裏切りの冥き夜


 四番隊を訪れた時には、気分の悪さはすっかりと落ち着いていた。だが、不安は消えなくて、絢女は烈に診察を願った。
 絢女から一乗寺家での出来事を聞き取った烈は、直ちに診察を行った。触診、聴診、更に、唾液や血液も採取して検査に廻した。結果は二刻にこくほどで判明した。待合室で待っていた絢女は、烈に呼ばれて再び、彼女の診察室に入った。
「まず、結論から申し上げますと、香の影響については問題ありません」
 真っ先に述べられた烈の一言に、絢女は安堵の息を漏らした。
「血液、唾液の検査結果にも異常はございません。それから、技局に照会しましたが、絢女さんが採取した香は四十三年前に八番隊が摘発した犯罪組織が扱っていたものと、同種のようです。香そのものではなく煙の分析ですから、断定はさすがに出来ませんでしたが、阿近さんによれば、九割方間違いないだろうということでした」
「はい」
「あの時に香を吸った八番隊の隊員は、私が診察いたしました。あれは男性の性的興奮を、一時的に理性の抑えが利かないくらいまで高める効果を持つものでしたが、それ以外には体に悪影響を及ぼす成分は検出されませんでした。女性が吸引した場合に眩暈や嘔吐などの症状が出たのは、女性の体にも男性ホルモンは多少、分泌されておりますから、それに作用したからです」
「そうですか…。では、お菓子を食べて気分が悪くなったのは、まだ香の影響が残っていたからなのですね」
と絢女は先走ったが、烈はかぶりを振った。
「それには別の原因があります」
「え?」
 絢女の面に不安が甦った。烈は静かに続けた。
「絢女さんは月の障りの周期は安定していらっしゃいますか?」
 問われて、
「ええ、大体は…」
と応えかけ、絢女ははっと口を噤んだ。
 とっくに生理を迎えていい時期なのに、未だ月のしるしを見ていないことに思い当ったのだ。実は鏡花水月の消失事件が発生する二日ほど前に、今回は少し遅れている、と絢女は感じていた。だが、生理周期はほぼ安定しているといえ、二、三日程度ならば早まったり、遅くなったりということは稀ではなかったので、たいして気に留めなかったのだ。その後は、事件に取り紛れて、すっかり頭から抜け落ちていたが、烈に問われ、遅れていると感じた日からさらに半月近くが経過しているにも拘わらず、まだ始まっていないことに思い当った。
「あの…、まさか…」
 生理が来ない。その理由として、真っ先に思いつくもの。それは    
「はい。絢女さんのお腹には赤ちゃんがいます」
と烈は絢女の問いを肯定した。
「…」
「シュークリームを食べて胸やけしたのも、卍解で疲労が溜まりやすくなっているのも、悪阻の症状です」
 絢女は烈を見返したまま茫然としている。事態を咀嚼出来ていないのだろうと、烈は無言で見守った。
 やがて、絢女の右手がそろと動いて、自分の腹部に触れた。
「…赤ちゃん…、いるんですね?」
 絢女の確認に、烈ははっきりと頷いて見せた。
 自分に新しい命が宿っている。ゆっくりと、絢女の中にその事実が沁み渡って行った。歓びがひたひたと胸に満ちてゆく。と同時に、強い怯えが頭を擡げた。絢女は、改めて烈を見つめると、
「卯ノ花隊長、お願いがあります」
と切り出した。
「総隊長や、他の人にはまだ話さないでいて下さいませんか」
 総隊長には何を置いても報告しなければならないことは解っていた。
「隠すつもりではありません。ただ、その…」
「分かりますよ。市丸隊長にまずお話されたいのでしょう?」
と烈は微笑んだ。
「一番に報告を受ける権利があるのは市丸隊長です。総隊長といえども、その権利を侵すことは許されませんわ」
 烈の言葉に、絢女はほっとしたように肩の力を抜いた。
「今晩、ギンと食事に行く約束をしているんです。そこで話すつもりです。総隊長には、明日にでも、私からご報告いたします」
「はい。了解いたしました。ご心配なさらなくても、絢女さんが報告するまで誰にも言いませんよ」
「ありがとうございます」
 礼を述べた後、絢女の眸が縋るように揺れた。
「…ギンは…」
「ええ?」
「受け入れてくれるでしょうか」
 喜んでくれるか、ではなく、受け入れてくれるか。
 烈は痛ましさを覚えた。医師として、彼女もギンが抱える闇の深さを承知している。藍染が愛する女の仇であることさえ忘れ果てるほどに、鏡花水月に深く囚われ続けた日々。その中で血に塗れ、無辜の者を屠った罪。そして、贖罪の為に与えられた色絶無の刑罰の後遺症。ギンの精神はそれらに痛めつけられ、未だに暗闇に片足を突っ込んだままでもがき続けている。その傍らに寄り添い、彼をどうにかして闇から掬い上げようと努力を続ける絢女には、ギンが彼の血を引く子供を喜ぶとは思えないのだろう。
 喜んでもらえなくても仕方がないけれど、せめて、認めて欲しい。
 絢女の心が切なくて、烈は敢えて朗らかに、
「きっと喜びますよ」
と請け負った。
「市丸隊長はああ見えて、子供好きですから。やちるさんのこともずいぶん可愛がっておいででしょう?」
 大人に対しては非情で、容赦がないことで知られる三番隊隊長であったが、子供に対しては案外優しい、というのは三番隊の隊士の間で囁かれている噂だった。
「それは…、でも…」
 ギンが子供好きであることは、絢女も知っている。だが、それは子供の穢れのない無垢さを愛おしんでいるのであって、自らの血を分けた子供を喜ぶかどうかは別の話だと思えてしまう。
 赤子が宿ったと知った時、烈は十四郎が喜ぶことを疑わなかった。十四郎の子供好きは筋金入りであったし、重度の精子減少症である自分には子は生せないと諦めていたが、本心では欲しがっていることを知っていたからだ。そして、実際、赤子のことを告げた時、十四郎は感涙に咽びながら、烈の両手を握りしめて、幾度も、
「ありがとう」
を繰り返した。
 万に一つも拒絶を想像する必要がなかった烈に比べ、絢女にはギンに報告すること自体が怖れを伴うことなのだ。受け入れて貰えないかもしれない。もしかしたら、堕ろせとまで言われるかもしれない。それでも、絢女の眸は産みたいと願っていて、烈はせめて彼女が安心して子を産めるように、出来る限りのことをしてやろうと決心した。
「絢女さんのお子さんと私の子供。きっといい友達になれると思いませんか」
 出産はおそらく烈の方が早いだろうが、絢女の子もそれほど間を置かずに産まれることになるだろう。子供が生まれることが稀な尸魂界で、同じくらいに産まれ、仲良く一緒に成長することが出来る友達がいるというのはとても幸運なことだ。
 絢女の頬に漸く笑みが浮かんだ。
「仲良くして下さいますか?」
「ええ。この子と、」
と烈は自分の腹部を指差した後、
「絢女さんのその子、きっと親友になれますわ。それに絢女さん。私たちも良い『ママ友』になれると思いますよ」
 現世の言葉で励ましを告げる烈に、絢女は嬉しそうに頷いた。

 ギンが絢女を案内したのは、近頃、瀞霊廷で評判の「しま乃」という料理屋だった。
 料亭と呼ぶには格式ばっておらず、居酒屋と呼ぶには品がある。小料理屋と呼ぶには個室なども備えているこの店は、自らを「お気楽料理処」と称している。出される料理は彩りにも盛り付けにも玄人らしい工夫を凝らしてあるが、基本的には家庭料理と変わらない惣菜の類である。しかし、一級の材料を使用し、丹念に出汁をとって仕上げられた料理は、薄味ながら素材の味がしっかりと活きており、たいそう美味い。
「ここなら、あっさりした味付けやし、絢女もきっと気に入るで」
 食欲の落ちている絢女を気遣ったギンの選択が嬉しかった。
(…大丈夫。大丈夫よ)
 彼はこんなに絢女を大事にしてくれるのだ。きっと受け入れてくれる。絢女は先に立って店の暖簾をくぐるギンの背中を見ながら、そっと自分の腹部を撫でた。
 個室に案内され、まず、酒の注文を尋ねられた。
「そうやねぇ。熱燗の方がええかな? 絢女、どない?」
 ギンに問い掛けられ、絢女は緩く首を振った。
「ごめんなさい。今日はお酒はやめておくわ」
 ギンは驚いた様子で絢女を見返した。
「呑む気まで失せとるん?」
「ええ。ごめんなさい。一緒には呑めないけど、お酌はするから、ギンの好きなお酒を頼んで」
「うーん、独りで呑んでもつまらんのやけど」
とギンは少しだけ残念そうな表情を見せたが、絢女の勧めに従って熱燗を頼んだ。
 仲居が辞して後、ギンは心配そうに絢女を見遣った。
「絢女、大丈夫なん? 四番隊には行ったん?」
 連日、卍解しているから疲労が溜まっているのだ。食欲のない理由をそう説明した絢女に、ギンは四番隊で診察を受けることを勧めた。疲労以外の原因があってはと懸念したのと、現在の状況を鑑みれば、四番隊は絢女に対して疲労回復の施術を行ってくれると考えたからだ。
「ええ。卯ノ花隊長に診察していただいたわ」
「ほんで? 原因はやっぱり疲労? 何ぞ、悪い病気でも見つかったりしてぇへんやろなぁ」
「大丈夫。病気なんかじゃないわ。健康体よ」
「そうか。ほんなら、やっぱり疲れが溜まっとるせいなん?」
とギンは確認した。
「せやったら、疲労回復の鬼道は受けた?」
 絢女は首を振った。ギンは眉を顰めた。
「絢女が鏡花水月を防ぐ為に、毎日、卍解を続けとるん、卯ノ花隊長も勇音はんも承知やのに、なんで鬼道を遣うてくれへんの?」
 不満そうにしている彼に、
「疲労じゃなかったの」
と続ければ、ギンは怪訝そうに首を傾げて絢女を見返した。
「疲労じゃないて…? けど、健康体やてさっき…?」
 絢女は出来る限りさらりとした口調を心がけて告げた。
「悪阻ですって」
 ギンの、普段は見えないほどに細められた眸が見開かれた。
    何…て?」
「悪阻」
 絢女は繰り返した。
 しん、と沈黙が降りてきた。
 ギンはこれでもかというほど目を見開き、まじまじと絢女を見つめていた。
 やがて、
    悪阻?」
 問い掛ける男の声は震えていた。
「それって…」
「赤ちゃんが出来たの」
 喜んで貰えるとは期待していなかった。未だに闇を抱え、自分を血塗れで汚れていると責め続けるギンにとって、彼の血を引く子供が宿ったなど戸惑うばかりだろう。もしかしたら、そんな子供は産むなと拒絶されるかもしれない。だが、絢女は産みたかった。喜んでは貰えなくても、せめて受け入れて欲しかった。
「あの…ね。もしかしたら、ギンは赤ちゃん、欲しくなかったかもしれないけど、でも、私は嬉しいの。ギンの赤ちゃ、」
「ボクの子ォやない」
 鋭い声が被さり、彼女の言葉を消した。
「え?」
 今度は、絢女が目を見開く番だった。
「今…」
「ボクの子ォやない」
 聞き違いではなかった。彼は拒絶ではなく、否定したのだ。呆然とギンを見詰める絢女から、ギンは顔を背けた。
「ボクの子ォのはずあらへん。ボクの子ォなんて有り得へん」
 視線を逸らせたままで、否定が繰り返される。
「ボクの子供なんて出来るわけあらへんのや。違う。ボクの子ォやない」
 重ねられる。
 彼は絢女を全く見ようとしなかった。床の間の軸を睨んだままで、ギンは絢女と彼女の中に芽生えた命を否認した。

     だったら、誰の子供だというの?

 絢女は膝の上で拳を握りしめた。
 これまで数えきれないほどの逢瀬を重ねてきたギンが、これほどきっぱりと自分の子ではないと否定できる根拠が、絢女には見当もつかなかった。しかし、彼は自分は子を生せないと信じており、だからこそ、絢女に宿った命を自分の子ではないと断じた。そして、彼が赤子を否定したということは、そのまま、絢女の不実の疑いに繋がっていた。
(誰の子供だと思っているの?)
 彼が誰の名を口にしても、絢女には馬鹿馬鹿しいだけだ。彼女にはギン以外に子供が出来るような行為をともにした男はいないのだから。だが、身に覚えがないのに、具体的な名を挙げられるのはつらすぎた。自分自身にも、ギンが疑っている誰かに対してもいたたまれず、絢女はどうしても問い質せなかった。
 黙りこくってしまった絢女に、ギンは言葉を掛けようとしなかった。けれども、背けられたままの顔が、全身に漲る拒絶が、絢女の不実を詰っていた。

 どれほどの時間が経ったものか。
 絢女が立ち上がった気配を感じて、ギンははっと面を上げた。漸く視線を戻すと、絢女は部屋から出て行こうとしていた。
「絢女?」
 ギンの呼び掛けに彼女は振り向かなかった。そのまま襖を開け、廊下に出た彼女はギンに背を向けたままで後ろ手に襖を閉めた。見えなくなってゆく彼女の背中を、ギンは声を掛けることも忘れ、ただ見つめていた。
 襖が完全に閉ざされる直前、彼女の手が止まった。
 震える声が、それでも、どうしても、と絞り出された。
「私はあなたしか知らない」
 ぴしゃん、と襖が閉ざされた。

「何…?」

     私はあなたしか知らない。

 ギンは絢女の言葉を反芻した。
(…ボク、絢女に何を言うた?)
 赤ん坊が出来たと報告した絢女に、
「…ボクの子やない、て…」
 この時、初めて、ギンは自分の放った言葉の意味を悟った。
 彼の耳に、大切にしていたものが粉々に砕け散る音が響いた。

 廊下で燗をした酒を運んでくる仲居とすれ違った。
「あら、お客さま?」
 厠にでも行こうとしていると思ったのだろう、
「お手洗いはあちらですよ、お客さま?」
 柔らかな仲居の声を絢女は無視した。無礼な客だと思われたかもしれないが、とても愛想笑いなど出来なかった。唇を引き結んでいないと、大声で咽いでしまいそうだった。まっすぐに前を向いていないと、涙が零れそうだった。そのまま、ずんずんと玄関まで進み、下足番の老爺から履物を受け取って絢女は表へ出た。
 通りに出た途端、絢女の歩みはゆっくりになった。
(追いかけてきて…)
 その想いが無意識で絢女の足を鈍らせていた。
 追いかけてきて欲しかった。追いかけてきて、抱きしめて、先ほどの言葉は間違いだと謝って欲しかった。
 通常の三倍以上の時間をかけて、しま乃から四町
*1 ほど遠ざかったところで絢女の足はついに動かなくなった。その場に、根が生えたように立ち竦んだまま、絢女はギンを待っていた。

 けれど…。

 二刻にこくほども佇んで、ようやく、絢女はギンが追いかけては来ないことを覚った。
 きっと、彼は怒っているのだ。違う男の胤を宿した絢女を。それとも、不貞を働いた彼女を見限ってしまったのかもしれない。
 ずっと、彼が好きだと告げてきたつもりだった。ギンでなければだめなのだと、ギンだけが欲しいのだと、言葉でも、態度でも伝え続けていた。だが、絢女の心は彼に届いていなかったのだ。こんなに簡単に真心を疑われた。こんなに簡単に見捨てられた。
「結局…、私も同じじゃない」
 好きだと、絢女だけだと、繰り返し告げられる言葉に有頂天になって、愛されていると信じ切っていた。命がけで助けてくれた彼の振舞いに、自分は特別なのだと自惚れていた。だが、すべて幻想に過ぎなかったのだ。結局、絢女も、ギンの過去の女たちと同じだ。彼の孤独と闇と欲望を発散させる為の都合のいい存在で、飽きれば、簡単に捨てられる。ただ、他の女よりもずっと長く彼の関心を惹き続けていた、それだけのことだ。
「馬鹿みたい…」
 絢女はふらりと一歩踏み出した。一歩、足が出てしまうともう、一刻も早くこの場を離れたくて、彼女は足早に歩き出した。どこに向かっているのか全く分からなかった。ただ、この場から、ギンから少しでも遠ざかりたくて、絢女は闇雲に歩き続けた。
 我に返った時、彼女は瀞霊廷の外れの草原に立ち尽くしていた。
 冷たい木枯らしに身体を嬲られ、絢女はぶるっと身震いをした。
(ここ…?)
 あたりを見回せば、遠く彼方に懺罪宮の白塔が影を聳え立たせ、その背後に沈みゆく六日月が望まれた。だとすると、青流門の近くだろうか。
(ずいぶん遠くまで来てしまったのね…)
 晩秋の夜風に晒されて、絢女の身体は冷え切っていた。卯ノ花から身体を冷やさないようにと注意されていたことを思い出し、絢女は強く首を振った。そっと、自らの腹に手を触れる。
「ごめんね。お母さん、お父さんに信じて貰えなかった…」
とまだ人の形にまで辿り着けていない我が子に語りかけた。
 ギンに否定されても、見限られても、絢女は彼のことが好きだった。絢女の中にいるこの赤子は間違いなく、彼女が愛したたった一人の男の子供だ。絶対に産みたかった。この子の為にも泣いてなどいられない。
「帰らなきゃ…」
 隊長舎に戻って、風呂に入り冷え切った身体を温めなくてはならない。食欲はないが、夕食も何か口にしておく必要があるだろう。
 絢女はゆっくりと踵を返した。

 直後、絢女の足は地を蹴った。飛び退くと同時、
「破道の三十三、蒼火墜」
 詠唱破棄で破道を放つ。
 蒼火墜の爆発の向こうで、身を翻した影が見えた。
「何者?」
 油断なく身構えながら、絢女は周囲の気を探った。
 敵は三人だ。ここが流魂街なら夜盗の類かとも考えられるが、瀞霊廷内ではその可能性は極めて低い。それに、単なる夜盗にしては霊力が高すぎる。ぎりぎりまで霊圧を閉じ、気配を断っていたことを考え合わせると、死神か隠密機動のように訓練を受けた者に違いない。
 西空に低くかかった月が白刃を煌めかせ、絢女はもう一度飛び退ってそれを避けた。
 ギンと食事をするつもりで隊長舎を出た絢女は外出用の小紋姿だった。履物も草鞋ではなく、高さのある草履だ。死覇装のように足捌きは良くなく、戦闘には不利だった。
 仕方なく、絢女は霊圧を解放した。五番隊長の圧倒的な霊圧に、敵が一瞬、怯んだ。
「君臨者よ、血肉の仮面・万象・羽搏き・ヒトの名を冠す者よ、焦熱と争乱、海隔て逆巻き南へと歩を進めよ。破道の三十一、赤火砲」
 中級破道といえ、隊長の詠唱だ。絢女の身長の数倍にも達する炎が爆風を伴って、あたりを薙ぎ払い、逃げ切れなかった敵の一人を捕えた。
 断末魔の悲鳴と共に、肉が焦げる匂いがした。
「う…」
 咄嗟に、絢女は左手で口許を覆った。激しい嘔吐感がせり上がって来たのだ。
 揺らいだ霊圧を敵は見逃さなかった。突進してくる二つの影を、
「斥!」
 詠唱破棄の縛道で防ぐ。だが、
「縛道の六十一、六杖光牢」
 中級縛道は斥では防げなかった。三本の光の帯が絢女を封じた。
 ぶわっと霊圧を更に上昇させ、縛道を弾き飛ばす。同時に、
「破道の五十八、闐嵐」
 そもそもが風を操る斬魄刀の主である絢女が放った闐嵐は凄まじい竜巻となって、敵に襲いかかった。二つの悲鳴が交錯する中、絢女は膝をついた。胃を逆流してきた吐瀉物が、口許を覆った指の隙間から滴った。
 敵は竜巻に逆らい、脱出しようともがいていた、絢女は嘔吐しながらも霊圧を高め、竜巻を強化した。殺すつもりはなかったが、反撃できない程度にダメージを与える必要があった。竜巻に弾かれ、地に叩きつけられた一人が呻いた。肋骨を砕かれたのだ。
(あと一人…)
と思った時、不意に背後に別の殺気を感じた。
「破道の四、白雷」
 条件反射で鬼道を放つ。ふ、と気配が消え、目の前の景色がぐにゃりと歪んだ。
(これは…、鏡花水月?)
 微かに鏡花水月の波動を感じる。絢女を避け続けていた鏡花水月が、彼女に対して術を解放したのだ。
 絢女は帯に手挟んでいた懐剣を抜いた。
「咽び啼け、秋篠」
 隊長格は斬魄刀の形を自在に変容出来る。秋篠は通常、太刀の形状をしており、絢女は下げ緒を用いて携行していた。しかし、今晩のような私的な外出で太刀を持ち歩くのは憚られることだった。一方、鏡花水月の件がある以上、秋篠を常に傍らにする必要も感じていた。この為、思案の末に懐剣に形を変化させて持ち出すことにしたのだ。太刀を佩いていない絢女の姿に、鏡花水月は秋篠を携行していないと信じていたのだろう。解号に大きく動揺した。
「卍解。鷺姫秋篠」
 卍解と同時に吹き渡った浄めの風が幻惑場を払った。鏡花水月の術が破られた。
 瞬間、絢女は目の前に迫る狼を認めた。咆哮を上げて飛び掛かってきた狼を、寸前で秋篠のかまいたちが斬り伏せた。ほぼ同時に、彼女は斜め横から突き入れられた敵の手首を掴んでいた。その手首を背後に向かって引き込む。直後、背に灼熱が走った。
 絢女の後ろで、絶叫が響いた。
 彼女の背を逆袈裟に斬り上げたもう一人は、絢女が突き込んだ味方の剣で眼球を串刺されたのだ。噎せるような血の匂いに、再び嘔吐感がこみ上げて来たが、絢女は懸命にこらえて、敵の太刀をもぎ取った。もう一度背後に刀を突き入れる。秋篠の風が太刀を奪い取られた敵を、ずたずたに切り裂いた。
「破道の三十一、赤火砲」
 はっと頭を上げた絢女は、右前脚を切断された狼が破道を放ったのを知った。
「縛道の八十一、断空」
 ぎりぎりで絢女の前に出現した結界の壁は、赤火砲を跳ね返した。結界の外に取り残された敵が爆発した炎に吹き上げられ、苦悶の叫びとともに燃え落ちた。
 絢女は太刀を、背後の男の身体から引き抜いた。気配だけで的確に心臓を一突きされていた男はその場に崩れ落ち、残るは狼だけとなった。鏡花水月の気配は、既に感じられなかった。絢女の卍解に、不利を覚って逃げたのかもしれない。
「貴紗さま…ですね」
 絢女は確認した。もちろん、狼は肯定を返すようなことはせず、三本足で立ち上がった。熾火のように昏く、憎悪に歪んだ眸が絢女を見据える。
 直後、狼は咆哮した。後脚を蹴って跳躍した狼が、牙を剥き出して絢女に襲い掛かる。
 絢女は微動もしなかった。
「烈風陣」
 符呪とともに、沸き起こった竜巻が前後左右から狼を挟撃した。凄まじい風圧に押し潰され、ばきばきと狼の全身の骨が砕かれた。激痛に一声吠えた狼が、どさり、と地に転げた。辛うじて息はあったが、意識は失っており、最早、絢女に攻撃することは不可能だった。
 絢女はしばらくその場で狼の気配を確認していた。最初に襲ってきた三人の敵は全員が絶命した。そして、狼は仮に意識を取り戻したとしても、動くことは出来ない。その確信を得て、卍解を解いた。そのまま、ふらふらと覚束ない足取りで、彼女はその場を離れた。風上に立ち、肉の焼け焦げた匂いも、血の匂いも届かなくなって、彼女は再び膝をついて吐いた。
 霊圧に覚えはなかったから護廷十三隊の上位席官ではないはずだ。狼    貴紗と共にいたことからしても、一乗寺の私兵に間違いないだろう。技量は四席~五席相当だった。絢女が万全であれば、彼らも殺さずに生け捕れたかもしれない。だが、腹に赤子を抱え、ひどい悪阻の発作に襲われた絢女には、身を守るのが精一杯でとても手加減する余裕はなかった。
 斬られた背中が燃えるように熱い。逆に、手足は氷のように冷たくなって、うまく動かなかった。
 どくん、と腹が大きく脈打ったのを感じた。その直後、絢女の感覚は、自らの胎内を滑り落ちる血の流れを認識した。月の障りの最中、時折、血が塊りになって流れ落ちる感触を覚えることがあった。その後は、たいてい、経血が大量に下りていたり、血餅と呼ばれるぶよぶよの血の塊の排出がみられるのだが、今、絢女を抜けて行った感覚はその時の症状にそっくりだった。
「…まさか…」
 おそるおそる自らの秘部に手を伸ばして確認する。冷え切った指先がべとりと血糊に濡れた。
「…う…そ…」
 出血していた。それの意味するものを悟り、絢女は恐怖に震えた。
「いや、駄目よ。消えないで…」
 愛した男の子供が欲しかった。男に裏切られても、いや、裏切られたからこそ、どうしても産みたかった。たとえ、ギンに捨てられたのだとしても、彼が絢女の愛するかけがえのない男性である事実は揺らがない。見限られ、もう彼の傍にいられなくとも、愛した人の子供がいれば孤独にも耐えてゆける。
「助けて…」
 震える指で、絢女は伝令神機を取り出した。
「助けて…、助けて…」
 登録してある短縮呼出釦。一番助けて欲しい人の番号に指を伸ばしかけて、ぎりぎりのところで隣の番号を押した。
 たった四度の呼出音が永遠に続くかのように感じられた。意識を集中させていないと、ふっと闇に落ちてしまいそうだった。
「姉さま、どうした?」
 聞こえてきた声に涙が溢れそうになった。
「助けて…、冬獅郎…」

     意識が闇に呑み込まれた。


*1 一町=約0.11km 従って、四町は約450m。

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2012.07.14