夢魔リリスが咽ぶ夜


 星も月も雲によって覆い隠された闇夜は、隠密行動にはうってつけだ。
 闇の中、微かに輪郭だけを感じる一乗寺家の屋敷を見上げ、
(あいっ変わらず、いやーな気ィが漂うとる屋敷や)
とギンは首を振った。貴紗の淫乱さは病的な域に達しており、彼女に破滅させられた男たちやその関係者の怨嗟がこの屋敷に絡みついているように思えた。また、貴紗のことを抜きにしても、一乗寺は貴族社会でもあまり評判のよい家ではない。喜怒哀楽を努めて面に表さない白哉さえ、一乗寺を語る時は無意識に顔を顰めるくらいだ。ここの周りだけ、空気が淀んでいる心地がした。
 昨日の今日では、鏡花水月や乱菊の義骸の消失について、何ひとつとして判ってはいない。砕蜂率いる隠密機動も懸命に探っているが、まだ手掛かりは掴めていないだろう。ギンが一乗寺を探ろうとするのも、どちらかといえば、藁にも縋るに近かった。
(ああ、ここや)
 藍染の下で、ギンは主に諜報活動と暗殺を担っていた。言い換えれば、藍染専任の隠密機動だったのだ。一乗寺は屋敷を取り巻く壁に特殊な結界を施し、上級貴族にはよくあることだが、私設の警備兵が昼夜を問わず屋敷を警戒している。だが、そんなものはギンの侵入の妨げになりはしなかった。ほんの僅かの結界の綻びから、難なく屋敷に入り込む。途端に、闇が濃くなった心地がした。穏行の鬼道を用いて進むギンに、ねっとりと暗闇が纏いつく。
「ギン」
 不意に名を呼ばれた心地がして、ギンは足を止めた。油断なく辺りを見回す。
(見られとる…?)
 霊圧も、気配も全く感じない。にもかかわらず、何者かの視線を感じた。気のせいかと、神経を研ぎ澄ませ集中させても、何も感じ取れない。だが、確かに見られている。
(穏行を使うとるんか?)
 穏行の鬼道は気配を完全に断つ術である。周りに煙幕のように自分が存在しない風景を写り込ませ、霊圧も完全に閉じて潜む隠れ身で、ギンはこの術を藍染から学んだ。深い闇の向こう、ギンを見ている視線に意識を集める。
 ぬえが細く啼いた。
(なっ!)
 ギンは愕然と闇を見つめた。視線はすでに掻き消えていた。最早、何ひとつ感覚に引っ掛からない。だが、視線が消える直前、鵺の啼き声と重なる瞬間に、ギンはひとつの霊圧をはっきりと感知したのだ。まるで、彼に存在を知らしめるかの如く、刹那にも満たないほどに放たれ、跡形もなく消えた霊圧。
 それは    
(藍染…)
 死んだはずだ。藍染は死んだはずだ。あの決戦の日、ギンとの闘いで致命傷となるほどの深手を負った藍染は、総隊長・山本元柳斎重國によって止めを刺された。生きていようわけがない。
 自らの心を宥めようと言い聞かせても、どくどくと速くなる鼓動は抑えられなかった。そう、ギンは「死んだ」と聞かされただけで、藍染の亡骸をその目で見たわけではなかった。いや、仮に遺体を見ていたとしても、それが間違いなく藍染である保証などない。叛乱の計画の際に行ったように、鏡花水月の能力をもってすれば藍染が自らの屍を護廷に信じ込ませることは可能なのだ。あの時、検視をした烈は藍染の遺体に違和感を覚えたが、彼女とても、それを偽物だと完全に見破ったわけではない。違和感が疑惑を生じさせ、彼女は確かめる為に中央四十六室に赴いた。だから、藍染がそのつもりで鏡花水月を操り続けていれば、烈にしても、もうしばらくの間は欺くことは可能だったのだ。
 絢女の秋篠によって、鏡花水月は無力化していた。それ故、山本が倒した藍染は本物だったはずだ。
 藍染が死んだ、と断定された根拠がそれだけだったことに思い至り、ギンは愕然とした。
(藍染、生きていたんか?)
 ぶる、とギンは強くかぶりを振った。
 生きているわけがない。他の誰を疑っても、ギンは絢女を疑うことだけは出来なかった。絢女が「藍染は死んだ」と断じたなら、あの男はこの世にいるはずがないのだ。
 だが、それなら、先ほど捉えた霊圧は何なのだ。
 いつしか、堂々巡りを始めた思考に浸っていたギンは、ふと目を上げて息を呑んだ。いつの間に近付いていたのか、貴紗が彼の前に立っていた。
 穏行は解いていない。確かに、考え込んではいたが、周囲に対する警戒まで失ったわけでもない。にもかかわらず、ギンは貴紗の接近に気付かなかった。上級貴族の娘として、彼女も霊力はあるし、心得程度には鬼道も遣える。しかし、護廷隊長を欺けるほどの能力はないはずだ。ギンは気を詰めたまま、貴紗を観察した。夜目の利く彼は貴紗には自分が見えていないことを覚った。彼女はギンの方に視線を向けてはいたが、焦点が微妙に合っていない。例えるなら、このあたりにいるはずだ、と当てずっぽうで見ている感じだ。
 貴紗がギンに向かって歩み寄って来た。姿を隠したまま、ギンがすっと身体を右に避けると、彼女はそのまま彼の脇を通り抜け、十歩ほど離れたところで立ち止まって振り返った。
「さすがは護廷隊長…。どこにいるのか、分かりませんわね」
 ギンが実際に立っている場所から、わずかにずれたところに目線を固定させ、貴紗は嫣然と嗤った。
「ですが、その辺りにいらっしゃるのは存じております。穏行を解かれては如何?」
 もちろん、それであっさりと術を解くつもりはない。ギンが無言のままに貴紗を観察していると、彼女は小馬鹿にした様子でくつくつとくぐもった笑いを漏らした。
「強情ですこと。まぁ、よいでしょう。穏行を解かぬなら、そのままでもようございます。ですが、五番隊の絢女隊長にご伝言を願えますか?」
    
「近々、ご挨拶に伺います。義理とはいえ、姉になる方ですから、最貧区出身であろうと礼は尽くします」
 貴紗のもの言いは、まるで冬獅郎が婿に入ることを承諾したかのようである。穏行を保つギンへの挑発だろう。この程度の挑発に乗ると思われていたとしたら、ずいぶん見くびられたものだ、とギンは苦笑った。
「最貧区出身といっても、流石は日番谷隊長の姉上ですわね。黙って立っていらっしゃれば、貴族のお嬢さまで通る程度の品は備えていらっしゃるので助かりますわ。これが、あの下品な雌犬のような女ですと、私としても姉上とお呼びするのは抵抗がございますが」
 貴紗のいう「雌犬」とは乱菊を指しているのだろう。
「尤も、反逆者を愛人にしているなんて、そこは最貧区出身らしい浅はかさですこと。ですが、日番谷隊長に一乗寺に入っていただく以上、姉上にも反逆者とは別れていただかなくては。まぁ、承知して下さることでしょう。あの方はたいそう、弟を大切になさっておられるようですから、弟の未来を台無しにするとあらば、きっと反逆者と縁を切るはずです」
 貴紗の安い挑発は続いた。冬獅郎が一乗寺に婿入りするなどありえないし、彼女の主張は「くだらない」の一言に尽きた。だが、くだらなくとも不快なものは不快で変わらない。気配を断ったまま、ギンは耳障りな雑音を発する女の口を睨み据えていた。
「ねぇ、市丸隊長」
 相変わらず小馬鹿にした笑みを零しながら、彼女は続けた。
「護廷に背き、尸魂界に反逆した貴方が三番隊長に復帰できたなんて、ずいぶん、都合がよい話ですわね」
 いきなり話の矛先が変わった。
「藍染隊長も、東仙隊長も亡くなられたというのに、貴方一人が生き残って、処刑されることもなく、許されているなんて、まるで夢のようだとは思われませんか?」
    
 先程と同様に底の浅い挑発に過ぎない。しかし、この発言はギンの心の深い部分を侵食している畏れを的確に突いていて、思わず、彼をざわつかせた。
「市丸隊長。藍染隊長は本当に亡くなっていると思われます? 遺体をご覧になったわけではないのでしょう?」
 先ほど振り払ったはずの考えを言い当てられ、ギンの掌にじっとりと嫌な汗が滲んだ。感知した一瞬の霊圧がまざまざと甦る。

 死んだはずだ、死んだはずだ、死んだはずだ。

 ギンは自身に言い聞かせた。
「市丸隊長。ここは本当に現実の世界なのでしょうか? 現世には『一炊の夢』という故事もございます。市丸隊長、これは貴方が見ている夢なのかもしれませんわ」
 こんな女の底の浅い挑発に乗るなど名折れだ。ギンはくっと息を詰めた。動揺を抑え込み、再び、強い眸で貴紗を睨めつけた。
 その時。
 刺すような霊圧がギンに触れ、跡形もなく掻き消えた。
 穏行は解かなかった。だが、彼は膝が震えるのをどうすることも出来なかった。再び触れた藍染の霊圧を、もうギンは否定することが出来なかった。
     藍染が生きている。
 その悪夢を否定できなくなった。胃がぎりぎりと締め上げられる心地がした。こみ上げる嘔吐感を、彼は死に物狂いでやり過ごした。
「市丸隊長、ごきげんよう」
 ゆっくりと立ち去ってゆく貴紗を、ギンは為す術もなく見送った。出来ることなら、神鎗で射殺してやりたかったが、それをしなかったのはあの女が真実、貴紗なのか確信が持てなくなったからだ。
 藍染は生きていた。そして、鏡花水月は消えた。
 新しい主を見付けたのではない。鏡花水月は藍染の許に帰ったのだ。だとしたら、今、彼が見ているものが真実だという保証はどこにもない。一度は鏡花水月に完全に囚われたことがあるギンだからこそ、それが分かる。貴紗でなかったら。それこそ、探している乱菊の義骸である可能性だってあるのだ。
 ギンの立つ足元が音もなく崩れていった。

 五番隊隊長舎が闇底に浮かんでいた。
 藍染がここの主であった頃は植物のほとんどない枯山水の石庭だったが、絢女が隊長になってからは四季折々の花が咲く、華やかな庭に変わった。今も、門から玄関に至る小道の脇には早咲きの水仙が植えられていたし、玄関脇にはずいぶん前にギンが買ってやった薔薇の苗が大きく育っていた。
 けれど、改装はしたものの、建て直すことは叶わなかった隊長舎の建屋は藍染がいた頃と寸分たがわぬ姿だった。今にもぐにゃりと景色が歪み、水仙の花も、薔薇も消え果ててしまうのではないか。藍染のいる石庭に変わってしまうのではないか。そんな恐怖に駆られ、ギンは門から一歩も先に進めなくなってしまった。
 と、不意に玄関に灯りが点った。玄関の引き戸が開き、夜着の上に綿入れ半纏を羽織った絢女が現れた。門から一歩入ったところで立ち尽くすギンを認めて、彼女は歩み寄って来た。
 ギンは息を詰めた。彼女が藍染に変化してしまいそうな予感がして、彼は身動ぎも出来なかった。
「ギン」
 彼のすぐ目の前に立った絢女が、彼の名を呼んだ。身体を強張らせて見返すギンに、彼女はわずかに眉を顰めた。彼女の指が持ち上がって、そっとギンの腕に触れる。途端に流れ込んできた優しい霊圧に、ギンは脱力しそうになった。
「絢女…」
 抱きしめる。
 嗅ぎ慣れた梔子に似た芳香に、ギンの胸は震えた。
「絢女…」
 名を繰り返すギンの背中に絢女の腕が廻り、宥めるように撫でた。何も言わなかったけれど、彼女には彼が何に怯えているのかちゃんと理解っているようだった。
「ギン」
 呼ばれて面を上げると、絢女はすっと背伸びをした。ギンの唇を絢女のそれが掠めた。微かに風が吹き抜けてゆく。
 ギンは大きく息を吐いた。
「こない夜中にかんにん」
 謝ったギンに、絢女はわずかに笑みを浮かべた。
 彼女は自分の不安定な霊圧に気付いて出て来てくれたのだ、とギンは悟った。彼女が迎えてくれなかったら、自分は朝まで身動き出来ずに立ち続けていたかもしれない。ギンは絢女を抱く腕に力を込めた。
「かんにん」
 ギンは苦しげにもう一度謝罪した。その意味するところを察したのだろう。絢女は微かに身体を強張らせたが、すぐに強く彼を抱き締め返した。
「かんにん」
 三度めの謝罪に、絢女は首を横に振った。彼の手を取って、自ら隊長舎に導き入れる。寝所に延べられた布団は、先ほどまで彼女が休んでいたことを示して、暖かかった。
 昨晩、悪夢に魘された後、ギンは絢女を痛めつけるような抱き方をした。不安と焦燥を紛らわす為に、ただただ欲望を叩きつけ、彼女を貪るばかりで与えることをしなかった。絢女にしてみたら、殺伐とした交わりは凌辱されたも同然だ。いくらギンが霊圧を分け与えたといえども、乱暴に扱われた身体はまだ本調子ではないだろう。にもかかわらず、畏れに囚われたギンの安寧の為に、彼女は今夜も受け入れてくれるのだ。ギンは彼女にどれほど感謝していいか分からない。だから、せめて、彼女が苦痛を感じずにすむようにしようと、ギンは誓った。もともと、絢女は激しい交接など望んではいないし、被虐趣味もない。口接けにしても、愛撫にしても、柔らかく、優しく扱われるほどに彼女は深く陶酔し、その分だけ強くギンを求めるのだ。彼女の負担にならぬように、彼はひたすらに快楽だけを与えることに心を砕いた。
 互いに熱を分け合い、絢女が確かに此処にいると確かめる。ギンにとっては、それは何にも替え難い神聖な儀式だった。彼によってもたらされた酩酊の余韻の中をふわふわと揺蕩たゆたう絢女を、ギンは安堵の想いで見守る。今晩は彼女を傷付けずにすんだと息を吐き、そっと顔を覗き込むと、彼が心配していると思ったのだろう。彼女は、
「大丈夫よ」
と優しく微笑んだ。
 ギンは頷いた。出来れば、彼も熱情の余韻に浸っていたかったが、どうしても尋ねたい気掛かりがあった。彼は表情を引き締めると、
「絢女、聞きたいことがあんねや」
と告げた。
「なあに?」
「十一年前、藍染が死んだ時、絢女は藍染の遺体を見たん?」
 この問いは絢女には思いがけなかった。一気に陶酔から醒め、彼女はギンの質問の意図を探るようにじっとギンを見詰めた。ギンもまた、怖ろしいほどに真剣な眼差しで彼女を見返した。
「見たわ」
 争うように視線を絡み合わせた果てに、絢女は答えた。それから、静かに続けた。
「私だけじゃないの。検視をなさったのは卯ノ花隊長と涅隊長だけれど、療養中で臥せっていた桃ちゃんを除いて、隊長格は全員、遺体を検めたのよ。私は当時は十番隊預かりの身だったけれど、秋篠が鏡花水月を抑えるから呼ばれたの。全員で遺体を確認して、休眠した鏡花水月が霊刀安置回廊に納められるまで見届けたわ」
「そう…か…」
「一乗寺で何を見たの?」
 ここを訪れた時、ギンは死覇装でも、私服の着流しでもなかった。目元以外はすべて黒ずくめの布で覆われた隠密装束を纏っていた。その姿と、昼間、一乗寺を探ると宣言していたことを考え合わせると、彼が早速に一乗寺家に忍び込み、そこで何か、藍染の死を疑わせるようなものを見たのだと容易に推察できた。
「あの人の姿でも見たの?」
「いいや」
とギンは否定した。
「姿を見たわけやない」
「じゃ…?」
「霊圧…」
 ギンはぼそりと吐き出した。
「一瞬やったけど間違いない。藍染の霊圧やった」
 絢女はしばらく黙り込んでいたが、ややあって、難しい顔つきで口を開いた。
「考えられる可能性は二つあると思うの」
「二つ?」
「ええ。私もギンが藍染の霊圧を間違えるとは思えない。だから、ギンが感じた霊圧が間違いなくあの人のものだったという前提でふたつよ。まず、ひとつめの可能性は鏡花水月」
 ギンが無言で先を促すと、彼女は真剣な表情を崩さずに続けた。
「藍染はルキアちゃんの処刑の騒ぎの中、鏡花水月を自分の遺体に偽装させたと聞いたわ。姿かたちはもちろん、霊圧の残滓さえも本人としか思えない精巧な偽物だったそうね。それに、ギン、あなたも裁判で証言していたでしょう? あの人はそれ以前にも身代わりの男に自分のふりをさせて人目を欺きながら、計画の為の画策を実行に移していたって。身代わりはあの人に似ている必要はなかった。何故なら、鏡花水月の能力をもってすれば似ても似つかない男を藍染だと誤認させるのは簡単だったから…」
「そうや」
「でもね、姿かたちだけなら、無位の隊員や下位席官までなら騙せるかもしれない。でも、上位席官や、ましてや隊長格まで騙すのは無理よ。隊長格さえ欺かれてしまったのは、鏡花水月には霊圧まで誤認させるほどの能力があったからでしょう? そして、今、鏡花水月は霊刀安置回廊から消えて行方が分からなくなっている。だとしたら、ギンが感じた霊圧は藍染本人のものではなくて、鏡花水月が真似たものだという可能性は高いと思うの。鏡花水月の新たな主が悪意をもってあの人の擬態をさせているのか、鏡花水月が自分の意志でやっているかは分からないけれど、そう考えると霊圧のことは説明出来るわ」
 絢女の指摘は的を射ていた。その可能性に考えが至らなかったギンは、感知した藍染の霊圧にすっかり動揺して平常心を失っていたらしい。
「そうか…。鏡花水月か」
 鏡花水月の存在は不安要素であるが、藍染が生きている不気味さに比べるとギンに与える畏れは低い。彼はひとつ頷くと、
「ふたつめの可能性は?」
と尋ねた。
「藍染が実は生きていた、という可能性」
 絢女の答えに、ギンは再び凍り付いた。
「やって、絢女。藍染の遺体、絢女も入れた隊長格全員で検めたって、さっき…」
「そうよ。だから、もし、本当に藍染が生きているとしたら…」
 絢女の眸が剣呑な光を湛えた。
「私も含めて、全員があの人の遺体を誤認した。つまり、秋篠では鏡花水月に対抗出来ない、ということだわ」

 横たわった乱菊の上方に月があった。
 月はゆらゆらと揺らいでいる。まるで、水面に映っているかのように。
 やがて、乱菊は悟った。自分が横たわっているのは水の中であることを。乱菊は水面に映る月を見ているのではなく、水面越しに本物の月を見ているのだ。そして、乱菊は水底に沈みつつあった。
 揺らぐ月は刻々と小さくなり、光はかそけきものとなり、水は冷たさを増してゆく。
 浮上しようと手足を動かそうとする。だが、叶わなかった。何かが乱菊の手足を掴んでいた。
(何?)
 おそるおそる自分の身体に視線を遣った乱菊は息を呑んだ。
 彼女の身体を掴んでいたのは、死人のようにどす黒く変色し、崩れかけた無数の手だった。闇の中から伸びた夥しい腕が、乱菊の足を、腕を、腰を、身体のありとあらゆるところを掴んで、彼女を水底に沈めようとしていた。
「いやぁ!!」
 乱菊は叫んだ。途端に、肺に水が逆流し、乱菊はもがき苦しみながら、昏い闇の底に引きずり込まれていった。

 現実に還っても、なお、乱菊は噎せていた。右手で胸を掻き毟るようにして、苦しげに呼吸する彼女の背を懸命にさすりながら、冬獅郎は己の無力さを痛感していた。
 ようやく呼吸が落ち着いた乱菊は、覚束ない声音で、
「冬獅郎さん…」
と呟いた。
 彼女の周りには結界が張り巡らされている。冬獅郎が張った九十番台の結界だ。
「あたし…」
「魘されて、苦しそうだった」
 昨日のことがあるので、咄嗟に絢女に助言された通りに結界を張ったのだ、と冬獅郎は説明した。
 乱菊は身体を支える冬獅郎の腕から身を起こした。無言で夜着の袖を捲りあげる。
 半ば、予測していたものがそこにあった。

     無数の手形。

 夢の中で乱菊を水底に引きずり込もうとした死者の崩れかけた手の痕だ。そっと裾を割ってみれば、ふくらはぎにも、腿にも、手形は残されていた。
 唇を噛みしめる乱菊を冬獅郎は黙って抱きしめた。
 乱菊を害そうとしているのが実体のある相手なら、冬獅郎は己の命を賭けてでも戦える。たとえ、相手が総隊長並みの霊力を持つ相手であったとしても、決して負けはしない。しかし、乱菊の夢の中に潜む敵には手出しが出来なかった。冬獅郎に出来るのは結界を張り、見えない敵が乱菊の夢に侵入する道筋を塞ぐことばかりである。
「乱菊、昨日もあんまり寝てねぇだろ? 結界張っておくから、寝ておけ」
「駄目です。それじゃ、冬獅郎さんが…」
 鬼道は番号が大きいほど強力な代わり、扱いが難しくなる。冬獅郎ほどの霊力があれば、五十番台程度までならば眠っていようと結界を保持出来る。だが、今、彼が張っているものは強力にして扱いが極めて難しい九十番台の上級結界術である。術者がしっかりと覚醒していない限り、到底、保持できるような代物ではない。
「俺は大丈夫だ。いいから、寝ろ」
「でも…」
「これは隊長命令だ」
と彼は強引に乱菊を寝床に横たわらせると、右手で彼女の両眸を覆った。
 冬獅郎が譲らないと悟り、乱菊は諦めて目を閉じた。自分が眠る為に冬獅郎に寝ずの番をさせるのは気が咎めたが、眠るのが怖くて眠りが却って浅くなっていたことも事実である。冬獅郎の結界の中だと考えると恐怖は薄れ、乱菊は呆気なく眠りに落ちた。
「…夢…か」
 乱菊に異変が起こったのは、昨日も、今回も、彼女が浅く微睡んだ時だ。もしかすると、義骸と乱菊を結びつけているものは、正に夢なのかもしれない。だとしたら、
「厄介だな…」
 睡眠は休養の為に不可欠なものだ。その睡眠によって、命を狙われるとなると、乱菊は充分に休養を取れなくなってしまう。もちろん、今現在のように冬獅郎が結界を張っていれば安心して眠ることは出来るが、それが長期化すれば、今度は冬獅郎の方が持たなくなる。事情を承知している絢女やギンも協力はしてくれるだろうが、それにしても限界というものがある。
「夢に入ることなんて、出来ねぇのか…?」
 冬獅郎は考え込んだ。乱菊を害そうという敵の正体については見当がつかない。鏡花水月の消失を鑑みると、ギンが推察したように彼に対する恨みの矛先が乱菊に向かったとも考えられるが、冬獅郎に縁談を申し入れた貴族が邪魔な乱菊を排除しようとしている可能性も捨てられない。敵の正体がすぐに明らかになるとは思えないが、せめて、乱菊が冬獅郎に気兼ねすることなくゆっくりと眠れるようにしてやりたかった。うろ覚えだが、他人の夢に入り込む術についての文献をどこかで目にした記憶がある。
(姉さまなら知っているかもしれねぇな)
 乱菊の膚に残された無数の手の形をした痣を、冬獅郎は無念に眺める。烈から、また同様のことが起こったら診せるようにと言い渡されていなければ、今すぐに鬼道で消してしまいたかった。
(人の女を傷付けやがって)
 敵の正体が判明したら、きっちり落とし前を着けてやる。
 冬獅郎は拳を固めた。

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2011.12.20