連れて行って


 ギンが床から半身を起こせるくらいまで回復したのは、それから三日後のことだった。
 怪我には慣れているつもりだったが、殺されかけたというだけに、本人が思ったよりずっと傷は深かったのだ。
 絢女はずっと、ギンのそばに付いていた。彼女が何くれとなく世話を焼いてくれることはとても嬉しかった。けれども、彼女に優しくされればされるほど、温かさで満たされれば満たされるほど、同時に、得体の知れない不安がギンを捉えた。
 その日の夕餉を終えた後のことだった。
「お話があるの」
 真剣な口調で絢女に切り出され、ギンはざわり、と全身に悪寒が走った。聞きたくないと、心が叫ぶ。けれど、口にすることが出来ないまま、
「これ以上、出立を延ばせないの」
と、絢女の口から最後通牒に等しい言葉が発せられた。
「ギンが元気になるまで待っていたかったけれど、お医者さまは、まだ無理だって、動かしちゃだめだっておっしゃるし…。でも、わたしは父上の名代で御所さまに拝謁したから、一刻も早く戻って、父上に復命しなくてはいけないの」
 絢女がギンを救ったのは、公儀御番陰陽師として将軍家の親書を京の御所に届けた帰路のことだった。本来であれば、日番谷家当主である絢女の父が自ら赴かねばならないお役目である。しかし、この頃、幕府は開国に伴う混乱で急速に力を失いつつあり、政局はきな臭かった。弥生の末には水戸天狗党が挙兵、常陸や下野などで騒乱を起こしながら未だ鎮圧に至っておらず、文月には長州と会津・薩摩が衝突した「蛤御門の変」も勃発、相次ぐ内乱に絢女の父はどうしても江戸を離れられなかった。その為、一姫の絢女に護衛として日番谷家筆頭用人である市丸主計を付けて、名代として京へ行かせたのである。
 まだ少女の絢女であったが、役目の重さはわきまえていた。一日でも早く江戸に戻り、父に、しいては将軍家に復命することが至上であることを重々承知していた。それでも、なお、助けを求める声を無視することが出来ず、寄り道と知りつつ、声の元に赴いた。村に災いをもたらしたものとみなされ、嬲り殺されそうになっていたギンを村人から奪った。そして、彼に手当を施した。
 けれど、もう、この地に留まるのは限界だった。絢女には公の役目があり、ギンのことは私事だったから。けれども、絢女は自分が救った命を投げ出すつもりはなかった。親兄弟もなく、天涯孤独なギンを見捨てることなど出来なかった。
「ギンのことは宿の人にお願いしたから、ここで養生してほしいの。江戸に戻ったらすぐに迎えを寄越すから、ギンがいやでなければ、江戸に来てほしい…」
と、続けた絢女はギンと目が合って、ぎょっとして黙り込んだ。
 彼はいっそ酷薄と表現してよいほど、醒めきった、冷たい目をしていたのだ。
「…ギン?」
「野良犬、懐かせるんは楽しかった?」
「え?」
 ギンの底冷えのするような声音を、絢女は初めて聞いた。
 ふいと、ギンは絢女から目を逸らす。
 彼の表情は髪に遮られて見えなくなってしまったが、全身で絢女を拒絶していた。
 けれど。
 絢女にはわかってしまった。彼が見えない涙を流していることが。
 ひとりぼっちで震えていた少年に手を差し伸べておきながら、縋りつかれた途端に振り払うのも同然の仕打ちをしてしまったことを、絢女は悟る。「迎えを寄越す」という自分の言葉は、ギンには意味がないのだ。その言葉を信じて待てるほど、彼は幸せな時間を過ごしてはいない。
 彼を置いていけない。でも、出立は延ばせない。
 にわかに、立ちはだかった矛盾に途方に暮れたのは、わずかな時間だった。
「主計を置いていきます」
 思いがけない主の言葉に、それまで黙って控えていた主計が驚きの声を上げる。顔を背けていたギンも、思わず絢女を見返した。
「姫さま、何を!」
「出立は延ばせない。大事のお役目だもの。でも、ギンをここにひとりにしておけない。だから、主計を置いてゆくの」
「そんなこと、出来るはずが」
「これは命令です」
と、絢女は主計を見据える。
「主計はギンのそばにいてあげて。そして、ギンが動けるようになったら、江戸に連れてきて」
「その命はきけません」
 主計ははねつけた。
「姫さまのお傍を離れることなく、お護りすること。それがおやかたさまより賜った命です。お館さまの命は姫さまの命に優先いたします」
「主計!」
「きけません」
 にらみ合う主従を、ギンは呆然とみていた。
 絢女の従者は主計の他は、荷物持ちや口取りの小者が三名ほど付いているだけである。彼らは身分の低い下僕で、武芸の心得はないから、絢女がもし狼藉者に襲われるような事態になった時、役には立たない。日番谷家の一姫として高い霊格と呪術の心得を持つ絢女にとって、ごろつきや夜盗の類は恐れるような相手ではないが、何といっても、彼女はまだ幼い。だからこそ、彼女の父は呪術のみならず、武技にも長けた主計に護衛を任せたのだ。
 その主計を絢女は置いてゆくと主張する。
 主計を置いてゆけば、見捨てるつもりはないということがギンに伝わると絢女は思っていた。主計をギンに付き添わせ、回復したら江戸に伴うように命ずることが、彼女に出来る精一杯の誠意だった。
 そして、確かに彼女の真心はギンに伝わった。
「分かった」
と、絢女と主計を等分に見ながら、ギンは言った。
「分かったから、もうええわ。絢女、おっさんは置いていかんでええ。ボク、ここにひとりで残るから」
 先ほどの底冷えのするような口調が幻に思えるほど、静かな声だった。
「だめよ。ギンをひとりで置いていけない」
「初めはそうするつもりやってん?」
「ええ。でも、だめ」
「せやかて、絢女がひとりで行くんは危なすぎる。ボクの為に、おっさん、置いてくことないねや」
「ギンをひとりにできないもの」
 絢女は幼くて、自分の想いをうまく説明できずにいた。けれど、ギンが冷えた目で絢女を見た時、「野良犬、懐かせるんは楽しかった?」と、告げた時、絶対に彼を置いていってはならないのだと感じた。ギンをひとりにしたら壊れてしまう、と絢女は怯えた。
 ひとりにできない、置いていかないと絢女は繰り返す。
「もう、ええねん。絢女、行かんならんのやろ? ええから、置いていき」
 説明できない絢女の直感を、論理的に気付いたのは、主計だった。
 絢女ほどに人の痛みを敏感に感じ取ることは出来なかったが、日番谷の一族に連なる者として、主計もまた他者の心を察する力に優れていた。それに、大人である分、多くの経験があった。だから、彼にも分かった。ひとり置いてゆくことは、ギンを殺すことと同じだということが。
 ずっと日の射さない、冷たい暗がりを歩んできたギンにとって、絢女は初めて見た光だった。その光は眩いほどに明るくて、根雪を溶かすほど暖かくて、凍え切っていた彼をあっという間に暖めてしまった。一度、暖かさを知ってしまった彼は、もうあの凍えた場所には戻れない。闇の中では生きられない。
 それに。
 年の功というものだろう、主計は絢女も気づいていない事実を認識していた。「残る」、「置いていっていい」、そうギンは言ったけれど、「迎えを待つ」とも「ひとりで大丈夫」だとも口にしていない。絢女の命じたとおり、主計がギンとともに残ったとしても、ギンにとってはひとり残されることと同じである。彼にとっては、絢女でなければ意味がないのだ。
 主計はギンに向き直った。
「ぼうず、怪我は慣れてると言っていたな」
「…? 慣れとるで」
「なら、少しくらいつらいの、我慢できるか?」
 意図が掴めず、ギンは主計を見返す。絢女も、
「主計?」
と、戸惑いながら問いかけた。
「一緒に連れて行ってやる。他にどうしようもねぇみたいだからな」
「は?」
「姫さまと一緒に連れて行ってやる、と言っているんだ。感謝しろ」
 あえて尊大な口調で言い切った主計を、ギンはぽかんと見つめ、絢女は慌てて反論した。
「無茶よ。お医者さまはまだ動かしちゃいけないって!」
「こいつは、みかけによらず頑丈です。医者の見立てじゃ起き上がれるまで、少なくとも六日はかかるはずでした」
「それは、でも…。だからって…」
「姫さま」
 主計は真顔で主を見据えた。
「姫さまに置いていかれたら、こいつ、死んでしまいますよ」
 え、と絢女は琥珀の目を見開いた。
「私が残っても、姫さまがいないのなら、こいつにとっては同じことです」
「…」
「出立は延ばせない。しかし、こいつを置いていけないというのなら、残された手段はただひとつ、こいつを連れて行くしかありません」
 絢女は唇を噛んで俯いてしまった。両膝の上で握り締めた小さな拳が震えている。
 主計はもう一度、ギンの方を見た。いまだに茫然としているギンに、静かに問いかける。
「ぼうずはどうしたい?」
 ゆっくりと、ギンは目を上げた。
「ここに残って、養生しながら、姫さまからの迎えを待てるなら、それに越したことはない。姫さまも大怪我しているぼうずを無理して連れていくより、そっちの方が安心だろう。だが、な。うちの姫さまは情の濃い人だ。もし、迎えに来た時にお前にもしものことがあったら、置いていったことを悔やみ続けるだろう」
「…」
「江戸になんか行きたくねぇ、ってならそれでもいい。日番谷の家は、お武家さまほど格式ばっちゃいないが、御公儀や御所さまにも目通りがかなうくらいの家柄だ。それなりに堅苦しいところはある。窮屈なのは嫌だってなら、ここで別れてもいい」
 主計はギンの瞳を覗き込むように見据えた。
「ぼうずはどうしたいんだ?」
「ボクは…」
 ギンは言いよどむ。
 それを見て、主計は溜息をついた。
「言っていいんだぞ。ぼうずのこれからにかかわる話だ。どうしたいのか、ちゃんと言ってみろ」
 声に出して。言葉にして。
 ギンの瞳が揺れた。
「…置いてかれるん、いやや」
 聞こえないほど小さな声で、ギンはしぼり出した。
「聞こえんぞ。姫さまにも聞こえるように、もっと大きい声で言え」
「…連れてってほしいねん。置いてかれるん、いやや。お願いや、連れてって」
 絢女がはっと顔を上げ、ギンを見つめた。主計は大きな手で、ぐしゃぐしゃとギンの髪をかき回した。
「姫さま、どうします?」
 にやり、と笑って、主計は小さな主を見遣る。
「明日、出立します」
 絢女は答えた。
「…ギンを連れて」
 不安はあった。けれど、彼の願いを聞いた以上、置いてゆくという選択肢は消えた。
 ギンは黙って頭を下げた。

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2008.11.30