやろ? はよ、帰り」
「話があるの」
じゃり、と玄関前に敷き詰められた玉砂利を踏みしめる音がして、絢女がギンに向かって一歩近づいた。
それを目にした途端、咄嗟にギンは下がっていた。
「ギン、話があるのよ」
「明日じゃだめなん?」
「今、話したいの」
ギンと絢女の間には一間 *1 足らずの距離があった。あたりの寝静まった深夜であれば、声を潜めても会話が出来る距離。けれど、手を伸ばしても触れられない距離。この一間足らずはギンにとって、絶対の距離だった。これよりも絢女との距離が縮まってしまったら、自分が何をしでかすか、彼には自信がなかった。
「 何なん、話って?」
ずっと彼の帰りを待ち続けていたのであろう絢女が去る気配を見せないのを悟り、ギンは諦めて尋ねた。こうと決めた時の彼女の頑固さは承知している。おそらく、話が済むまでは絶対に帰らないだろうと思った。
「ごめんなさい」
と、絢女は謝った。
「何のこと?」
「私、あなたのことをどうしても思い出せないの」
反乱の裁判の際、現世で生きていた時は絢女と共に在ったのだと、ギンは証言した。だが、絢女が失わずにいた現世の記憶は死ぬ間際の出来事と弟の冬獅郎のことだけで、ギンのことはすっぽりと記憶から落ちてしまっていた。
現世で死んだ人間が尸魂界に辿り着いた時、現世の記憶のほとんどを失っているというのは常識である。現世の記憶を保持し続ける方が稀有なことなのだ。現にギン自身、絢女にかかわること以外、現世のことはすべて忘却してしまっていた。だから、彼は絢女が自分のことを覚えていないのは当然だと思っていた。責めるつもりも、恨む気持ちもないのに、絢女に謝罪され、ギンは困惑した。
「覚えてないんが普通なんやし、絢女が気に病む必要はないねん。両親のことさえ忘れてしもてるのに、ボクのこと覚えてへんのは当然や」
「でも、ギンは私を覚えていたでしょう?」
ギンが絢女を忘れなかったのは、彼女が彼の光だったからだ。ひとりぼっちで暗闇の中、凍えきっていた彼に初めて射した暖かな陽射し。優しさも、笑顔も、涙も、温かなものはすべて彼女から与えられた。それ故に忘れられなかったのだ。
「ボクが勝手に覚えとっただけや。ボクが覚えとったからて、絢女も覚えとらなあかんなんて道理はない。気にしなや」
と、ギンは出来る限り穏やかな口調で言った。
「謝りとうて、こんな夜更けまで待っとったん? もうええから、帰り」
「いや」
「絢女?」
暗闇に沈んで絢女の表情はギンには見えなかった。けれど、まっすぐに彼を見つめる視線を感じた。
「ギン、私はあなたが好きなの」
絢女の唇が紡いだ言葉は、あまりに甘美で、彼を打ちのめした。
「何、言うて…」
「好きよ、ギン。ずっと、好きだった…」
再び、ギンに向かって歩み寄ろうとする絢女に、
「絢女、やめぇ!」
と、彼は言葉を荒げた。絢女の足がびくっと止まった。
「絢女はボクに罪悪感を持ってるだけや。ほんまにボクのことを好きなんと違う」
と、ギンは強い声音で諭した。
「確かに、罪悪感は持っているわ」
と、絢女は認めた。
「でも、罪悪感だけじゃない…。私はあなたが好きだった。多分、霊術院で初めて会った日から、ずっと好きだった」
「嘘、や」
「私は誰かを好きになってはいけないと思っていたの。冬獅郎を守りたかったから…。今になってみれば、傲慢で独りよがりだったと分かるけれど、あの頃の私にはあの子を守ることしか考えられなくて、だから、絶対に誰かを好きになってはいけないと思っていたの。…誰かを好きになって、あの子を守れなくなってしまうのが怖かった。好きになった誰かを巻き込んでしまうのが怖かった。冬獅郎の生を歪めているのに、誰かを好きになるなんて身勝手だと思ってた。私はずっと自分の気持ちから目を背けていたの。あなたはただの同期の友達。ただの同僚。ただの上司。そう言い聞かせることで、自分を誤魔化していたわ」
いつの間にか、絢女とギンの距離は縮まっていた。
建物の影から抜け出した絢女の顔を、月の光が照らし出す。その美しさに、ギンは息をのんだ。
「あなたが私を想ってくれていることに気が付いた時、嬉しいよりも恐ろしかった。あなたの手を取ってしまったら、巻き込んでしまうと思ったの。だから、絶対に私の気持ちは悟られないようにしようって決めて…。拒絶することで、私はあなたを守ったつもりになっていたわ。本当はただ意気地がなかっただけのことなのに、守ろうとしていたのはあなたではなくて自分自身だということさえ、私には視えなかった…」
「…」
「…あなたの証言を聞いた時、後悔したわ。どうして、私は自分の心に正直になれなかったんだろうって。あなたとちゃんと向き合っていれば、あなたがむざむざ藍染隊長の手に落ちることもなかったのにって…」
「絢女と向き合わへんかったのは、ボクも同じや。ボクが藍染はんに惑わされたんはボク自身のせいで、絢女に責任なんてない」
「…もう、後悔したくないの」
絢女はまた一歩、ギンとの距離を詰めた。すでに、二人の間は、ほんの少し手を伸ばせば触れられるほどに近づいていた。
「もう、気持ちを隠せないの」
「あや…め…」
「私は自分勝手で、傲慢で、あなたのことを思い出すことさえ出来ない薄情な女で…。だけど、だけどね。私はあなたが好きなの。ギン、好きなの…」
絢女は繰り返した。信じて、とその眸が訴えていた。
「あなたが許してくれるなら、私はあなたの傍にいたい。ずっとあなたといたい」
動けずに立ち竦むギンに、彼女の表情が悲痛なものに変わる。
「…私を許せない? もう、私なんかいらない?」
距離をゼロにしたのは、ギンの方だった。
絢女の体を引き寄せ、彼は腕の中に閉じ込めた。
みっともないほど体が震えているのを、彼は自覚していた。触れてはならない女に触れてしまった焦燥に責め立てられ、彼は苦しげに呟いた。
「絢女は綺麗や。ボクみたいな、血塗れの汚れきった男が触れてええ娘やない」
彼の胸元で、絢女は首を横に振った。
「血に染まっていない死神なんていないわ。あなたが血塗れなら、私だって血塗れよ。それに、私はあなたが思うようなきれいな女じゃない…。身勝手で、とても醜い女なの」
「絢女は綺麗や」
と、ギンは繰り返した。
「絢女ほど綺麗な娘はおらへん。ボクなんか相応しゅうない。ボクは絢女を幸せに出来ひん」
「私はあなたでなければ、」
言いかけた絢女をギンは遮った。
「ボクじゃあかん。ちゃんと絢女を幸せに出来る男と、」
「いや!」
今度は絢女が最後まで言わせなかった。
「私の幸せをギンが決めないで。私はあなたでなければいやなの。あなたの傍にいたいの」
ギンに会えなくなるのはいや
腕の中の女の言葉が、遠い、遠い、時の彼方で告げられた少女の言葉と重なった。
「あなたといれば不幸になるというのなら、それでも構わない。あなたといる不幸せとあなたを失くす不幸せなら、あなたといる方がずっといい。もう、離れたくないの。身勝手でも、我儘でも、私はギンといたい」
お願い、遠くに行かないで…
「…好きよ、ギン。好き。お願い、私を許して…。あなたの傍にいさせて」
一緒にいたいと絢女は言った。彼女が「傍にいてほしい」ではなくて「傍にいさせて」と言ったことに気付いて、ギンはごくりと唾を飲み込んだ。
「ええの? ほんまにボクでええの?」
咽喉がからからに渇いて、うまく声が出せない。
「絢女のこと、欲しい言うてもええの?」
絢女の両手がギンの背中にまわり、ぎゅっと彼を抱きしめた。
ギンの胸元から顔を離し、彼女は彼を見上げた。
「 抱いて、下さい」
はっきりと告げられた言葉に、ギンは体を強張らせた。全身をかつて感じたことのないほどの熱が駆け巡ってゆく。彼は、自分の中で、どくりと脈うつ音を聞いた。
「ええの、絢女?」
と、彼はもう一度、尋ねた。
「一遍、触れてしもうたら、いやや、言うてももう止められへんで」
「いやだなんて言わない。だから、抱いて下さい」
絢女ももう一度繰り返した。
「お願い…」
ふわりと、ギンは絢女の身体を抱え上げた。
隊長舎の最奥、寝室として使用している小部屋の敷きっぱなしの布団の上に、ギンは胡坐をかいて座った。抱きかかえていた絢女を自分と向い合うように膝上に置くと、二人はしばらく無言で見つめ合った。
初めて目にする絢女の熱を孕んだまなざしが、ギンの神経を侵してゆく。
ギンにとってはとてつもなく長く感じた沈黙だった。けれど、実際には短い時間に過ぎなかっただろう。
どちらからともなく唇が触れ合った。
すぐに触れていた唇は離れた。再び、視線が絡み合い、もう一度唇が触れ合う。離れては触れ、触れては離れしながら、少しずつ触れ合う時間が長くなり、ついにギンは舌先で絢女の唇を犯した。唇を割って侵入してくるぬるりとした舌の動きに、絢女が体を強張らせたのを感じながら、ギンはさらに深く彼女の口腔に入り込んだ。左手で彼女の後頭部を押さえたまま、背中に回していた右手を胸前に移動させ、ギンは帯締めに指を掛けた。
女の帯締めをほどくことなど、それこそ数え切れないほど経験していた。それなのに、指が震えて、なかなかうまくゆかない。やっとの思いで帯締めと帯揚げを外すと、震えの治まらない指で、今度は帯をほどいてゆく。奪い取った帯を布団の外に投げ捨てるのと、深い口接けが終わるのとは同時だった。
口接けの間、うまく呼吸が出来なかったのか、絢女は苦しげに肩で息をしていた。微かに洩れ入る月あかりが、彼女の目尻に滲んだ涙を光らせる。ギンは舌先で、光る雫を舐め取った。
「…ギ…ン」
細い吐息に似た、彼女の呟き。
ギンは絢女の着物の胸元を緩め、引き下ろして彼女の両肩を露出させた。
「この傷…?」
絢女の左肩から乳房に向かって、斜めに七寸近く、引き攣れたような傷痕があった。
「…四十五年前、大虚と戦った時の傷…」
と、絢女は目を伏せた。
「他は全部、浦原さんが治して下さったけれど、これだけは痕が残ってしまって…」
四十五年前、彼女を亡き者にしようとする藍染の策略で、絢女は大虚と戦い、消息を絶った。その時に現われた大虚は下級が二体、中級が一体で、下級二体は傷を負いながらも絢女が倒した。けれど、うち一体は爪に毒を持つタイプで、その大虚に深く切り裂かれた左肩は毒のせいで傷痕が残ってしまったのだ。
「みっともない、でしょう」
ギンと目を合わせずに呟いた絢女に対して、ギンは無言で傷痕に唇で触れた。びくっと、絢女の体が撓る。そのまま、ゆっくりと、ギンは彼女の傷を舌でなぞった。
「…あ」
上から下に傷を辿ったギンの舌は、傷の先端に達して方向を変え、今度は下から上へと舐め上げ始めた。
「ギン…」
絢女の身体から力が抜け、崩れそうになる。ギンは彼女を膝から降ろし、
「ほんまに抱くで…?」
こく、と彼女は小さく頷く。
「もう、止められへんで?」
はっきりと絢女が頷いたのを確認して、ギンは彼女の伊達締めに手を掛けた。すでに体は狂おしいほどの熱にうかされていたけれど、絢女を傷つけたくないという強い想いがぎりぎりのところで彼の理性を保たせていた。彼女が怯えることのないように、丁寧に着物を脱がせてゆく。露わになってゆく白い裸身になけなしの理性を引きちぎられそうになりながら、彼女の纏う布をすべて奪い去り、ギンは自分を覆っていた着物も脱ぎ捨てた。
「絢女」
名を呼ぶ。
隔てるもののなくなった膚に、絢女の体温が直に伝わる。
「綺麗や、姫さん。ほんまに綺麗…」
深く口接ける。
さらさらと指から零れる栗色の髪を梳き、指先で首筋から鎖骨をそっと撫でる。
「ギン…、…ギ…ン」
絢女のか細い声が、彼の名を繰り返した。
欲しかった。欲しくてたまらなかった。
指先で、唇で、触れる絢女の全てがいとおしい。
愛撫に応えて深くなってゆく絢女の吐息が、ギンを痺れさせた。
触れてはならないと、自分を抑えていた。
薄汚れた自分が触れるには、絢女は清らかすぎた。彼女を穢してしまうことが怖くて、触れてはならないと己を律してきた。
そのくせ、ギンは彼女が誰かのものになってしまうことをとても恐れていた。誰に言い寄られても、決して靡かない彼女の態度に救われなければ、彼の理性はとうに限界を超えていたはずだった。
触れられない。けれど、いとおしくてたまらない。
背反する心に引き裂かれ、彼女の代わりに幾人の女を抱いたかしれない。
絢女によく似た明るい栗色の髪を持つ女。
絢女によく似た琥珀の瞳をした女。
声が似ている。顔の輪郭が似ている。体形が似ている。髪質が似ている。
ギンがかりそめの相手に選ぶ女は、必ずどこかしらに絢女と似た部分があった。彼は絢女に似たほんの僅かの部分に全神経を集中させて女を抱き、彼女と似ても似つかぬことに失望し続けた。手前勝手であろうとも、残酷であろうとも、彼が望むのは絢女ただ一人で、他の女は単なる欲望処理の道具に過ぎなかったのだ。
長い長い渇仰の果てに、ようやく
こんなに甘く、心を蕩けさせる吐息をギンは知らない。白く肌理細かい肌の吸い付くような手触りも、やわらかく撓る体も、梔子の花に似た甘い香りも、彼女が恥じる傷痕さえも神々しいほど美しく、ギンは夢中になって彼女を貪り続けた。
やがて、ギンの指が繁みを割って秘所に達した時、なすがままに身を任せていた絢女は初めて体を強張らせ、身を捩って逃れようとした。その体を押さえ、
「絢女」
と、ギンは彼女の名を呼んだ。
ずっと、閉じられていた絢女の目がおそるおそる開かれる。ギンは左手で彼女の頬に触れ、額に口接けを落とした。
「怖いん?」
問いかけに、こくりと彼女は頷く。不安におののく琥珀の瞳は、ギンの木賊色の瞳を映して、かすかにその色を変えた。
「怖いけど、大丈夫だから…。やめないで…」
「やめて欲しい言われたかて、もう止められへんよ」
絢女の右手が脱ぎ捨てたギンの着物を強く握り締めているのを見て取り、ギンは彼女の指をほどいた。
「ボクに摑まっとき」
と、彼女の両手を自分の背中にまわさせる。
絢女がわずかに腕に力を込めたのを確認して、ギンはもう一度、彼女の秘所に触れた。
初めてのはずだ、とギンは思う。
冬獅郎を護ることに総てを捧げてきた絢女には、「友達」という名の、色を含まない間柄の男は斑目一角や綾瀬川弓親を筆頭に幾人もいたが、情を交わすような男の影は全くなかった。霊術院で奇跡のように巡り逢ってから、ずっと彼女を見つめてきたギンは、それを知りすぎるほど知っていた。流魂街にいた頃も、彼女はどんな男にも心を許したことがないと、共に暮していた乱菊から聞いていた。しかし、乱菊と出会うより前、流魂街の最貧地区にいた頃の絢女を傷付けた者がいなかったか、それだけがギンには気がかりだった。もちろん、絢女が初めてであろうとなかろうと、彼の想いは変わらない。ただ、まだ少女だった彼女が痛めつけられていなければいいと願っていた。
ゆっくりと、優しく、ギンは絢女の花芽を撫でた。
「…ふ…、…ん…う…」
押し殺した喘ぎが絢女の唇から洩れる。
「声出してええよ」
と言っても、彼女は首を横に振った。
とろりとわずかに滲み始めた蜜を充分に指に絡め、ギンは指先を奥へと侵入させた。
「あっ」
短い叫びと共に、絢女の身体が大きくのけぞった。痛みを感じているのか、眉根を寄せた彼女の表情に、また一本、理性の糸がちぎれる音をギンは聞いた。
指で花芯をかき回し、彼女の中を探ってゆく。差し入れる指の数を増やす度に、絢女の口から押し殺しきれなかった悲鳴が細く洩れ出たが、彼女は決して苦痛を訴えなかった。ギンは彼女の花芯から指を引き抜いた。次に来るものに身構えるように絢女の体が強張ったのに気づいたが、労わってやる余裕を、最早、彼は失くしていた。
熱く猛り狂っている自分のものを、彼は絢女に押し当てた。ぐいっと先端を押し込むと、弾き返されるような強い抵抗があった。
「ああぁっ!!」
余りの激痛に堪えきれず、絢女から悲鳴が迸った。ギンの背中に食い込むほど、彼女の指に力が篭もり、ぼろぼろと涙が零れ落ちた。
「いたッ…! 痛い、痛い!! いやぁ、痛い!」
初めて彼女は苦痛を訴えた。
だが、ギンはもう自分を止められなかった。加減してやることさえも出来なかった。そのまま、全体重をかけると、異物の侵入を拒もうとする門を抉じ開け、力ずくで一気に彼女を貫いた。
「絢女、…絢女っ!」
狂ったように彼女の名を呼び続けながら、ギンは力任せに腰を打ちつける。途切れることなく上がる、絢女の恐怖と痛みに彩られた叫びも彼を煽り続けていた。最奥を突いた途端、一際強い収縮が来る。
同時に、彼は精を絢女の中に放っていた。
果てた自身を絢女から抜くと、彼の放った精に混じって絢女の血が敷布に広がり、牡丹を思わせる染みを作った。
ギンは虚ろな目になっている絢女の頬を両手で挟み、口接けた。髪を撫で、耳許で名前を囁き続けると、ようやく、絢女の瞳に意思が戻ってきた。
「ギン…」
「大丈夫?」
「ん、平気」
力ない微笑を浮かべた絢女にもう一度口接け、ギンはつらそうに目を伏せた。
「絢女…、かんにん」
「え?」
「足りひんねや」
「…え?」
彼女はまさしく初めてだった。
無理をさせてはならない。労わらなくてはならないと、頭では充分すぎるほどに理解していた。けれど、足りなかった。全身を駆け巡った熱は、ただ一度では鎮まらなかった。それどころか、望み続けた女に触れたことで、箍が外れたギンの体は灼けつくほどに火照っていた。熱くてたまらなかった。もっと、もっと、と絢女を強請っていた。
「もう一遍、抱いてええ?」
「…ええ」
一瞬、強い怯えを滲ませた絢女だったが、すぐにギンの願いを容れた。
足りない、足りない、足りない。
理性など、粉々に砕け散っていた。
総てを委ね、苦痛さえも受け入れる絢女を、身裡の凶暴な本能の命ずるままに、ギンは貪り、喰らい続けた。
何度、繋がったか、自分でももう分からなかった。
ギンが我に返った時、絢女は完全に意識を失って、死人のようにくったりとその身を褥に横たえていた。
腕の中でもぞもぞと動く気配があって、ギンは目を覚ました。
「絢女」
と呼びかけると、絢女は顔を上げてギンを見た。
「目ェ、覚めたん?」
「今、何時?」
「うん…? 七つ *2 くらいや」
「そう…」
ギンは、絢女がひどく悲しそうな顔をしているのに気付いた。体がつらいというのとは違う、心が痛んでいる表情に、ざわざわとギンの胸に不安がよぎる。彼女を無茶苦茶にしてしまった自覚はあった。加減することも、労わることさえも出来ず、ただ欲望のままに自分勝手に痛めつけるばかりの彼の愛し方に、彼女は失望したのかもしれない。
「ギン、ごめんなさい」
謝られて、彼は不安が的中したと思った。抱かれたことを彼女は後悔しているのだ、と信じた。
「幻滅させて、ごめんなさい」
「は?」
けれども、続いて告げられた言葉は意表を突いていて、彼はぽかんと彼女を見返すしか出来なかった。
(幻滅…て、ボクが?)
「ごめんなさい、ごめんなさい」
絢女は泣きそうな顔になっていた。
「絢女、待って。何を謝っとるん?」
「私、ギンをがっかりさせたわ。…どうすればいいのか全然分からなかったから、だから…」
「何、言うて…?」
「だって、もの足りなかったんでしょう? 私がちゃんと応えられなかったから…。がっかりさせてしまって…。私…、ごめんなさい」
ようやく、絢女の謝罪の理由に思い当たり、ギンは頭を抱えた。
「『足りへん』言うたの気にしてんの?」
絢女は頷いた。
「何遍も抱いたんも、もの足りんかったからやと思てる?」
重ねて肯定が返って来た。
「もしかして、ボクが満足してない思て、つらいの我慢して抱かれとった?」
「だって、どうすればいいのか分からなかったから…。だから、ギンは…」
不安げに言葉を詰まらせながら、絢女は小さな声で訴えた。
「全然違てる」
ギンははっきりと絢女に告げた。
「『足りへん』のと『もの足りん』のとは全然違う。あのなぁ、絢女。男の身体は女よりも正直いうか、ものすご現金に出来とるん。もの足りん、つまらん女や思たら、速攻で萎えてしまうわ。二度と抱こうなんて思わへん。よかったから、もっと、もっとて欲しゅうなるんや」
「嘘」
己の不甲斐のなさに、ギンの方が泣きたくなってしまった。
絢女は
「嘘やない。疑うなら、男死神にアンケートとってもええで。もの足りん女を萎えずに何回犯れるか、て」
ギンは絢女の髪をそっと指で梳いた。
「絢女は自信持ってええねん。絢女でがっかりするようなら、どんな女を抱いたかて幻滅するだけで一生満足なんて出来ひん。姫さんは掛け値なしに極上の女や」
「ほんとうに? ほんとうに幻滅してない? つまらない女だってがっかりしてない?」
「何で、姫さん、抱けたのにがっかりせなあかんの? 幻滅なんてありえへん。欲しゅうて、欲しゅうてたまらへんかった女を抱かして貰たんやで? 『足らん』言うたんは、絢女のこと思いつめとった年月が長すぎて、溜め込んどった想いが大きすぎて、一遍じゃ発散しきれへんかったからや」
納得したのか、ようやく絢女は愁眉を開いた。
「よかった…」
ほっとしたらしく、弱々しい笑みを浮かべた絢女を、ギンは抱き寄せた。
「ボクの方が謝らんならんかったのに…。ほんま、かんにん。滅茶苦茶してしもうて。つらかったな?」
「つらかったのはつらかったけど…」
と、絢女は正直に答えた。
「でも、ギンに抱いてもらえて嬉しい…。だから、いいの」
汚れきった自分が触れてしまえば、絢女まで穢してしまうと思っていた。しかし、ギンはそれさえ傲慢な考えだったと思い知った。清らかな彼女を、自分ごときが汚せるわけがなかったのだ。絢女は彼に抱かれた今も、言葉に尽くせないほど綺麗だった。こんなに美しい女が自分の腕の中にいる。その事実に、ギンは目が眩みそうだった。
彼の唇に、かすめるように軽く絢女の唇が触れた。梔子の香りがふわりと匂い立ち、ギンが目を見開いた時、
「私、帰らないと…」
と、絢女が呟いた。
「五番隊隊長が三番隊隊長の部屋から朝帰りするわけにいかないもの。今なら、みんな寝ているから、気付かれずに戻れるわ」
そう言いながら、起き上がろうとした絢女だったが、胸を浮かせたところでがっくりと布団に沈んだ。
「…ギン、どうしよう…」
顔をうつ伏せたまま、困惑しきった声がか細く響く。
「動けへんのや?」
事態を予測していたギンは、冷静に訊ねた。処女の絢女にとんでもない無茶を強いたのだ。動けないのは当然だ。
絢女の方は、腰から下に全く力が入らないのと、下腹部を中心に広がる鈍くて重たい痛みをいまさら自覚したのとで、再び、泣きそうになっていた。涙目になっている絢女が可愛らしくて、ギンの口許に微笑が浮かんだ。
「笑わないで。本当に動けないのよ」
ギンは体を起こすと胡坐をかいた。ギンの微笑をからかっていると受け取り抗議する絢女を抱え起こし、最初にしたように、自分の膝に座らせると、彼は小さな声で詠唱を始めた。ぽう、と彼の右手に光が宿る。その手が絢女の腰をゆっくりと滑ってゆくと、ぬくもりとともに鈍痛が遠のいていった。
「これで、動けへん?」
絢女はギンの肩に手を付いて、慎重に立ち上がった。
「大丈夫、みたい」
痛みは完全には治まっていなかったが、ちゃんと立ち上がり、動くことが出来たので、絢女はほっとした。
彼女が手早く着物を身に纏い始めたのを見て、ギンも襦袢を身につけた。
「送るな」
「一人で平気。人に見られたらいやだし…」
「やって、まだ、つらいんと違う?」
「動けるから、大丈夫よ。これでも、一応、隊長なんだから」
「そやったね」
身支度を整えた彼女が、それじゃ、と帰ろうとするのをギンは引き止めた。
「なぁに?」
「痕…。五番隊隊長が首筋に痕つけとるんは、まずい、思うで」
耳たぶの先まで真っ赤に染まった絢女を引き寄せ、詠唱とともに首筋に息を吹きかける。感じたのか、ぞくっと身を竦ませた絢女に、ギンはひそかに笑みをこぼした。
「回復系の鬼道は疲れるし、苦手なんや。次から、つらかったら、ちゃんと言うてな」
「…はい」
ギンは箪笥の小引き出しを開けた。きょとんと彼の動きを見守る絢女に、
「手ェ、出して」
と告げる。戸惑ったまま差し出された掌に、ギンは箪笥から取り出した小箱を載せた。
「開けてみ」
言われるままに、彼女は箱を開けた。中に納められていたのは、小さな髪留めだった。艶のない
「肥後象嵌 *3 や」
「これ…?」
「冬獅郎はんから、新しい髪留めを買うてやるように頼まれとって。けど、ずっと、渡す勇気がのうてな…」
「冬獅郎が? ギンに?」
「うん。髪留めだけは自分が買うたっても使わへんやろう、言うとった。 気に入った?」
絢女は頷くと、丁寧な手つきで髪留めをつまみ上げ、ギンに差し出した。
「つけてくれる?」
背中を向けた彼女の流れる髪を掬い取り、ひとつに束ねて、ギンは髪留めで留めた。ついでに、うなじに口接けを落とすと、くすぐったそうに彼女は体をよじった。
「よう似合うとる」
「ありがとう」
嬉しそうに微笑む絢女を見ていると、ふと、
「暗きより暗き道にぞ入りぬべき 遥かに照らせ山の端の月 *4 」
と、口にのぼせてしまった。
驚いたのか、ぱちぱちと瞬きを繰り返した絢女は、少し考えてから、
「この世にて詠めなれぬる月なれば 迷はむ闇も照らさざらめや *5 」
と返した。
「か細くて、頼りない眉月 *6 でごめんなさい。でも、あなたが望んでくれるなら、私はずっと傍にいるから」
「絢女がおってくれたら、もう迷わへん」
絢女が去った部屋に、梔子の残り香だけが香り続けていた。
*1 一間=約1.8m
*2 暁七つ=午前4時ごろ
*3 熊本の伝統工芸品。鉄などの地に鏨で切目を入れ、金銀を埋込む布目象嵌が代表的。
主に刀の鍔や小柄等の武具装飾として発展、近年は主に装身具として製作されている。
*4 和泉式部 『拾遺和歌集』より
*5 西行 『山家集』より
*6 三日月のこと