魔狼はし


 急遽、召集された隊長格会議で、ギンが感知した藍染の霊圧のことは報告された。
 絢女とギンの判断である。生きているにせよ、鏡花水月による擬態にせよ、藍染絡みの事件ならば護廷全体で共有すべきだからだ。各隊の隊長は必要と認めた場合、隊長格会議を随時、開催できる権限がある。三番隊、五番隊の隊長の連名による朝一番の召集に、各隊の隊長、副隊長は何事かと駆けつけた。
 一乗寺の屋敷で藍染の霊圧を感じたこと、それに対する絢女の見解に、漣のように動揺が広がる。絢女の秋篠は鏡花水月に対抗する唯一の手段とみなされていたからだ。もし、秋篠に鏡花水月を抑える能力がないのであれば、護廷はかの完全催眠に抗う術を持たない。
「確かに、惣右介くんが生きている可能性を考慮しないっていうのは危険だけどさぁ」
 春水がいつもの緩い口調で疑義を唱えた。
「でも、確率としては低いんじゃないかな。もし、秋篠が鏡花水月を本当に抑えられないとしたら、十一年前のボクらの勝利の理由がつかないよ。十一年前、護廷は全員が鏡花水月の術にかかっていた。秋篠が破れない術なら、ボクらは全員、惣右介くんに翻弄されて無惨な討死を遂げていたはずだからね。惣右介くんがわざわざ絢女隊長を殺しに行った意味も分からない」
 彼の意見は尤もで、その場の動揺をかなり収める効果があった。
「万全の態勢で秋篠に術を破られた惣右介くんが、瀕死の重傷の身で、他はともかく、絢女隊長を欺いて、死を擬態出来る能力が残っていたとも考えにくいしねぇ」
「絢女隊長はどう考えているんだい?」
 十四郎に問われ、絢女は緩く首を振った。
「分かりません。抑えられていると信じたいところですが、私自身にも判断がつきません」
「だろうねぇ」
と春水が嘆息した。
 完全催眠という厄介な能力の前では、何が真実で、何が偽りなのかを見極めること自体が難しいのだ。鏡花水月が休眠から目覚めたとしたら、砕蜂率いる隠密機動も成果は期待できない。探り取ったことが真実なのか、鏡花水月による偽りなのかが誰にも判断が出来ないからだ。下手をすると、偽りに翻弄されて、対応を大きく誤る危険さえ孕んでいる。
「市丸隊長が一乗寺家で藍染の霊圧を感じたとすると、やはり、松本副隊長の呪詛も鏡花水月が絡んでいるとみてよいのだろうな」
 乱菊の身に起こっている異変は総隊長の判断で、昨日まで公にはされていなかった。異変の始まりが鏡花水月の消失と重なっていた為、関連している疑いは濃厚だったが、偶々という可能性も捨てきれなかったからだ。だが、ギンが一乗寺を探りに赴いた目的は、乱菊の呪詛に一乗寺貴紗が関わっていないかを調べる為であった。鏡花水月を主として探索を行うなら、一乗寺は出てくる理由のない名である。そして、藍染の霊圧は一乗寺家で感知された。ギンに対する貴紗のもの言いからしても、鏡花水月の消失と乱菊の呪詛は同じ根を持つ事件だと考えるのが妥当だ。
「鏡花水月が関わっているとしたら、松本副隊長の呪詛も別の可能性が出てまいりますわ」
 烈が意見を述べた。
「一つは松本副隊長の身に異変は起こっていないにも関わらず、私も含めて、全員が痣や手形を誤認しているという可能性です」
「しかし、卯ノ花隊長。松本副隊長の痣は治療する前に写真に残したのだろう?」
 狛村の尤もな疑問に、
「確かに写真は欺けません。ですが、その写真を検分するのは私や勇音です。写真には何も写っていなくても、私たちがあると誤認すれば結果は同じです」
「なるほど。厄介だな」
「ですが、もう一つの可能性の方が厄介ですわ」
 烈の眸が翳りを帯びた。冬獅郎と乱菊が不安げに烈を窺う中、彼女は告げた。
「幻覚や呪詛などでなく、誰かが松本副隊長の寝間に侵入して、実際に危害を与えている。にもかかわらず、日番谷隊長も松本副隊長もそれを認識出来ていない、という可能性です。鏡花水月なら可能でしょう?」
「…可能だな」
 冬獅郎は頷いた。
 会議室はどんよりと暗い雰囲気に包まれた。結局、情報共有を行って、危機意識を分かち合っただけで、何ら具体的な方策は見つからないからだ。確かめるべきは、鏡花水月の行方と藍染の生死、そして、乱菊を害そうとする目的だ。それが分からないことには何も手は打てない。
「絢女隊長」
 山本に呼び掛けられ、絢女は面を上げた。
「瀞霊廷内での卍解を許可する。今日より事件が解決するまで、一日二回、朝夕に『浄めの風』を吹かせよ」
 今は絢女の秋篠に鏡花水月を抑える力があると信じるしかない。山本の命令に、
「はい」
と絢女は静かに頷いた。

 重苦しい会議が終わり、各隊の隊長、副隊長は三々五々、会議室を引き上げ始めた。
「帰りましょう、桃ちゃん」
と副官の桃に声を掛け、絢女も席を立とうとした。途端、ぐら、と半身が揺れた。
「お姉ちゃん!」
 倒れそうになった絢女を隣の席にいた白哉が両腕を掴んで、抱き止めた。
「お姉ちゃん、大丈…、」
 大丈夫かと尋ねかけ、ここが会議場であると思い出して慌てて桃は、
「絢女隊長、大丈夫ですか?」
と言い直した。
「ええ、大丈夫よ」
 絢女は上体を起こすと、支えてくれた白哉に、
「ありがとうございました、朽木隊長」
と真っ直ぐな視線で礼を述べた。
「いや」
と白哉も短く応える。
「どうなさったんですか? 絢女隊長」
 白哉の背後から問いかけた恋次に、
「椅子に足を引っかけてしまったんです」
と絢女は周りで注視している隊長格にも聞こえるようにはっきりとした声音で答えた。
「ご心配かけて申し訳ありません」
 桃がほっとした様子で息をついた。そんな副官に絢女は柔らかく笑い掛け、もう一度、白哉に一礼してからその場を離れた。絢女の足取りはしっかりしていて不審なところは全くなかったので、冬獅郎やギンも含めて、皆、彼女の言葉を信じた。
 だが、絢女の後から会議室を出たギンに、白哉がさりげなく並んだ。
「椅子に躓いたというのはおそらく方便だ」
 ギンにだけ聞こえるようにごく小さな声で、唇もほとんど動かさずに白哉は告げた。
「あれは立ちくらみの類であろう。病みついたばかりの頃の緋真がよく、あのように上体が崩れて倒れそうになっていた」
 白哉の方を見ず、前を向いたままで、ギンもまた白哉にだけ分かるようにごく微かに頷いた。
「偶々であるかもしれぬが、気を付けられよ」
 それだけ伝えると、白哉はすいとギンを追い抜いていった。
 ギンは前方の絢女を見遣った。問い詰めたところで、絢女は先ほどと同様に椅子に躓いただけだと答えるだろう。
(負担、かけてしもたかな…)
 昨晩はかなり気遣ったつもりだったが、一昨日に乱暴に扱われたばかりの彼女には、それでも負担は大きかったのかもしれない。
(ほんま、ボクはあかんなァ)
とギンは息を吐いた。

 烈の要請で四番隊に赴き、絢女は乱菊の治癒前の写真を検めた。
「私にも痣は見えます」
 確証はないとはいえ、烈は絢女には鏡花水月の眩惑は効かないと信じていた。護廷の誰一人として藍染を疑わなかった頃、絢女自身、冬獅郎の封じに霊力を割かれて万全でなかったにも拘わらず、彼女は薄々と藍染に不審を抱いていたのだ。絢女を鏡花水月が欺ききれるはずがない。そう考えた烈は絢女に写真の検分を願ったのだ。絢女にも痣が見て取れるなら、手段は別にして、乱菊が実際に害されていることは間違いないだろうと思えた。
 冬獅郎から詳細は耳にしていたとはいえ、実際に写真に残された乱菊の痣は無惨で、絢女は胸が塞いだ。悪夢に魘され、目覚めればこんな鬱血が残っているなど、いくら乱菊が気丈でも長く耐えられる状況ではない。
「絢女隊長、この鬱血が呪詛や暗示によるものなのか、何者かが実際に松本副隊長に手を下しているのかを、早急に見極める必要があります」
「はい」
「乱菊さんをしばらく絢女さんが預かっては如何でしょう? 乱菊さんや日番谷隊長を欺いた侵入者も、絢女さんまでは欺けないかと思いますが」
「そうですね。考えてみます」
と絢女は答えた。今は自分の能力を信じるしかない。絢女が自信を失えば、鏡花水月に付け込まれるばかりだ。
 四番隊を辞して自隊に向かって歩みながら、絢女は烈の提案を吟味してみた。乱菊のあの痣が呪詛や暗示によるものでなく、何者かが寝間に侵入しているとしたら、おそらく、この事件の首謀者の目的は乱菊の殺害ではなく、彼女を精神的に追い詰めることにあるのだろう。冬獅郎さえ認識できない侵入者ならば、乱菊を殺害することは極めて簡単だからだ。そして、その状況が鏡花水月によってもたらされたものであるなら、絢女の許にいる方が乱菊は安全かもしれない。だが、最初に絢女が疑ったように、やはり呪詛が使われているとすると、絢女の傍にあっても、乱菊を護ることは難しいだろう。陰陽道については、確かに絢女の方が詳しいが呪詛の手段も分からない状況では呪詛返しも難しい。
 乱菊を害しているのが侵入者なのか、呪詛の類なのか。呪詛ならば、霊子からなる単一体にどういう手段でもって攻撃を仕掛けているのか。
 二日連続で、乱菊は傷付けられた。
 ならば、今晩も攻撃は仕掛けられないだろうか。
 絢女は踵を返すと、そのまま十番隊に向かった。
 十番隊の執務室に入ると、冬獅郎はソファに横たわって眠っていた。
「昨晩、ずっとあたしの為に結界を張り続けて下さったの。だから…」
 乱菊が強く勧めて、無理矢理に仮眠を取らせたのだ。とはいえ、気を許している姉だからということを差し引いても、他人が入って来たのに目覚めないというのはよほど深く眠っているのだろう。たった二晩とはいえ、得体のしれない相手に対峙して、冬獅郎も間違いなく憔悴していた。
「出直すわ」
 弟を気遣った絢女だったが、乱菊は首を振って彼女を制した。
「もう起こさないといけない時間なのよ。絢女が来てくれて、ちょうど良かった」
 どうやら、冬獅郎は時間になったら起こすようにと乱菊に命じておいたらしい。だが、自分が原因の寝不足であるだけに、乱菊も起こしかねていたようだ。彼女はソファの傍らに屈み込むと、そっと冬獅郎を揺すった。
「たいちょ、時間です。起きて下さい」
「ああ」
 もともと、冬獅郎は寝起きは悪くない。すんなりと覚醒した彼は、絢女の姿を認めて、僅かに目を細めた。
「姉さま、来ていたのか」
「つい今しがたよ」
と絢女は勧められる前に、冬獅郎の前の椅子に腰を下ろした。
「さっき、四番隊で乱菊の写真を見せて貰ったわ」
 前置き抜きで告げた絢女に、冬獅郎は無言で頷く。
「私にも痣は見えた」
「そうか。なら、松本が危害を加えられているのは確定か」
「そういうことになるわね」
と絢女も肯定した。
「だったら、問題は呪詛なのか、俺たちが認識できないだけで直接攻撃を仕掛けられているか、だな」
 二人の会話に、乱菊は真剣な表情で耳を傾けている。
「ええ。それでね、冬獅郎。今晩、私、十番隊隊長舎に忍び込もうと思うの」
「は…?」
 姉の言い出したことが突飛で、冬獅郎は目を瞬いた。
「卯ノ花隊長からは、乱菊をしばらく預かってはどうかって提案されたのよ。だけど、鏡花水月が相手なら、乱菊が私のところにいるとなると仕掛けて来ない可能性があるわ。徒に事態を長引かせるのは得策じゃないでしょ、だから…」
「なるほど、直接攻撃を仕掛けられているのなら、姉さまには見破れるはずだな」
と冬獅郎は納得がいった様子で頷いた。
「本当は黙って忍び込もうかとも思ったんだけど…」
「別にそれでも構わなかったが」
「うん。でも、黙って忍び込んで、見ては不味いものを目撃しちゃうのも嫌かなって思って…」
「…」
 冬獅郎と乱菊は気まずく目を見合わせて沈黙した。絢女の言う「見ては不味いもの」が夜の営みを指していると分かったからだ。こんな時に不謹慎と傍からは非難されるかもしれないが、得体のしれない相手に不安を感じているからこそ、それを紛らわそうと求め合うという心理は確かにあった。昨晩も眠ることに怯える乱菊を寝かしつけるために、冬獅郎は彼女を抱いた。結果、乱菊は疲労と陶酔で眠りに落ちたが、そこで悪夢を見て、再び魘されることになったのだ。今晩も、成り行きによってはどう転んでいたかは分からない。実の弟と親友の情事など絢女はもちろん見たくないに決まっているが、冬獅郎だって、絢女にだけは死んでも見られたくはない。
「そ、れも、そうだな」
 へどもどと相槌を打った冬獅郎に、絢女は事務的な口調で、
「出来るだけ普通にしていてほしいのよ。それくらいの演技力はあるでしょ?」
と畳み掛けた。
「ギンほど上手くないけど、私も穏行は遣えるから、頃合いを見計らって勝手に忍び込ませてもらうわ。それでいい?」
「分かった。頼む」
 冬獅郎と乱菊の了承を受けて、絢女は十番隊を辞した。

 眠れなくて、乱菊はもぞりと寝返りを打った。途端に、
「大丈夫か?」
と囁きかけられた。
 悪夢に対する恐怖感と、十番隊長舎に忍び込むからと告げた絢女の動向が気に掛かって、どうにも目が冴えて仕方なかった。今晩は怖ろしくても眠らなければならないと分かっているのに、どうしても眠れない。
「無理して眠ろうとするな」
と冬獅郎は乱菊にだけ聞こえるように声を潜めた。
「二日続けて悪夢に傷付けられたんだ。怖くて眠れない、眠りたくないって思う方が自然だ」
 諭されて、乱菊はほっと息をついた。
「そっか…。眠ろうとする方が不自然なんですね」
「ああ…」
 ひとつ床でのぼそぼそとした会話は普段ならば睦言と決まっているのに、今は殺伐としている。それでも、乱菊を気遣う冬獅郎の真情だけは切ないくらいに乱菊の胸に響いていた。
 交わらない夜でさえ、隊長舎の寝間で冬獅郎と共に眠るのが日常となってしまった。副隊長舎は、今では単なる衣装置場と化している。副隊長舎で夜を過ごすといったら、冬獅郎が出張で不在の時か、やちるが遊びに来た時くらいだ。以前は、七緒もよく泊りがけで遊びに来ていたが、ここ数年は冬獅郎に遠慮して来訪を控えているらしく、十番隊に泊まることはなくなった。まさに夫婦同然。しかし、夫婦ではない。
 冬獅郎は乱菊を妻に望んでいたし、彼女を待たせていることについて、幾度も詫びを入れていた。そして、乱菊も冬獅郎が結婚に踏み切れない理由    姉が嫁ぎ、幸せになるのを見届けてからでないと自分が結婚するわけにはいかないという想いを理解していたから、待つことに不満はなかった。かつての絢女がどれだけ必死に、それこそ、自身の女としての幸せさえ振り捨てて、一途に冬獅郎を護ろうとしていたか、一番良く知っているのは乱菊だったからだ。それに、乱菊自身、冬獅郎ほど確固とした強い決心ではなかったものの、自分が幸せになるのはギンがもう迷うことなく幸せを掴んだと安心してからにしたかった。
 血の繋がりはなくとも、ギンは乱菊の家族だった。兄であり、父であり、親友であり、時には弟でもあった彼は、ある意味においては冬獅郎より遥かに乱菊の中で特別な存在だった。飢えで倒れていた乱菊を拾った時から、彼は乱菊の庇護者だった。霊力の遣い方を教えてくれたのも、乏しい食料を分け合ったのも、時にならず者の暴力から体を張って護ってくれたのも、全部、ギンだった。あのゴミ溜めのような最貧区を、ギンと乱菊は二人で支え合って生き抜いて来たのだ。乱菊のように美しく、人目を引く娘が、危うい目には幾度も遭ったものの、決定的に傷付けられることなく最貧区を抜け出せたのは、ギンがいつだって身を削って庇ってくれたからだ。そして、それがどんなに困難で、彼の犠牲を強いるものだったか、今の乱菊は理解しすぎるほどに理解している。
 冬獅郎が自らの全てを賭けて弟を護ろうとした姉の幸せを優先させるように、乱菊もずっと、ギンの幸せを祈っていた。
「冬獅郎さん…」
「何だ?」
「鏡花水月は何をしたいんでしょうか?」
「復讐…だろう」
「そうですね…。だけど、どうして、一乗寺だったのでしょう?」
 冬獅郎に婚姻を申し入れており、乱菊を疎ましく思っているはずの一乗寺家。ギンや、絢女、しいては護廷に対して、主を殺された恨みを持ってるだろう鏡花水月。結びつくはずのない両者を結びつけたものは、一体、何なのだ。
「ねぇ、冬獅郎さん?」
「ああ?」
「鏡花水月は本当に、ギンや絢女を恨んでいるのでしょうか?」
 冬獅郎は傍らの女を怪訝に見返した。
「どういうことだ?」
「鏡花水月は主である藍染に従ってはいました。だけど、護廷を裏切った藍染の行動や考えに賛同していたとは限らないと思うんです。屈服した主だから従っていたけど、内心では不満だったかもしれない」
「…」
「例えば、氷輪丸です。もし、冬獅郎さんが藍染のように護廷を裏切り、叛逆を企てたとして、氷輪丸はそれを喜ぶでしょうか?」
 山本元柳斎重國の亡き親友であり、片腕として名を馳せた男の魂から別れ出で、斬魄刀として生まれ落ちた氷輪丸である。冬獅郎が護廷や山本に背くことを喜ぶとは到底思えない。だが、仮に冬獅郎が護廷を裏切ったとして、氷輪丸は冬獅郎から離れてしまうだろうか。すでに魂の半身である冬獅郎を見限るだろうか。
「そういえば…」
と冬獅郎は思い出した。
「神鎗は市丸が姉さまを庇って、藍染を裏切った時、喜んだらしいな」
 冬獅郎は酒席で、ギンからそれを聞いた。
 神鎗はもともと護る為の刀だったそうだ。誰かを、何かを護る為に戦う時、神鎗は最も嬉々としてギンの命に従っていたという。にもかかわらず、藍染の下で暗殺剣として働かされた。
「神鎗にも、ずいぶんとつらい思いさせてしもたわ」
とギンは苦く零していた。
 あの決戦の日。ギンが絢女に気付かず、鏡花水月に囚われたままだったとして、乱菊が自ら宣言した通りにギンを殺していても、神鎗が乱菊を憎むとは考えられない。乱菊はギンにとって、護りたい相手だ。その彼女さえ裏切るほどに暴走してしまった主を止めてくれたと、むしろ感謝しそうな予感がする。
「なるほどな…」
 冬獅郎は乱菊を引き寄せ、腕の中に抱き込んだ。そっと彼女の髪を撫でてやると、乱菊が息を深く吐き出した。
「冬獅郎さん…」
「ん?」
「心臓の音が聞こえる…」
「そうか」
 乱菊は冬獅郎の胸に耳を寄せた。規則正しいその響きは、乱菊に安堵をもたらしてくれた。眠れない夜に羊を数えるように、乱菊はその心音を数え続けた。

 そして    

 突然、室内に吹き荒れた風が、乱菊に圧し掛かっていた影を弾き飛ばした。影は寝間の襖に叩きつけられた。
「縛道の四、這縄」
 凛とした女の声が詠唱破棄で、縛道を打つ。
 獣の咆哮が上がった。
 宣告した通りに、十番隊隊長舎に忍び込み、次の間に潜んでいた絢女が放った縛道が影を捕えた。
「姉さま!」
 夜具から飛び起きた冬獅郎が、姉の捕えた影を検めようとした時、
「冬獅郎!!」
 愕然とした絢女の声音が響いた。
 影が崩れたのだ。
「なっ!?」
 冬獅郎も乱菊も、咄嗟に反応出来なかった。
 溶け崩れた影に這縄の呪縛は及ばず、霊気で形作られた縄の隙間から、どろりと抜け出した。と、見る間に再び、獣の形に変化した。四足のその獣は、禍々しい気を放つ狼だった。
 狼が吠えた。畳を蹴った。先に叩きつけられたせいで外れかけていた襖を倒して、狼は逃亡を図る。
「縛道の六十三、鎖条鎖縛」
「縛道の六十二、百歩欄干」
 冬獅郎と絢女が同時に縛道を放ち、もう一度、影を捕えようとした。しかし、
「縛道の八十一。断空」
 人声が符を発した。狼と冬獅郎らの間に出現した鬼道の壁が、隊長二人の放った縛道を共に弾き返した。
 庭に躍り出た狼は軽々と隊長舎の壁を飛び越えた。
「私が追う! 冬獅郎は乱菊を!!」
 絢女は言い置いて、返事も聞かずに獣を追った。
 姉を追おうとして追い切れなかったのは、隊長舎の騒ぎに、隣接している一般隊寮から隊員たちが出て来たからだ。
「日番谷隊長!」
「ご無事ですか!」
 駆けつけて来た隊員たちの動きは機敏で、異常事態に対する対処としては文句のつけようがない。しかし、今回ばかりは冬獅郎を期せずして阻む枷となってしまった。隊員たちを宥めて隊寮に引き上げさせ、冬獅郎はようやく乱菊の許に戻った。彼女は布団に座り込んだままの姿勢で無言で自分の胸元を指差した。その白い胸にはくっきりと狼の足型が残っていた。
おおきな狼に捕らえられて、噛み殺されそうになる夢を見ていました」
と彼女は申告した。

 明け方、憔悴しきった絢女が十番隊隊長舎に戻って来た。
「ごめんなさい。振り切られたわ…」
 絢女の瞬歩は速い。瞬神の異名を取る夜一と競えるほどの瞬歩を持つ浦原喜助をして、驚嘆せしめたことがあるほどだ。その彼女が一刻いっときにも渡る鬼事の末に振り切られたというのだ。
「あの狼、鬼道を遣ったな」
「ええ…。あれは女の人の声だった」
 姿を解け崩すことで、這縄から逃れた。冬獅郎たちの縛道を断空で防いだ。その事実はあの狼が見た目通りの獣ではなく、本体が人であることを示唆していた。

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2012.04.08