消えた斬魄刀、消えた義骸
身体を揺すられ、名を呼ばれて、ギンは目を覚ました。
闇に慣れた目に、覗き込む女の顔が映った。
「絢女…」
と彼女の名を呟くと、絢女は幽かに笑みを浮かべた。
「かんにん。ボク、また…」
絢女はゆるりとかぶりを振る。ギンは両手を伸ばして彼女を引き寄せると、きつく唇を合わせた。同時に右手を胸元に這わせ、ふっくりとした乳房を強い力で揉みしだいた。びく、と彼女が痙攣する。ほんの数時間前に愛し合った名残を色濃く留める身体は、僅かな刺激であっけないほど簡単に火が点いた。
「あ、ギン…。ん、ふ…」
得体の知れない何かに駆り立てられるような性急で荒々しい愛撫に、絢女の表情が歪んだ。
「ぅ…あ…、ギン…。…ギン…、んぁ…あ…」
苦しげな喘ぎが漏れて来る。
無理を強いていると
「もう許して」
と泣きながら哀訴する絢女を心ゆくまで貪り、満たされきった気だるさの中でまどろんだはずなのに。
それなのに、ギンは自分を止められなかった。
絢女と共寝をしている時ですら、前触れもなく襲う悪夢がギンを苦しめていた。悪夢に魘され、心配した絢女に揺り起こされるのは、もう幾度となく経験したことだ。そして、目覚めた後、ギンが絢女を求めるのもまた、いつものことだった。そして、そういった時は、本能のままに欲望を叩きつけるような、絢女に苦痛を強いるような行為になるのも珍しくはなかった。もちろん、終わった後で強い後悔に苛まれる。理解っていながらも、ギンは絢女を抱かずにはいられないのだ。
彼女が幻ではないと。確かに、彼の傍にいるのだと。
彼女を嬲り、喰らい尽くすことでしか確かめられない。
彼の葛藤を充分すぎるほどに察しているのだろう。そういう時には、絢女は決してギンを拒んだり抵抗したりしない。それが快楽よりも苦痛をもたらすものであったとしても、彼が安心し、納得するまで、絢女はひたすらに彼を受け入れ続けるのだ。
彼女が解放されたのは明け方近かった。
気息奄々、という表現が相応しいほどに消耗しきって、ぐったりと
「絢女、かんにん」
骨まで溶け崩れてしまったかの如く脱力している彼女の半身を起こして胸に抱えると、ギンは自分の霊圧を分け与え、回復鬼道を用いた。注ぎ込まれる霊圧に虚ろだった絢女の眸に力が戻ってきた。
「ギン、もういいわ」
絢女はギンを制した。
「これ以上はあなたの方が消耗してしまう…」
「けど…」
「もう大丈夫。ちゃんと動けるから」
と彼女はギンに預けていた身体を起こした。
「ごめんな、絢女。また、無茶苦茶してしもて」
「ギンが霊圧を分けてくれたから、平気よ」
「…また、止められへんかった…。ほんま情けな…」
うなだれるギンに絢女はそっと
「情けないギンも好きだから、そんなに自分を責めないで」
「情けなさ過ぎや。こんな、絢女を痛めつけることするなんて…。最低や」
絢女はもう一度口接けると、
「好きよ」
と繰り返した。
「こない情けない男が?」
「ええ」
と絢女は微笑した。
「二十四時間、三百六十五日情けない男の人だったら困るけど、ギンはそうじゃないでしょ。普段は周りの人たちから頼りにされていたり、一目置かれたりしてる人が自分の前でだけは情けなかったり、弱ってる姿を見せてくれるのって、けっこう女の優越感をくすぐるのよ」
ギンは絢女を抱き寄せると、
「暗い水底に沈んでゆく夢を見たん」
と耳許で囁いた。
「真っ暗で、お日さんの光も届かへん、冷たい水の中にどんどん沈んでゆくんや」
「ええ…」
「怖ろしゅうて、絢女を呼ぼうとしたけど、叫んだ声さえ冷たい水に呑まれてしもて…」
ギンが悪夢の内容を語ったのは初めてのことだった。絢女は彼の背中に廻した腕で彼を強く抱きしめ返すと、
「ここにいるわ」
と告げた。
ギンもまた、彼女を抱く腕に力を込めた。
しらじらと、空は明け染め始めていた。
力強い声が、彼女を呼んでいる。
乱菊は、はっと、目を開けた。
「乱菊、大丈夫か?」
気遣わしげに、冬獅郎が乱菊を見つめていた。
「冬獅郎さん、あたし…?」
「魘されていた。怖い夢でも見たのか?」
あやすように抱きしめられ、ぬくもりを感じて、乱菊はほっと息をついた。
全身は冷たい汗に濡れていた。冬獅郎に起こされるまで苛まれていた悪夢を思い出し、乱菊は男の腕の中でぶるっと身震いした。
「すみません、冬獅郎さん。起こしてしまって」
謝る乱菊に、
「んなことは構わねぇよ」
と冬獅郎は薄く笑い、再びあやすように背中をぽんぽんと叩いた。
「怖い夢でも見たのか?」
問いを繰り返した男に、乱菊は頷いた。
「真っ暗で何にもないところに一人でいたんです。何の音も聞こえなくて、何にも見えなくて、上下左右さえ分からない、ただ重たくて暗いところにいました。不安になって、冬獅郎さんを呼んだんですけど、自分の声さえ聞こえないんです」
冬獅郎は黙って乱菊の背を撫で、続きを促した。
「悪い夢だと夢の中で思いました。早く目を覚まさなきゃ、て焦っているのに、どんどん身体が重くなって、深く眠っていくようで、動かない身体でもがいていた時…」
乱菊は言葉を止めた。
「どうした?」
「声が聞こえました…。人のものだとは思えないほど陰鬱で重たい、地の底に引きずりこまれそうな声が、あたしのすぐ耳許で…」
再び、乱菊は大きく身震いした。夢の内容を語ることで、あの声がまざまざと頭の中に甦ってきたのだ。
「憎い、邪魔だって…」
冬獅郎はじっと乱菊を見つめた。俺がいるから安心しろ、と言葉に出さずに告げられた気がして、乱菊はぎゅっと彼の腕に右手で縋った。
「それから、首を絞められました」
「首を?」
「ええ。何にも見えない真っ暗闇なのに、もっと真っ暗な影があたしに圧し掛かってきて、首を…」
乱菊は無意識に左手で自分の首筋を撫でていた。
途端に、冬獅郎が僅かに目を見開いた。
「…? どうかしました?」
乱菊が不審に問いかけると、
「いや…」
と彼にしては歯切れの悪い応えが返って来た。
「冬獅郎さん…?」
乱菊は冬獅郎の視線が、自らの首筋に注がれているのに気付いた。
ぞくりと、冷たい予感がした。
乱菊は冬獅郎が留める間もなく、彼の腕を抜け出すと行灯を明るくした。鏡台の前に素早く移動すると、鏡の覆いを跳ね除ける。
「ひっ…」
鏡に映った自らの姿に乱菊は恐懾した。
人の手の形に鬱血した首筋は赤黒く変色していた。
「な…、何、これ?」
首を絞められたのは夢のはずだ。ずっと冬獅郎と共寝をしていて、誰かが侵入してきたわけがないのに、乱菊の身体には絞首の痕がくっきりと残っていた。
「どうして…」
「おまえが自分で首に触れた時に、いきなり浮かび出してきたんだ」
と、鏡の前で呆然としている乱菊を背後から庇うように抱きしめながら、冬獅郎が教えた。
「俺がやったんじゃねぇぞ」
「当たり前です…」
震える声で、だが、きっぱりと乱菊は返した。
「冬獅郎さんのはずがありません」
「ああ。俺にはおまえを護る理由はあっても、傷付ける理由なんてねぇからな。それに、万にひとつで、暗示かなんかにかかって自分で知らねぇうちにおまえの首を絞めるなんてことが有り得るとしても、だ。少なくとも、これは俺じゃねぇ」
冬獅郎は自分の手を乱菊の首筋に触れさせた。鬱血となって残っている手形は彼の手よりもずっと小さかった。確かに言う通りで、彼が首を絞めたのならばもっと大きな手形になるはずだ。
乱菊はおそるおそる、自分の手を再び首筋に持っていった。
「違う…。自分で締めたんでもない」
起こったことが理解できず、乱菊は怯えた目で冬獅郎を見上げた。
「俺にも、何がどうなっているのかわからねぇ」
正直に冬獅郎は告げた。
「けど、乱菊。おまえは俺が護る。きっと護る」
こくり、と乱菊は頷いた。彼の腕に抱きすくめられたままで、乱菊は得体の知れない恐怖と戦っていた。
夜明けを待って、冬獅郎と乱菊は四番隊を訪れた。
午前中は定例の隊長格会議がある。まさかに手形をそのままに会議に出席するわけにいかないが、鬼道で回復させる前に烈の意見を聞いておきたかったのだ。
烈の診察の結果は、冬獅郎や乱菊が感じたとおりのものだった。
頸部を強く圧迫されたことによって生じた内出血による痣というのが、烈の見立てだった。だが、どう考えても何者かが二人の寝間に侵入した形跡はなかった。それに、乱菊が「夢の中で首を絞められた」と説明しながら、自分で自分の首に触れた正にその時に不意に手形が浮かび上がってきたのは、行灯の灯りを絞った薄暗がりだったとはいえ、見間違えようもない事実だった。
「夢で起こったことが現実になるなんてことは、」
「通常では考えられません」
と烈は一旦は否定した。
「ですが、全く例がないわけではありません。強烈な暗示によって、身体に何らかの反応が発生することはないとは申せません。ですが、そういった場合でもこんなにはっきりと身体に現れるなどということは…」
長く四番隊の隊長を務め、ちょっとやそっとのことでは動じない女傑の烈にして、乱菊の身に起きた事態は困惑するしかないことだった。
念の為、何枚かの写真を撮って現状を保存した後、烈は鬼道を使って乱菊の鬱血を回復させ、痣となった手形を消し去った。
二人して、会議舎に向かって歩みながら、
「冬獅郎さん。絢女やギンには言わないで下さい」
と乱菊は頼んだ。
「心配させたくないんです」
「そうだな」
と冬獅郎も頷いた。心配させたくないという乱菊の思いはともかく、彼自身、事態を把握しかねていたので、姉に相談するにしても上手く説明できる自信がなかった。
時間よりも早めに着いたのだが、会議舎にはすでにギンとイヅルが来ていた。三番隊隊長は会議の類はぎりぎりにしか現れないのが常だ。にもかかわらず、ギンが早々に来ていることが何とはなしに気になった。普段なら「珍しいこともあるもんだ」で終わりのはずなのだが、つい深読みしてしまうのは自分も思う以上に混乱しているからだろう、と片隅だけ冷静な頭で冬獅郎は考えていた。
各隊の隊長たちは、三々五々集まってきた。刻限ぴったりに、総隊長が入室して来る。通常であれば、副隊長の雀部を伴って入って来る総隊長だったが、今日は雀部の他に二番隊の正副隊長を従えていた。その場にいた全員が、おや、と不審を感じていると、
「定例の会議の前に、急ぎ報告することがある」
と総隊長が宣言した。
二番隊隊長の砕蜂が進み出ると告げた。
「本日未明、霊刀安置回廊を管理する
声にならない衝撃が走った。
尸魂界を揺るがせた十一年前の叛乱で、首謀者であった藍染惣右介がその半身としていた斬魄刀こそ、鏡花水月だった。その能力は完全催眠。相手の五感の全てを支配し、藍染惣右介自らが語った表現を借りるなら「沼地を花畑に、蝿を龍と誤認させることも可能」な強力な幻惑術を持つ斬魄刀であった。
「何者かが持ち去った、ということかい?」
砕蜂に向い、春水が問いかける。
「いや。その形跡は認められない」
と砕蜂は否定した。
「丑の下刻 *1 に行われた定期巡回の際には、鏡花水月が霊刀安置回廊に存在していたことは巡回した複数名の鬼道衆により確認されている。それから
「ということは、鏡花水月が自ら出て行ったということか」
と狛村が呟いた。
戦闘や病などで主を喪ったり、あるいは、何らかの事情で廃業した死神の斬魄刀は、力を持たない刀に還り休眠状態に入る。休眠した斬魄刀が納められているのが霊刀安置回廊である。回廊は鬼道衆によって
死神と斬魄刀の出会いは様々であるが、三つのパターンに大別することが出来る。即ち、死神が斬魄刀を選ぶ場合と、斬魄刀が自らの主となる者を見出す場合、そして、死神の霊力の下から新たな斬魄刀が生み出される場合である。
最後のパターンの場合、その斬魄刀はもともとが死神の魂から分かれ出でたものであるのだから、魂の半身となるのは必然である。総隊長・山本元柳斎重國と斬魄刀・流刃若火がこの例に当たり、死神の側に隊長級の強力な霊力が備わっていない限りはあり得ないことである。
ほとんどの死神の場合は第一のパターンに属する。霊術院で課程を修めたか、それに準ずる能力があると認められた死神候補生は鬼道衆の厳しい監視の下で、霊刀安置回廊に入ることが許される。彼らはそこで幾百もの刀の中から、自らの半身となる斬魄刀を選び出すのである。だが、選んだからといって、即、それが半身となるわけではない。斬魄刀が応えなければ、所有は認められない。その令名の高さに惹かれ、かつて隊長格が所持していた強力な能力を持つ斬魄刀を選び出した死神候補生たちの大部分は、斬魄刀が応えないままで終わってしまう。名ではなく、真に魂が響き合う刀を選び出せた者だけが斬魄刀の眠りを覚まし、始解することを得るのである。
斬魄刀が自らの主を見つける第二のパターンの典型は、冬獅郎と氷輪丸の例が挙げられる。
冬獅郎の前に氷輪丸を所持していた死神は、山本元柳斎重國の若き日の親友で、右腕ともいえる存在だった男だ。彼は山本とともに混乱の中にあった尸魂界の平定に尽力し、現在の秩序の礎を築くのに貢献した。だが、病に蝕まれてしまったのだ。親友が身罷った時、遺された氷輪丸をかき抱いて、山本は男泣きに泣いたものである。
以来数百年、氷輪丸は霊刀安置回廊で眠り続けていた。氷雪系最強、山本の右腕だった男の斬魄刀ということで名を馳せていた氷輪丸を所持せんと、幾多の死神が眠りを覚まそうと試みた。だが、氷輪丸は決して応えることはなかった。そんな氷輪丸が忽然と霊刀安置回廊から消えたのは今から五十四年前のことだ。西流魂街一地区で、全く無自覚のうちに周囲を怯えさせるほどに霊力を高めていた冬獅郎に氷輪丸は惹き寄せられたのだ。夜毎、夢の中で猛り、氷輪丸は冬獅郎に問うていた。
「おまえが我が主か?」
と。
乱菊と出会い、死神となる道を択んだ時、冬獅郎は氷輪丸の主となることが決定付けられた。尤も、氷輪丸が斬魄刀として冬獅郎の前に姿を現したのはそれからずいぶん経ってからのことである。それに、冬獅郎にしても目の前に現れた刀を即座に始解出来たわけではない。「氷輪丸」という名を知り、始解を得たのは、更に数ヵ月後のことだ。
強い霊力と魂の輝きを持つ者が現れ、その魂が響き合った時、斬魄刀は自ら主となるべき者の許に赴く。氷輪丸が冬獅郎と出会ったように。春水の花天狂骨。烈の肉雫接。ギンの神鎗なども出会い方は様々であったが、斬魄刀が自ら主を択んだ例に当たる。こういった事例がある為に、霊刀安置回廊は外から内への侵入は厳しく縛められていても、内から外への脱出は、ある程度の力を持つ斬魄刀が目覚めさえすれば可能なように結界が組まれているのだ。
「鏡花水月が新しい主を見付けたにしても、藍染が死んでからの期間が短すぎるんじゃないか?」
「確かに過去の例からすると短い気はするけど、決まりがあるわけじゃあないしねぇ」
「鏡花水月の能力は確かに特殊だが、能力自体が危険なわけではない。主が藍染で、邪な野望の為に用いられたゆえ危険だったのだ。鏡花水月が新たな主を見出したとしても、危険視するのは早計ではあるまいか」
「新たな主の許に向かったと決まったわけではありません」
「消えた理由がはっきりしたわけではない。仮に新たな主を見つけたにしても、それがどのような者か分からぬ以上、警戒は必要であろう」
隊長、副隊長から様々な意見が提出される。
鏡花水月が安置回廊から消えたのは、丑の下刻から卯の下刻までの二刻の間。
乱菊の身に異変が起きたのは寅の中刻 *3 で、まさに鏡花水月が消えたとされる刻限と符合する。
(偶然とは思えねぇ…)
不吉な予感に冬獅郎は冷や汗を滲ませた。鏡花水月の完全催眠を無効化する能力があるという意味で因縁深い姉のことが気になって視線を向けると、絢女は硬い表情でギンを見つめていた。彼女を見返すギンも、いつもの感情の読めない笑いが消え、顔を強張らせている。
(姉さま、市丸?)
つと、乱菊が机の下で冬獅郎の手を握りしめてきた。その手がじっとりと汗ばんでいるのを感じ、冬獅郎は胸を衝かれた。実体のある相手であれば怯むことなく勇敢に戦える乱菊であるが、正体の知れない不気味な現象を前にしては平静を保てないのだろう。まして、鏡花水月の消失と重なったとあっては凶事の予兆と捉えたのも無理はない。冬獅郎は強く彼女の手を握り返した。
午後になって、冬獅郎は一人、隊舎を出て五番隊に向かった。
乱菊からは絢女に話すなと頼まれていたものの、鏡花水月の消失を考え合わせると、やはり姉の意見を聞いておきたかった。それに、会議舎で見た絢女とギンの様子も気がかりだった。もしかしたら、乱菊に異変が起こったように、二人の間にも予兆じみた何かが発生していたのかもしれない。
乱菊を一人で執務室に残すのはどうしても不安だった為、彼女には隊士の修練の指導を命じた。修練場ならば大勢の隊士がいるし、彼女にしても身体を動かしていた方が色々と余計なことを思い煩わなくて済むだろうと考えたのだ。冬獅郎の意図は伝わったようで、乱菊はむしろほっとした顔で修練場に出向いていった。
何の連絡もしないままのいきなりの訪いであったが、冬獅郎の顔を見た途端に目的を悟ったのだろう。絢女は桃に席を外すように命じて、冬獅郎と向かい合った。乱菊の身に起きた異変を、冬獅郎は詳しく説明した。
「寅の中刻、だったのね?」
と絢女は確認した。
「ああ。姉さまの方にも何かあったのか?」
弟の問いに絢女は頷いた。
「乱菊みたいにはっきり異常とはいえないけど、ちょうどそのくらいの時刻にギンも悪い夢を見て魘されていたの」
「市丸も?」
「ええ。ギンが魘されるのって、本当のことをいうと初めてじゃないから、その時はそんなに深くは気にしてはいなかったんだけど、鏡花水月が消えたことや、乱菊に起こったことを併せると偶然とは考えにくいわ」
「市丸はしょっちゅう、悪夢を見るのか?」
絢女はかぶりを振った。
「私といる時は、せいぜい二、三ヶ月に一遍くらいよ」
絢女といる時は。
「表現に難がありますけど、認識としては間違ってないと思いますよ」
十四郎と烈の婚礼の夜、絢女が漏らした「ギンは絢女との結婚を望んでいない」という一言がどうしても承服できず、冬獅郎は乱菊に意見を求めた。その時に、乱菊が述べた見解である。
「それじゃ、やっぱり、市丸は姉さまと結婚したくねえとおまえも思うのか?」
「だから、その表現は語弊があります。望んでいないわけないじゃないですか。ギンにとって絢女は『源氏物語』の藤壺か、『神曲』のベアトリーチェかってくらいの永遠の女性ですよ。結婚して、全部自分のものにしたいに決まってます」
「だが、姉さまの認識は間違ってねぇんだろう?」
「もっと正確な表現に直すと、ギンは絢女と結婚することを怖がっているんです。今以上に幸せになることに怯えているんですよ」
「どういうことだ?」
冬獅郎の疑問に対し、乱菊は六十年以上前に絢女が色絶無の刑を受けた時の体験を語って聞かせた。
当時、五番隊の三席だった絢女はよんどころない事情から部下の不始末を庇い、本来は部下が受けるべきだった刑罰を身代わりに受けることとなった。下された評決は色絶無二日だった。
絢女が刑を終え、四番隊で療養していた五日間、乱菊は彼女に付き添った。色絶無の刑の恐ろしさを知っていたギンが絢女を案じ、彼女を四番隊に送り届けたその足で十番隊を訪れて、当時の十番隊隊長から乱菊を借り受けたのだ。冬獅郎の先代に当たる隊長も、若い頃に色絶無を受刑した経験があった。乱菊から事情を聞かされていて、絢女に同情をしていた十番隊隊長はギンの申し出を了承した。
絢女が刑を受けることになった時、色々な人から詳しく話を聞き、資料なども当たって、乱菊も恐ろしさをわきまえていたつもりだった。だが、実感したのは刑を終えた直後の絢女を目の当たりにした時だ。いつもは気丈な絢女が無気力に陥り、恐怖に震えながら嘔吐し、刑を受けていた間の記憶のフラッシュ・バックに魘される。ほとんど食事も咽喉を通らない。付き添っているのがつらくなるほどに、絢女の精神状態は不安定だった。それでも、目を逸らしたくなるほど症状が酷かったのは最初の二日ほどで、三日、四日と時間の経過とともに急速に落ち着きを取り戻していった。だが、仕事をしたり、友人と一緒にいる日中はごく平常であっても、夜一人になると恐怖と不安の発作に見舞われるらしく、心配した乱菊は絢女を一人にしないよう五番隊寮に泊り込む日が続いたという。
「さすがに一人で毎日というわけにはいきませんでしたから、七緒とか、五番隊の絢女の部下だった女の子とかにも協力してもらいました。日が経つにつれて、絢女もちゃんと眠れるようになってきました。だけど、本人が『大丈夫』って主張するだけじゃなくて、側で見ていた七緒やあたしたちももう大丈夫だって納得出来るまで、結局一月半くらいかかりました」
実際のところ、絢女の受けた二ないし三日程度の刑の場合、ほとんどの者が正気で戻って来る。しかし、生還率は百パーセントではなかった。少数だが耐え切れずに発狂する者は存在していた。
刑期が延びるにつれ、生還率は落ちてゆく。もって半月といわれるのにも根拠があって、刑期が十日を超えた場合の生還率は実に二割にも満たないのだ。しかも、正気を保って帰って来た者も当然、無傷ではなかった。強い食欲不振、不眠、抑鬱状態、
ギンの受けた三十日という刑期は、確実にギンを廃人に追い込む為に意図されたものである。長い尸魂界の歴史の中で、彼を例外とすれば、色絶無の最長の刑期は十五日であった。
「だから、ギンが三十日を耐え切って、その上、隊長職を続けられているっていうのは、それだけでも尊敬に値する凄いことなんです」
と乱菊は続けた。
「いくら鏡花水月に惑わされていたといっても、あれだけの叛乱に加担して、大勢の人を傷つけたギンが護廷の隊長に復帰したのに大きな不満が出なかったのは、色絶無三十日に耐えたってことがそれだけ重かったからです。だけど、三十日はギン自身にとっても重たかった…。普段はあいかわらずへらへらしてますけど、心には大きな傷を負っているんです。これはあたしや絢女の推測ですが、アイツはこの現状が本当に現実なのかを納得しきれていないんだと思います」
仇であった藍染は死に、罪を許され、求めてやまなかった絢女を得た今の幸せな状況は、もしかしたら、夢なのかもしれない。自分は色絶無でとうに狂ってしまっていて、幸せな夢をみているのかもしれない。だとしたら、現実の世界では絢女や乱菊が廃人となったギンを前に泣いているだろう。戻らなければ。早く夢から覚めて、絢女たちを苦しみから解放してやらなければ。この幸せに浸っていてはならない。
だが、一方で、やはりこれは紛れもない現実だということも強く感じている。これが現実ならば、幸せを憚る必要はない。
「おまけに、ギンは一度、鏡花水月に完全に捕まっていたでしょう? 復讐の為に近付いたことも、藍染が絢女の仇だってことも忘れてしまったのが、堪えているみたいです。色絶無で狂ってしまったんじゃなくて、鏡花水月の完全催眠の中にいるのかもしれない。現実世界は藍染の支配下にあって、あたしも、絢女も、みんな殺されてしまっているかもしれない。そんなふうにも疑っているんです。藍染は裏切ったギンへの復讐の為に、ギンが欠けることなく幸せになるのを待っていて、幸せに浸りきってしまったら、その瞬間に鏡花水月の暗示を消してしまうんじゃないかって…。現実は絶望のどん底なんだって思い知らされるんじゃないかって…」
だから、ギンは幸せになることに怯えているのだ、と乱菊は結論付けた。
「…それで、姉さまは黙って待っているのか?」
「ええ。これが間違いなく現実だってことをギンが納得できるまで、多分、百年でも二百年でも待つ覚悟をつけていると思いますよ」
乱菊から聞いた話を思い返していた冬獅郎は、姉に名を呼ばれて現実に引き戻された。
「ひとつ、気になることがあるの」
と彼女は言った。
「気になることって?」
「それを確かめる為に今から技局に行くわ。冬獅郎も一緒に来てくれる?」
「いいけど、技局に何があるんだ?」
冬獅郎の問いに絢女は答えなかった。
「杞憂だといいんだけど…」
と呟きながら、冬獅郎を伴って技術開発局に向かった。
技術開発局に局長である涅は不在だった。
「姉弟お揃いとは珍しいですね」
出迎えた阿近に絢女は、
「義骸格納庫に案内を願います」
と申し出た。
「は? 義骸格納庫? 何の用です。使用申請は貰ってませんが」
「義骸の使用ではありません。確認したいんです。気になることがあって…。問題なければすぐに引き上げます。格納庫に案内をお願いします」
絢女は繰り返した。生真面目なことで知られる絢女の真剣な表情と声音にただ事でないものを感じ取ったのだろう、阿近は頷くと、冬獅郎と絢女を技局の地下にある義骸格納庫に連れた。
「それで、何を確認したいんです?」
「十番隊の松本副隊長の義骸を見せて下さい」
使用されていない義骸はカプセル型の容器の中で、コールドスリープ状態で保管されている。夥しい数のカプセルが並ぶ通路を抜け、最奥に辿り着くと厳重にロックされた扉があった。その扉の向こうは隊長格の義骸専用の格納庫だった。阿近によりロックが解除され、三人は隊長格格納庫に足を踏み入れた。
「十番隊副隊長 松本乱菊」と札のついたカプセルの前に立ち、阿近はカプセルを開く為の暗証キーを入力した。かちり、と音がしてカプセルの扉が緩む。阿近は扉に手をかけると左右に開いた。
「え?」
滅多なことで動揺を現さず、冷静な阿近の口から驚きの呟きが漏れた。
カプセルの中は空だった。納まっているはずの乱菊の義骸は、影も形もなかった。
「使用申請なんて出てないはずだ」
「ああ、出してない」
と冬獅郎が返した。
「松本は十番隊にいる」
「これはどういう…? 絢女隊長、これを予測してらしたんですか?」
阿近は絢女を顧みた。
「阿近さん。隊長格全員、義骸を確認してください」
と絢女は頷きながら頼んだ。
「はい」
一番隊、山本、雀部。二番隊、砕蜂、大前田。
阿近は次々にカプセルを開き、義骸の有無を確認していく。ギンの義骸を認めて、絢女は一瞬だけほっとした表情を浮かべた。隊長格全員、と言ったが、彼女が実際に懸念していたのはギンだったのだろう。
結局、消えていたのは乱菊の義骸だけだった。恋次の義骸もなかったが、これは任務の為に
「どういうことです?」
説明を求める阿近に絢女は首を振った。
「正直いうと、これがどういうことなのかまだはっきりしないんです。私自身、考えが整理出来ていません」
「そうですか」
「涅隊長に義骸の消失を報告して下さい。それと、念の為、三席以下の席官の義骸も確認を願います。使用申請が上がっていないのになくなっている義骸がないかどうかを」
「はい」
「総隊長へは私と日番谷隊長から報告します。追って指示があるまで、このことは技局内に留めて外部に洩らさないように注意して下さい」
矢継ぎ早に絢女は指示を下す。
その傍らで、
(一体、何が起こっているんだ?)
と、冬獅郎はあるべき身体が納められていない虚ろなカプセルを呆然と見つめていた。
*1 丑の下刻=おおよそ午前2時半から3時ごろ。
*2 卯の下刻=おおよそ午前6時半から7時ごろ。
*3 寅の中刻=おおよそ午前4時前後。