出口のない迷宮
目を覚ました乱菊は、きょろきょろと辺りを見回した。
「ここ?」
見覚えのない殺風景な部屋だった。調度品といえば、何の装飾もない小さな文机がひとつだけ。砂壁は緑色がかった灰色で、天井は板張りの六畳間。そこの畳の上で乱菊は眠っていたのだ。文机の上方には嵌め殺しの小さな窓があり、反対側の壁に板戸があって、そこが出入り口のようだ。
「あたし…、何でこんなところに?」
昨晩はいつものように、十番隊隊長舎の寝室で、冬獅郎とひとつ床で眠った。それなのに、この見知らぬ部屋はどこなのだ。
ふと、自分の体に視線を落として、乱菊はぞっとした。夜着で床に就いたはずなのに、彼女は死覇装姿だった。だが、いつも、腰帯に付けている副隊長章がなく、灰猫も見当たらない。
(どうして、いつの間に?)
混乱したまま、彼女は立ち上がり、まず、窓から外を検めた。窓は乱菊の顔と同じくらいの幅しかない、円形のごく小さいものだったので視界は限られていたが、それでも、目に入った林の木立との位置関係から、この部屋がかなり高い所、少なくとも四階建て以上の建屋の四階か五階くらいの上層階に位置していることだけは判断出来た。窓から得られる情報はそれくらいしかない。この屋の正体には皆目見当がつかず、乱菊は諦めて窓から離れ、反対側の板戸に歩み寄った。
板戸を引こうとして、乱菊の手が止まった。板戸に部屋の内側から錠が掛かっているのを認めたのだ。内側から掛かっている以上、錠をかけた人物の部屋の内部にいなければおかしい。だが、乱菊以外誰もいなかった。窓は嵌め殺しで、この板戸以外に出入口はないのに。
気味が悪い。
乱菊は錠を外すと、板戸を細く開いた。隙間から外を伺ってみる。
人の気配は全く感じなかった。板戸の外は廊下で、両側に部屋がある造りらしく、真向かいの壁に同じような板戸が認められた。人気がないのに勇気を得て、乱菊は廊下に出た。
長い廊下の丁度、真ん中くらいの位置にある部屋だったらしい。廊下の砂壁には規則正しい間隔で板戸が並んでいた。右手側の廊下は壁に当たって行き止まりになっていたが、左手は最奥で廊下が右に折れ、先が続いていた。ここから出るにはそちらに向かうしかなさそうだ。
ここがどこなのか、この建物は何なのか、そして、乱菊はどうしてこんなところにいるのか。すべてが謎で、不気味だ。とにもかくにもここから逃れたいと、乱菊は廊下を慎重に歩んだ。人に出くわすことなく、気配すら感じないまま廊下を折れると、同じように左右に板戸が並ぶ壁が続いた後、最奥に階段を認めた。躊躇うことなく、乱菊は階段を下りた。あの部屋が四階か五階という乱菊の見立ては誤っていなかった様子で、三階層を下りた所で階段は終わった。
階段を下りきった乱菊には、目の前の廊下を進むしか手立てがない。部屋を出た時と逆方向に歩んで廊下を曲がった彼女は、丁度、彼女がいた部屋の真下あたりで、壁が一旦切れているのを認めた。切れた壁は一間ほど向こう側から再び始まって、上階と同様に板戸が並んでいる。反対側の壁は切れてはおらず、板戸が並んでいる。と、すると、あの壁の切れた空間は外への出入口の可能性が高かった。
ここまで、誰の気配もなかった。廊下にも階段にも埃はなく、誰かがきちんと掃除をしていることを示している。少なくとも、廃屋ではなさそうだ。それなのに、全く人の息遣いが感じられなかった。家人が留守にしているというよりも、手入れだけがされている人の住まない建物という印象だった。廊下の長さから言っても、階層から言っても、かなり大きな建屋であるはずだが、死んだように静まり返っている。
逸る心を抑え、乱菊は先へ進んだ。壁の途切れめに辿り着き、彼女は予想が当たったのを知った。そこは玄関らしく、一間ほどの土間があり、その向こうに模様硝子を嵌め込んだ両開きの引き戸があった。土間には草鞋が数足並んでいて、彼女はその中の一つを拝借した。引き戸には鍵は掛かっていなかった。あっけないほど簡単に、戸は開き、乱菊は建物の外に逃れ出ることを得た。
玄関から白い石英の砂利を敷き詰めた短い小路があって、その先に立派な門が見えた。門の左右には高いなまこ塀が続いている。外もしんと静まり返っていた。門の向こう側の林の木立が、時折、風にざわざわとざわめくばかりだ。門が内側から閉ざされてることは、玄関先からも見て取れた。乱菊の腕よりも太い閂が架け渡され、そこに黒光りする大きな鉄の錠前がぶら下がっていた。
(結界はないわね…)
塀の気配を探って、乱菊は結論した。なまこ塀の高さは十尺ほどだろうか。彼女の背の二倍近いが、死神の乱菊には越せない高さではない。
思い切って、乱菊は助走をつけて跳躍した。危なげなく塀の上に飛び乗ったが、何ごとも起こらず、建屋も、向こうの林も静けさを保っている。振り向いて、彼女は先ほどまでいた建物を落ち着いて検めてみた。
異様な建物だった。
階層は五階建て。鈍色の陰鬱な壁に、規則正しく、小さな円形の嵌め殺しの窓が並んでいた。乱菊が出てきた玄関以外には他に採光する為の窓は見当たらず、廊下に並んでいた板戸の向こうは、おそらくすべての部屋が乱菊が眠っていた部屋と同じ造りであるようだ。あれが板戸ではなく鉄格子であれば、ここは監獄だと乱菊は判断しただろう。
「え?」
自分がいたであろう部屋のあたりに視線を移し、乱菊は瞬きをして見直した。
窓に人影を認めたのだ。ほんの一瞬、視界を掠めたその影は金色の髪をしていた、ように感じた。だが、改めて見直してみても、すでに人影はなく、無機質な窓が硝子を光らせているばかりだ。本当に誰かがいたのか、見間違いなのかさえ、もう分からなかった。だが、乱菊の背を冷たい汗が流れて行った。
乱菊は林の方に飛び降りた。ぞくぞくと悪寒がせり上がってくる。得体の知れない焦燥に責め立てられ、彼女は走った。あの不気味な建物から少しでも離れたかった。
いつの間にか林を抜けていた。林を走り抜けながら、現世で耳にした怪談話が頭を掠め、どんな道を辿っても、戻らないように道標を施しながら離れても、最終的にあの建物のところに戻ってしまうのではないかという思いに囚われていた。しかし、そんなことにはならず、暗い林から明るい草原に出ることが出来て、乱菊は安堵の余りにしゃがみこんでしまった。闇雲な全力疾走で動悸を打つ心臓を宥め、顔を上げて辺りを見回すと、遠くに集落が見え、さらにその向こうに懺罪宮の塔が望めた。
「瀞霊廷の中だ…」
もう一度、乱菊は安堵した。懺罪宮が見えるということは、ここは瀞霊廷の内部だ。塔の見える角度からして、おそらく、北側の外れだ。時刻は朝五つくらいだろうか。朝一番の書類仕事をこなして、休憩の為のお茶を淹れようかという太陽の傾きに見えた。
冬獅郎は心配しているだろう。あの悪夢の夜以来、彼女の身を案じて、彼は乱菊を離そうとはしなかった。止むを得ず彼女の傍を離れる際には、ギンや十四郎や春水といった信頼できる隊長の下に彼女を預けた。それなのに、大切に護っていた乱菊が突然消えてしまったのだ。きっと大騒ぎになっているだろう。一刻も早く、冬獅郎の下に戻って、彼を安心させてやりたかった。そして、乱菊自身、冬獅郎に抱きしめられて、帰れたことを実感したかった。
懺罪宮を目指して進めば、瀞霊廷の中心部に行ける。乱菊は立ち上がった。
漸く、十番隊舎に辿り着いて、乱菊はほっとした。彼女の行方が分からなくなって大騒ぎになっているのなら、ひょっくり帰ってきたら皆、驚くだろう。そう考えながら、門に近付いた乱菊だった。だが、思いがけず、門衛の隊士に誰何された。
「どこの隊の者だ? 勝手に入っちゃいかん」
「え?」
乱菊は門衛を見返した。
隊舎の門衛は無位の隊士が輪番で務める。今日の門衛は吉川という壮年の男だった。彼は護廷十三隊に属する死神としては霊力が凡庸で、実力がものをいう護廷にあってはずっと平隊士の地位に甘んじていたが、年季の点では乱菊よりも長い。地位はすっかり上になってしまった、護廷に入りたての新人の頃に可愛がってもらったので、乱菊は今でも彼のことだけは「吉川さん」と呼んで親しんでいた。その彼からの誰何に、乱菊は目を瞠ったまま硬直した。
「どこの隊の者だ? 誰に何の用だ?」
護廷に長い吉川はたいていの死神は見知っているという自負があった。知らないということは、他隊の二、三年めまでの新人だと見当をつけていた彼は、
「吉川さん…、あたしが分からないの?」
と目の前の女から茫然とした声音で問われて、眉を顰めた。
改めて女の顔を眺めたが見覚えはない。彼は謹厳で実直な人柄だったが、それでも紛れもなく男であるので、これほどの美貌の娘と顔を合わせ、言葉を交わしたことがあるのなら絶対に覚えているはずだ。だが、記憶にない。初対面だ。
「悪いな。どこで会った?」
もしや酔いつぶれていたかして忘れたか、と彼は問いかけた。
「あたしよ、松本乱菊よ」
「…悪い。思い出せない。名前は松本乱菊なんだな。所属の隊と十番隊への用向きを教えてくれ」
がくがくと、乱菊の足が震えた。それでも、必死に身を支え、
「吉川さん…、十番隊の隊長の名前は…?」
「あんたな、護廷の死神なんだろう? 何、馬鹿なことを質問しているんだ?」
十三隊の隊長・副隊長の名を知っていることは常識以前の問題である。呆れ返った吉川だったが、乱菊の目に宿る尋常ではない怯えに気付いて表情を改めた。
「十番隊隊長は日番谷冬獅郎とおっしゃる」
「じゃ、副隊長は…?」
「志藤和興だ」
「そう、ありがとう」
辛うじてそれだけを告げ、乱菊は身を翻した。
「あ、おい!?」
吉川が慌てて呼び止める声が聞こえたが、乱菊は振り切って走った。十番隊から充分に離れた後、建物と建物の間の狭い隙間に身を隠して、へたり込んだ。
最初、吉川から誰何された時、乱菊は自分の顔貌が変貌しているのではと怖れた。だが、彼は「松本乱菊」という名にも反応しなかった。彼の記憶の中に松本乱菊という死神は存在しないのだ。だから、今度は隊長と副隊長の名を訊ねてみた。現世で入手した小説などでは、しばしばタイムスリップという概念が骨子になっていることがあった。主人公が本来あるべき時間軸よりも過去や未来に飛ばされるというものだ。平和な時代に生きている主人公が太平洋戦争まっただ中や、戦国時代や幕末といった混乱した時代にタイムスリップして、そこで必死に順応して生き抜いていくというのが定型で、舞台背景としては興味深く、乱菊もそういった小説を何冊も読んだことがあった。だから、自分でも滑稽だとは思いながら、過去にタイムスリップしてしまったという考えが過ったのだ。乱菊が死神になるより以前、だが彼女より長い吉川はすでに死神である前十番隊長の時代に紛れ込んでしまったなら、吉川が乱菊を知らなくても無理はない。
だが、十番隊隊長は日番谷冬獅郎だった。そして、副隊長が志藤和興だと聞かされて、乱菊の足元ががらがらと崩れた。
志藤は十番隊の第四席である。だが、第三席の堀田は生き字引と呼ばれるくらいの老齢で引退の意向を示しているくらいだから、純粋に現時点での死神としての実力ならば、志藤の方が間違いなく上だ。実際、堀田引退後の第三席の地位は約束されている。それどころか、副隊長を務められるくらいの実力の持ち主であることは周囲からも認められていた。修練でまともにやりあったら、乱菊だって、三回に一回くらいは遅れを取ることがあるのだ。志藤は、剣術なら桃や大前田、勇音よりも確実に上だし、おそらく、イヅルや修兵あたりとは霊力も含めて互角に近いだろう。恋次にしたって、霊力は措いて、純粋に剣術勝負なら、冷静で頭が切れる分だけ志藤に分があるかもしれない。
志藤自身は十番隊に愛着を持っているし、副隊長よりも席官の方が気楽でいいと、隊長格に対する野心は全くない。だが、冬獅郎の信頼は厚い。それに、外見年齢の近い男として馬が合うらしく、時々、上司部下の垣根を越えた男同士で飲みに出たりもしている。だから、もし、乱菊が存在しなければ、十番隊の副隊長に志藤が就任するのはごく自然だ。そう、乱菊が存在しなければ 。
「これ、どういうことなの?」
考えられるのは鏡花水月の眩惑だ。絢女は重傷を負ってしまった為、現在、卍解出来ず、浄めの風も途絶えている。鏡花水月はその気になれば幻惑を施すことが可能なのだ。吉川は鏡花水月に捕らえられて、乱菊が分からなくなっているのかもしれない。
「冬獅郎さんに会わなきゃ…」
彼ならば、乱菊が分かるはずだ。
乱菊は脚に力を入れて立ち上がった。十番隊舎の近くまで戻り、乱菊はそこで息を吸い込んだ。幻惑されているのは、吉川だけではないかもしれない。だとしたら、門を抜けても見咎められる可能性がある。執務室までは瞬歩で、と乱菊は計画を立てた。
乱菊は息を深く吸った。たっと地を蹴った時には、彼女はもう門を抜け、隊舎の玄関に立っていた。見咎められる前に戸を引き、隊舎にするりと身を潜り込ませる。ひゅ、ひゅ、と短い距離の瞬歩を使い、三歩で執務室に辿り着いた乱菊は、思いっきりよく戸を開いた。そのまま、中に駆け入ろうとした乱菊の足が、寸前で踏みとどまる。
刃があった。
「何者だ!?」
鋭い誰何。咽喉元に一寸の距離でぴたりと静止した白刃に、乱菊はごくりと唾を飲み込んだ。志藤が斬魄刀を抜刀していた。侵入者に対する警戒も露わな鋭い霊圧は、彼が乱菊を自隊の副隊長と認識していないことを示している。
いや。彼の左腕に、乱菊の腰にあるべき副隊長章を認め、乱菊は絶望的な思いで呟いた。
「し…どう…」
呼び捨てられて、志藤は僅かに目を細め、眼光を更に鋭くした。
乱菊はゆっくりと、志藤の背後に視線を向けた。執務机に就いたままの隊首の眸には、無謀な侵入を試みた賊に対する冷ややかな侮蔑だけが宿っていた。乱菊と目が合っても、冬獅郎の表情には変化はなかった。
「冬獅…郎さんまで、あたし…が分からないんですか?」
その時、彼は微妙に表情を変えた。だが、それは見知らぬ女に「冬獅郎さん」などと親しげな呼び方をされたことに対する不審であって、乱菊の声が心に届いた様子はなかった。
「冬獅郎さん、あたしです! 乱菊です!! 思い出して!!」
乱菊は叫んだ。その声に籠もる悲痛さに、刃を突き付けていた志藤は思わず、冬獅郎に問い掛けた。
「お知り合いですか?」
「いや、見たこともねえ」
一言で切って捨てられた。
「いやぁぁぁ!!!!」
乱菊の悲鳴が響いた。
どうやって、十番隊舎を逃げ出したのか分からない。
我に返った時には、席官たちに取り囲まれ、捕縛されそうになっていた。
志藤を含めた上位席官に囲まれ、冬獅郎までもいたあの場を、灰猫すら持たない乱菊が逃れられたのが奇跡のように感じる。抵抗した時に生じたものだろう、死覇装が所々裂けていて、身体に打撲の痛みがあった。
乱菊を自隊の副隊長と認識していない今の十番隊にとって、乱菊は許可なく侵入した賊に過ぎない。おそらく、取り逃がした乱菊を、彼らは捜索しているだろう。
「冬獅郎さんまで、鏡花水月に捕まってしまったなんて…」
見たことがない女だと断じた彼の冷ややかな眸に、乱菊はぶるりと身を震わせた。彼のあの目を、表情を見たことがないわけではない。だが、それが向けられる相手が乱菊であったことはかつて一度たりともなかったのだ。長い年月をかけて築き上げて来た信頼も、愛情も、斬魄刀の幻惑術ひとつであんなに脆く忘れ去られてしまうのか。
「違う、そうじゃない」
乱菊は首を横に振った。
鏡花水月の恐ろしさは、乱菊も身に沁みている。仇を討ちたい一心で藍染に近づいたギンは、あの男が絢女を殺したことすら忘却して仕えていたではないか。絢女のことは忘れられなかったにもかかわらず、心の底から憎んでいた仇を敬愛していると思い込まされた。乱菊だって、そうだ。行方不明になった親友のことはいつでも気に掛かっていたのに、彼女によく似た面差しの冬獅郎に対して、叛乱が起こって藍染が虚圏に去るまで、彼女との思い出を語ったことすらなかった。そして、その不自然さを冬獅郎に指摘されるまで、気付けなかった。それほど強力な鏡花水月の幻惑であるのに、ただ一目で振り切って自分のことを思い出して貰えるなどと期待するのは思い上がりだ。と、乱菊は自分を戒めた。
「絢女に知らせなきゃ…」
乱菊はぽつりと呟いた。
大怪我で弱っている絢女に負担をかけるのは忍びないが、相手が鏡花水月である以上、頼りになるのは幻惑を無効化する秋篠しかない。冬獅郎まで惑わされているのだ。知らせないわけにはいかない。
侵入者を探しているだろう十番隊を避け、大回りして四番隊救護病棟に辿り着いた。
絢女の病室は最上階の隊長格専用室だ。階段を上って最上階に行くと、絢女の病室の前で五番隊の隊士が警戒に当たっているのが見えた。
昨日の午後から、ギンから五番隊に絢女の護衛は引き継がれた。副隊長の桃は、病室の前に無官の隊士を配備し、病室内に席官を常駐させるという警備体制を敷いた。幾ら交流が深い五番隊といえど、乱菊には他隊である。平隊士まで把握しているわけもなく、警備に就いている隊士に乱菊は見覚えがなかった。
つかつかと近寄り、
「絢女隊長に面会したいんだけど」
と断りを入れた。
「は?」
隊士は一瞬、怪訝な顔を示し、それから、
「所属の隊と名前、官位、ご用件を承ります。お取次いたしますので」
と丁寧な口調ながら、決然として告げた。
乱菊は血が引いて行くのを感じた。護廷の隊長、副隊長の顔と名前は死神の常識という事実からすれば、乱菊がこの平隊士を知らなくとも、彼は乱菊を十番隊副隊長だとわきまえていなければおかしい。にもかかわらず、所属と官位を確認された。
まさか、と思う。絢女の護衛まで幻惑されているというのか。
「十番…隊。副隊長の松本乱菊です」
五番隊の隊士は眉を顰めた。
「十番隊の副隊長は志藤副隊長のはず。何者!?」
隊士は大声を上げて抜刀した。その頭上をひらりと飛び越えて、乱菊は病室の扉を開けた。同時に突き入れられた護衛席官の剣も想定内で躱した。
護衛席官は五番隊第八席の海内だった。乱菊は彼女を知っている。だが、海内八席は見知らぬ凶賊を見る目で、乱菊を見ていた。そして、絢女も八席を止めようとしなかった。ただ、押し入って来たにも関わらず殺気のない乱菊を訝しげに見ていた。
「絢女…。あんたまで…」
乱菊の呟きに、え、と絢女が視線を鋭くした。
乱菊は身を翻した。
「待て!」
追いすがる護衛を振り切って、彼女は必死で逃亡した。
霊王を祀った廟の境内に乱菊は逃げ込んだ。
廟の裏手のこんもりと木立が茂り、薄暗い空間に身を潜め、彼女は震える自身の身体を抱きしめた。
絢女さえ幻惑されている以上、護廷に味方はいない。まだ会ってはいないが、ギンも、七緒も、乱菊を知らないと言うだろう。
「何で…、どうしてこんなことに…」
絢女が大怪我をしているのに、鏡花水月の事件は未だ決着していないのに、冬獅郎から求婚されたことに浮かれていた報いなのだろうか。昨日までの幸せで浮き上がりそうな気持ちはすでに微塵も残っておらず、孤独と焦燥だけが乱菊を塗り込めていた。
「どうしてみんな…。冬獅郎さんや絢女までみんな…」
みんな?
乱菊ははっとした。
「みんなじゃない…」
彼女は漸く、気が付いた。
皆が眩惑されて乱菊を忘れているのではない。乱菊が鏡花水月が作り出したまやかしの中にいるのだ。
何故、今まで気が付かなかったのだろう。目覚めた時から、狂っていたのに。監獄のようでいて、人を閉じ込める役には全く立たない見知らぬ部屋。人気がないのに手入れが行き届いた建屋。何の咎めなく脱出出来たこと。
全てが鏡花水月の術中にあるのを示していたというのに。
万全ではないとはいえ、絢女がいる護廷で鏡花水月を発動させることは危険だ。人ひとりの記憶を全員から抹消するなど、どこかに綻びが出る。だが、乱菊だけを幻惑の中に閉じ込めるのなら、それは易い。
自らが鏡花水月に囚われていると知った乱菊に、絶望と希望が同時に押し寄せてきた。
乱菊は自力では鏡花水月から逃れられないだろう。鏡花水月の最終的な目的は分からないが、少なくとも、彼女を殺す意図はないようだ。もし、彼女の殺害が目的であるのなら、悪夢を見た最初の晩にでも容易く殺せたはずだからだ。今までの悪夢と、そして現在置かれている状況を鑑みると、乱菊を精神的に追い詰めることを意図しているように推察出来る。だとすると、鏡花水月は執拗に悪夢を、彼女に見せるはずだ。五感の全てを支配する鏡花水月によってもたらされる悪夢は、乱菊を恐怖に慄かせるのに充分すぎる力を持っていた。
だが、囚われているのが自分一人なら、きっと助けに来てくれる、と信じる心もあった。冬獅郎が、絢女が、ギンが、見捨てるはずがないという、ゆるぎのない信頼が乱菊の心を支えた。「見たことがない」と切り捨てられた痛みも、困惑を浮かべた視線に対する悲しみも、あれはまやかしに過ぎず、本物の冬獅郎や絢女ではないと分かってしまえば安堵に塗り変わる。
「ギン…」
乱菊が想ったのはギンだった。どんなに意志が強固な者でも保って半月。一月の刑期など万に一つも、正気を保てるはずがない。そう信じられていた色絶無の刑を、絢女の為に耐え抜いて戻って来た幼馴染を、乱菊は強く心に描いた。
もし、乱菊が鏡花水月の悪夢に負けてしまえば、やっと幸せを掴もうとしているギンも、絢女も、その幸せを零してしまう。自分が怪我さえしなければと悔やむ絢女の姿も、その絢女の怪我の原因を作ったのは自分だと自責するギンの姿も、乱菊には容易に想像がつくのだ。冬獅郎もどれほどに苦しむことだろう。護ってやれなかったと、自分を許せなくなる冬獅郎の未来も乱菊には見えていた。
「絶対に冬獅郎さんは助けに来てくれる…」
だから、負けない。
悪夢に屈したりしない。
乱菊が心に強く誓った時、不意に光が失われた。
「なっ!?」
辺りは真の暗闇だった。何も見えない。手を彷徨わせれば、地面に生えている雑草や周りを囲む木立の枝に触れるけれど、何ひとつ視界に入らない闇の中で、くすくすと忍び笑う女の声を聞いた。
「誰!?」
思わず乱菊は叫んだ。
ふっと、鼻先を甘い香の匂いが掠め、先ほどまで離れたところで聞こえていた笑い声が、いきなり近くなった。
「殊勝だこと…」
嘲りを含んだ声音が、乱菊の耳元で囁いた。
「ひっ…」
湿った吐息に耳朶を嬲られ、乱菊は思わず後ずさった。
「競争しましょう」
くすくすと笑いを混ぜながら、姿の見えない女は提案した。
「耐えられるかしらね。貴女の信じる助けが来るまで」
「…」
乱菊は答えなかった。ただ、心の中だけで、負けるものかと呟いた。
「逃げなさい、松本乱菊。そして、思い知るがいいわ。私からは決して逃れられないのだと」
光が戻った。
そして、乱菊は目覚めた時と同じ部屋に茫然と座り込んでいる己を見出して、愕然とした。
女の笑い声が遠ざかっていく。
「鬼さん、こちら。手の鳴る方へ…」
童遊びの囃し言葉が、禍々しくこだました。