青い鳥は彷徨う


 静かな寝室に響き渡った伝令神機の呼出音に、冬獅郎はがばと跳ね起きた。
 夜中の呼出はまず間違いなく緊急事態だ。譬え、風呂に浸かっていようと、閨事の真っ最中であろうと、直ちに応答できるよう、手近なところに伝令神機を置いておくのは隊長格の心得である。枕元の神機を掴んだ冬獅郎は表示された発信者の名に眉を顰めた。部下からの緊急救援要請かとの予測は裏切られ、絢女の名が示されていたのだ。
「姉さま、どうした?」
 尋ねると、神機の向こうで幽かな溜息が聞こえた。
「姉さま?」
「…助けて…」
 辛うじて耳に届いた細い声に、冬獅郎は息を呑んだ。
「姉さま!? どうした!」
 逼迫した冬獅郎に、背後から見守っていた乱菊が身体を強張らせた。
「助けて…、冬獅郎…。赤ちゃん…」
「え?」
 思いがけない言葉に、冬獅郎は再び息を詰めた。
「…私の赤ちゃんが…消えてしまう…。助けて…。お願い、助けて…」
 姉の声は消え入りそうに弱々しく、彼女が気力を振り絞って助けを求めているのがはっきりと伝わって来た。
「姉さま、今、どこにいる!?」
「…瀞霊廷…東の外れ…」
と絢女は答えた。
「…懺罪宮の右側に…月…」
 声が途切れた。
 姉が意識を失った、と冬獅郎は悟った。
 彼は繋がったままの伝令神機を抛り捨てると、小物を納めた抽斗から印肉入を掴み出した。指先に印肉をなすり付け、畳に符を書きなぐる。符の上に両掌を押し付け、
「南の心臓、北の瞳、西の指先、東の踵、」
と縛道の詠唱を始めた。
「風持ちて集い、雨払いて散れ。縛道の五十六、掴趾追雀かくしついじゃく
 詠唱の完了と同時に頭の中に座標を示す数値が走る。絢女の居場所を示す座標軸が特定され、冬獅郎は面を上げた。
「隊長」
 女の顔から副隊長の顔に切り替わった乱菊はすでに身支度を整えており、夜着を引っかけただけの冬獅郎に死覇装と氷輪丸を差し出していた。
 受け取った死覇装を手早く身に纏う。
「松本、俺から離れるな!」
「はい!」
 冬獅郎と乱菊は隊長舎を飛び出した。
 絢女は瀞霊廷の東の外れだと告げたが、実際の彼女の居場所はもっと北よりの、青流門と黒陵門の中間に近い場所だった。その辺りは人家からも遠く、雑木林と草原がまばらに広がっている一角だったはずだ。
(姉さま…。何故、そんなところに…)
 掴趾追雀で特定した草原に瞬歩で辿り着いた冬獅郎たちは、草原が焼き払われているのを見た。絢女のものを含む複数の霊圧の名残が残っている。この場を焼き払ったのは、まず、その中の誰かが放った赤火砲に間違いないだろう。
「隊長、この匂い…」
 乱菊がくんと鼻をひくつかせて、囁いた。
「ああ。分かっている」
 草が焼き払われた青臭い匂いに、明らかに生き物の肉が焦げた匂いが混じり込んでいた。すでに月は沈んでいて、星明かりではものの影を判別するのも難しかった。乱菊が鬼道で点した灯りで周囲を照らすと、炭化した二体と焼かれていない一体の計三体の遺体がばらけていた。だが、絢女の姿は見えない。
「絢女!」
 乱菊が親友の名を呼びかける。
 その時、鷺の鳴き声が闇を裂いた。はっと振り返ると、闇の中に一羽の白鷺が蹲っていた。乱菊が灯りを点した右手を高く掲げて白鷺に向けると、白鷺の向こうに横たわるもう一体の人影がぼんやりと認められた。乱菊たちがその人影を認識した直後、すっと白鷺の姿は掻き消えた。
「絢女!」
「姉さま!!」
 駆け寄ると正しく絢女だった。白鷺は鷺姫で、主を護っていたのだ。辺りには生臭い血の匂いが濃密に漂い、絢女を抱え起こした冬獅郎の手が、血糊で滑った。
 相当に出血しているらしい。絢女の顔は真っ白で、生きているようには見えなかった。
「絢女、絢女!」
と呼びかける乱菊の声も届いておらず、ぴくりとも反応しない。だが、わずかに呼吸はあり、か細いが霊圧も残っていた。
 鬼道で止血を施し、冬獅郎は絢女を抱え上げた。一刻も早く、彼女を四番隊に運ぶ必要があった。乱菊と頷き交わし、瞬歩で四番隊に走った。

 駆け込んできた十番隊の正副隊長と抱えられた五番隊長の姿に、当直の四番隊士は一瞬、息を呑んだ。
 だが、すぐに、彼らは機敏に動いた。一人が烈に緊急呼出しをかける。残りの隊士はてきぱきと指示して絢女を寝台に横たわらせると、応急処置で霊力を注ぎ込んだ。
 烈はすぐに救護病棟にやって来た。勇音と伊江村も従っている。当直の隊士が応急手当てを施している絢女を一目見て、
「これは…」
と、烈もまた絶句した。
「日番谷隊長、これは、一体?」
 伊江村の問いに、冬獅郎はかぶりを振った。
「姉が助けを求めて来たんだ。掴趾追雀で捜し当てて行ったら、姉は血塗れで倒れていた。あたりには三人の遺体が焼け焦げて転がっていて、姉が破道を遣った名残があった。分かっているのはそれだけだ」
と答えた後、烈に向き直る。
「姉は俺に、赤ちゃんを助けてくれと頼みました。姉はおそらく、妊娠しています」
 冬獅郎の言葉に、烈を除く全員が硬直した。だが、烈だけは深く頷くと、
「存じております」
と告げた。表情を改め、
「すぐに術式に入ります」
 勇音と伊江村に宣言した烈に、
「卯ノ花隊長、絢女の赤ちゃんは…!?」
 乱菊が必死の面持ちで尋ねた。
「出来うる限りの手は尽くします。ですが、最悪の場合、母体が優先です。赤ん坊は諦めていただかないとならないかもしれません」
「そんな…」
 当直の隊士が絢女を処置室に運んでゆく。表情を引き結んで処置室に赴く烈たちを、冬獅郎と乱菊は見送るしかなかった。
 処置室の扉が閉ざされた。
 寒い廊下の端に据えられた長椅子に崩れるように、乱菊は座り込んだ。
 冬獅郎は懐に捻じ込んできた伝令神機を取り出すと、まず、砕蜂に連絡を入れた。判明している限りの事情を説明すると、彼女はすぐに現場に検分に行くと請け負った。
「乱菊」
 冬獅郎の呼び掛けに、乱菊は面を上げた。
「俺は雛森に連絡をする。乱菊は市丸を捕まえろ」
 命じられて、乱菊ははっとした。
 赤ん坊が出来たと知った女が、まず最初にそれを報告する相手。望まない妊娠や不倫相手というのでない限り、女が最初に告げたいと願うのは赤ん坊の父親に決まっている。乱菊だって、もしも冬獅郎との間に子供が授かったとしたら、誰よりも先に彼に報せたい。絢女もきっと、ギンに最初に報告するはずだ。だが、絢女の傍にギンはいなかった。彼女は一人で傷ついて倒れていた。
「市丸はもしかしたら、瀞霊廷にはいないかもしれねぇ。だけど、捕まえろ」
 冬獅郎もおそらく乱菊と同じことを考えているらしい。ギンは瀞霊廷を離れていて、だから、絢女は彼に報告することも、一緒にいることも出来なかったのだと。
 乱菊は伝令神機を握りしめ、ギンの番号を押した。耳に響く呼出音を数える。
 六、七、八、九…。
 二十まで数えていったん切った。もう一度、掛け直す。
 出ない。
 三番隊で大掛かりな討伐があるとは聞いていないから、ギンが出てゆくとしたら、緊急救援要請だ。もしかしたら、戦闘の最中かもしれないと、乱菊は少し待つことにした。
「出ねぇのか」
「はい」
「そうか…」
 二人、長椅子に腰かけて閉ざされた処置室の扉を見つめる。
「シロちゃん、乱菊さん!」
 駆けつけて来た桃が二人を認めて大声で呼び掛けた。
「お姉ちゃんは、どう、」
と尋ねかけ、五番隊副隊長の立場で呼ばれたことに思い至って姿勢を正し、
「日番谷隊長、絢女隊長の容体は?」
と、努めて感情を抑えて質し直した。冬獅郎は先ほど砕蜂に報告したのと同じ内容を、桃に説明した。それから、絢女の妊娠を告げると、桃は驚愕の表情を浮かべた。
「絢女お姉ちゃんが妊娠…?」
 驚きの余り、副隊長から雛森桃の素に戻ってしまったが、冬獅郎は咎めなかった。
「やっぱり、おまえもまだ聞いてなかったのか?」
「うん」
と頷いた桃は、いきなり、きょろきょろと辺りを見回した。
「シロちゃん、市丸隊長は?」
「いねえ。姉さまは一人で倒れていた」
「嘘…。何で?」
 桃は再び瞠目した。
「おかしいよ。だって、絢女お姉ちゃん、市丸隊長とお食事に行ったんだよ」
「何だって?」
「市丸隊長が迎えに来て、二人で仲良く出ていくところ、あたし、見たもの」
 それなら、何故、絢女は唯一人であんなところに倒れていたのだ。
「松本!」
と冬獅郎が指示するよりも先に、乱菊は再び、伝令神機を取り出し、ギンの呼出を始めた。二十、三十と呼出を重ねても、ギンは出ようとしない。冬獅郎はイヅルに連絡を取り、ギンが出張らなければならないような緊急救援の要請は入っていないことを確認した。桃が地獄蝶を飛ばし、乱菊が数え続けた呼出音が百に達した時、ようやく、
「こんな夜中にしつこいなァ」
とギンが応答した。
「ギン、あんた、今、どこにいるのよ!?」
「ん~、しま乃」
と緩いギンの声が響く。
    あんた、酔っぱらってるの?」
「うん。なァ、乱菊も来ィへん? ええ酒があるんやで」
 ギンの返答は酔漢特有の白々しい明るさに満ちていた。だが、乱菊はその声音に虚ろな渇きを感じ取った。
「絢女とけんかしたのね?」
「いいや~、けんかなんてしてへんよぉ。絢女が勝手に怒っただけや」
 けらけらと響く空笑いを封じるように、乱菊は、
「今、四番隊にいるの」
と強い声で告げた。途切れた笑いの隙間に捻じ込む気合で、
「絢女が賊に襲われて大怪我をしたの。卯ノ花隊長が術式を行って下さっているけど、危険な状態よ」
と畳み掛ける。
 一瞬の間の後、
「すぐに行く」
 ぶつ、と通話が切れた。

 言葉通り、ギンはすぐに四番隊に姿を現した。身体からはぷんと濃い酒の匂いが漂っていたが、酔ってはいなかった。絢女の怪我の報せに一気に酔いが醒めたというより、酔っぱらったふりをしていただけで、本当は少しも酔えてはいなかったのだろうと乱菊は観察した。
 ギンに対して、冬獅郎は伊江村たちにしたのと同じ説明を繰り返した後、
「市丸。姉さまは妊娠している。それは、姉さまから聞いたな」
と確認した。
 食事をともにする為に出て行った二人が別々の場所にいて、ギンは明らかに自棄酒を煽っていたのだ。しかも、絢女は自らの命さえ危ういあの状況で、ギンではなく冬獅郎に助けを求めた。二人の間に何らかの諍いが生じたのは間違いない。そして、その原因は九分九厘、絢女の腹に宿った赤子だ。
「うん、聞いたよ」
とギンは予測通り肯定した。
「それで、何でけんかになるの!?」
 詰め寄る勢いの桃を制し、乱菊が問うた。
「あんた、まさか、産むなとか、堕ろせとか言ったんじゃないでしょうね」
 その質問にギンは緩く首を横に振った。
「産むなとも、堕ろせとも言うてへん」
 彼の頬に嘲りが浮かんだ。桃は身を竦めたが、冬獅郎と乱菊にはその嘲りはギン自身に向けられたものであることが理解った。
「言うたんは、もっと非道いことや」
「…何て言ったの?」
 乱菊が質した。
 ギンに浮かんだ嘲りが深くなった。灯りに照らされた彼の眸が血色に偏光し、昏く揺らいだ。
    ボクの子ォやない」
 もし、無位の隊士がその場を通りかかったら、確実に霊圧に中てられて腰が砕けていたろう。ギンも、冬獅郎も、乱菊も、桃も、決して霊圧を上げてはいなかったが、ひりつくような殺気がその場を支配していた。針が落ちる音さえ響きそうな静寂を破ったのは、
「…何、それ…。ひどい…」
という桃のぽつりとした呟きだった。
 桃は勢いよく面を上げると、
「ひどい! 酷いよ!!」
と今度は声の限りに叫んだ。
「絢女お姉ちゃんはずっと、市丸隊長だけを見てたのに! 今まで、散々、お姉ちゃんのこと『好きだ』って言っておいて、何よ、それ!?」
 激昂の余りに、相手が格上の隊長であることも、自らが副隊長であることも忘れ、市井の少女になって桃はギンに詰め寄った。
「お姉ちゃんの赤ちゃんなんて、市丸隊長の子供としか考えられないじゃない! 身に覚えがないなんて言わせない!! 言ったって誰も信じない!! だのに、なんてこと言うの! 卑怯者!!」
 喚き散らす桃を冬獅郎が制した。
「落ち着け、雛森」
 桃はキッと冬獅郎を睨んだ。
「落ち着いてなんかいられないよ! シロちゃんは悔しくないの!?  絢女お姉ちゃんがさんざん弄ばれたんだよ!!」
「悔しくねぇわけねぇだろうが。いいから落ち着け、雛森副隊長」
 敢えて階級名で呼ばれたことで、桃ははっと口を噤んだ。怒りで握りしめた拳をぶるぶると震わせながらも、桃は引いた。ギンを睨みつけたまま黙り込んだ桃を脇に置いて、冬獅郎はギンに相対した。
「市丸。これは十番隊隊長としてじゃねぇ。日番谷絢女の弟としての質問だ。姉さまの腹の赤ん坊がおまえの子供じゃねぇという理由を教えてくれ」
 今回ばかりは、桃が激昂したことに、冬獅郎は感謝したい心持ちだった。おかげで冷静になれた。彼女が興奮して喚き出さなければ、冬獅郎の方が怒りに我を忘れて氷輪丸を解放していたかもしれない。
 一途な姉がひたすらギンだけを想っていたことを、冬獅郎は疑わない。桃の主張した通り、赤ん坊の父親はギン以外には考えられないし、実際、彼には否定できないだけの覚えがあるはずだ。にもかかわらず、自分の子ではないと、彼が信じた根拠を知りたかった。
「姉さまは好きでもねぇ男と関係出来るようなふしだらな女じゃねぇ。そして、姉さまが好きな男は、市丸、おまえだ。おまえだって、雛森の言う通り、身に覚えは嫌ってほどあるだろう?」
「…」
「百歩譲って、姉さまにおまえ以外に好きな男が出来た、と仮定してもだ。姉さまの性格からして、おまえとの仲を清算しねぇうちに次の男に身を任すなんて絶対に有り得ねぇ。おまえと切れねえ限りは、そいつとはまだ清い関係のはずだ」
「…」
 一途で、不器用なほど誠実な姉の為人ひととなりを、冬獅郎は承知している。
「何で、おまえの子じゃねえんだ? 根拠を説明してくれ」
「…そんなもん、あらへん」
 ぽつりと、ギンは答えた。
「父親は間違いのうボクや」
 矛盾した言い草に、冬獅郎は爪が食い込むほどに拳を握りしめて、ギンを睨み据えた。
「どういうことだ?」
「絢女はボク以外の男なんて知らん。聖母マリアじゃあるまいし、関係もしてへん男の子ォなんて出来るわけない。父親はボク以外には有り得へん」
「それなら、何で、自分の子供じゃねぇなんて言った?」
 ギンの口許に苦い自嘲が零れた。
    有り得へん、思たん」
 眉間に嫌というほど皺を寄せ、怪訝に睨んでいる冬獅郎に、ギンは言った。
「絢女みたいな綺麗な娘ォに、ボクみたいな薄汚れた男の子供が出来るなんて…、そんなん…有り得へん」
「おまえ…」
「血塗れのボクに、絢女との子供なんて許されるはずない、て思た」
 自嘲を突き抜けて、穏やかに微笑うギンを冬獅郎は茫然と見つめた。言ってやりたいことは山ほどあったが、どうしても言葉が出てこない。立ち尽くす冬獅郎を、すい、と柔らかく押しのけて、乱菊がギンの前に来た。
「ギン…」
 彼女の面輪に聖母のように慈しむ微笑が浮かび上がり、次の瞬間、羅刹に変化した。左手でぐいとギンの襟元を掴んだ乱菊は、右手でアッパーカットを炸裂させた。ごきっ、という鈍い音が響き、ギンはよろめいた。そのまま、返す手で乱菊はギンの頬を平手打ちした。ばしばしと無抵抗の相手に連続で往復びんたをかませる。さらによろけたギンの鳩尾に膝蹴りを喰らわせ、思わずくの字に身体を曲げた背中にエルボーを落とした。堪らず、ギンは膝をつく。その襟上を掴んで引き上げ、彼女はコブラクローを決めた。ギンが落ちる寸前に解放し、そのまま一本背負いで豪快に床に叩きつけた。
 乱菊の華麗にして容赦のない折檻に、冬獅郎も桃も毒気を抜かれて唖然と見守るばかりだ。
 ごほげほと苦しげに噎せるギンの襟首を再び掴んだ乱菊は、彼の半身を引き摺り起こすと、
「もっともらしい御託を並べてんじゃないわよ、この、腐れ狐!」
と罵声を浴びせた。
「あんたが自覚してないなら言ったげるわ。あんたは絢女がいないとダメなのよ!」
 彼女は彼の鼻先に指を突きつけるときっぱりと宣言した。
「藍染とのことだって、そうよ。絢女の仇討ちとかカッコつけて、絢女がいなくなった途端、鏡花水月にまんまと掴まってさ、仇の為にせっせと奉仕してたなんて、ちゃんちゃらおかしいってのよ」
 ギンの古傷を力任せに抉った挙句に塩と唐辛子と山葵をまとめて塗り込むかのような乱菊の発言に、
「…容赦ねぇ…」
 冬獅郎はぽつりと呟く。
「いい? あんたはね、絢女がいないとダメダメのへたれのマダオなの! いい加減、自覚しろ!」
「そんなん…、分かっとる」
 ようやくギンは反論したが、
「お黙り!」
とぎろりと睨まれて沈黙した。
「分かってないわよ、全っ然。あんたが薄汚れて血塗れだってことくらい、絢女は先から承知の上よ。承知の上で、あんたの抱える暗闇ごと絢女は受け入れて来たんじゃない。それを何? 許されるはずがないですって? カッコつけるのも大概にしろって言うの」
    
「絢女が優しいからって、図に乗って調子こいてんじゃないわよ。唐変木のくそ狐のくせに」
「けど…」
「けど? けど、何?」
 眦を吊り上げた乱菊は再び、ギンの襟元を掴んだ。
「自分は狂ってしまってて、これは夢かもしれない?」
    
「なら、ずっと夢を見続けておけっていうの!!」
    
「これが夢だっていうんならね、あんたは自分に都合のいい夢の中でさえ、絢女を苦しめているのよ。そんなあんたがあんたの言う現実に戻ったところで、一体、何が出来るってのよ? 馬ッ鹿じゃないの?」
と乱菊は切って捨てた。
 ギンは無言で乱菊を見返していた。その表情が苦しげに歪んでいるのを見極め、般若の形相だった彼女の顔がふっと穏やかになった。掴んだままだったギンの襟元から手を離し、彼女は身を屈めてギンを覗き込んだ。
「ギン、訊くけど、あんた、絢女に相応しい真っ白に綺麗で立派な男が現れたとして、そいつに絢女を渡せるの?」
「…」
「絢女のこと、今更、手放せるの?」
 乱菊の問いかけに、ふる、とギンは子供のようにかぶりを振った。
「無理や…」
とギンは頼りない呟きを零した。
「絢女、失くしてしもたら、ボク…、生きていけへん」
 常に張り巡らされた防御が外れ、零れ落ちた彼の本音に、乱菊は再び聖母の笑みを浮かべた。
「乱菊…、どうしたらええ? どうしたら、絢女、失くさんで済む?」
 まるで幼子だった。小さな子供が母親に縋るように、ギンは頼りなく乱菊に訴えた。
「謝りなさい。土下座して、這いつくばって、絢女が赦してくれるまで謝り倒すの」
と乱菊は教えた。
「赦してもらえへんかったら?」
「赦して貰えるまで粘る。執念深いのはあんたの身上でしょう? 拒否られても、足蹴にされても、粘って粘って、謝り倒すの。分かった?」
「…うん…、けど…」
 ギンの表情が覚束なくなった。
「謝れへんかったら? 絢女が…」
「絢女はあんたを置いてったりしないわ」
 彼に皆まで言わせず、乱菊は断言した。
「絢女はあんたと約束したんでしょ? もう絶対に置いていかないって。絢女が約束を守る娘だってことは、あんたが一番よく知ってるでしょうに」
 ギンは幽かに頷いた。
「謝れるわ。絢女はどこにも行かないから。だから、ギン。絢女が目を覚ましたら、何はともあれ、まず土下座よ」
と乱菊はもう一度諭した。
「ギン。言ってしまった言葉は消せないわ。あんたの過去だって同じよ。どんなに後悔しても、自分を責めても、やってしまったことはなかったことに出来ないし、あんたが手にかけた人たちが生き返るわけじゃない。あんたの手を染めている血をきれいさっぱり洗い落とすことなんて、どんなに足掻いたって絶対に無理なのよ。ギンはその血を抱えて生きていかなくちゃいけないの」
「…うん」
「だけどね、ギン。償うことは出来るの。真っ白には戻れなくても、洗って、洗って、血を薄めることなら出来るのよ。あたしの言うこと、分かる?」
「…」
「あんたは確かに大勢の人を不幸にしたわ。あんたのせいで不幸になってしまった人の幸せはもう取り戻せない。だけど、これから不幸になるかもしれない人たちの幸せを守ることは出来るでしょう? ギンは三番隊の隊長なんだから、それだけの力はちゃんとあるはずよ」
 ギンはうなだれたまま、乱菊の言葉に耳を傾けた。
「あんたが流した血の分だけ、他の誰かを護りなさいよ。それでも足りなければ、もっとたくさんの幸せを守るの」
「…」
「とりあえず、あんたが真っ先に守らなくちゃいけないのは、絢女の幸せよ」
「…」
「絢女一人さえ護れないギンが、他の誰かを護るなんて説得力ゼロなんだからね。まず、絢女を責任をもって、きっちり幸せにするの。他の人の幸せを守るのはそれからよ。いい?」
 ぽん、とギンの肩を軽く叩いて、乱菊は屈めていた腰を伸ばした。
「とにかく、絢女が根負けして諦めるまで、謝り倒しなさい。絢女に赦してもらえるまで、十番隊は出入り禁止だからね」
「五番隊も出入り禁止です」
と桃が言い添えた。
「お姉ちゃん…、絢女隊長にちゃんと謝って下さい」
「六番隊と八番隊も出入り禁止になるわね。朽木隊長は絢女を贔屓してるし、七緒も仲良しだもの。一番隊も可能性は高いでしょうね。絢女って、けっこう総隊長に気に入られているんだから」
 乱菊が重ねた時、
「絢女さんの病室以外、四番隊も出入り禁止です」
と穏やかな声が響いた。
 四人がはっと声を向くと、烈が佇んでいた。長い術式だっただけに、さすがの女傑のおもてにも疲労の色が濃い。だが、威厳を崩さず、彼女は告げた。
「危険な状態は脱しました。絶対安静ですが、少なくとも、容体が急変することはないでしょう」
「赤ん坊は…? 姉の子供はどうなりました?」
 皆を代表しての冬獅郎の問いかけに、烈の後ろに控えていた勇音が答えた。
「切迫流産を起こしていらっしゃいましたが、何とか流産は食い止めることが出来ました。ですが、まだ、完全に安心できる状態とは言えません。赤ちゃんの為にも、当分の間、安静にしていただかないとなりません」
 彼女も憔悴していた。おそらく、赤子の流産を食い止める為に、相当量の霊力を絢女に注ぎ込んだのだろう。
「雛森副隊長」
と烈は桃を見た。
「先ほども申しましたが、絢女さんは当分の間、絶対安静です。この意味が分かりますね」
「はい」
 桃は背中を真っ直ぐに伸ばして、臆することなく烈を見返した。
「五番隊は副隊長、雛森桃が預かります」
 十一年前のような醜態は晒さない。決意を込めた桃に、烈は頷いた。そして、続けた。
「鏡花水月絡みとは推察されますが、絢女さんを襲った賊の正体と目的はまだ分かっておりません。従って、絢女さんが再び襲われる危険性を考慮しなくてはならないでしょう。絢女隊長には護衛が必要です」
「はい、すぐに手配します」
 即座に答えた桃だったが、烈はかぶりを振った。
「そんなに急がなくて大丈夫ですよ。しばらくは、三番隊隊長が直々に護衛なさいますから」
 彼女はギンを顧みた。
「そうですわね、市丸隊長?」
 目が笑っていない笑顔がギンに注がれる。
「ずいぶん、男前になられたこと」
 乱菊に手加減なしで殴り飛ばされたギンは、かなり情けない有様になっていた。唇は切れて血が滲んでいたし、鼻血の跡も見えた。アッパーカットをまともに喰らった顎と平手打ちされた頬は赤く腫れている。その上、首にはコブラクローを決められた時の指の形がくっきりと痣になっていた。
「処置室の前での大騒ぎは、今回だけは大目に見て差し上げますわ」
と乱菊を一瞥した後、烈はギンの目の前に移動した。
「市丸隊長、足を踏ん張って下さい」
 声を掛けるなり、実際には身構える暇さえ与えず、烈は裏拳を繰り出した。ギンの神鑓に匹敵するほどの神速で放たれた拳が、彼女よりも五寸も長身の男を簡単に吹っ飛ばした。したたかに後頭部を廊下の壁に打ち付けたギンに、
「乱菊さんからお仕置き済みのようですし、私はこれで我慢いたしますわ。ですが、市丸隊長、護衛中、絢女さんを毛ほども傷付ける真似をなさったら、」
 いったん言葉を止めた烈は、それはそれは美しい慈母の微笑を浮かべた。
「ちょん切って差し上げますから、そのつもりで」

 何を?

 何となく予測はつくのだが、もちろん、確認など出来ようはずもない。
 全員が青褪めて烈を見守る中、処置室から移動寝台に載せられた絢女が運び出されてきた。切り裂かれた背中と赤子のいる腹部を守るためだろう、横向きに寝かされてベルトで固定されている。顔色は紙のように真っ白で生気がなかった。
「市丸隊長、護衛はお任せします。少しでも様子がおかしければ、すぐに私を呼んで下さい」
 隊長羽織を翻して、烈は引き上げてゆく。勇音と伊江村は一瞬、烈の背とギンを見比べた後、申し訳ない、と会釈だけ残して隊首を追った。
 ギンは後頭部をさすりながら、立ち上がった。
「冬獅郎はん…」
と彼は冷ややかな目をしている絢女の弟に声を掛けた。
「護衛、任してもろてええ?」
「ああ」
と冬獅郎は頷いた。彼自身、ギンを一発ぶん殴っておきたかったが、乱菊と烈に先を越された以上、殴るのは諦めるしかなさそうだ。
「冬獅郎はん」
「何だよ?」
「かんにん」
 謝ったギンに冬獅郎は溜息をついた。
「謝る相手は俺じゃねえだろ?」
「それはそうやけど…」
「乱菊の言う通りだ。土下座して謝り倒せ。姉さまが赦すまで、てめえのツラなんか見たくねえ。俺からは以上」
と告げた後、私服のギンが神鑓を携えていないことに気付いた。
「後で吉良に神鑓を届けさせる。姉さまから目を離すんじゃねぇぞ」
 冬獅郎は乱菊と桃を手招いた。
「ここは市丸に任せて、俺たちも引き上げるぞ」
 彼の言葉に部下と幼馴染は逆らわず、四番隊を出て行った。残されたギンは、絢女を乗せた寝台に無言で付き従った。

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2012.07.29