惑い道


 階段を駆け上って来る荒々しい足音に、庄司は思わず斬魄刀の柄に手を掛けた。びりびりと尖った霊圧が近付いてきて、彼の緊張も高まった。いつでも抜刀できるようにと身構えて、彼は階段の方を睨み据えた。
 だん、と足音は最上階まで来た。庄司が斬魄刀を握る手に力を込めた時、足音の主が視界に入った。
「日番谷隊長!?」
 慌てて、庄司は斬魄刀から腕をもぎ離した。姿勢を正した彼に、
「姉さ、いや、絢女隊長に面会だ」
とぶっきらぼうに言い放ち、大股に冬獅郎は彼の脇を通り抜けた。
 庄司は目を丸くした。平隊士に過ぎない庄司は冬獅郎と言葉を交わしたことはない。だが、自隊の隊首の実弟であり、副隊長とは家族同然の幼馴染である冬獅郎は五番隊を訪れることが多かったから、姿はしょっちゅう見かけていた。姉である五番隊隊長と同様に、地位が下の者にも隔てなく接するその姿に好感を抱いていただけに、庄司を無視するような態度に驚いたのだ。だが、すぐに、それは冬獅郎が動揺しているせいだと気付いた。
 冬獅郎は訪いも入れずに乱暴に扉を開けるや、室内に駆け入った。
「姉さま!」
 切羽詰まった声が姉を呼んだ。
「乱菊がいなくなった」
 冬獅郎の動揺に何事かと身構えていた絢女も、その一言で凍った。思わず、起き上がろうとして、
「う…」
と寝台に崩れた絢女を、
「隊長!」
と護衛に付いていた八席が大急ぎで支えて、抱え起こした。
 怪我の痛みを息を詰めてやり過ごした絢女は、顔を上げると冬獅郎を見た。
「どういうこと?」
 硬い声音の問いに、
「朝、目が覚めたら、乱菊がいなくなっていたんだ」
と冬獅郎も硬質な声で答えた。
「結界は?」
「もちろん、張っていた。七十番台だ」
「破られた形跡は?」
「ない」
「そう」
 絢女は肩で大きく息をした。
「結界は、もう解いてしまったの?」
「いや。まだ保持している」
 冬獅郎の返答にひとつ頷くと、
「庄司、入って来て」
と彼女は廊下で警戒に当たっている隊員を呼んだ。呼ばれた庄司が直ちに室内に入ると、
「今の話、聞こえていたわね」
と絢女は確認した。
「はい」
「それなら、事態の把握も出来ているわね」
「はい」
 絢女は次に傍らで肩を支えている八席の海内を見遣った。彼女がしっかりと頷いたのを認め、絢女は部下たちに、
「私はこれから、日番谷隊長と十番隊隊長舎に検分に出ます」
と宣言した。
「庄司、あなたはまず、卯ノ花隊長に私が出たことを報告しなさい」
「はっ!」
「それから、二番隊。砕蜂隊長に伝令」
「はっ!」
「海内八席は三番隊。市丸隊長を十番隊隊長舎にお連れして」
「はい」
「行きなさい」
 絢女の命令に、警護に当たっていた二人の五番隊員は脱兎の如く、駆け出した。
「冬獅郎」
 姉に促され、冬獅郎は絢女を抱きかかえた。絢女は寝台の傍らに置いていた秋篠を胸に抱いて、冬獅郎の腕に納まった。
「瞬歩を使って、大丈夫か?」
 怪我をしている姉を気遣って尋ねたが、
「構わない」
と絢女は応えた。
「それよりも、急いで」
 頷くと同時に、冬獅郎は床を蹴った。

 瞬歩が負担になったのだろう。十番隊隊長舎に着いた時、絢女は苦しげに眉を顰め、肩で呼吸をしていた。
「姉さま、すまない」
 弟の謝罪に緩く首を振り、絢女は息を調えた。
 冬獅郎は隊長舎に上がり、寝室の前に絢女を連れていった。十番隊隊長舎の寝室には、冬獅郎が張り巡らせた強固な結界があった。席官レベルではまずこの結界は破れないだろう。隊長格ならば突破出来るが、冬獅郎に気取られずにというのは無理だ。
「この結界は内側からも術者が解かないと出られないものね」
 絢女の確認に、冬獅郎は肯定した。
「昔、それで痛い目にあったからな」
と彼は苦い顔をした。十一年前の夏。あの忌まわしい叛乱の折、藍染の死に錯乱した桃を護る為に張った結界・鏡門は、外からの侵入は拒んでも内部からは容易に破れるものだった。結果、鬼道を得手とする桃は冬獅郎さえ気付かぬうちに結界を脱出し、藍染によって重傷を負わされたのだ。
 そんな経験があるだけに、結界は内からも外からも、術者である冬獅郎自身が解くか、強行突破しない限り抜け出せない強力なものが用いられていた。
「中に入れて」
 絢女に促され、冬獅郎は結界に亀裂を入れ、内部に入った。すぐに、結界を閉じて、絢女を伺う。
「鏡花水月が発動した痕跡が残っているわ」
 冬獅郎は唇を噛み締めた。
「乱菊は?」
「いない」
 簡潔な絢女の答えに、冬獅郎は更に強く唇を噛んだ。
「どうやって出て行ったんだ…?」
 彼は呻いた。
「それとも、ずっとあいつと一緒だったと思っていたのはまやかしか? 昨日のうちからあいつは攫われていたのか?」
 うなだれる冬獅郎に絢女は強い口調で、
「ギンは桃ちゃんの偽物に気付いたわ」
と言った。
「ギンが言っていた。人ひとり完璧に真似るのは無理だって。姿形も、霊圧まで完璧に擬態しても、魂までは写せないって」
「姉さま…」
「ずっと一緒にいた乱菊が本物なのか、まやかしか区別が出来ないようないい加減な関係だったの?」
「そんなこと…」
 絢女は畳み掛けた。
「もし、私に幻惑を跳ね返す力がなかったとしても、ギンや冬獅郎や乱菊なら分かるわ。そうね…、道ですれ違って挨拶したくらいなら、さすがに気が付かないかもしれない。でも、一緒にいて、しばらく話していれば絶対に気が付く」
「…」
「冬獅郎はどうなの? 昨日、ずっと一緒にいた乱菊が本物なのか、乱菊に見えていただけの偽物なのか、分からないの?」
 冬獅郎は首を否定の方向に振った。
「本物だ。昨日、寝るまでは少なくとも、あいつは俺の傍にいたんだ」
 彼は断言した。
「しかし、だったら、乱菊はどうやって結界を抜けたんだ? 結界が破られていないと思っている俺の感覚が間違っているのか?」
 困惑げに絢女を見る冬獅郎に、
「一度、結界の外に出ましょう」
と絢女は言った。
 二人が結界外に出ると、報せを受けたギンが海内八席とともに十番隊隊長舎に駆け込んで来たところだった。
「絢女、冬獅郎はん! 乱菊がおらんようなったって!?」
 ギンも動揺していた。絢女の意識が回復し、関係を修復出来たと安堵していた油断を突かれた心地だった。
「結界は張っとったんやね?」
「ああ」
「内部に鏡花水月が発動した痕跡が残っていたわ。おそらく、冬獅郎が結界を張る前から、気配を殺して寝室に潜んでいたのでしょうね」
「そいで、冬獅郎はんたちが寝入ってから、乱菊を攫た言うん? けど、結界はどうやって破ったん?」
「一度だけ、誰にも気付かれずに出られる機会があったの」
と絢女は告げた。
「いつ!?」
 冬獅郎が叫んだ。結界を破られていないと誤認しているのでなければ、そんな機会があったとは信じられなかった。
「いつなんだ、姉さま」
 詰め寄る冬獅郎に苦渋の表情を向け、絢女は教えた。
「冬獅郎が私に知らせる為に結界を出た時」
 虚を突かれ、冬獅郎は茫然と腕の中を姉を見下ろした。
「そんな…馬鹿…な」
 信じられないと彼の目は訴えていた。
「結界を開いたのはほんの一瞬だ。俺の体が通るギリギリで、すぐに閉じた」
「でしょうね」
 絢女は弟の反論を肯定した。
「だから、それが可能か確かめる為に、ギンと海内八席に来て貰ったのよ」
 自分まで名指しされると考えていなかったらしい。海内が目を見開いて、絢女を見直した。
「冬獅郎、ギンと海内八席を結界の中に入れて」
 冬獅郎は無言で結界を開いた。まさかに他隊の隊長の私室に足を踏み入れることになると想像もしていなかった海内は、ギンの後ろからおっかなびっくりで室内に足を踏み入れた。乱菊がいなくなって、取るのもとりあえず、絢女の許に走ったのだろう。寝乱れた敷きっ放しの布団に海内がどぎまぎしているそばで、絢女はギンに、
「私と海内八席を隠行で隠せる?」
と尋ねた。
「この部屋を出るくらいの距離でええんやね?」
「ええ」
「やったら、出来るわ」
 絢女は部下を向いた。
「海内八席。私を抱えて、冬獅郎が結界を開いたら、すぐに一緒に外に出て。冬獅郎は気にせずに結界を閉じるから、ぐずぐずしていたら、結界に弾かれるわ。出来るだけ急いで行動して」
「はい」
 絢女が何を意図しているのか、海内にも分かった。彼女は冬獅郎から絢女を受け取ると、しっかりと抱きかかえた。
「絢女隊長。苦しくはないですか?」
「私は大丈夫。私を気遣っていたら動作が遅れるわ。とにかく急いで冬獅郎に続いてね」
「はい」
「冬獅郎」
と絢女は弟に視線を戻した。
「ギンの穏行で私と海内八席の気配が消えたら、十数えてから、結界を出て」
「分かった」
 冬獅郎がギンに頷いてみせた。ギンも頷き返した。
 海内は自分が隠されているという自覚を持てなかった。だが、すぐに後に続けるように真後ろに移動しても冬獅郎が反応しなかったことで、漠然と隠されているのかもしれないと感じた。息を詰めて、背中を見つめていると、いきなり、冬獅郎が動いた。過たず、海内も後に続く。結界が開かれ、狭い隙間から冬獅郎を追って飛び出そうとした。
 が、結界に弾かれた。閉まろうとする結界に肩を強打され、悲鳴を上げて、海内は尻餅をついた。抱えていた絢女が衝撃に小さく呻きを漏らしたのが聞こえた。
「絢女隊長、大丈夫ですか!?」
 肩の痛みを堪えて、絢女を検める。絢女は苦痛に顔を歪めなからも、
「大丈夫…」
と細い声で呟いた。
「申し訳ありません。私が間に合わなかったから…」
「気にせんでもええよ」
 絢女でなく、ギンが答えた。
「こうなることを承知で、絢女はキミに挑戦させたんやから」
 彼は海内の傍らに屈み込むと、彼女の肩に手をかざした。
「市丸隊長っ!? 私は大丈夫です」
 ギンが回復鬼道を遣っていると気付いて、海内は慌てて留めようとしたが、
「ええから」
と軽く制されてしまった。
 再び結界を開いて中に入って来た冬獅郎にまで、
「すまない。痛かっただろう」
と詫びられて、海内はもう首振り人形のようにかぶりを振るしかなかった。
「海内八席は瞬歩は得意なの。瞬歩の速さなら、五番隊の上位席官の中でも、一、二を争うくらいよ」
 絢女が言った。
「そうやろねぇ。上位席官であれだけの速さがあれば上等や」
とギンも肯定した。
「せやけど、海内八席でも間に合わへんかったね」
 絢女はギンを見上げた。
「あなたなら突破できる?」
「五分五分、いうところやろね」
とギンは飄々と、絢女を抱え上げた。
「さっきと同じにな」
 彼は冬獅郎に目配せした
「気配が消えたら、十勘定してから動いてや」
「ああ」
 畳の上に尻餅をついた姿勢のままの海内の傍らで、ふっとギンと絢女の姿が掻き消えた。霊圧さえ感じず、きょろきょろと辺りを見回しても二人ともどこにもいない。
「これが穏行…?」
 呆然と海内が呟いた直後、冬獅郎が結界を開いた。抜けられるだけのぎりぎりの幅しかない狭い隙間を、目にも留まらぬ速さで抜けた冬獅郎は自身が抜けた瞬間に結界を閉じた。海内の目にはそれほどの早業に思えた。だが、
「絢女隊長? 市丸隊長?」
 閉じられた結界の中で、彼女の呼ぶ声に応える者はいなかった。
(市丸隊長…。五分五分だっておっしゃっていたけど…。まさか、あの一瞬で日番谷隊長と一緒に抜けたの?)
 信じられない思いで彼女が結界の壁を見詰めていると、不意に結界がかき消えた。
 消えてしまった壁の向こう側に、冬獅郎とギン、そしてギンに抱きかかえられた絢女を認めて、海内はギンが結界を抜けるのに成功したことを知った。隊長と比べるのはおこがましいと承知していても、彼我の差に愕然とせずにいられなかった。
「ボクでギリギリや。今回は上手いこと抜けられたけど、もう一遍やって、次も成功するかは自信ないわ」
とギンが傍らの冬獅郎に所感を述べた。
 冬獅郎の拳がだんっ、と強く壁を叩いた。絢女の指摘に、まさかと否定したが、ギンによって乱菊を連れ出すのが可能であったことが証明されてしまった。他でもない自分自身が、結果として乱菊の誘拐に加担させられたという事実に、冬獅郎は歯噛みした。
「地獄蝶を飛ばせば良かった…」
 結界を破られた痕跡がなかったことから、もしかしたら、鏡花水月の幻惑で乱菊を認識出来なくなっているだけなのかもしれないとは疑ったのだ。気配を感じないだけで、まだ室内にいるのではないかと。だからこそ、結界を保持したままで姉の許に走った。だが、この部屋を離れるべきではなかったのだ。乱菊がまだいるかもしれないと疑っていたのならなおのこと、ここを出てはならなかったのに、と冬獅郎は悔やんだ。乱菊がいないことに動揺して、頭に血が昇っていたのだ。
「自慢するわけやないけど、ボクの瞬歩は速いで。砕蜂はんは隠密機動総司令官やから別格として、隊長格でボクと同じか、ボクより速いかもしれへんのは朽木はんと…、後はせいぜい大前田はんくらいのはずや」
とギンが断言した。
「せやから、誰でも出来るわけやあらへん。人材は限られる」
「大前田副隊長?」
 意外さに思わず呟いた海内に、
「見かけで判断したらあかんよ」
とギンは柔らかく諭した。
「大前田はんは隠密機動や。隠密機動の分隊長なら、他はともかく、瞬歩は鍛え抜かれとるはずやから、相当に速いで。ボクに劣るようなら、砕蜂はんに付いていけへんもん」
 彼は冬獅郎に視線を戻した。
「せやから、貴族の私兵くらいじゃ、とてもやないけど無理や。けど、隠密機動の分隊長ならいける」
 冬獅郎は眉を上げた。
「隠密機動を疑っているのか!?」
「疑ごうとるというのとはちょっと違うな。鏡花水月の暗示で操られとる可能性がある、言うとるん。もちろん、鏡花水月の新しい主自身がそれだけの能力を持っとって、自ら動いたいう可能性も捨てられへんよ。けど、今まで、ずっと一乗寺貴紗を使うて裏で暗躍しとったんや。急に行動を変えるとは思えへんなァ」
「…暗示で操られているなら、姉さまには解けるな」
 冬獅郎は縋るように姉を見た。
 絢女はそれには直接応えず、代わりに、自分を抱きかかえたままのギンを見上げた。
「私をもう一度、四番隊に連れて行ってくれる?」
 ギンも絢女を見下ろした。
「今の絢女には危険やで」
と止めるというよりも、確認する口調で告げる。
「分かっているわ。でも、乱菊と引き換えには出来ない。ギンだってそうでしょう?」
「うん、そうやね」
 会話が見えずに立ち竦む冬獅郎と海内を等分に見て、絢女は静かに説明した。
「これから、四番隊に行って、急速回復の施術を受けます。今の私は卍解もままならない…。浄めの風を吹かせる為には、どうしてもこの怪我を治す必要があるんです」
 急速回復術は回復鬼道を駆使して、治療対象者の怪我や病を文字通り急速に、無理矢理に回復させる方法である。だが、本来の自然治癒力を曲げて、力ずくで治癒させるだけに弊害も大きかった。回復させる怪我の程度にもよるが、施術を行った四番隊士は霊力を一気に消耗して、自身がしばらくは寝たきりの病人状態になってしまうこともしばしばだ。また、回道を受ける側も、治癒させる部位以外に不自然な負担がかかる。従って、四番隊も滅多なことでは急速回復の施術は行わない。だが、乱菊が誘拐されてしまった現在の状況を鑑みれば、絢女はどうしても卍解出来るまで回復しなければ、動きが取れないのだ。
「急速回復術で動けるようになったら、私はそのまま、松本副隊長の捜索に入ります。松本副隊長を無事に保護するまでは五番隊の全指揮権を預ける、と雛森副隊長に伝えて下さい」
 隊首の言葉に、海内は片膝で跪いた姿勢で、
「はい」
と応じた。
「他隊のキミに頼むんも申し訳ないけど、ボクとこも同じことを伝えて貰えへんかな? 事態の詳細を海内八席は一番理解してはるから、キミから説明して貰うんがイヅルも納得しやすいはずや」
とギンが続け、
「十番隊も頼む。伝言の相手は堀田第三席と、志藤第四席」
 冬獅郎もそれに倣った。
「承知いたしました」
 三人もの隊長の信任を受けた海内は恭しく一礼してから、瞬歩で伝令に走った。そして、ギンと冬獅郎は絢女を連れて四番隊に向かった。

 四番隊に戻ると、庄司から事情の説明を受けていた烈が絢女の病室で待っていた。山田花太郎が烈の傍らに控えている。
「卯ノ花隊長」
 すでに覚っていた烈は、絢女に皆まで言わせず、
「急速回復術ですね」
と確認した。
「はい」
「絢女さんは今、妊娠中です。しかも、先日、切迫流産を起こしたばかり。急速回復術は危険ですよ」
「存じております」
と絢女は頷いた。
「ですが、急速回復術を受けなければ、卍解も出来ません。乱菊を助ける為には、鏡花水月に対抗できるだけの能力が必要なんです」
「そうですか」
「この子の為に乱菊を見捨てるなんて出来ません。もし、そうなったら、私は一生、後悔します。そして、この子にまで重い咎を負わせることになってしまうんです」
 烈は深い溜息をついた。
「絢女さんならそうおっしゃるだろうと思っておりました」
と彼女はギンと冬獅郎に眸を向けた。
「秋篠の解放は必要最低限に抑えるように注意して下さい。それから、瞬歩と鬼道は厳禁です。瞬歩で移動する必要がある場合は、今のように、お二人のどちらかが絢女さんを抱えて行って下さい。絢女さんは本来、絶対安静の怪我人だったことを肝に銘じて、余分な負担をかけないように」
 烈に厳しく言い含められて、男二人は力を込めて頷いた。烈は山田花太郎に向き直った。
「山田七席。お願いします」
「はい」
 いつになく気合の入った厳しい表情で、花太郎は背筋を伸ばした。
「市丸隊長、絢女隊長を寝台に」
 花太郎に指示されて、ギンが絢女を寝台に下ろす。
「申し訳ありません、絢女隊長。御召し物を脱いで、俯せに横になっていただけますか」
「はい」
 気遣った冬獅郎は病室を出た。ギンが絢女を手伝って衣服を脱がせ、包帯も外して、彼女を俯せに寝かせた。
 露わになった背中にざっくりと斜めに走る深い傷を見つめ、ギンは息を詰めた。花太郎はにこりとギンに笑いかけた。
「痕も残さずに綺麗に治してみせますから、市丸隊長、ご心配なさらないで下さい」
「頼むわ…」
 絢女の背中に手を触れた花太郎は回道の詠唱を始めた。
 ギンと烈が見守る中、花太郎は全霊力を絢女に注いだ。

 病室の前の壁に凭れ、冬獅郎は苛立ちながら、施術が終わるのを待っていた。
 こうしている間にも、乱菊は非道い目に遭っているかもしれない。そう考えるといたたまれなかった。「本来ならば、絶対安静」の姉にまで、過重な負担をかけてしまっている。そして、それを招いたのが自身の迂闊さだと思うと、冬獅郎は自分で自分を氷輪丸の刀の錆にしてやりたい心地だった。
「日番谷」
 がっつりと自己嫌悪の沼に沈み込んでいた冬獅郎は、足音もたてずに近付いて来た砕蜂に声を掛けられるまで気が付かなかった。
「絢女隊長は中か?」
「ああ。急速回復の施術中だ」
「そうか」
と砕蜂は頷いた。
「庄司から報せを受けて、十番隊隊長舎に向かう途中で海内に会ってな」
「ああ」
「松本を連れ去った方法を聞いた」
 冬獅郎は砕蜂を検めた。
「市丸でギリギリだったのなら、松本を連れ去れるだけの能力がある者は、確かに限られるだろう」
 隠密機動を疑っているギンの意見を肯定するかのような彼女の発言に、冬獅郎は怪訝に瞳を向ける。対して、
「私の部下に裏切り者がいるとは考えていない」
 きっぱりと砕蜂は言い切った。
「だが、操られている可能性までは否定出来ん。十一年前の井上織姫の例もある。認めるのは癪だが、鏡花水月の幻惑に嵌まってしまえば、本人さえ裏切り行為だと自覚せぬままに行動することもあると考えに入れるべきだ」
「そうか」
 彼女の冷静さは救いだった。それだけ、鏡花水月の底の深さを認識していることが見て取れた。
「私の部下が操られて加担したとするなら、可能性が高そうなのは裏挺隊隊長の真鍋だ」
 砕蜂は冬獅郎は見ずに、目の前の壁を見据えて告げた。
「大前田は体が大きすぎる。日番谷が通り抜けられるギリギリの幅なんて、体が閊えて抜けられるものか」
「確かに」
 いくら瞬歩が速くとも、横幅で無理があるという砕蜂の見解は冬獅郎も頷けるものだった。
「檻理隊隊長の御前崎の瞬歩はそれほど速くはない。もちろん、隠密機動だ。決して遅いわけではないが、分隊長の中で序列をつけるなら、一番劣る」
と部下の名を挙げながら、砕蜂は説明を続けた。
「真鍋は背丈は日番谷より低い。それに細身の男だ。市丸が抜けられた幅なら、問題なく抜けられるだろう。しかも、瞬歩は分隊長の中ではピカイチで速い。確実性がある」
「そうか」
「大前田に真鍋を連れて来るように命じた」
「手回しがいいな」
「部下を好き勝手に扱われては堪らぬからな」
と砕蜂は口許を歪めた。
 病室の扉が開いて、ギンが顔を覗かせた。
「終わったで」
との言葉に冬獅郎と砕蜂が病室に入ると、死覇装に着替えた絢女は椅子に腰かけていた。彼女を急速回復させた山田花太郎は霊力を使い果たして、絢女が使っていた寝台に代わりに寝かされていた。
 砕蜂は廊下で冬獅郎と話したことを絢女たちに繰り返し、間もなく、大前田に伴われて真鍋が来ることを教えた。
 待つほどのこともなく、大前田と真鍋がやって来た。
 真鍋の態度に不審な点は見受けられなかった。冬獅郎たちは尋問を砕蜂に任せることにして、黙って見守った。
「真鍋」
「はっ」
「昨晩から今朝にかけてのおまえの行動を確認したい」
 砕蜂の言葉に、真鍋の面に一瞬、戸惑いが浮かんだ。
「よろしいのですか?」
 逆に問い返されて、砕蜂は僅かに眉を上げた。
「構わん。全て話せ」
と内心の疑問を面には出さず、彼女は敢えて平然と命じた。
「砕蜂隊長に命ぜられた隠密作戦を遂行しておりました」
と真鍋は答えた。ピク、と砕蜂の肩が震える。
「隠密作戦の内容まで含め、詳しく説明せよ」
「はっ」
と頷いた真鍋は、冬獅郎が結界を張る前に十番隊隊長舎に侵入し、隠行を用いて隠れていたこと、明け方、眠っている乱菊をも隠行で隠し、冬獅郎が結界を開いた隙に脱出したことを説明した。この作戦は膠着した鏡花水月消失事件を打破する為に、乱菊を囮とするものだったと、彼は語った。
「山本総隊長も御承認され、松本副隊長ご自身も囮となることを了承されていると承りました。但し、日番谷隊長、市丸隊長、絢女隊長のお三方は、松本副隊長が囮となられることにご反対されているとのことでしたので、内密に作戦を決行する為に、このような手段となった。砕蜂隊長、これで間違いございませんか」
 真鍋の確認には応えずに、
「結界を抜けた時、松本は眠っていたのだな?」
と砕蜂は質した。
「はい。眠った振りでは鏡花水月の主に不審を抱かれるやもしれないので、松本副隊長は睡眠薬を服用する旨を伺いました」
「そういうことか」
 砕蜂は太い溜息をついた。
「真鍋」
「はっ」
「おまえにはつらいことを伝えねばならん」
 上官の陰鬱な表情に、真鍋の顔に不審が浮かんだ。
「昨日、おまえに囮作戦の決行を命じた私は、鏡花水月のまやかしだ」
「は?」
 きりりと引き締まっていた真鍋の顔が呆けた。
「それは…、どういう…」
「私は囮作戦など命じておらん。無論、元柳斎殿が作戦を了承した事実もない」
「!?」
 砕蜂は続けた。
「隊長格ですら欺かれる鏡花水月の幻術だ。真鍋が騙されたことを責めも咎めも出来ん。ただ、事実として、おまえは松本副隊長誘拐に加担させられたのだ」
 非情に告げられた真実に、
「そんな…」
と、真鍋はがっくりと床に頽れた。
 だが、そんな彼の衝撃に心を砕いてやる余裕は、冬獅郎にはなかった。
「連れ出した松本はどうしたんだ?」
と彼は性急に問い掛けた。つい、口調が詰問調になった。
「瀞霊廷の外れの林に置いてまいりました。砕蜂隊長、いえ、隊長に偽った者と打ち合わせした場所です」
 真鍋は答えた。
「案内しろ!」
「はっ」
 欺かれただけで、裏切る意図などなかった真鍋に、無論、否はない。
 ギンが絢女を抱きかかえ、冬獅郎、砕蜂、大前田とともに真鍋に続いた。

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2013.04.07