幸福の交差
二人して絢女の病室に向かて歩いていると、まだ病室まではかなり距離があるのに、
「絢女、意識を取り戻したみたいですね。良かった」
と乱菊が安堵の笑みを浮かべた。その言葉に、冬獅郎は驚いた様子で乱菊を見返した。
距離がある上に、絢女が怪我で弱っているせいで、冬獅郎には姉の霊圧はまだ感じられない。
「乱菊、おまえ、姉さまの霊圧が分かるのか?」
と問えば、
「無理ですよ。この距離じゃ」
とあっさりと乱菊は答えた。
「でも、姉さまが意識を取り戻したって…?」
乱菊の頬に意味深な笑みが浮かんだ。
「ギンですよ。ほら、昨日まで、すごく不安定で、この辺りからでもぴりぴり尖った霊圧が分かったでしょう」
「…なるほど」
言われてみれば、確かに刺々しい霊圧は見事に消えていた。幽かに感じ取れる彼の波動は落ち着いている。
「絢女が意識を取り戻して、許して貰ったんじゃなけりゃ、この霊圧はあり得ませんよ」
「だな」
市丸ギンという男は基本的には読みにくい男なのだが、絢女が絡むと極めて分かりやすくなる。絢女の意識がこのまま戻らなかったら、よしんば戻ったとしてもすっかり愛想を尽かされていて許しては貰えなかったら、と焦燥を隠せなかったのが嘘のような安定ぶりに、
「現金な奴」
冬獅郎は息を吐き出した。
「絢女もねぇ、いい機会なんだから、もう少し粘って、がっつり反省させれば良かったのに」
「無理だろ、姉さまだから」
あっさりと冬獅郎は言ってのけ、
「ですね」
と乱菊も肯定した。
病室に近付くにつれ、絢女の霊圧も検知出来るようになった。冬獅郎は首を傾げた。
「仲直りしたにしちゃ…」
「ええ、ちょっと様子が変ですね」
と乱菊もわずかに眉を顰めた。大怪我をしているのだから、霊圧が常よりも弱々しく衰えているのは当然なのだが、単に怪我で衰弱しているというよりも精神的に落ち込んでいるように感じられるのだ。だが、波動自体は穏やかに安定していて、あのギンとの諍いを引き摺っているとも考えにくい。
二人の疑問は病室に入って氷解した。近付いてくる冬獅郎らの霊圧を知覚していたとみえて、扉の前に立つと同時に、
「入って」
と絢女の声が聞こえた。中に入ると、絢女は寝台に半身を起していた。
「姉さま、気が付いたんだな。良かった」
と歩み寄りながらも、冬獅郎の視線は絢女の頭に固定されていた。腰まで伸ばしていた彼女の髪が肩口の長さで切り揃えられていたからだ。
「絢女、髪、どうしたの?」
遠慮して尋ねられない冬獅郎に代わって、乱菊がいかにも女友達の気安さを装って問いかけた。
「背中を斬られた時に、髪も一緒に切られちゃったの…。ざんばらになっていたのをさっき、勇音さんが揃えてくれたのよ」
「そっか。綺麗な髪だったのに、残念だったね…。でも、髪だけで済んで良かったわよ」
と乱菊は殊更に声音を明るくした。
「ええ。赤ちゃんが無事で良かった。冬獅郎も、乱菊も助けてくれてありがとう。それから、心配かけてごめんなさい」
絢女の感謝と謝罪に、乱菊は笑って手を振り、冬獅郎は、
「卯ノ花隊長と虎徹と伊江村が頑張ってくれたんだ。俺は四番隊に運んだだけだ」
と応じた。
「でも、ちゃんと私を見付けてくれたでしょう?」
絢女はもう一度、
「ありがとう」
と繰り返した。
「絢女、髪はまた伸ばせばいいわ。それに、その髪もなかなか可愛いわよ」
「ありがとう」
と絢女は微笑んだが、まだその表情は少し淋しそうだ。
弟の冬獅郎は直毛といっても少し癖があり、かつ髪質もやや
こればかりはギンも慰めかねていたのだろう、絢女の傍に寄り添う彼も困惑したふうで言葉少なだ。
「あのね、乱菊。さっき、卯ノ花隊長からクッキーを頂いたの。食べない?」
絢女が心なしか重くなってしまった場を取り繕おうとした時、
「あ、砕蜂隊長…」
と乱菊が近付いてくる霊圧を感知した。やはり、絢女に用であったらしく、すぐに霊圧は病室の前で止まった。絢女が声を掛けるよりも早く、
「邪魔するぞ」
と、砕蜂は病室に入って来た。霊圧で冬獅郎や乱菊が来ていることを承知していた彼女は、二人には軽く一瞥をくれただけだった。だが、絢女の髪には流石に一目で気が付いた様子で、僅かに目を細めた。
「揃えてもらったのか?」
そう問うたのは、現場の検分の際、切られた絢女の髪を認めており、事態を予測していたからだ。
「はい。虎徹副隊長が揃えて下さいました」
「もう起きて大丈夫なのか?」
「はい。実は寝ている方が姿勢を変えられなくてつらいんです」
「なるほどな。少し話を聞きたい。無理なら出直すがどうだ?」
「大丈夫です」
絢女は頷いた。砕蜂は丸椅子をひとつ引き寄せると、寝台の傍らに腰を下ろした。それから、懐から小さな布包みを取り出した。
「話の前に、これを渡しておこう」
と差し出された布包みを、絢女は怪訝な顔で受け取った。だが、包みを開いた途端に彼女の表情がぱっと輝いた。
「ありがとうございます、砕蜂隊長。失くしてしまったとばかり思っておりました」
「いつも付けていたからな。絢女隊長のものだとすぐに分かった」
「大事なものなんです。失くさないで済んで良かった…」
先ほどまで、絢女が纏っていた淋しそうな霊圧が一瞬で払拭され、冬獅郎らは不審に目を見合わせた。絢女の手元を覗き込むと、布包みに収められていたのは
「絢女」
ギンが呼び掛けた。
「なあに?」
「もしかして、落ち込んどったのって、髪が切られてしもうたからやのうて、それ、失くしたと思って?」
「…ごめんなさい」
謝罪は肯定だ。
「そんな髪留めくらい、なんぼでも買うてやるのに」
ギンの苦笑交じりの言葉に、
「だって、これは特別だもの。他の髪飾りは諦められるけど、これだけは諦めきれなかったの」
と絢女はきっぱりと返し、もう一度、
「本当にありがとうございます。砕蜂隊長」
と繰り返した。
ちら、と砕蜂、冬獅郎、乱菊がギンを盗み見ると、彼はたいそう貴重なことに顔を赤らめてきまり悪そうに絶句している。
絢女がこの髪留めを特別と言い切った理由を全員が正確に察していた。
ギンが色絶無の刑を終えて復帰した時、護廷の者は皆、彼と絢女は早々に納まるところに納まると信じていた。ところが、罪人の負い目ゆえか、ギンは絢女を意図的に避けている様子で、口出しこそしなかったが、皆、二人の成り行きを固唾を飲んで見守っていたのだ。そんな危うい二人の空気が一変した日から、絢女はその髪留めで髪を纏め始めた。ギンが贈ったものであることは、あからさま過ぎて、誰も指摘する気にならなかったくらいだ。
初めて彼と心が通い合い、結ばれた時に贈られた想い出の品。だから特別。だから大事。
最早、からかうのも、突っ込みを入れるのも馬鹿馬鹿しくなったらしい。砕蜂は真面目くさった表情を取り繕い、
「一乗寺貴紗が拘束されたのは聞いているな」
と刑軍軍団長の職務に戻って、確認した。
「はい。ギン…、市丸隊長から伺いました」
「刑軍で尋問を行っているが、どうにも口が堅くてな」
「自白剤は使わなかったのか?」
冬獅郎が尋ねた。刑軍の使用する強力な自白剤については悪名が高いのだ。
「親子揃って、薬品の耐性持ちだ。非合法な薬物の売買に手を染めていただけのことはある」
苦々しげに砕蜂は吐き捨てた。
「それでは、乱菊の義骸も、鏡花水月の行方もまだ?」
「ああ」
と忌々しげな表情のまま、砕蜂は肯定した。
「分かっているのは、少なくとも一乗寺貴紗は鏡花水月の新しい主ではないということだけだ」
「そう思います」
貴紗が変化した狼と対峙した時のことを思い返しながら、絢女もその事実を追認した。
「鏡花水月の主は別にいます。貴紗さまはおそらく、その者に操られていただけでしょう」
「絢女隊長は新しい主について、思い当たる節はないか?」
絢女はかぶりを振った。
「だろうな」
一応尋ねてみただけだったらしい。砕蜂は特段がっかりしたふうもなく頷いた。だが、絢女が続けた言葉に、視線が鋭くなった。
「ただ、藍染の復讐ではないと思います」
「何故、そう思う?」
「賊に襲われた時、私が秋篠を持っていないと思い込んでいたのでしょう。鏡花水月の幻惑術が遣われました。秋篠で破りましたが、その時に少しだけ鏡花水月の主に触れたのです」
「ほう?」
「藍染の復讐であれば、私に対して怨みを抱いているはずです。ですが、怨みの念は感じませんでした」
「恨みがないのに、絢女隊長を襲ったと?」
「好きの感情が様々なように、憎悪も様々です。あの時、感じたのは、ただ、ただ、邪魔だという思いでした。私を憎んでいたのは確かですが、その憎しみの源は鏡花水月の幻惑術を無効化する私に対する疎ましさから来ているもので、怨みによるものとは思えませんでした」
「なるほど」
と砕蜂は頷いた。
「藍染の復讐ではないとすると、松本が狙われたことも、市丸以外の理由を探る必要があろうな」
難しい顔つきになって腕を組んだ砕蜂に、傍らで話を聞いていた冬獅郎や乱菊も困惑げな視線を向ける。
「砕蜂隊長」
と絢女は切り口上に呼び掛けた。
「私の妊娠のことはお聞き及びでしょう?」
うむ、と砕蜂は肯定した。
「自分の
「今は?」
含みのある言い回しを聞き咎め、砕蜂は怪訝に見返した。
「近いうちに、私は鏡花水月を抑える力を失います」
絢女はまっすぐに砕蜂を見据えて断言した。
「な!?」
砕蜂ばかりか、冬獅郎も乱菊も、ギンもが驚愕に目を瞠った。
「何故、それが言える?」
「以前、私が冬獅郎の霊力を封じていた時のことを覚えていらっしゃいますか?」
問いに対して、絢女は問いで返した。頷く砕蜂に、絢女は続けた。
「冬獅郎を封じていた私には三席相当の霊力しかありませんでした。封じを解き、冬獅郎を解放することで、私の霊力も回復し、卍解を得て、隊長を務められるようになったのです」
砕蜂はようやく、絢女の言わんとすることを理解した。
「ややが育って、霊力が大きくなるに従って、絢女隊長の霊力はややを抑える為に費やされるのだな」
「はい」
母親に霊力がなければ子を無事に産むことが出来ないという、尸魂界の
「市丸と絢女隊長のややだ。霊力もさぞかし大きかろうな」
「いつ、私の霊力が鏡花水月を下回るかは分かりません。ですが、数ヶ月中にはその時が来ると…」
「数ヶ月も長引かせるつもりはない」
と砕蜂は応じた。
二人のやり取りを聞いていた冬獅郎が、言葉を挟んだ。
「鏡花水月は姉さまの妊娠に気が付いただろうか?」
もし、鏡花水月とその主が気が付いたとしたら、彼らはしばらく鳴りを潜めるかもしれない。潜伏し、絢女の力が及ばなくなってから、再び策動を開始するかもしれない。
「気がついていた。あるいは、最初から知っていたのかもしれぬな」
砕蜂の眸が鋭くなった。
「鏡花水月が霊刀安置回廊から消えたのは、絢女隊長が孕んだ直後くらいだろう? 符号が合いすぎている」
「言われてみれば、確かに」
と乱菊が感心した様子で頷いた。
「姉さまも自覚していない霊力の衰えを察知して、霊刀安置回廊を抜け出したと思うのか?」
「偶然かもしれぬがな。可能性があるというだけだ」
砕蜂は肩を竦めた。
「…もし、鏡花水月が絢女の妊娠に気ィ付いとって抜け出したのなら、鏡花水月か、新しい主か知らんけど、何や急がなあかん事情があったのかもしれへん」
とギンが言い出した。
「どういうことだ?」
「待っとけば、赤ん坊は成長して、絢女はじきに鏡花水月を抑えられへんようになるんやで。その後に抜け出せば、護廷には手立てなんて何もなかったはずや。それなのに、あのタイミングで抜け出して動き始めた言うんは、妊娠と重なったのは偶々やったからか、向こうさんに待てへん事情があったか、どっちかやと思わへん?」
ギンは冬獅郎、乱菊、砕蜂を等分に見渡した。
「偶々、やったんなら、絢女の妊娠に気ィ付いた鏡花水月は潜伏するかしれへん。何が目的なんかは分からへんけど、絢女の霊力が及ばへんようになってから事を進めた方が安全やからな。けど、分かっとって霊刀安置回廊を抜け出したんやったら、絢女の衰えを悠長に待ってはおられへん事情があったんと違うかな? それやったら、潜伏はしィへんと思う」
「なるほど」
砕蜂はにやりと嗤った。
「気は進まぬが、涅の力を借りた方がよさそうだな」
少しも気が進まぬように見えぬ口調と表情で、砕蜂は嘯いた。刑軍の強力な自白剤が及ばなかったのだ。技術開発局のマッド・サイエンティストの手を借りることはすでに検討済だった。
(どうせ、あの狼女は涅の検体の運命だしな)
と酷薄に考えながら、砕蜂は立ち上がった。
「邪魔をした。絢女隊長、それから、松本も。用心をしておけ」
そう言い残して、彼女は病室を辞した。
部屋に残された四人の間を支配していた微妙な沈黙は、ギンの、
「冬獅郎はん」
という呼び掛けで破られた。
「何だ?」
横柄な口調で冬獅郎は応じる。
「姉さまには無事に許して貰えたんだろう?」
「ああ、うん。許して貰えた」
とギンは肯定した。その後、彼には珍しく、何か言い淀む素振りを見せた。冬獅郎と乱菊がわけがわからないままに見守っていると、ギンは覚悟を決めるかのように息を吸い込んだ。
「絢女をお嫁さんに下さい」
吸った息を一息で吐き出す勢いで告げられた言葉に、乱菊が息を呑んだ。一方、冬獅郎は顔色ひとつ変えずに、ギンではなく、絢女に視線を向けた。
「受けたのか、姉さま?」
絢女は首をひとつ、縦に振った。
「今回の件でよく分かったと思うけど、こいつ、馬鹿だぞ」
容赦ない弟の一言を肯定も否定もせず、
「…私はもっと馬鹿なの」
と絢女は答えた。
「そうか…」
冬獅郎はギンに向き直った。
「『雨降って地固まる』って諺があるが、おまえのは、土石流で何もかも流された姉さまが呆然としている隙に、ブルドーザーで地ならししたみたいな強引さだな」
「散文的な感想をおおきに」
とギンは苦笑いをした。
「仮にも姉さまを嫁に貰おうってんだ。結納は手を抜くなよ」
「もちろん」
「それから、花嫁衣装は俺が用意する。おまえは姉さまに恥をかかせないように、自分の衣装を用意しておけ」
畳み掛ける冬獅郎に、絢女が何か言いたげに口を開きかけた。それを目だけで制して、冬獅郎は、
「この煮え切らない野郎がやっと、煮えたんだ。気が変わらねぇうちに、外堀も、内堀も、すっぱり埋めてしまう」
とにやっと笑った。
「冬獅郎…」
彼は再び、ギンを向くと、
「おまえが戻るまで、俺と乱菊はここにいる。とっとと、総隊長に報告に行って来い」
本気で掘を埋めてしまうつもりらしい。しっ、しっ、と犬を追い払うように、冬獅郎は強引にギンを病室から追い出した。
ギンが出て行ってしまってから、やっと乱菊は、
「おめでとう」
と絢女に告げた。
「ありがとう」
「アイツ、本当に馬鹿だから、ここまで追い詰められないと腹を括れなかったのね」
乱菊は人の悪い笑みを浮かべて、絢女が意識不明の間、どれだけギンが情けないありさまだったのかを滔々と説明した。
「ギンの顔…、よく見たら、ずたぼろだったのってそういうわけだったのね」
と絢女もまた、悪い笑みを浮かべた。
「本当はね、一発くらいは平手打ちしておきたかったんだけど」
「ふうん?」
「でも、乱菊と卯ノ花隊長が殴ってくれたのならいいわ」
「あ、やっぱりぶん殴りたかった?」
「そりゃ、赤ちゃんが出来たって報告して、自分の子供じゃないなんて言われたらね。そういう意味で言ったんじゃないって分かった今でも、思い出すと悲しくなるもの」
「そっか。でもさ。ものは考えようよ。このネタを持ち出されたら、ギンはぐの音も出ないもの。アイツを一生、尻に敷ける権利を確保したも同然じゃない?」
「あ、なるほど」
うふふ、と笑い合う女性陣を前に、絢女ばかりか、乱菊にもこの件でギンは尻尾を掴まれたのだな、と冬獅郎は一瞬、遠い目になった。
「でも、まずは怪我を治さないとね」
「そうね。鏡花水月のことも、乱菊の義骸のことも片付いていないし…」
「確かに、そっちが片付かないとおちおちお式も挙げられないわよねぇ」
と乱菊も思案顔になった。
「婚約に進んだだけでも目出度いって」
冬獅郎はとりなした。
「姉さま、花嫁衣装は任せてくれ。最高に綺麗な花嫁になれるように準備するから」
絢女は笑んだ。いらないとか、そんなに豪華にしなくてもいいなどと言っても、この弟が引かないのは分かっていた。
「ありがとう。楽しみにしているから」
と絢女は弟の好意と祝意に感謝を述べた。
冬獅郎によって、総隊長に婚約の報告に行かされたギンが戻って来たのは、たっぷり
「遅かったな」
と冬獅郎が咎める眼差しを向けると、ギンは大袈裟に溜息をついた。
「正座して、
「うっわぁ!」
乱菊が信じられないと言いたげに、首を振った。
「ちょっとでも姿勢が崩れたら、流刃若火で『喝』入れられるし、最後は気ィが遠くなってもうたわ」
「…」
冬獅郎が無言になってしまったのは、自分が乱菊との結婚を報告に行く時のことを考えたのだろう。すでにげんなりとした顔付きになった冬獅郎に、からかいを入れるまでもないと判断したらしい。ギンは絢女の傍らに戻ると、
「総隊長さんから伝言や。綺麗な花嫁姿を楽しみにしとる、て」
と伝えた。
「指輪、買わんとあかんね」
ここ五十年ほどで、瀞霊廷でも、婚約・結婚に当たって指輪を用意することは一般的になっていた。
「隊長のお給料の三ヶ月分って言ったら、もの凄く大きいダイヤの指輪を買って貰えるわよ」
焚き付ける乱菊に、
「ダイヤモンドでないと駄目かしら?」
と絢女は首を傾げた。
「ダイヤか、でなければ誕生石いうんが定番やねんけど。なんぞ、欲しい
ギンが問うた。
「エメラルドか、ルビーがいいなって思ったの」
「エメラルドは誕生石よね? ルビーっていうのは…?」
尋ねた乱菊は、絢女の返答に訊かなければ良かったと後悔した。
「ギンの眸の色に似ているから」
「あ、そう…」
エメラルドも誕生石だからではなく、ギンの眸の色の連想からの選択だろう。先ほどの髪留めの時といい、今といい、絢女は案外と無自覚に惚気る傾向がある。中てられて、腹一杯になってしまった乱菊が冬獅郎を伺うと、彼の心境も同じだったとみえて、
「それじゃ、そろそろ戻る。午後には雛森が姉さまの護衛要員の計画を持って来るだろうから、市丸も業務に戻れ。吉良に迷惑かけたんだからな。当分、さぼらずに真面目に仕事しろよ」
と暇を告げた。
「冬獅郎も乱菊もありがとう。私はこんなだし、乱菊、気をつけてね」
「うん。分かってる。隊長の傍から離れたりしないわ」
絢女は微笑むと、ギンを見た。
「ギン、真面目にしないといけないのは、当分じゃなくてずっとだからね」
と釘を刺す姉に緩い笑みを送って、冬獅郎は乱菊とともに出て行った。
廊下に出て、乱菊はほおと深く息を吐いた。
「良かった…。これで、やっとギンも絢女も幸せになれますね」
と彼女自身が幸福そうな笑みを零した。
「おまえの義骸や鏡花水月の件があるから、まだ手放しでは喜べないが、」
「でも、冬獅郎さんだって嬉しいんでしょ? 豪勢な花嫁衣裳を用意するって言ったくらいですもの」
「そりゃ、な。姉さまは俺の為にずっと幸せを諦めて来たからな。その姉さまがやっと、本当に好きな相手と結婚できるんだ。祝ってやらないわけにはいかないだろう。譬え、その相手が狐だとしても」
彼の最後の台詞はさらっとスルーして、
「綺麗でしょうね、絢女の花嫁姿」
乱菊はうっとりと眼を泳がせた。
「当たり前だ。そもそも、市丸には勿体ないんだぞ」
きっぱりと、何故か大威張りで言い切る冬獅郎。乱菊を別枠に扱うと、彼の中では、絢女は今でも世界一の美女なのだ。ふふ、と微笑ましげに笑った乱菊に、冬獅郎は、
「次は俺たちだからな」
とぼそりと告げた。
「…え?」
思わず、乱菊は立ち止まった。
「冬獅郎さん…、今…」
「待たせて悪かった」
冬獅郎も足を止めた。彼の眸が真っ直ぐに乱菊を射抜いた。
「約束していただろう? 姉さまと市丸が納まるところに納まるのを見届けたら、それ以上は待たせない。ちゃんとプロポーズするって」
「…四番隊の廊下で、ですか?」
乱菊の言葉に、
「え?」
と意表を突かれた。直後、
「悪い!!」
狼狽えながら、冬獅郎は謝った。彼の我儘に付き合わされ、愛人の地位に甘んじてきた乱菊なのだ。その時には、もっとロマンチックなプロポーズを期待していただろうということは、彼でも想像がつく。そもそもが彼自身からして、プロポーズは待たせた埋め合わせの詫びも込めて、乱菊が感激するような演出で申し込まなければ、と考えていたのだ。それなのに、よりによって四番隊の廊下などというムードも浪漫もない場所で、無造作に大切な言葉を告げてしまった。
「こんな場所で悪かった。けど、俺の気持ちに嘘はない。乱菊、おまえと結婚したい」
今更、場所を変えて仕切り直しをするわけにもいかない。仕方なしに、冬獅郎は謝罪と同時に一気に核心を突いた。
しばらく無言で冬獅郎を見上げていた乱菊が、ふっ、と微笑った。
「あたし、翡翠がいいです」
「は?」
彼女の言葉の意味を理解するのに、数秒かかった。
「…ダイヤじゃなくていいのか」
「はい。翡翠でなければ嫌です」
「わかった。とびきりの
と冬獅郎は応じた。
乱菊はからかう顔になった。
「これで冬獅郎さんも正座一刻・訓示コース決定ですね」
「…かんべんしてくれ」
うんざりした顔になった冬獅郎の腕に、乱菊は飛びついた。
「冬獅郎さん、嬉しいです」
頬を染めた乱菊を、冬獅郎は愛しげに見詰める。二人の甘ったるい雰囲気に、廊下を通りかかった四番隊士も、入院患者や見舞いに訪れた者たちも、何ごとだ、と遠巻きに伺っていた。
その夜、松本乱菊が消えた。