魔性の罠


 絢女が十番隊隊長舎で狼を暴いた夜以来、乱菊の悪夢はふっつりと絶えた。それ自体は喜ばしいことだが、状況が好転したとは言い難い。鏡花水月も、乱菊の義骸も、依然、行方が知れないからだ。
 一乗寺家は限りなく怪しい。だからといって、証拠が何ひとつない以上、強制捜査にも踏み切れず砕蜂は苛立っていた。相手が上級貴族なだけに、下手に動くと大問題に発展する可能性があるからだ。通常の事件であれば、大いに活躍する裏挺隊も鏡花水月絡みでは迂闊に動かせない。
 絢女は総隊長の命令に従い、連日、朝晩に浄めの風を吹かせている。そして、冬獅郎は晩の浄めの風の直後に隊長舎に結界を張ることを続けていた。狼の侵入を悟れなかったのは鏡花水月の眩惑、乱菊への攻撃は夢を操る狼の仕業だとすると、浄めの風によって暗示が無効化された直後に結界を張れば、外部からの侵入は遮断出来るという判断だった。結界を破って無理に侵入しようとすれば、冬獅郎に察知される。浄めの風で催眠を解かれた状態の彼を再び鏡花水月の幻覚に落とす為には、結界を破って内部に入り込み、もう一度始解を示す必要があるからだ。この場合の結界は九十番台の強力なものである必要はないので、睡眠時でも保持可能な六、七十番台の結界を張った。とはいえ、結界に力を割かれる分、眠りが浅くなり、充分な休養を取れなくなる恐れがある。長引けば、冬獅郎の負担も大きい。
 ギンは再度、一乗寺に忍び込むことを画策していたが、絢女や乱菊、冬獅郎に寄って集って止められていた。前回の藍染の霊圧の件がある。対策のないままに闇雲に飛び込んでも、罠に嵌まるだけだ。絢女が同行すれば、鏡花水月の眩惑からは逃れられるはずだが、絢女は隠密行動に不慣れなだけにそれはそれで問題があった。
 膠着した事態に業を煮やしたのだろう。冬獅郎が絢女に相談を持ちかけたのは、狼の襲撃のあった晩から九日めのことだった。
「一乗寺に乗り込んでみようと思うんだ」
と冬獅郎は告げた。
「だけど、冬獅郎だって、隠密なんて経験ないでしょう? 危険だわ」
 案じる絢女に、
「忍び込むんじゃねえ」
 弟は否定を返した。
「堂々と真正面から行くつもりだ」
「どういうこと?」
「縁談。今まで、会う気もなかったから、総隊長を通じて断っていたが、会って正式に俺の口から断るっていう作戦だ。どうかな?」
 冬獅郎の提案に、絢女は首を傾げて考え込んでいた。やがて、
「貴紗さまは危険な女性だって、ギンが言っていたわ。それこそ、一服盛られてしまったら、どうするの?」
と懸念を述べた。
「飲み食いしなければ、大丈夫だろう」
 冬獅郎は楽観的だ。止めても、彼が考えを変えるとは思えなかった。それに、絢女自身、一乗寺に直にぶつかってみたい心情は共有していた。
「だったら、私も行く」
 絢女は宣言した。
「私は冬獅郎の肉親なんだから、付き添いで同行しても不自然ではないでしょ? 私も一緒に行くわ」
 反対するかと思ったが、冬獅郎はすんなりと頷いた。
「そうだな。一乗寺に鏡花水月があるかもしれないんだ。姉さまにも来て貰った方が安全かもしれねえ」
と彼は言った。
「私にも?」
 言葉尻を捉えて不審げな絢女に、冬獅郎は説明した。
「相手は上級貴族だからな。京楽に仲介を頼もうと思っていたんだ」
 絢女は納得した。洞察力が深く、経験豊富な春水が同行してくれるのなら、なおさら、心強いというものだ。

 二日後、冬獅郎と絢女は春水に伴われる形で、一乗寺家を訪れた。
 一乗寺家の門前に立ち、屋敷を見上げた途端、絢女は強烈な悪寒を覚えた。屋敷自体に悪意が渦巻いている気がした。
「絢女ちゃん、大丈夫?」
 明らかに顔色を青褪めさせた絢女に、春水が気遣う声をかけた。深呼吸して息を整えた絢女は、
「大丈夫です」
と気丈に告げた。
「行きましょう」
 あらかじめ、訪問は伝えてあったので、三人は直ちに座敷に通された。一乗寺家の当主だという初老の男は満面の笑みを浮かべて、冬獅郎を歓待した。
「日番谷隊長にわざわざお越し頂けるとは感激です。とうとうご決心下さいましたか」
 当主はすっかり冬獅郎が入り婿の承諾に来たと思い込んでいる様子だ。糠喜びを長く続けさせるのは本意でないので、冬獅郎は、
「いえ、本日は正式にお断りに参りました」
 きっぱりと告げた。当主の目が驚愕に見開かれる。
「な…」
 絶句した当主にすかさず、冬獅郎は畳みかけた。
「これまで、そちらから申し出がある度に総隊長を通じてお断りして参りましたが、ご納得頂けず、婚姻の申し出を繰り返される。総隊長にこれ以上、ご迷惑をおかけするのも本意ではないので、直接、お断り申し上げようと参上しました」
 さらに、彼は継いだ。
「正直に申しますと、いつまでも諦めて下さらないそちらには、いい加減、迷惑をしているのです。私は一乗寺家に婿入りする気は一切ありません。何度、申し入れられても結論は変わりません」
 腹芸など冬獅郎には無理だとは承知の上だったが、それにしたって直裁過ぎる発言に、傍で聞いていた春水も、絢女も、
(探りを入れるんじゃなかったの〜!?)
(気持ちはよく分かるけど、冬獅郎、正直すぎ…)
と声もなく呆れていた。
「な…にが、不満なのです!?」
 一乗寺の当主は赤くしたり、青くしたりと、目まぐるしく顔色を変化させながら、ぶるぶると震えていたが、ついにたまりかねて叫んだ。
「婿に入れば、上級貴族の当主の地位が約束されるのですよ。それに、娘だって、父親が申すのもおこがましいが、美貌は折り紙付きです。何が不満だと言うのです!」
 唾を飛ばさんばかりの勢いで迫ってくる一乗寺当主に、冬獅郎は表情を不愉快に歪めると語調を変えた。
「上級貴族の当主なんて、興味ねえ」
「な…」
 当主は再び絶句した。彼の価値観では、流魂街出身者が上級貴族の一員になれるなど、名誉以外の何ものでもないはずだった。興味がないと一蹴されるなど、想定外だった。
「貴紗姫が美人だろうが、不細工だろうが、それも関係ないな。あんたの娘が例え、尸魂界一の絶世の美女だったとしても、俺が貴紗姫に惚れることは有り得ねえ」
「わ…たしの、わたしの娘があの最貧区出身の女に劣ると申されますか!?」
 またしても叫んだ当主に、
(うわっ。地雷を踏んじゃったよ)
 春水は天井を仰いだ。室内の温度がそれと分かるほどにはっきりと、急速に下がっている。だが、興奮している当主は気付かずに、
「貴紗! 貴紗!!」
と大声で呼ばわった。どうやら、次の間にでも控えていたらしい。すぐに、貴紗が現れた。
「何用にございましょう、父上」
 現れた貴紗は冬獅郎に向かって、婉然と微笑んだ。だが、その笑みに冬獅郎は悪寒を覚えた。密かに姉を伺うと、絢女も僅かに眉を顰め、こみ上げる不快感を懸命に堪えていた。
 表面の、本当に外側の造形だけを問題にするのなら、確かに当主の主張するように、かなりの美貌だと言えた。乱菊や絢女を見慣れている冬獅郎はこの程度の美しさでは動揺しないが、一般論で言えば、この顔貌かんばせだけで落ちる男はかなりの数に上るだろう。しかし、冬獅郎は彼女の内面から隠しきれずに零れたどす黒い気に強い嫌悪を感じた。これまでにも貴族の我儘娘と対峙し、不愉快な思いをしたことはあった。だが、ただ一言も言葉を交わさぬうちから厭わしさに囚われたのは、貴紗が初めてだった。
「日番谷隊長、これでも断られますか? 娘をご覧になっても、あの最貧区の女の方が良いと申せますか?」
 迫る当主は、娘の美貌によほどに自信があるのだろう。
「比べものにならねえな」
 だが、冬獅郎はにべもなく言ってのけた。これには貴紗も顔色を変えた。
「私のどこが、あの卑しい女に劣っていると申されますの!?」
 眦を決して詰め寄る貴紗に、
(あーあ、父娘揃って、地雷原に足を踏み入れちゃったよ)
 春水は更に冷えた室温に微かに胴震いし、絢女は強張った表情で貴紗を観察していた。
「全部だ」
 冬獅郎は答えた。
「最貧区が吹き溜まりみたいな酷い場所だってことは、さすがに俺も否定しない。だが、最貧区に流されたのは松本の罪じゃない。松本が最貧区出身だってことは、あいつの人格とは関係ないからな。    というより、」
 冬獅郎を睨み据えている貴紗を、冷ややかに見返して、彼は続けた。
「落ちようと思えばいくらでも落ちていける過酷な最貧区を、松本は優しさとか、思いやりとか、魂魄にとって一番大切なものを損なうことなく生き抜いて、這い上がって来た。そんなあいつの強さを、俺は心の底から尊敬している。その一事だけでも、ただ瀞霊廷に産まれたってだけで他人を見下すような奴より、よっぽど上等な女だと思うがな」
 貴紗は唇を噛み締めた。彼女を見る冬獅郎の目は冷ややかな軽蔑に満ちていて、取り付く島もなかった。
「それに、あんたらはすっかり忘れているみたいだが、俺の姉も最貧区の出身だ」
 はっ、と当主の顔が青ざめた。自分の発言が乱菊のみならず、五番隊隊長をも侮辱していたことに今更ながら、気が付いたのだ。
「さっきからの最貧区出身者を見下す発言は、松本だけではなくて、姉を始めとした最貧区出の全ての死神を貶めている。肉親や、俺に付いて来てくれる大事な部下たちを謂れもなく侮蔑する女を妻にするほど、俺は悪趣味じゃねぇよ」
 冬獅郎は突き放した。当主も、貴紗も、唇を戦慄わななかせていたが、咄嗟に反論に窮していた。
「もう納得出来ただろう? 俺は貴紗姫を妻にする気はねえし、一乗寺に養子に入るのも真っ平だ。今後、一切、婚儀の申し入れはやめてくれ」
 冬獅郎は伝法な口調のままで結論した。貴紗は怒りで顔を紅潮させている。
「貴紗さま」
 不意に絢女が呼び掛けた。当主は絢女が取りなしてくれるかと期待の眼差しを向けたが、絢女は、
「そのお怪我はどうなさったのですか?」
と話の流れから逸れた唐突な問いを発した。絢女が貴紗の袖口から僅かに覗く包帯を見据えているのを悟り、
「粗相をいたしまして…」
と当主は言葉を濁した。
「それが何か?」
 だが、貴紗は挑むような語調で後を引き取った。
「いえ、失礼いたしました。もしかしたら、飼われている獣にでも噛まれたのかと思ったものですから」
「獣?」
と当主は怪訝な表情を浮かべた。
「池で鯉を飼ってはおりますが、獣はおりませぬ」
「さようですか。では、私の気のせいなのでしょうか。お屋敷に入った時から、獣の匂いが鼻についてならなかったのですけれど」
と絢女は続けた。
「このきつい香も、てっきり獣の匂い消しかと存じておりましたが」
 姉の言に、冬獅郎は内心で首を傾げた。彼には香は感じられなかったからだ。だが、言われてみれば、床の間に青磁の香炉が飾られており、ごく微かに煙のようなものがたなびいている。
(練り香か?)
 線香のような棒状に固められた香や、香木を焚いたのならば、もっと煙が漂う筈だ。しかし、練り香ならば、焚き方にもよるけれども、あまり煙は目立たない。
「きつうございますか?」
「はい、とても」
 当主の問いかけに、絢女ははっきりと肯定を返した。
「差し出がましいとは存じますが、香を焚くのなら、もう少し控え目になさいませ。いくら良い香りであっても、こんなにきつくては、客は気分が悪くなってしまいます」
「それは申し訳ございません」
 相手が護廷の隊長であるだけに、渋々と謝罪する当主を遮って、
「本当に差し出がましいこと」
と貴紗が言い放った。
「日番谷隊長や京楽隊長をおもてなしする為に焚いた最高級の香ですわ。とやかく批判される筋合いはございません」
「申し訳ございません」
 絢女は恬淡と続けた。
「何しろ卑しい場所の出身なものですから、不調法なのです。お許し下さい」
 絢女がこれほどあからさまな嫌みを口にするのは、滅多にあることではない。他人の欠点をあげつらうよりも、どこかに美点がないかと探すのが、絢女の基本姿勢である。侮辱を受けても、報復で悪口を口にすることのない彼女が嫌みを述べたのは、貴紗を挑発する目的が一義だろうが、それを除いても、やはり相当に不愉快だったのだろう。貴紗が絢女を見返す。噴き零れるどす黒い感情を、絢女は真っ向から受け止めた。
「日番谷隊長、絢女隊長、そろそろおいとましよう。日番谷隊長が婿入りする意志はないことは、もうはっきりと伝わった筈だよ」
 春水が告げた。一乗寺に対する揺さぶりとしては、既に充分だと思えたのだ。
「そうだな」
 冬獅郎はさっさと立ち上がった。絢女と春水が続く。凝然と固まってしまった当主は引き留めなかった。貴紗も無言だったが、眸に昏い焔が揺らいでいた。
(おのれ…)
 聞こえないほどの低い呟きだった。だが、声は届かなくても、憎々しげで攻撃的な霊圧は、絢女に突き刺さっていた。

 一乗寺家の門をくぐり抜け、敷地から抜け出した直後、絢女は崩れるようにその場にしゃがみ込んでしまった。
「姉さま、大丈夫か?」
「気分が悪いのかい?」
 冬獅郎と春水の心配顔に、絢女は弱々しい笑みを浮かべた。
「ごめんなさい。ちょっと、胸がむかむかして。しばらく休んでいれば、よくなりますから」
と彼女は言った。
「香に中てられた?」
 春水が尋ねる。絢女は肯定の方向に首をひとつ振ると、
「京楽隊長は大丈夫ですか? 冬獅郎も?」
と不安そうに尋ね返した。
「ボクは吸い込んだっても微量だからね。絢女ちゃんが気付いて守ってくれたし、あのくらいの量じゃ、どうこうならないよ。冬獅郎くんに至っては、多分、絢女ちゃんが言い出すまで、香を焚いていたことにも気付いてなかったんじゃない?」
 ねえ、と顧みられて、冬獅郎は首肯した。
「香なんて、全然感じなかった。…もしかして、やばいもんだったのか?」
 春水は僅かに目を細めた。
「おそらく、だけど、催淫成分を混入してある香だと思うよ。むっかーし、摘発した大規模な犯罪組織が扱ってた香に、匂いが似てたからねえ」
「催淫剤? 匂いが似てたって…、嗅いだことあるのか?」
と冬獅郎は目を丸くして春水を見返した。
「うん、その摘発の時にね。催淫剤だなんて考えてもいなかったから、敵さんの本拠を襲撃した時に思いっきり吸い込んじゃってさぁ。戦闘自体は呆気ないもんだったから、催淫剤の効果が現れる前に捕縛は完了したんだけど、その後が大変。ボクも含めて男の死神は完全にいきり立っちゃって、どうにも始末しようがなくなってしまったんだよねぇ。ぎりぎり理性の残っているうちに何とか女の子たちを部屋から追い出して、山爺に事情を説明して、大急ぎで伎楼から何人か派遣して貰って、どうにかこうにか凌いだんだ。けどさぁ、香の効果と身体の異変に気付くのがもう少し遅れていたら、ほんと、取り返しのつかないことになるところだったよ」
 春水は説明した。その返答に、
「女には影響しなかったのか?」
 しゃがみ込んでいる絢女を見遣り、冬獅郎はかなり焦っていた。
「男性ホルモンに作用する香だったんだ。頭痛とか、めまいや吐き気を訴えた女の子はいたけど、少なくとも身体が疼いてどうしようもない、なんて症状は出なかったそうだよ。絢女ちゃんもそっちの方は大丈夫だよね」
と春水は絢女に確認し、彼女もはっきりとその点は心配要らないと答えた。
「冬獅郎くんとボクをもてなす為だって言っていたからねぇ。多分、あの時の香と同種に間違いないだろうね。絢女ちゃんが一緒で助かったよ。まともに、あの香を吸っていたら、ボクも冬獅郎くんも間違いなく、理性を失くしてたね」
 風とは要するに空気の流れである。分子の密度が大きく、圧力の高い方から低い方へと風は流れる。風を操るというのは、即ち、気体の密度と圧力を自在にコントロールする能力なのだ。絢女は高密度の空気の壁で冬獅郎たちを囲むことで、香が二人の方に流れないように操作したのだ。
「しかし、一乗寺の親父もいたろう? あいつ、平然としていたが」
 一乗寺の当主まで、絢女が守っていたとは思えない。冬獅郎の疑問に、
「犯罪組織から押収した香を分析した阿近くんによるとねぇ、常用していると耐性が出来るらしいよ」
と春水は教えた。
「なるほど。とんでもねぇ、親父だな。それにしても、俺の方は一服盛って、既成事実を作らせようって腹だろうが、京楽までってどういうことだ?」
 春水は皮肉っぽい笑みを落とした。
「屋敷の女の子でも襲わせて、弱味を握るつもりだったんじゃない?」
 そう口にした後、何かに思い当たったらしく、春水は盛大に顔を顰めた。
「絢女ちゃんもいるのに、あんな香を焚いたってことは、もっと非道いことを企んでいたかもだね」
「非道いことって、どんな?」
「理性をなくしたボクに絢女ちゃんを襲わせるつもりだったかもしれないってことさ」
 春水は言い放ち、冬獅郎は意表を突かれて愕然とした。
「普通の状態で襲われたのなら、絢女ちゃんだって、ボクを殺す気で攻撃してでも身を守るだろうけど、明らかに薬の作用でおかしくなってしまったボクには殺す気の攻撃なんて出来ないでしょ? それに、ちょっと吸い込んだだけでこんなに気分が悪くなっている絢女ちゃんに、まともな抵抗が出来るとも思えない。危険に気付かずにあの香を吸っていたら、おそらく、理性を失くしたボクは目の前にいる、碌に抵抗できない絢女ちゃんを襲っていただろうね。それで、ボクに力ずくで犯されたとしても、絢女ちゃんは告発するなんて出来ないだろうね。薬のせいで狂わされたと知っているからね。ボクだって誰にも言えないよ。結果として、ボクと絢女ちゃん、二人纏めて、一乗寺は首根っこを押さえることが出来るわけだ」
 ギンから手段を選ばない女だと聞いていたが、冬獅郎は自分の認識が甘かったことを悟った。薬にしたって、飲み食いしなければ、大丈夫だと高を括っていたが、香毒は盲点だった。一歩間違えば、自分ばかりではなく、絢女や春水までも取り返しのつかない事態に至っていたかもしれないと悟って、冬獅郎は顔色を失くした。
「あんまり気にするんじゃないよ。結果としてはうまく切り抜けられたわけだし。それに、冬獅郎くんだけじゃない。ボクだって、連中がそこまでやると予想できなかったんだから、同罪だよ」
 冬獅郎の性格をよく分かっている春水が、そう言って、励ました。
 絢女が漸く立ち上がった。だが、まだ顔色が悪い。
「もうちょっと、行ったところに茶店があったはずだよ。そこで、少し休もうか?」
 春水の気遣いに、絢女は頷いた。

 茶店で熱い茶を口にし、静かな個室で休んで、絢女は何とか回復したようだ。
「ご迷惑をお掛けしました」
と謝る絢女に、春水も冬獅郎も苦笑した。
「姉さま、貴紗姫をどう思った?」
 冬獅郎の問いかけに、
「あの方が狼よ」
 絢女は断言した。
「上手く霊圧を装っていらしたけれど、でも、あの時の狼だわ。間違いない」
 一晩中、狼との鬼事で駆けまわった彼女の返答は明瞭だった。
「やっぱりか」
 四楓院月詠の話を聞いた時から、予感はあった。そして、貴紗と対峙して、予感は確信となった。
「うーん、しかし、分からないねえ。貴紗が乱菊ちゃんを襲った狼で、冬獅郎くんの寝間に気付かれないうちに侵入出来たのなら、何で乱菊ちゃんをひとおもいに殺してしまわなかったんだろう? 貴紗にとって、乱菊ちゃんなんて邪魔なだけだろうに」
「鏡花水月の思惑が絡んでいるのかもしれません」
と絢女は答えた。
「微かにですが、鏡花水月の波動を感じました。鏡花水月は一乗寺のお屋敷のどこかに潜んでいます」
 一乗寺貴紗があの時の狼である以上、鏡花水月が彼女とともにあることは確定だ。そうでなければ、冬獅郎が易々と狼の侵入を許し、その存在に気が付かなかった理由の説明が出来ない。
「思うんだけど…」
と春水が茶請けの練りきりを黒文字で切りながら、考えを口にした。
「月詠くんの話とこれまでの経緯から察するに、貴紗には狼に変化する能力と他人の夢を操る能力があるわけだよね」
「おそらくな」
「狼の方は置いといて、夢を操る方だけど、鏡花水月の能力と似てない?」
 鏡花水月は覚醒している者に強力な催眠作用によって、事象を思う通りに誤認させる。一方、貴紗の能力は他人の夢の中に入り込み、夢の内容を自在にコントロールするものだ。相手が覚醒しているか、眠っているかの相違はあるが、対象の脳内活動に干渉するという意味では本質は同じと言える。
「似ているな」
と冬獅郎は認めた。それに触発された様子で、絢女が首を傾げた。
「鏡花水月は藍染が最初の所有者だったのでしょうか?」
 流刃若火は総隊長・山本の魂から別れて生まれた斬魄刀だ。従って、彼より前に所有者はいない。一方、冬獅郎の氷輪丸は、若くして亡くなった山本の親友が最初の所有者で、冬獅郎は氷輪丸にとっては二人めの主に当たる。絢女の疑念は、鏡花水月が藍染の魂から産まれた斬魄刀か、他の誰かから生まれて藍染に出会ったのか、ということだった。
「惣右介くんから斬魄刀と出会った時の話を聞いたことはないねぇ。霊術院の記録にないかな?」
「調べてみよう」
と冬獅郎が請け負った。
「だけど、絢女ちゃん、何で鏡花水月の最初の所有者を気にしているの?」
 春水がもっともな疑問を呈した。それに対する彼女の返答は、
「鏡花水月の波動が変化していました」
というものだった。
 彼女によると、斬魄刀と持ち主は魂の半身であるせいか、互いに通じ合う波動を持っているという。そして、鏡花水月が藍染の斬魄刀であった頃、鏡花水月が放つ刀気は藍染の霊圧と共通するものがあった。同じではない。しかし、確かに藍染の斬魄刀だと知れる、どこか似通った気を持っていたのだ。だが、一乗寺家で感じた鏡花水月の刀気は藍染が所有していた時とは変化し、異なる波動を纏っていた。
「鏡花水月であることは間違いないのですけれど、かつての鏡花水月ではないといいますか…」
「つまり、所有者が変わったということ?」
 春水が質問を投げた。
「もし、鏡花水月が藍染の魂から別れた斬魄刀なら、鏡花水月は新しい所有者を見付けたと断言していいと思います」
と絢女は答えた。
「それ以外に波動が変化する理由がないからです。ですが、藍染以前に所有者がいたのでしたら、話は変わってきます。あの人が亡くなって、影響を受けなくなった鏡花水月がもともとの波動に戻ったという可能性も考えられます」
「なるほどねぇ。その口ぶりだと、少なくとも、貴紗は鏡花水月の新しい主ではないね?」
「はい。貴紗さまの霊圧と鏡花水月の刀気は違っておりました。それに、例の狼が十番隊長舎に侵入した時も、鏡花水月の気配は離れたところに感じました。藍染は鏡花水月を自分の遺体に偽装させたと聞いていますから、手元になくとも発動は可能なのかもしれませんが、貴紗さまに斬魄刀の遠隔操作が出来るとは思えないのです。侮るつもりはないのですけれど」
 狼に変化することと、夢を操るという特異な能力を考えから外せば、貴紗の霊力はそれほど高くはない。もちろん、上級貴族の一員だけにそれなりの霊力は有しているが、突出したものではないのだ。斬魄刀の遠隔操作は藍染の専売特許というわけではなかった。例えば、やろうと思えば、春水にも出来ないことはない。だが、かなりの高等技術であることは確かで、まず卍解を修得していない者には無理である。しかも、卍解出来たから遠隔操作が可能になるかというと、更に修練が必要で、そう簡単な話ではないのだ。冬獅郎でさえ、ようやく隊舎内程度の距離ならば自在に氷輪丸を操れるようになった程度に過ぎないくらい、遠隔操作は難しい。実際のところ、中央四十六室の清浄塔居林に潜みながら、護廷全域に鏡花水月を発動させ続けた藍染の能力は、敵ながら、驚嘆に値するものだった。
「鏡花水月が新しい主を見付けてその命令で動いているのか、自らの意思で動いているのかによって、事件は違って来るな」
 冬獅郎も頷いた。斬魄刀は主である死神の半身といえ、独立した意思を持っていることは確かだった。しかしながら、斬魄刀が所有者不在のままで主体的に動いたという例はかつてなく、その意味でも、鏡花水月が主なしで自ら策動しているとなると、過去に事例のない重大な懸念問題となる。
 それにしても、と冬獅郎は考えた。
「犯罪組織が扱っていた香と同種ってことは、おそらく禁止薬物だろう?」
と彼は春水に確認した。
「もちろんだよ」
「惜しいな。香を押さえられれば、強制捜査のいい口実になったのに」
 途端に、絢女の頬に僅かに笑みが浮かんだ。
「分析するのに充分な量を確保できたか分からないけど、一応、香はあるわ」
 え、と冬獅郎と春水は顔を見合わせた。絢女が袂を広げると、そこから平たい円盤状に凝ったままで崩れない煙が現れた。
「…これ、まさか」
 春水の確認に、
「はい。一乗寺で焚かれていた香の煙です。少しづつ袂に集めて圧縮しました」
と絢女は肯定した。彼女は空気の壁で冬獅郎たちを守ると同時に、香を自らに引き寄せ集めていたのだ。
「道理で気分が悪くなるはずだよ。すぐに気が付いて身を守ったはずなのに、おかしいなとは思っていたけどねぇ。なるほど、煙を集めている時に吸いこんじゃったんだね?」
「ええ、顔の方に来ないようにかなり注意していたのですが、完全には遮断できなかったようです」
「無茶するねぇ」
と呆れ顔になって、春水は吐息をついた。
「その香はすぐに技局に持っていくとして、絢女ちゃんは四番隊で診察を受けた方がいいね。以前にボクらがやられた香なら、効果は一時的で後遺症も残らないものだったから心配いらないはずだけど、あの時のと同じものとは限らないからね。万が一、同系統の別種で、未知の副作用とかあったりしたらまずいよ」
 冬獅郎も心配そうに姉を見つめている。はい、と絢女は頷いて、四番隊行きを二人に約定した。

 技術開発局に赴いて、集めた香の分析を依頼した後、絢女は一旦、自隊に戻った。
「おかえりなさい」
と隊首を迎えた桃は、
「ついさっきまで、イヅルくんが来ていて、市丸隊長からのご伝言を言付かりました」
と伝えた。
「何て?」
「今日、定時に上がれるなら外に食事に行かないか、ってことでした。大丈夫ですよね?」
 桃は自身の判断で、一応の承諾を伝えた。但し、当の絢女は不在なので、もし、都合が悪ければ、後から連絡する旨を言い添えていた。
「ええ、大丈夫よ。ありがとう。私の行き先は教えていないわよね?」
 一乗寺に乗り込むと聞けば、ギンは心配するに決まっていたので、絢女は敢えて内緒にしていたのだ。
「もちろんです。イヅルくんには、絢女隊長は打ち合わせで京楽隊長を訪ねているって伝えました」
「それでいいわ。ありがとう」
 桃が立ち上がると、提案した。
「お茶にしませんか? 現世から戻った隊士からのお土産のお裾分けだよって、イヅルくんがシュークリームを持って来てくれたんです」
 絢女が頷いたので、桃は茶の準備に給湯室に行った。絢女は執務机に着いて、大きく息を吐いた。ギンが外食に誘って来たのは、このところ、食欲が落ちている絢女を気遣ってのことだと察っせられた。鏡花水月の消失、乱菊の悪夢と義骸の行方と心にわだかまりを抱え、しかも、朝晩のほんの二刻にこくほどのこととはいえ連日の卍解での疲労も重なっていたのだろう。この数日、まるで食が進まなかった。そのせいで、無意識のうちにあっさり、さっぱりした献立ばかりを続けてしまっていたのだ。昨晩は、久し振りにがっつりと腹に溜まるものが食べたいとギンに頼まれて、夕飯を豚カツにした。しかし、カツを揚げている最中に胸やけしてしまって、自分では一切れしか食べられなかったのだ。これには、さすがにギンも眉を顰め、心配していた。
「このくらいの卍解で疲れてしまうようじゃ、ほんとにダメね」
と絢女は独り言ちた。
 茶の準備を整えた桃が戻って来た。茶請けが洋菓子なので、紅茶を淹れて来たようだ。イヅルから貰ったというシュークリームは中に生クリームとカスタードクリームが二層に詰められており、生クリームの方に苺果汁やチョコレート・ガナッシュなどを加えてフレーバーが付けてあった。桃が示した箱には、苺、チョコ、アールグレイ、マンゴーの四種類が納められていた。桃が苺味、絢女がアールグレイを選んで、二人は食べ始めた。
 現世でも人気の洋菓子店の商品だそうで、甘さも上品でとても美味しかった。しかし、最後の一口を嚥下した直後、絢女は強烈な胸やけに襲われた。先ほど治まったはずの胸のむかつきが甦り、彼女は青ざめた。カップに残った紅茶を流し込むと、少し楽になったが、回復はしていない。
「お姉ちゃん、もう一個はどうする?」
 イヅルは絢女と桃にそれぞれ二個ずつで持って来ていた。絢女の変化に気付いていない桃の無邪気な問いに、絢女は首を振った。
「私は一個でいいわ。残りは桃ちゃんが食べて」
 桃はちょっと考えたが、
「じゃ、また後でにしよう」
と休憩を切り上げることにした。彼女が茶器を洗いに給湯室に下がっている間に、絢女は厠に立った。桃の前では懸命に堪えたが、吐き気を催したのだ。
 結局、絢女は先ほど食べたシュークリームも、紅茶も、全て吐き戻してしまった。それで何とか嘔吐感は治まったが、気分の悪さは残った。
 冬獅郎とも、春水とも約束していたので、もちろん、四番隊には後で行くつもりだった。だが、この時まで、絢女は事態を軽く考えていた。香を吸ったと言ってもごく微量であるし、気持ちの悪さも直ぐに落ち着いた。それに、香は男性の性的興奮を高めるように調合されたもので、肉体の損傷を目的としたものではない。従って、女性が吸引した場合に体調が悪化するのは、一時的な副作用に過ぎないと考えていたのだ。常用によって耐性が付くとはいえど、貴紗が平気で香を吸っていたこともあった。けれども、菓子を口にして吐き気を覚えたことで、絢女はやにわに不安になった。春水が懸念したように未知の副作用があるのかもしれない。或いは体質的な問題で、他人にはどうということがないのに、彼女には重篤な影響を及ぼすのかもしれない。直ちに四番隊で診察を受けた方が良いと絢女は結論し、執務室に戻った。
「戻ったばかりでまた出て行って申し訳ないけど、卯ノ花隊長に用事があるの。ちょっと行って来るわね」
 桃を心配させたくなくて、絢女は四番隊ではなく、烈のところに行くという言い方をした。桃は疑いもせず笑顔を向けて、
「いってらっしゃい」
と絢女を送り出した。

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2012.07.07