愚か者の船
目を開く。
(ここ…?)
絢女は自分がどこにいるのか、把握出来なかった。見慣れない寝台と目の前にいる誰かに戸惑って視線を動かすと、見慣れた銀色の髪と木賊色の眸が視界に飛び込んできた。
一瞬、安堵しかけた絢女だったが、すぐに表情は強張った。
彼と交わした最後の会話、そして、彼と別れた後に襲った出来事を瞬時にまざまざと思い出したのだ。咄嗟に彼から目を背け、さらに背中を向けようとして叶わなかった。反対側に寝返りを打とうと身体を動かした途端に激痛が走り、絢女は息を詰めて痛みをやり過ごすしかなかった。
「大怪我してるんや。動いたらあかん」
ギンの声が聞こえる。
何故、彼がここにいるのだ。疑問の解答は、すぐに行き着いた。きっと、冬獅郎が呼んだのだ。絢女とギンの間に起こったことを知らない冬獅郎は、絢女の負傷に当たって当然のようにギンに連絡を入れたのだろう。それを責めることは出来ない。しかし、今のこの状況は絢女の心の苦痛を増すものでしかなかった。
あれから、 冬獅郎に助けを求めてから、どれくらいの間、自分は意識を失っていたのだろうか。腹の赤子はどうなったのだろうか。何をおいても確かめたい気がかりが、絢女にはあった。けれども、ギンにそれを問うことは出来ない。視線を逸らしたままで壁を睨んでいる彼女に、
「赤ん坊…、無事やで」
と、ギンが教えた。
一番知りたかったことを、一番聞きたかった言葉を、何故、この男が告げるのだろう。烈か、勇音か、冬獅郎か、とにかく、ギン以外の誰かから告げられたのならば、手放しで喜べる事実が苦い澱を淀ませて絢女に染み入っていった。赤ん坊が無事だったことを苦々しく思っているに違いない男から、それを聞かされたくはなかった。
頑なに視線を合わせようとしない絢女に、ギンは重い息を吐き出した。
「絢女、ごめん」
絢女は答えなかった。彼と同じ部屋にいて、同じ空気を吸っているという事実だけでも、彼女には苦痛だった。「今すぐに出て行って」と言えたらどんなに楽だろう。けれど、実際に音にすることは出来なかった。それを告げたら、彼と自分との間の絆が完全に断ち切れ、永遠に彼を失ってしまいそうに思えた。
だが、すぐに絢女はその考えの滑稽さを悟った。ギンが絢女の赤ん坊を否定した時に、絆はもう切れてしまっているのに。彼女は千切れてしまった糸の端を懸命に握りしめているに過ぎないのだ。愚かで未練がましい己に対する嘲りの笑みが唇の端に滲んだ。
「絢女…」
黙りこくったままで彼から目を背け続ける絢女に、ギンはもう一度、言った。
「ごめん。ほんまにごめん」
これで許してもらえるなんて虫の良いことは考えてはいない。だが、これ以外に掛けるべき言葉は見付けられなかった。
「絢女…、助かって良かった」
「…」
「赤ん坊も無事で良かった…」
どくん、と絢女の心臓が跳ねた。
「嘘つき」
初めて、絢女は言葉を発した。自分の心まで凍りそうな冷たい声が響いた。
「嘘やない」
「嘘よ」
強い口調で、絢女は否定した。ただ宥めるだけの言葉など、口先の優しさなど、欲しくはなかった。
「赤ちゃん、流れてしまわなかったのを残念がっているくせに」
他の男との子供など、彼には忌まわしいだけだろう。
「それとも、他の男の子供を身籠った私になんか、もう関心がなくなった? どうでもいい相手だから、無事で良かったなんて空々しいことが言えるのね」
溢れ出る醜い言葉を、絢女は止められなかった。言葉は発すると同時に自分自身を切り裂く刃になって、彼女を打ちのめした。見限られた自分はもう彼の傍にはいられない。それなのに、絢女が怪我をしたことへの罪悪感だけで、彼はここにいるのだろう。惨めさに思わず、
「どうしてあなたがここにいるの?」
と詰っていた。
「卯ノ花隊長や冬獅郎はどこ? あなたが帰したの? あなたを裏切った女なんて、もうどうでもいいんでしょう? なのに、どうしているの?」
「…」
「私が怪我をしたから? 責任を感じているなら、そんなのいらない。怪我をしたのは、私が弱かったからよ。同情なんていらない」
ギンは一言も反論しなかった。それが却って惨めさを募らせて、
「出て行って」
言ってはならなかった一言が、思わず滑り落ちた。一瞬、身を竦ませた絢女だったが、もう自分を止められなかった。
「出て行って。早く出て行ってよ」
心の底ではギンが本当に立ち去ってしまうことに怯えているくせに、彼女は「出て行け」をひとつ覚えの鸚鵡のように繰り返した。
だが、ギンは部屋を去ろうとはしなかった。代わりに、
「絢女がボクの他には男を知らんのはボクが一番、よう知っとる」
という声が響いた。
「赤ん坊はボクの子ォや」
嘘つき! 嘘つき!! 嘘つき!!!
叫びたいのに声帯まで凍ってしまって声が出ない。決して目を合わせようとせずに拒絶を続ける絢女に向かって、ギンは慎重に言葉を続けた。
「今更、言い訳にしかならんて分かっとうけど、聞いて。昨夜のあれは、絢女を疑うたわけやないんや」
務めて冷静な口調を装っても、声音に焦燥が滲んだ。しかし、打ちひしがれている絢女はそれに気付かなかった。
「赤ん坊が他の男の子ォやなんて、ちょっとも考えてへん」
「 」
「ただ、怖ぁて…」
「 」
「怖ぁてたまらへんで、気ィついたら、あないなことを口走ってしもとったんや」
絢女は何も言わない。視線も逸らされたままだ。だが、ギンの話をちゃんと聞いていることだけは気配で伝わった。彼は先を続けた。
「ボクは臆病で、どうしようもないアホやから、ずっと怖かったんや。絢女がボクの側におってくれるんが怖かった。ボクみたいな血塗れで汚れた男、絢女に相応しゅうないの分かっとった。それなのに、絢女はボクを好きや、言うてくれる。ボクのもんでおってくれる。幸せで、幸せで、幸せすぎて夢みたいに思えて、怖ぁてたまらへんかった。いつか、夢から覚めてしまうんやないかて、ずっと恐ろしかった…」
彼の恐怖は先から絢女も感じ取っていたことだ。彼は今、どんな顔をしているのだろう。気がかりだったが、まだ、彼と目を合わせる勇気を絢女は持てなかった。
「昨夜、絢女から赤ん坊が出来たて聞いた時 」
ギンは息を詰めた。そして、押し出すように告げた。
「嬉しかった」
昨晩、どんな言葉よりも聞きたいと願いながら叶わぬものと諦めていた一言を、彼は口にした。信じられなくて、思わず、絢女はギンを見た。彼は泣いているとも、笑っているともつかない歪んだ表情をしていた。
ようやく目を合わせた絢女に、
「ほんまに嬉しかったんや、絢女」
と彼は重ねた。けれども、まだ、絢女の咽喉から声は出なかった。
「…けどな、すぐに、そんなのありえへんて思てしもたん」
苦い痛みが、二人の間に広がった。
「ボクにそんな幸せが許されるなんて絶対にありえへんって、思た。これは夢や、って…。いつもの幸せな夢を見とるんや、て…」
「 」
「なァ…。幸せな夢やったら、そのまんま夢を見続けとればええ、思うな?」
「 」
「乱菊からもそない言われたわ。けどな…、けど、怖かったん。こんな幸せ、夢でもありえへんって考えたら、ものすご怖なってしもて…」
「 」
「赤ん坊…。認めてしもたら、夢から覚めてしまうような気ィして、」
「 」
「怖ぁて、怖ぁて、どないすればええんか分からんようになってしもて…、」
「 」
「そんで…、『ボクの子ォやない』て」
「 」
「絢女が出て行って、初めて、自分が何を言うたんか、気ィ付いた。絢女がボクの言葉を誤解したんや、いうのも分かった。追いかけなあかんて分かっとったのに…、それなのに追いかけられへんかった。こないにアホなことを言うボクのこと、今度こそ、愛想を尽かしたんやないかて、足が竦んでしもて動けへんかった」
「 」
「すぐに追いかければよかった…。したら、絢女にこんな怪我させんで済んだのに…。また、護れへんで…、絢女のこと、傷つけて…」
ギンの声が震えた。
もう分かったからと、いつものように微笑んで赦すべきだと理解していた。ギンの抱える闇の深さを絢女は充分にわきまえている。だが、彼女には言えなかった。彼が絢女の不貞を疑ったわけではないことは、とりあえず納得した。しかし、同時に、彼は一度だって絢女を信じてはくれなかったことを、今更に思い知らされたのだ。
ようやく、絢女の声帯が動いた。だが、発せられた音は、
「あなたなんて嫌いよ」
と、赦しとは真反対の拒絶を紡ぎ出した。
違う、こんなことを言いたいんじゃない。
絢女の心は叫ぶ。
けれども、本人の意思を裏切って、奔流のように冷たい言葉が暴れ出した。
嫌い、大嫌い。
出て行って。
あなたの顔なんて、見たくない。
あなたなんか、もう知らない。
これまで、ギンに対して否定的なことを告げたことがない絢女の口から溢れる拒否の言葉。そのひとつひとつが、ギンを打ち据えた。しかし、それは礫でしかなかった。昨夜、絢女を深く切り裂いた刃に比べれば、礫で打たれる痛みなどものの数ではない。
絢女の優しさに甘えきっていた。ギンが抱える闇を理解している彼女はどんな仕打ちをしても赦すはずだと、いつの間にか、慈しみを当然と胡坐をかいていた。だからこそ、あんな残酷な言葉を、彼女がどう受け止めるのかを考えることなしに放ってしまえたのだ。自分の弱さを理由に絢女を傷付け続けながら、彼女がそれを受け入れることに安心して与えた痛みに鈍感になっていた。彼女が赦し続けたひとつひとつは小さな傷は、長い年月をかけて彼女の裡で膨れ上がり、そして、昨晩の不用意な一言で地滑りを起こしたのだ。
どれほどに面罵されようと、自分はそれだけの仕打ちを彼女にしてきたのだ。
ギンは黙って、投げつけられる石礫に耐えた。
それに 。
意識を取り戻した時、ギンを認めた絢女はほんの一刹那、嬉しそうな笑みを漏らしたのだ。
その一瞬が、ギンの心を支えた。決定的に絢女を失ったわけではないのだと、彼に信じる力を与えた。
大怪我を負った身では、罵り続ける体力もなかったのだろう。すぐに、絢女は息を切らせて黙り込んだ。呼吸の度に背中の傷が疼くのか、絢女は苦しそうに眉根を寄せている。ひゅうひゅうと零れる荒い息の隙間を狙って、ギンは告げた。
「絢女がボクを嫌いでも、ボクは絢女を好きやから」
乱菊が言い切った通り、自分は絢女がいないと駄目なのだ。
ギンは悟った。いいや、本当はとうの昔に理解っていた。にもかかわらず、真正面から認められなかっただけだ。依存している。絢女がいなければ正気を保てない。呼吸も出来ない。自分が絢女に相応しくないだのという想いは、無意味な戯言に過ぎない。相応しかろうと、そうでなかろうと、ギンは絢女なしでは生きられはしないのだから。
土下座して、額を地に擦り付けて謝り倒せ、という乱菊の助言は的確だった。今のギンには、絢女に赦しを乞う他に為す術はない。
「かんにん。ほんまにかんにん。考えなしに酷いこと言うてしもたて、後悔しとる。赦して欲しいなんて言えた義理やない。それも分かっとる」
「 」
「絢女、お願いや。ボクを見捨てんで。傍におって」
「 」
「かんにん、ほんまにごめん」
「 」
「絢女、ごめん。ごめん。ごめん…」
余計な言葉は全て消えてしまった。ただひたすらに、「ごめん」だけをギンは繰り返した。
「ごめん、ごめん、ごめん」
情けない男だと、絢女は呆れ返るかもしれない。だが、他に告げるべき言葉などありはしないのだ。
「ごめん、ごめん」
再び黙りこくってしまった絢女を相手に、どれほど繰り返し続けただろうか。
「あなたは…」
絢女のか細い声が、ギンを遮った。
「一度も私を信じてくれなかった…」
ギンは一瞬、絶句した。それから、慌てて先ほどの言い訳を繰り返した。
「疑ってなんかおれへん。絢女はボクしか、」
「そのことじゃないわ」
再度、彼女は遮った。泣き出す寸前の眸が、真っ直ぐにギンを見据えていた。
「私がここにいることを、あなたは信じてくれなかった」
同時に大粒の涙が、絢女の頬を伝って流れ落ちた。
「私はあなたが見ている夢の中の女なんでしょう? いつか消えてしまう幻なんでしょう?」
ギンは言葉を失った。大きく目を見開いて立ち尽くすギンに、絢女は重ねた。
「私はここにいるのに…、あなたの傍にずっといるのに、あなたは信じてくれなかった。いつ、夢から醒めてしまうかって、そればかりを気にして、私をちゃんと見てくれなかったわ」
「…」
「すぐ近くにいるのに、私の手はあなたに届かない。…私は…、もうどうすれば、あなたを掴まえられるのか分からない」
ぽろぽろと涙を零しながら、絢女は訴えた。
こんな幸せは「夢」だと。
その想いを振り払えなかったことが、絢女をここまで追い詰めていたのだ。悪夢に魘された夜に、彼女を痛めつけるような抱き方をしても決して拒絶しなかったのは、これは現実だと、消えたりしないのだと、彼を納得させたかったからだ。だが、ギンは疑い続けた。彼に寄り添おうとする絢女を、疑うことで否定した。不実は疑わなかったとしても、もっと根源的なところで、絢女を信じていなかった。ずっと傍にいるという約束も、二度と置いてはいかないという誓いも、怖れに囚われたまま、何ひとつ信じようとしなかった。そして、その疑いの延長で、ギンは絢女の宿した子供から目を背けたのだ。
ギンは絢女の寝台に両手をついた。屈み込んだ彼の顔が目の前に迫り、絢女は泣きじゃくったままで息を呑んだ。
「…もう…、遅いん?」
ギンはやっとの思いで、声を絞り出した。
「もう、許してはもらえへんの? ボクのこと、ほんまに嫌いになった?」
肯定も、否定も返すことが出来ず、ただギンを見上げている絢女の頬に、ギンの息がかかった。
「ボクは絢女がおらんと生きていけへん」
これが夢ならば、失っても苦しくはない。現実だからこそ、失うのがたとえようもない恐怖なのだ。仮に夢だとしても、その夢の中でさえ、彼女がいなければギンは存在出来ない。疑うことに意味はないと、今の今まで気付けなかった。
「…ギ…ン…」
「信じるから…。もう絶対に疑うたりしィへんから…。せやから、絢女…」
迷子の子供だ。
絢女は思った。ギンも、そして自分も、道にはぐれた迷い子だ。泣きながら、見失った道を求めて彷徨っている。
「絢女、お願いや。ボクを見捨てんで」
髪が頬を撫でるほど近い位置にある彼の顔は、今にも泣き出しそうだった。
「絢女…。お願いやから、もう一遍だけ…。もう一遍だけでええ…。ボクを許して…」
ついに、彼の眸から涙が滴った。
ぱた、ぱた、と絢女の頬に断続的に雫が落ちかかる。彼の涙は絢女自身が流した涙と混じり合って、頬を伝い、敷布に染みていった。
「お願いや。ボクを許して…、お願いやから…」
ギンは懇願する。それに対して、
「…赤ちゃん…、産みたかったの…」
と絢女は呟いた。
「反対されても、産みたかったの…。ギンの赤ちゃん…私は産みたかった」
「…過去形なん?」
おそるおそる、ギンは問うた。絢女はゆっくりとかぶりを振った。
「産みたい…。産みたいの…」
首を少し動かすだけでも傷に響くのか、彼女は苦しそうに表情を歪ませながら繰り返した。
「ギンの赤ちゃんを産みたいの。…喜んでくれなくてもいいから…。ギンが嫌なら、私一人で育てるから…。だから、ギン、この子を否定しないで」
ギンの顔がまた少し近づいた。触れる直前、指一本分の隙間を残して、絢女を見つめ、ギンは、
「産んで」
と押し出した。
「ボクの子供、産んで。これは現実やて、もう疑えへんくらいに信じさせて」
一瞬、絢女は唇を震わせた。だが、言葉は出なかった。代わりに、ゆっくりと腕を動かした。怪我の痛みに逆らって持ち上げられた手が、ギンに向かって伸ばされる。それをギンは右手で捧げ持つと、そっと掌に口接けた。
彼女は黙って、その口接けを受け入れていたが、やがて、辛うじて聞こえるくらいの細い声で、
「さっきの嘘だから…」
と囁いた。
「さっき?」
とギンが鸚鵡返すと、絢女は億劫そうに頷いた。
「…あなたのこと、大嫌いって…」
「ああ…」
「…あれ、嘘なの…。本気で言ったんじゃないの。だから、お願い、」
あんな言葉を言わせてしまったのはギンだ。それなのに、絢女は、
「お願いよ、信じないで…」
と心細げに哀訴した。
「信じてへんよ」
ギンは答えた。
「私、まだ、あなたの傍にいていいの?」
と彼女は重ねて問いかけた。ギンは絢女を見据え、噛んで含めるように告げた。
「それ、な。ボクの言うことや。ボクこそ、まだ絢女の傍に居らしてもらえるん? あんなアホなことを考えなしに口走る情けない男を見捨てんでおってくれるん?」
僅かに掌にかかったギンの指を離すまいとするかのように、きゅっと絢女は握りしめてきた。そのまま、彼の手を引っ張って引き寄せた彼女は、彼の手の甲に唇を触れさせた。
「好き…」
小さな呟きが、傷口に沁みる消毒薬のように幽かな痛みを伴って、ギンの闇を照らしてゆく。
また、赦された。
右手は絢女に預けたまま、左手を伸ばして彼女の頬に触れる。血の気のない青ざめた頬はひんやりと冷たくて、ギンの胸は震えた。
「ギン…」
「何?」
「今、何時? 私、どれくらい眠っていたの?」
ギンは二人の間の諍いを、昨夜のことと言った。ならば、丸一日までは過ぎていないはずだが、窓の向こうはすっかり日が落ちているように、絢女には感じられた。
「四つ。もうすぐ九つになる」
ギンと争ったのは昨晩の暮れ六つから夜の五つ頃だった。そして、賊に襲われたのは正確ではないが、多分、夜の四つ頃 *1 だと思われる。となると、過ぎてはいないにしろ、限りなく丸一日に近い時間、絢女は意識を失っていたことになる。
「ずっと傍についていてくれたの?」
ギンは肯定した。
「仕事…は?」
「休んだ」
ギンの頬に情けなさげな苦笑が滲んだ。
「っていうか、イヅルから、出て来んでええ、言われた」
「イヅルくん、気を遣ってくれたのね」
と絢女は考えたが、ギンはかぶりを振ってそれを否定した。
「『鬱陶しいから、来んでええ』て言われてん」
絢女は目を瞠った。
「どうせ、使いもんにならへんし、落ち込んどるのが傍におったら鬱陶しゅうて自分のやる気も削がれる、て。けっこう、きついこと言いよるやろ?」
従順で隊首に対する忠誠心の塊のような日頃のイヅルの言動からすると、想像の外をゆく発言だ。
「…ちょっと、ううん、かなり意外…」
と絢女は唖然として呟いた。
「ボクがアホなことを言うたんがことの発端やて、乱菊や桃ちゃんから聞かされとったみたいや。赦してもらえるまでは使いもんになれへんの目に見えとるから、せめて絢女の意識が戻ったら速攻で土下座出来るように傍におっとけて説教されてしもた」
ギンは、はぁ、と大きく溜息をついた。
「絢女がおらへんかったらただの役立たずやゆうん、イヅルにも見透かされとったんやね」
絢女の頬にようやく微かに笑みが浮かんだ。
「明日はちゃんと使いものになるわよね」
「ん…」
とギンは肯いた。
「絢女に赦してもらえたから…な」
「迷惑と心配かけた分だけ、汚名返上でがんばらなくちゃ」
絢女の励ましに、
「うん、そやね…。明日はさぼらんと頑張るわ」
とギンは応じた。
「明日はって、さぼらないのは当たり前のことよ」
やっといつもの口調に戻って、絢女は軽く小言を言った。それから、ふ、と表情を緩めると、甘えの滲む声音で男の名を呼んだ。
「ギン…」
「ん?」
「我儘言ってもいい?」
「ええよ」
とギンは即答した。絢女のいう我儘は、たいていの場合、「我儘」と称するのも申し訳ないようなささやかな願い事である。
「朝までここにいてくれる?」
やはり、我儘と呼べるほどのものではない。
「そのつもりやった」
と答えると、絢女はふわりと微笑んだ。
「もうひとつ、お願いがあるの」
「何?」
「隣で…、一緒に眠って」
その頼みにはギンは首を横に振った。もちろん、嫌だったからではない。
「絢女、怪我に障るで」
「…だめなの?」
しゅんと絢女の表情が沈んだ。
「二人で寝るには寝台狭いし、絢女、大怪我しとるんやから…」
「確かにちょっと狭いけど、ギンも私も寝相は悪くないし、平気よ」
「そんでも、怪我に障る」
とギンは強い口調で遮った。
「絢女、心細いんやったら、手ェ握ってるから。そんで我慢してくれへん?」
「いや」
珍しく頑なに、絢女は主張した。
「手だけじゃいや。抱きしめていてほしいの」
「絢女、けどな…」
絢女は再び泣きそうな顔になった。
「ギン…、お願い…」
漸く止まったはずの涙が、眦に盛り上がった。
「お願いだから…」
彼女はまだ不安なのだ、とようやくギンは思い至った。昨夜、切り裂かれた心は手当てを施されてもなお、血は止まっていないのだ。身体の傷を案ずる余りに、心を置き去りにしては意味がない。
「分かった」
と彼は告げた。
「分かったから、泣かんで」
ギンは上掛けを彼女の足元に寄せると、慎重に彼女の身体を横にずらして自分が入れるだけの隙間を作った。かなり気を遣って動かしたが、傷に響いてしまったようで、絢女は痛みを堪える表情になった。
「ごめん、痛かったな?」
「平気」
「ボクが入ったら、狭なってしまうけど、かんにん」
彼は可能な限り場所を取らないように注意しながら、絢女の隣に身を横たえた。腕を伸ばして彼女の半身を抱え込むと、絢女はやっと安心したという風情で瞼を伏せた。
「苦しゅうない?」
ギンの問いに、
「温かい…」
と絢女は小さく呟いた。
「ギン…」
腕の中に納まった彼女が甘えた声で名を呼んだ。
「さっきの…、もう一回言って」
彼女の口にした願いにギンは首を傾げた。
「さっきのって? ごめんいうて謝ったこと? それとも、赤ん坊はボクの子ォや言うた方?」
絢女はかぶりを振った。
「私のこと…」
「好きや」
やっと絢女の望む言葉が分かって、躊躇いもなくギンは告げた。
「好きやよ、絢女。好きや」
「うん…」
ギンが好きだと囁く度に、絢女の頬に安堵が滲んだ。昨夜、彼が切り裂いてしまった彼女の傷が塞がるように、傷薬を塗り込む心地で、ギンは「好き」を繰り返す。
「好きや。姫さん…」
「私も好きよ」
「うん、ほんまに好きや」
髪を撫でる。
血の気のない冷たい頬に触れる。
背中の傷に触れてしまわぬように、慎重に華奢な肩を抱く。
そして、繰り返す。
「好きやよ。絢女」
三度、護れずに失くすところだったのだ。腕の中に納まったこの愛しい温もりを。
ただ、臆病なばかりに 。
「結婚しよ」
繰り返しされる「好き」を子守唄のようにうっとりと聞き入っていた絢女は、不意に耳に飛び込んできた異質な言葉にびくりと身体を強張らせた。おそるおそるギンを見上げると、彼は穏やかに凪いだ表情をしていた。
「…ボクみたいな情けないへたれた男なんていや?」
絢女は呆然としたままで、首を横に振った。
「ほんなら、結婚してくれる?」
重ねられた問いかけに、絢女はすぐに返答をしなかった。先ほどまで見せていた安心しきった表情は消え失せ、再び怯えが浮かんだ。
「 子供が出来たから?」
不安げな眸が尋ねる。
「だから? 急に結婚って言いだしたの?」
子供に対する義務感が強いた提案かと、絢女は疑っていた。赤ん坊の為に仕方なく結婚するなど、惨めすぎる。怯えきって無意識に離れようとする絢女の身体を、ギンは傷に障らないように慎重に引き戻した。
「そうやけど違う、って言うて意味分かる?」
ふる、と首を否定の方向に振った絢女に、
「子供が出来たから結婚を言うたんは確かや。けど、子供が出来たから責任とってなんて理由やあらへん」
とギンは続けた。
「こんなんで引き合いに出したら怒られるかしれんけど、ボクも浮竹はんと同じやねん」
「…浮竹…隊長?」
「うん、浮竹はん。もう大昔から卯ノ花はんと恋仲やったのに、胸の病を気にしはってプロポーズ出来ひんかったの、絢女もよう知っとるな」
十四郎は烈との婚姻を望んでいなかったのではない。切望しながら、病が負い目になって出来なかったのだ。烈が身籠ったことで、赤子を正式な夫婦である父母の子供とするという大義名分の下、十四郎は漸くに求婚を果たしたのだ。
絢女の腹の赤子に対して、ギンは責任を感じている。だが、それは彼女が危惧しているような後ろ向きの責任感ではない。父親になるという未来を向いた覚悟をつけただけだ。それに、絢女には唐突に思えたとしても、ギンにしてみれば、これは長年、言いたくて言えなかった一言だった。
「ボクも同じなん。ほんまはずっと絢女にプロポーズしたかった。それこそ、絢女が初めてボクのところに来てくれた夜に、『結婚しよ』て言いたかったくらいなんやで」
だが、口にすることは出来なかった。
絢女が自分に身を任せてくれたこと、それだけで過分なほどに幸せだった。彼女が傍にいてくれることが、信じがたい奇跡なのにそれ以上を望むのは罪悪のように感じた。欲を出し、これ以上を望んだ途端に、この甘美な幸せが崩れていまいそうな錯覚に囚われて、ギンはどうしても言えなかった。
「絢女に赤ん坊が出来たから…。赤ん坊を理由にして、ようやっとプロポーズしとるん」
とギンの笑みはほろ苦い。
彼は表情を改めた。それから、もう一度、求婚した。
「絢女。ボクのお嫁さんになって下さい」
真摯な光を宿した眸に射抜かれ、反射的に、
「はい」
と絢女は頷いた。受諾してしまった後、にわかに不安になって、
「私でいいの? 後悔しない?」
と思わず念を入れた。
「ボクは後悔なんてしぃへんよ。姫さんがボクのお嫁さんになってくれるのに、後悔なんてお日さんが西から昇ったってありえへん」
「私はあなただけよ…」
「ボクも絢女だけやで」
囁くと、絢女は小さく頷いた。彼に愛されているだけで充分だと言い聞かせながら、どこかで、単なる愛人のままでいることに不安を覚えていた。紙切れ一枚で縛れるわけもないけれど、形としてでも、絢女は彼の妻になりたかった。心の底で望みながら、物分かりのいい振りで諦めていた願いが、ついに現実になるのだ。
「私…、ギンのお嫁さんになれるのね」
嬉しい、と夢見心地で、絢女は呟いた。
どうして、今まで言えなかったのだろう。ギンは思った。口にしてしまえば、こんなに簡単なのに。
「絢女」
とかけがえのない唯一人を呼べば、
「なぁに?」
と大地の宝玉がギンを見返した。
「
絢女が肯いたのを受けて、ギンはそっと唇を重ねた。
絢女の唇は、頬と同様に、血の気を失っていて冷たかった。その唇に熱を分け与えたくて、ギンは啄むような口接けを繰り返した。目を閉じ、それを受け入れる絢女は幸福そうに微笑んでいたが、ふっと目を開けてギンを覗き込んだ。
「もうひとつだけ、お願いがあるの」
「何?」
「赤ちゃんの名前を考えて欲しいの」
ギンは黙り込んだ。
「だめ?」
「ボクなんかが考えた名前より絢女のつけた名前の方がええ、思うよ」
ギンの答えに絢女はかぶりを振った。
「私はお母さんとしてこの子に世界を見せてあげるのが役目よ。だから、お父さんのギンにはこの子が世界と向き合う為の名前を付けてほしいの」
呼ばれるべき名を持たない痛みを誰よりも知っているギンだからこそ、子供に名を与えて欲しいのだ。
ギンに名を与えた女はそう告げた。
*1 暮れ六つ=おおよそ午後7時前後。ここでは午後8時くらいを指している。
夜の五つ=おおよそ午後9時前後。
夜の四つ=おおよそ午後10時から午前0時ごろ。