偽りと真実
焼き払われた草原には異臭が立ち込めていた。
人相も分からないほどに表面が焼け爛れ、炭化した二体。ところどころ、火傷を負ってはいるものの原型を留めた一体。計三体の遺体が担架に乗せられて四番隊に運び出されていく。
「しっかり確認しろよ。遺留品を見落とすんじゃねぇぞぉ!」
常になく気合の入った口調で隊員に発破をかける警邏隊隊長を半眼で見遣り、隠密機動総司令官である砕蜂は内心で溜息をついた。
第二分隊警邏隊隊長の大前田希千代が張り切っているのは、この事件の被害者が五番隊隊長にして、大前田の積年の想い人である日番谷絢女であるからだろう。事件を解決して、良い恰好を見せたいのだ。尤も、当の絢女は大前田など眼中にない、というよりもむしろ迷惑がっているふうだから、何かの間違いが起こって彼が事件を鮮やかに解決したとしても、感謝はあっても好意はあり得ないと砕蜂は断言できる。
(あいつも諦めが悪いな)
砕蜂は呆れたが、軽蔑する気は起こらない。現世の人間とは異なる時間を生きる尸魂界の者たちは、概して、諦めが悪いのだ。
百四十年に渡る片想いと世界を巻き込んだ復讐劇の果てに想い人と結ばれた市丸ギン。数百年に渡る交際期間の末に先だって漸く結婚に踏み切った浮竹十四郎と卯ノ花烈。六十年近い片想いの挙句に雛森桃との交際に漕ぎ着けた吉良イヅル。六十年も前に身罷った妻を未だに忘れかねている朽木白哉。乱菊への想いを断ち切れていない檜佐木修兵と射場鉄左衛門などは、彼らから比べれば、失恋後たかだか十一年しか経っていないとさえ言える。砕蜂自身、神とも崇拝し、憧れと忠誠の全てを捧げて来た夜一が砕蜂を置き去りに出奔した後、百年にも渡って憎み続けたのは夜一に対する思慕の裏返しに他ならなかった。
(それにしても、妊娠か…。大前田め、ショックを受けるだろうな)
つい先ほど、冬獅郎から連絡があった。彼は絢女が助かったことを報告すると同時に、彼女の妊娠の事実を砕蜂に伝えた。仮にも五番隊の隊長職にある者が敵の襲撃で大怪我を負ったことに不審を感じていた砕蜂だったが、その報せで何となく理由を察した。現場に立ち込める異臭は強烈で、戦場にも死体にも慣れきっている隠密機動総司令官でさえ手拭いで鼻を覆っていないと気分が悪くなりそうだ。まして、妊婦となれば、間違いなく
「隊長、ちょっと!」
警邏隊の隊員が何かを発見したらしく、大前田を手招いた。
「何だ?」
と近付いた大前田が常になく難しい表情を浮かべたのに気付き、砕蜂はゆっくりと彼らに歩み寄った。
「どうした?」
総司令官の下問に、警邏隊の隊員は身を正すと、
「総司令官、これをご覧下さい」
と白い布の上に乗せた物体を差し出した。
「獣の肢?」
毛むくじゃらの肢が一本、布の上に置かれていた。大型のイヌ科動物の前脚のようだと砕蜂は感じた。
「これは…狼…?」
十番隊隊長舎の寝間に侵入し、乱菊を襲ったという人語を発する狼か。砕蜂の表情が険しくなった。松明を近くに寄せ、彼女は前脚を検分した。切断面は際立って鮮やかだ。骨まですぱりと切断されているから、おそらく刀ではないだろう。死神が霊圧を込めて斬魄刀を振り下ろせば、かなり鮮やかに切断できるものだが、それでも、よほどの達人でない限りは骨の周辺は少し潰れる。それがないところを見ると、
(秋篠のかまいたちか)
と砕蜂は観察した。
「大前田、この肢は四番隊ではなく、技局に廻せ」
彼女は命じた。変化とは限らないと四楓院月詠に釘を刺されていたが、人狼であれ、変化であれ、尋常な狼でないのなら、技術開発局の涅が嬉々として分析を行うだろう。狼は明らかに護廷に挑戦している。
(捕えたら、涅の検体だな)
と砕蜂は鼻先で嗤った。
(前脚を失ったか…)
傷は前脚だけではないはずだ。絢女も身を守るのに必死だったのだ。前脚が切断されているということは、その他にも切り刻まれているということだ。
つい昨日、日番谷姉弟と春水が一乗寺家を訪問したことを報告された。その際に一乗寺家で焚かれていて、絢女が風を操って採取した香が禁止薬物であること、一乗寺貴紗が乱菊を襲った狼に間違いないということも聞いた。この場に狼の本体はいないから運び去られたか、自力で逃げ出したものか。どちらにせよ、狼が絢女が断じたように貴紗であるならば、彼女もまた深手を負っているに違いない。鏡花水月の眩惑で狼が隠されている可能性も検討してみたが、すぐにそれはないと砕蜂は結論した。本体を隠せるものなら、前脚や他の遺体だって隠せるはずだ。
「大前田」
と砕蜂は警邏隊隊長を呼んだ。
「一乗寺家に強制捜査をかける」
彼女の宣言に、大前田の面に緊張が走った。
いまいましげに、女は横たわる狼を見下ろした。
時期尚早だ、もう少し待てと制したにも関わらず、憤怒を押さえられずに絢女を襲った挙句に息の根を止め損ね、自身も重傷を負ってしまった。
「だから、まだ早いと言ったのに…」
尤も、あの時の絢女は精神的にとても動揺しており、そういう意味では襲撃には千載一遇の機会だったとも言える。あれほどに動揺し、気を散らしていなかったら、勘の鋭い絢女のこと、気配を断っていても、もっと早くに襲撃者の存在に気付き、彼女自身はダメージを受けることなく襲撃者を捕縛していたかもしれない。
「…あの女は意識不明の重体。まぁ善しとしましょうか」
この愚かな狼には、もうひと働きして貰わなければならない。自分で止めを刺せればそれに越したことはないのだが、絢女の傍らに常にある、秋篠がどうにも邪魔だ。あの襲撃の時も、まさか懐剣に形を変化させて携えているとは思いもよらなかった。もちろん、女も隊長格であれば斬魄刀の形状を自在に変容出来ることを知っていた。だが、可能であるということと、実行することはまた別の話である。斬魄刀の形状を好き勝手に変化させる隊長など、まずいない。斬魄刀が死神の許に姿を現した時の形状は、その斬魄刀が主となる死神に相応しいと考えて自ら採った姿だからだ。斬魄刀は主である死神に従うといえど、死神は絶対君主にはなり得ないのである。斬魄刀と友好な関係を保とうとするなら、斬魄刀の意に染まぬ改変を敢えて行う愚は犯さない。
女はふわりと霊圧を上げた。
絢女に止めを刺す為には、この狼女を動ける程度に回復させなければならない。意識不明の絢女には、女の眩惑を打ち砕く力はない。傍らで彼女を護るギンも、警戒を固めている四番隊も、女の催眠の前には無力だ。女は薄く笑みを落とした。邪魔な絢女さえ排除出来れば、もう女を阻める者はいない。
「もうすぐよ…」
女は狼に回復鬼道を施した。
寝台に横たわったままピクリとも動かない絢女を、ギンはじっと見つめていた。
烈は危地は脱したのでいずれ意識を取り戻すと告げたが、ギンは彼女が眠り続けたまま、二度と目を覚まさないのではないかという恐怖を拭えなかった。
「絢女…、かんにん」
届かないと知りつつ、ギンは幾度目かしれない謝罪を繰り返した。
明け方になって、絢女の様子を確認する為に回診にやってきた烈は、ギンに絢女の妊娠を診断した時のことを話して聞かせた。ギンは赤ん坊を喜びはしないと、絢女が諦観していたことを知らされ、彼は項垂れるしかなかった。覚悟の上で赤ん坊のことを打ち明けた絢女だ。ギンの拒絶は予測済みで、悲しくはあっても心を切り裂かれてしまうことはなかったろう。けれど、拒むのではなく、否定したギンの態度に、絢女の心は砕けてしまったのだ。
「絢女…、目ェ覚まして…」
眠れる姫は王子さまの口接けで目を覚ますのがお伽噺の掟だ。しかし、自分が口接けたって、絢女は絶対に目を覚まさないに決まっていると、ギンは虚ろに考えていた。むしろ、彼を拒んでもっと深く眠りに落ちてしまうだろう。今だって、一向に意識を取り戻す気配がないのは、もしかしたら、ギンの霊圧を感じ取って目覚めることを嫌がっているのかもしれない。彼が傍らにある限り、絢女は眠り続けるのではないかという後ろ向きな思考に、ギンは捕えられていた。
絢女の傍らで、ギンはひっそりと落ち込み続けていた。と、病室の扉を叩く、控えめな音が彼の思考を中断した。
「市丸隊長、雛森桃です。入ってもいいですか」
「ああ、桃ちゃんか…。ええよ、入って」
ギンの応えに、そろそろと扉が開き、桃が姿を現した。
「市丸隊長。絢女隊長の容体は…?」
「まだ意識は戻らへん。眠ったまんまや」
「そうですか」
桃は溜息を付くと、絢女からギンに視線を移した。
「市丸隊長、少し仮眠を取られたらいかがですか?」
と提案してきた桃を、ギンは無言で見返した。
「昨夜から、全然、眠ってらっしゃらないでしょう? 目の下、隈が出来ていますよ」
鏡がないので確認は出来ないが、もし桃の言うように隈が出来ているとしたら、それは寝不足が原因ではなく、絢女を失ってしまうかもしれないという憔悴からだ。
「別に眠たいことあらへんし、平気やよ」
「って言う人は、たいてい平気じゃないんです」
と桃は呆れたふうに溜息を交えて呟いた。
「市丸隊長。ちょっとだけでいいです。仮眠を取って下さい。市丸隊長が
先ほどより強い口調の提案に、ギンもまた溜息を付いた。
「大丈夫や、言うても納得しィひんなァ」
と彼は諦念を滲ませて呟いた。
「分かった。
ギンは絢女の傍らの丸椅子から腰を上げた。
「半刻だけやで。桃ちゃん、その間、絢女のこと頼むな」
ギンは扉に歩み寄った。病室を出ようと扉に伸ばされた手が、ふと止まった。
「ああ、そうや、桃ちゃん」
何事か思い出した様子で、ギンは桃に呼び掛ける。
「何ですか?」
と桃がギンを振り返った直後、どん、と彼女は壁に叩きつけられていた。
遅れて、左肩に激痛を感じた。彼女の肩は神鎗によって刺し貫かれ、壁に縫い止められていた。
「…市丸隊長…」
苦悶に表情を歪めながら、桃は訴えるようにギンを見た。扉の前に佇んだままのギンは、口許に冷笑を浮かべていた。
「流石に鏡花水月やな」
「え…?」
「上手いこと化けたもんや」
ギンは一歩、ゆっくりと桃に近付いた。それから、また一歩。彼の歩みに従って、桃を壁に固定したままの神鎗の刃は少しずつ短くなってゆく。ついに、ギンは桃の目の前に来た。刃渡りだけは太刀の長さにまで収縮した神鎗から、ギンは手を離した。それから、空いた右手で桃の顎を掴むとぐいと上向かせた。
「見事なもんやね。どう見ても本物の桃ちゃんにしか見えへん」
「本物です! 市丸隊長!!」
桃は必死に訴えた。だが、ギンの嘲りが深くなっただけで、解放されることはなかった。
「鏡花水月は完全催眠…。キミの正体が誰だかは知らんけど、ボクに見えとる姿は間違いのう桃ちゃんや。見た目も、声も、霊圧も、ほんまに完璧やで。桃ちゃんは藍染はんの副隊長やったしなァ。鏡花水月もよう知っとうから、桃ちゃんやったら完璧に擬態させられるて自信があったんやね」
「…市丸隊長。擬態なんかじゃありません。本物です。本物の雛森桃です!」
微かに、ギンの目が開かれた。
「絢女のコト、傷つけられて、ボクの気ィが立っとうの、知らんわけないなァ」
酷薄な笑いを浮かべ、ギンは神鎗の柄を握り直した。
「あんまりふざけたこと言うとると、怪我が増えるで」
一瞬で刀身が縮まり、桃の肩から神鎗が抜けた。と同時に、今度は脇腹に激痛が走った。
「ひとつ、教えといたるわ。人を完璧に擬態するなんて無理や。外見や霊圧は完璧に真似出来ても、魂は真似出来ん。どっかに綻びが出る。鏡花水月がよう知っとる、完璧に偽れるて自信持っとる桃ちゃんは、十一年前の、藍染はんの副官やった桃ちゃんや。今の桃ちゃんとは違う。キミは桃ちゃんやない」
「…市丸隊長、信じて、あたしは…!!」
「しつこい、言うねん」
反対側の脇腹に激痛が走った。
「ええ加減、術を解いて、正体を現したらどうや?」
告げた後、ああそうか、とギンは頷いた。
「キミは鏡花水月にこき使われとうだけやから、自分で術を解けへんのやね。やったら、鏡花水月にお願いしてみるとええよ。術を解いて下さい、てな」
「…本物…、術なんて初めから…」
「やったら本物や、いうことにしといてもええよ」
ギンは嗤った。その眸の奥に狂気を感じ取り、桃はひっ、と息を呑んだ。
「けど、本物をボクが刺したいうことになったら、それはそれで大問題やからなァ。キミが本物の桃ちゃんやったら、ボクが刺して大怪我させたと知られたら、絢女や冬獅郎はんやイヅルに恨まれてまうわ。そうなる前に証拠隠滅せなあかんね。とりあえず、霊子の塵に還るまで細こうに切り刻むんがええかな? それとも細胞を溶かし崩されて跡形ものう消え失せるんがええ? どっちでも、桃ちゃんの好きな方で始末したるよ」
くくく、とギンはくぐもった忍び笑いを漏らした。
本気だ、と桃は漸く悟った。桃が本物でも偽物でも、彼にはどうでもいいのだ。偽物ならば、絢女を殺しに来た刺客として始末するだけ。譬え本物であっても、今更、解放はしない。彼が先ほど口にした通りに、絢女たちに知られる前に証拠隠滅とばかりに、彼女を遺体の一片さえ残さず消し去ってしまうだけだ。
「今やったら、桃ちゃんが行方不明になっても、鏡花水月のせいに出来るもんなァ。ボクは疑われへんよ」
「…やめて…、助けて…」
「命乞い? 見苦しいで、桃ちゃん」
「あ、いや、助けて! 鏡花さま、助けて!!」
桃の叫びと同時に、ぐにゃりと一瞬、景色が歪んだ。歪んだ景色が元に戻った時、桃の姿は消え、代わりに一乗寺貴紗が壁に磔になっていた。
「…浅ましい姿やね」
ギンは呟いた。
貴紗は右手を欠いていた。絢女と戦った時に、秋篠のかまいたちで切断されたものだ。肩と両脇腹の刀傷は今しがた、ギンの神鎗によって貫かれたものだが、頬に、腕に、どす黒く腫れ上がっている打撲の痕は、昨夜の襲撃の際に負ったものだろう。そして、その怪我が影響してのことなのか、貴紗は人に戻りきれていなかった。残った右の上腕部から首筋、右耳にかけて、獣の毛が皮膚を覆っていた。
「ほんまはずたずたに切り刻んでやりたいトコやけどなァ。その浅ましい姿に免じて勘弁したるよ」
とギンは伝令神機を取り出すと、砕蜂に連絡を入れた。一乗寺貴紗を捕縛したことを伝えると、砕蜂はすぐに引き取りに行くと答えた。さらにしばらく、二人は会話を続けていた。やがて、通話を切ったギンは貴紗に向き直ると、
「キミの父上、刑軍に捕まったで」
と教えた。
「え?」
「さっき、砕蜂はんが教えてくれたん。一乗寺家に強制捜査をかけたて。なんや、幻覚剤やら催淫剤やら禁止薬物がようさん見つかったらしゅうて、一乗寺はもう取潰し確定やね」
「嘘…」
「鏡花水月の眩惑で匿って貰えるて思とったん? 甘いなァ。キミは利用されとっただけの捨て駒や」
「そんな…」
尊大な女に初めて浮かんだ気弱な絶望を、ギンは冷ややかに睨めつける。
彼は尋ねた。
「乱菊の義骸、持ち出したんはキミやね」
「…」
「鏡花水月の眩惑術があれば、義骸の保管庫まで行くんは簡単やったはずや。乱菊の義骸を持ち出して、何に使うたん?」
「…」
「何、鏡花水月に義理立てしとるん? キミは捨て駒にされたんやで」
ギンの言う通りかもしれない。例え、隠密機動が一乗寺に入っても、鏡花水月が護ってくれている限り、彼らが関わっている犯罪行為が明るみになることはなく、安泰だと信じていた。だが、鏡花水月は護ってはくれなかった。父は捕縛されてしまった。
(ああ、でも…)
と貴紗は思い直した。先ほどは術を解いてくれた。あのまま、雛森桃の姿を偽り続けていたら、この冷酷な男は宣言通り、一欠片の遺留物も残らないほど徹底的に彼女を切り刻むことだろう。昔、彼が藍染の下で暗殺者として動いていた頃に、よく行っていたように。考えがあるのかもしれない。一乗寺家を護れなかったのも貴紗に霊力を集中させていたせいで、手が回らなかったのかもしれない。あの方はまだ本調子ではないのだから。それに、と貴紗の思考は進んだ。仮に、ギンの言うように捨て駒にされたのだとしても、あの方の狙いを正直に教えてやる義理はない。
栄誉なことと受けるべき貴紗の誘いを撥ね付け、鏡花水月の目眩ましまで使って虚仮にした市丸ギン。最貧区出身の卑しい身の上でありながら、冬獅郎に取り入り、その寵愛を独占している松本乱菊。こちらが冬獅郎の姉という立場を尊重してやっているのに、感謝することなく、獣臭いだのと要らぬ口ばかりを叩く日番谷絢女。そして、容姿、能力、地位と全てに恵まれながら松本乱菊のようなつまらぬ女に骨抜きにされ、貴紗を一顧だにしようとしないばかりか侮辱した日番谷冬獅郎。苦しめばいい。あの方が望みを達した時、彼らがどんな顔をするか、見ものだと思った。
「市丸、狼女を引き取りに来たぞ」
砕蜂の声が響いた。直後、ギンの応えも待たずに扉が開き、砕蜂と大前田、数名の部下と卯ノ花烈が室内に入って来た。
ギンは貴紗の腹に突き刺したままだった神鎗を抜いた。崩れた貴紗を大前田が乱暴に掴んで引き上げる。
「一応、止血しておきましょう」
と烈が貴紗に簡単な手当てを施した。
「後で席官を寄越します」
烈は砕蜂に告げた後、壁を一瞥して、ギンを向いた。
「派手に壁に穴をあけて下さいましたね」
「すみません」
「ですが、結界で包んで、血の匂いを漏らさなかったのは上出来ですわ。壁の修理代金の請求書は後ほど、市丸隊長にお届けします」
「はい、そうして下さい」
とギンは逆らわずに答えた。
砕蜂は貴紗を引っ立てて、病室から出て行き、烈は絢女の容体を検めた。
「特に変化はないようです」
と烈は告げた。
「そうですか…」
「市丸隊長、意識が戻らなくとも、絢女さんに話しかけて謝って下さい」
昨晩、ギンを殴り飛ばしたのと同一人物と思えないほどに、温かな慈愛がギンを見つめていた。
「市丸隊長の声は絢女さんに届いていますから。傍にいることを、絢女さんを傷付けてしまったことを後悔しているということを、絢女さんに伝え続けて下さい」
「はい」
烈が出て行って、病室には再び、意識の戻らぬ絢女とギンの二人きりになった。
先ほどの一幕で、鏡花水月に少しは動揺を与えることが出来ただろうか。ギンはそうであって欲しいと願った。完全催眠は実は完全ではないのだと、知らしめることが出来たのなら成功だ。貴紗は完璧に桃の姿をしていた。見た目、言葉遣い、霊圧。何ひとつとして違和感がなかった。たった一点を除いては。藍染は副官として桃を手元に置き、彼女の心を支配していた。だからこそ、桃ならば完璧に偽れるとその姿を取ったのだろう。例えば、もっと下位の四番隊員に姿を偽ったのなら、良く知らないからギンが違和を感じるはずもないが、その代わり、その者を残してギンが病室を離れることもあり得ない。冬獅郎や乱菊、イヅルであれば、先ほどの桃のように強く仮眠を勧められれば絢女を預けてその言に従うこともあったろう。だが、彼らの場合はギンが見破ることが出来ないほどに完璧に装うことは無理だと、おそらく鏡花水月は悟っていたのだ。桃ならば、よく知っている。桃ならば、完全にコピー出来る。99%まで、それは正しかった。だが、もうすでに、桃は藍染の副官だった雛森桃ではなくなっていたのだ。藍染の死後、休眠していた鏡花水月にとって、それが1%の誤算を産んだ。
「桃ちゃんが勤務中でもないのに、『絢女隊長』なんて呼ぶわけないやん」
勤務中でさえ、気を抜くとしばしば「お姉ちゃん」と呼んでいた桃だ。
「あたしがお姉ちゃんを護衛します。市丸隊長は仮眠して下さい」
もし、彼女がそう告げたのなら、ギンは疑うことすらしなかったろう。だが、彼女は「絢女隊長」と二度も呼んだ。それがギンの疑念の源であり、そして鏡花水月は知らないはずの桃の癖だった。
「絢女、ほんまにかんにんや」
ギンは絢女に囁いた。
絢女は病室で起こった血腥い陰謀も知らず、昏々と眠り続けていた。