始まりの日
「あ、気がついた」
混濁していた意識がゆっくりと浮上すると同時に声が聞こえた。
直後、すぐ目の前に人の顔が現れ、彼は息をのんだ。
彼よりもわずかに年下に見える少女が、まろやかな笑みを浮かべて、横になった彼の顔を上から覗き込んでいた。明るい栗色の髪が背後からの日差しを受けて、きらきらと輝いている。琥珀色の瞳が、彼の目と合って、わずかに細められた。
「大丈夫? 体、痛くない?」
「…」
事態がのみ込めず、固まったまま瞬きを繰り返す彼に、少女は心配そうに眉を顰めた。
「どこか痛いの? お医者さま、呼んで来ようか?」
彼はゆるゆると首を横に振った。動くと体に鈍い痛みが走ったが、このくらいの痛みは何度も体験したことがあったので、彼は気にしなかった。
「キミ、誰?」
ようやく返ってきた彼の応えに、今度は少女の方がぱちくりと瞬きした。
「あ、ごめんなさい。わたしは日番谷
「
横から男の声がした。
「ぼうず、命の恩人に礼を言わんか」
「…命の恩人…?」
絢女と名乗った少女の斜め後ろに控えていたいかつい男が、ずいと身を乗り出して続けた。
「
「
と、男を制し、絢女は視線を彼に戻した。
「気にしないで。わたしが勝手にしたことなの。それよりも、体は大丈夫? ひどい怪我だから、しばらくはすごく痛いはずだ、ってお医者さまが」
「このくらい、平気や」
彼は答える。
「慣れとるし」
「慣れてる、って…」
絢女の表情が曇る。
熱を持っているのだろうか、痛みとは別に、体がひどく重たかった。頭も、どこか覚醒しきれていないようなもどかしさがある。ぼんやりと、彼は「命の恩人」だという少女を眺めた。
(お人形さんみたいな子ォやなぁ)
歳は十か、せいぜい十一くらい *1 だろう。精緻な白磁を思わせる白い肌に、琥珀の大きな瞳が映えていた。顔を縁取る栗色の髪は、肩口の長さできれいに切りそろえられている。間違いなく、彼がこれまで見たこともないほどに美しく高貴な少女だ。そんな女の子が自分みたいな根無し草の浮浪児の心配をしていることに、彼はどうしても現実味を感じられなかった。
「おい、ぼうず」
礼を述べるでもなく、名乗るでもなく、絢女を見つめる彼に焦れたのか、主計が厳しい声を掛ける。だが、主計の言葉は絢女によって、再び制せられてしまった。
「おなかが空いているでしょう? 何か食べられそう?」
曖昧に、彼はうなずいた。意識を失う前、彼は確かに空腹だった。けれど、今は体の重さの方が気になって、腹が減っているのかどうかさえ、自分で分からなかった。
「主計、女中さんにお願いして、おかゆを作ってもらって」
「はい」
絢女の指示に、主計はすぐに従った。部屋を出てゆく間際、主計は厳しい視線を彼に向けた。
「あの…」
「なぁに?」
「おおきに。助けてくれて」
「わたしが勝手にしたことだからいいのに…。それよりも、お名前、教えて」
と、絢女は微笑を浮かべて言った。琥珀の瞳がひときわきらきらと輝いた。
「…ばけもん」
「え?」
「名前。『ばけもん』や」
大きく目を見開いたかと思うと、くしゃりと絢女の表情が歪んだ。
「そんなの…、そんなの名前じゃない…」
「けど、ボク、他に名前、知らへんもん。みんな、ボクのこと、『ばけもん』て呼ぶで」
絢女は俯いたまま、激しくかぶりを振った。
「違う。そんなの名前じゃない…。だめ…」
ぽたり。
落ちてきた温かいものが、彼の肩を濡らした。驚いて、絢女を見ると、彼女の瞳から大粒の涙がぽろぽろと零れていた。
「なん…で…?」
彼は困惑した。何故、彼女が泣くのか理解できなかったのだ。
「何で、泣くん?」
「だって…」
しゃくりあげながら、絢女は答えた。
「…『ばけもの』なんて言うから…。みんな、そう呼ぶって…、それが名前だって…」
「ほんまのことや」
「違う!」
絢女は叫んだ。
「違う! みんな、変よ」
「何が、変なん?」
「ばけものじゃないもの。絶対、違うもの」
「ボクはばけもんや」
「違う。絶対に違う」
「ほんなら、」
と、彼は絢女を見据えた。
「ボクは何なん?」
涙に濡れた琥珀の瞳が、彼を見返した。
「あなたはあなたよ」
きっぱりと、絢女は答える。しかし、彼は納得しなかった。
「答えになってへん」
もう一度、問う。
「ボクは何なん?」
どう説明すれば判ってもらえるのか考えあぐねている様子で、絢女は黙り込んだ。涙はまだ止まらない。静かな室内に絢女のしゃくりあげる声だけが響いた。
やがて、
「…聞こえたの」
ぽつりと、絢女が言った。
「何が?」
「『助けて』って声が」
「…」
「『怖い』って、『寂しい』って、ずっと…、ずっと聞こえていたの」
「…」
「だから、だから、わたし…」
言葉に詰まって、再び涙を零し始めた絢女を、彼は不思議なものを見るように眺めた。
みんな 彼を産んだ母親さえも、彼を「ばけもの」と呼んだ。
ばけもの。疫病神。災い。鬼っ子。
そう呼ばれて生きてきた。それ以外の名で呼ばれたことなどなかった。誰もみな、彼から目をそむけた。誰も、彼を気にかけたりしなかった。誰も、彼の為に泣いたりしなかった。寂しいなど、思ったこともなかった。そんな感情は知らなかった。
「姫さまに何をした」
不意に険しい声が落ちて来て、彼はびくっと目を上げた。部屋の入口に主計が仁王立ちして、彼を睨みつけている。
「何もしてへん」
「だったら、何故、姫さまが泣いている」
「名前、聞かれたから答えただけや。したら、泣き出してん」
「どういうことだ?」
「ボクの名前が『ばけもん』や言うたら、泣き出してしもた」
「『ばけもの』だと?」
主計の眼が、すっと細められた。
「馬鹿な」
「みんな、ボクのこと、『ばけもん』て呼んどった。他に呼ばれたことあらへん。『ばけもん』でないなら、ボクは何なん?」
絢女に問うたのと同じ問いを、彼は主計に投げた。
主計は彼の布団の傍らに、どさりと座り込むと、彼をまっすぐに見て言った。
「ぼうずは人だ。俺や姫さまと同じだ」
「人が『ばけもん』って名前やったらあかんの?」
「『ばけもの』ってのは名前じゃない。人に仇なす魔のものを呼び習わす言葉だ。ぼうずは人なんだから、『ばけもの』なんて呼ばれる筋合いはない。『ばけもの』と呼ぶ奴には文句を言え」
「ほんなら、ボクは誰なん?」
もう一度、彼は問う。
「それは…」
主計が答えあぐねた時だった。
「ギン」
絢女がぽつりと呟いた。
「…姫さま?」
「あなたの名前」
と、絢女は彼の顔を見て続けた。
「ギン?」
彼は戸惑って、絢女を見返した。主計も不思議そうに、己が主を見つめる。
「…髪がきらきらしてて、銀の糸みたいにきれいだから…」
「名前、ボクにくれるのん?」
こくり、と絢女は頷いた。泣きはらして潤んだ目を不安げに曇らせて、彼女は尋ねた。
「わたしがつけた名前じゃ、いや?」
「…」
「こんな名前、気に入らない?」
「…」
黙っている彼に、絢女は重ねる。
「いや、なら、」
「もいっぺん、呼んで」
「え?」
「ボクの名前」
躊躇いがちに、絢女は呼んだ。
「…ギン」
同時に、彼の表情が初めて緩んだ。かすかに笑みを浮かべ、彼は言った。
「もいっぺん、呼んでくれへん?」
「ギン」
「もいっぺん」
「ギン」
呼ぶ度に、彼は穏やかに微笑った。それがとても嬉しくて、乞われるままに、絢女は自分がつけた彼の名前を繰り返した。
彼も、何度も、何度も、名を呼ばれることを願った。
絢女の愛らしい、優しい声音で「ギン」と呼ばれる度に、彼は今まで感じたことのない温かさが自分に満ちてゆくのが分かった。生まれて初めて、恐れも嫌悪もなく、自分を呼ぶ者に出会った。
「絢女、おおきに」
彼 ギンの告げた感謝の言葉に、絢女は花がほころぶような笑みを浮かべる。
ギンは初めて、自分に向けられる笑顔のぬくもりを知った。
*1 数え年による表記。満年齢だと9〜10歳くらい。
なお、数え年は産まれてすぐを1歳とし、正月を迎えた時に2歳となる。
以後、正月ごとに年齢が上がる為、満年齢とは生まれ月により1〜2歳弱の開きがある。