後ろの正面だぁれ
かごめ かごめ
籠の中の鳥は いついつ出やる
夜明けの晩に 鶴と亀がすべった
後ろの正面 だぁれ
乱菊は螺旋階段を駆け下りていた。背後からは一体の虚が醜悪でけたたましい笑い声をあげながら、彼女を追い立てていた。
円筒形の建物は螺旋階段だけが延々と続いている。どこにも出口はない。採光の為の窓も、照明すらないのに階段が視認出来るのは、これが現実ではないからだ。
現実ではない。鏡花水月が齎す性質の悪い幻覚の中にいる。それを乱菊は自覚していた。現実の乱菊は眠っていて、悪夢に魘されているだけかもしれない。或いは、どこかの広場を傍から見ると気が触れたかのように、むやみに走り回っているだけなのかもしれない。追いかけて来る虚だって、もしかしたら、小さな羽虫に過ぎない可能性だってある。
だが、幻覚と知っていても、乱菊は逃げずにはいられなかった。五感の全てを鏡花水月に支配されている彼女にとって、虚の鋭い牙も、刃のような爪も現実と同じだった。よろめいた隙に距離を詰められ、切り裂かれた腕は、ずくずくと熱を持って鈍い痛みを乱菊に与え続けていた。
(助けて!)
乱菊は声にならない声で叫ぶ。
(助けて、冬獅郎さん!)
彼女は自力では、この幻覚の牢獄からは抜け出せない。彼女に出来ることは信じて逃げ続けることだけだった。冬獅郎も、絢女も、乱菊を案じ、捜してくれているはずだ。きっと助けが来る。だから、それまではどんなにつらくとも、まやかしに負ける訳にはいかないのだ。
走り続けて、心臓はばくばくと破裂しそうなくらいにせわしなく脈動していた。疲れきった足は前に進むことを拒み始めていた。それでも、乱菊は気力だけで駆け続けた。螺旋階段が途切れないことだけが、乱菊には救いだった。行き止まりになれば、逃げ場を失う。
(助けて、助けて、助けて!)
幾度目かしれない叫び。けれども、彼女が信じている者は、まだ現れない。
足がもつれた。
階段を踏み外し、乱菊は五段ほどを勢いよく滑り落ちた。背中を強打し、痛みで一瞬、呼吸が止まった。それでも、追われる者の本能で、呻きながらも跳ね起きようとしたのだ。
だが、一瞬遅かった。虚の獣のような前肢で体を押さえ込まれてしまった。耳障りな哄笑が一際高く響き渡り、乱菊の眼前に虚の顔面が迫った。大きく開いた口から、涎を垂らさんばかりに舌なめずりする毒々しく赤い舌と鋭い牙が覗いている。乱菊は絶望的にそれを見詰めるしかなかった。強く押さえつけられた腕が、じん、と痺れて、最早、抵抗すら出来ない。
虚の牙が間近に迫る。
ちくり、と痛みを感じた。
喉笛を喰い千切られる。
(冬獅郎さん!)
最期の予感に、乱菊が思わず瞑目した時。
風が吹き上がった。
螺旋階段の下から上に向かって、強い風が吹き抜けた。
咽喉にかかった牙の痛みが不意に消え果て、乱菊はそろそろと薄目を開いた。
もろもろと崩れてゆく。螺旋階段も、周りを囲む円筒形の壁も、虚さえも一瞬にして崩れ落ち、風に吹かれて砂塵のように舞い散った。
乱菊の眸に、青空が広がった。
いつの間にか、彼女は草原に仰向けに横たわっていた。
さわさわと優しい風が頬を撫でる。起こった事態に思考が追い付かず、戸惑いと共に視線を動かそうとした彼女の耳に、
「乱菊!!」
名を呼ぶ、声が響いた。
直後、彼女は広やかな男の胸に抱きすくめられていた。
「乱菊、乱菊、乱菊!!」
男は狂ったように、彼女の名を繰り返しながら、ぎゅうぎゅうと抱きしめる腕の力を強めた。
「…冬獅郎さん…?」
乱菊は小さく呟いた。その幽かな声が耳に届いたか、男は息苦しいほどに強めていた腕の力を緩めた。ほんの僅かに体を離して生じた隙間から覗き込んできた顔は、ずっと信じて待ち続けた人だった。
「遅くなって、すまない」
謝罪の言葉が降って来る。見上げた乱菊の眸に双顆の翡翠が煌めいた。
「…冬獅郎さん…」
乱菊は肺がからっぽになりそうなほどに、大きく息を吐き出した。冬獅郎の肩越しにギンと彼に抱きかかえられた絢女が見えた。乱菊の顔がくしゃりと安堵に歪んだ。
「…あたし…、助かったんですね…」
震えながら呟く乱菊を、冬獅郎はもう一度、抱きしめた。
「怖かっただろう? 遅くなって本当にすまない」
繰り返される謝罪に、ふる、と乱菊は首を横に振った。
「助けに来て下さるって信じていました」
「そうか…」
乱菊は面を上げると、背後で見守っているギンと絢女に視線を向けた。
「ギン、絢女、ありがとう」
ギンの腕に抱えられた絢女が、複雑な苦微笑を浮かべた。
「遅くなってごめんなさい」
「ううん…」
「ごめんなさい。本当に…。私が怪我なんかしていなければ、こんなことにならなかったのに」
「そんなこと…」
乱菊は大きくかぶりを振った。
「怪我なんて、絢女のせいじゃないでしょう。助けてくれて、あたしは感謝しているのに謝らないでよ」
「…そっか…。ありがと、乱菊。間に合って良かった」
「うん。ありがとう。大怪我しているのに無理させちゃってごめん」
「大丈夫よ」
と絢女は緩く笑ってみせた。
「…鏡花水月は…?」
幻覚は破られたが、それを作り出した根本はどうなったのだろう。気になって尋ねた乱菊に、ギンが指先だけで彼女の背後を示した。振り向いた乱菊は草原に転がる一振りの刀を認めた。
「あれ…、鏡花水月?」
ギンは頷いた。
「そうや。休眠したんや」
「休眠? どういうこと? 鏡花水月の主は…?」
「死んだ」
と、今度は冬獅郎が簡潔に答えた。
「…そう…ですか…」
冬獅郎の有無を言わせない口調から、おそらく、彼が鏡花水月の主を始末したのだと察せられた。それ以上の問いは憚られて、乱菊は口を噤んだ。何故、彼女が狙われたのか、その理由が分からないだけに、助かったというのにどこか釈然としない。居心地が悪くて首を竦めた乱菊を、やおら、冬獅郎が抱えて立ち上がった。
「ちょ、冬獅郎さん!?」
乱菊は慌てた。対して、
「四番隊に行く」
と彼はまたもや端的に告げた。
「うん、そうやねぇ。怪我しとるかしれへんし、精神的にもぼろぼろのはずや。四番隊で診て貰た方がええ」
ギンが賛同し、絢女も頷いた。
そのまま、乱菊を抱いたままに歩き出そうとする冬獅郎に、
「大丈夫です。自分で歩けますから」
と乱菊は降ろすように懇願した。しかし、
「大丈夫なわけ、ないだろうが」
冬獅郎の強い声が反論した。
「何をこんな時まで強がっているんだ?」
と冬獅郎は真正面から問い掛けた。口籠る乱菊に、
「乱菊、こういう時には甘えたっていいのよ」
と絢女がゆったりと口を挟んだ。
「怖かったんでしょう?」
穏やかで柔らかな彼女に諭すように質され、乱菊の強張っていた心が急速に緩んだ。
「…あたし…」
泣き笑いのような情けない表情で恋人であり、上司である男と目を合わせると、
「意地っ張り」
と言葉とは裏腹な優しい視線で見下ろされた。
「今日くらいは素直に甘えていろ」
俺様な命令口調だが、乱菊を見つめる眸はやはり柔らかい。
「はい…」
と乱菊が小さく頷くと、それでいいと冬獅郎は頷きを返した。乱菊は彼の胸に身体を凭せかける。安堵がじわりと身裡に広がっていった。
真鍋が乱菊を置き去りにした林には、すでに彼女の姿はなかった。
予想された事態といえ、落胆を隠せず、冬獅郎は呆然と立ち尽くした。真鍋も言葉もなくうなだれている。
瞬歩で移動する間、烈の忠告に従い、ギンに抱きかかえられていた絢女が林に降り立った。彼女は周りを値踏みするように検分していたが、やがて、少し離れたところに生えている周辺では一番大きな木に歩み寄った。両手を幹に触れさせ、絢女は呼吸を整えた。
「何をしておるのだ?」
と質そうとした砕蜂をギンが制した。静かにしていろ、というギンの身ぶりに、砕蜂は不審げな視線を返しつつも従った。
しばらくして、絢女は木から手を離した。
「乱菊が二人いたそうです」
と仲間たちを振り返って、絢女は告げた。
「この林の向こうから来た乱菊が、真鍋さんが運んで来た意識のない方の乱菊を連れ去ったということです」
「は? どういうことだ?」
訳が分からずに表情を険しくした砕蜂に、
「あの木に教わりました」
と絢女は応じる。
「木に、だと?」
木々と交感出来る絢女の特殊能力は、親しい者しか知らない。隠しているわけではないが、わざわざ吹聴するようなことでもないからだ。
「絢女は木と会話が出来るのや」
ギンが説明した。
「どんな木でもというわけではありません。相手の木にもそれなりの霊格が必要です。この辺りの木はまだ若くて霊格が足りません」
周辺では一番大きく、霊格が高いと思われる木を選んで交感を試みたのだが、やはり、意思を交わすのは難しかった。木の声は切れ切れにしか伝わらず、意識も濁っていたので、内容を理解するのに時間を要してしまった。
「何とか、それだけは聞き出したのですが…」
絢女に対して、真鍋が困惑を深めて、
「松本副隊長がお二人とは、どういうことなのでしょう」
と問い掛けた。
「松本の義骸の可能性があるな」
と絢女ではなく、砕蜂が推察を返した。
「鏡花水月の主は松本の義骸に入っているのか?」
冬獅郎が顔を顰めた。
「主と決めつけるんは早い気ィがするけど、まぁ、確率は高そうやね」
絢女は林を抜ける方角を指した。
「あちらの方に歩んで行ったそうです」
と告げる。その直後、彼女の周りで風が渦を巻いたかと思うと、いきなり吹き抜けた。目を見張る砕蜂らに、
「風に伝言を乗せました。同じ顔をした金髪の女の二人連れを見たなら、教えて欲しいと」
「そんなことも出来るのか? 便利だな」
「応えてくれるのはかなり霊格の高い木だけですから、それほど便利でもありません。霊格が高くても、面倒だと応えてくれないこともありますし…」
本当はもっと強い風を吹かせたい。瀞霊廷中の木々に伝わるような風を。
だが、鏡花水月に対抗する為の切り札といえる卍解を、真に必要な時に遣う為には力を温存しておく必要があった。山田花太郎の犠牲で怪我だけは綺麗に回復させたが、衰えてしまった体力までは回復していない。むしろ、急速回復術の反動でかなり疲労している自覚がある。それだけに、思うままに力を操れない今の自分が絢女は恨めしかった。
(乱菊…。絶対に助けに行くから、それまで悪夢に負けないで…)
唇を噛み締め、もどかしい思いで、絢女は返答を乗せた風を待った。見守る冬獅郎らの表情も硬い。
ほどなく、戻りの風が吹いた。風は絢女に纏わりつくかの如く渦を巻いた。
「
香柏は瀞霊廷の外れにある主に下級貴族が住まう集落である。ここから瀞霊廷中心部に戻る道筋に近いところにあり、先ほど、絢女が指し示した方角に向かって、真っ直ぐ林を抜けると辿り着ける場所だ。
ギンが再び絢女を抱き上げた。それを合図に、全員が瞬歩で件の桂の木に向かって駆けた。
香柏の桂はかなりの古木で、絢女と意思を交わすのに申し分のない霊格を備えていた。樹高も八丈 *1 近く、集落全体を見渡せる。
林の中でしたのと同じように桂の幹に掌を押し付け、絢女は意識を集中した。霊格の高い古木だけに、先ほどのように苦労することなく、あっさりと交感に成功した。流れ込んでくる古木の意識も極めて明瞭で、人の言語に置き換えるのも滑らかに行えた。
「死覇装を纏った乱菊…、おそらく乱菊の義骸で間違いないでしょう…、それが夜着の乱菊を負ぶってこの集落まで来たそうです」
と絢女は桂の木から得た情報を、人の言葉に置き換えて語った。
「この集落の西の外れに、壊れかけた炭焼き小屋があるそうです。そこで、二人の男の人と落ち合って…」
彼女の声が途切れた。
幽かに息を呑んだ気配に、冬獅郎は嫌な予感がした。
「姉さま、男と落ち合ってどうしたんだ!?」
思わず、声高になった冬獅郎に、
「消えた、と桂の木はおっしゃっているわ…。男たちがそれぞれ一人ずつ乱菊を抱きかかえた直後に、消えてしまったと」
「どういうことだ? まさか、鏡花水月は木にまで幻惑を…」
冬獅郎は最悪の予感に青褪める。だが、
「違う。瞬歩よ」
と絢女は明確に弟の疑念を否定した。桂の木から手を離し、彼女は冬獅郎に向き直った。
「瞬歩で移動したのよ」
「瞬歩だって?」
「ええ、そう。瞬歩は霊格の高いこの桂の木でも追えないの。彼らがどこに行ってしまったのか、もう木々に尋ねても分からないわ」
絢女の表情にも焦燥が滲んでいた。乱菊の義骸に入った者が乱菊を連れ去ったのなら、後を追えると思っていた。義骸で瞬歩は使えないからだ。絢女と交感可能なのは霊格の高い古木だけだが、木々はお互いに交感が出来る。古木は若い木の意思を汲み上げることが可能なのだ。それ故、古木を伝手に尋ねてゆけば、義骸の足取りは掴めると考えていたのだが、瞬歩で移動されてしまったら、木々が認識することは不可能になってしまう。
「絢女隊長、落ち合ったという男の人相風体は分からぬか?」
砕蜂が問うた。
「黒装束だったそうです」
「…刑軍は黒装束だな」
苦々しげに、砕蜂は呟いた。裏挺隊の真鍋が欺かれて利用されたのだ。刑軍とて、利用されていないとは断言できない。
「私を襲った一乗寺の私兵も黒装束でした」
絢女が添えた。
「十番隊隊長舎から抜ける為にはどうしても瞬歩の速さが必要となりましたが、今回の場合は瞬歩が出来ればよくて、速さは問題ではありません。貴族の私兵でも充分に可能です」
「一乗寺の私兵はあらかた捕らえた」
と砕蜂は応じた。
「一乗寺に強制捜査をかけた時にな。一匹の鼠も残さず捕えたのかと問われると、絶対とは言い切れぬが…」
ギンが溜息を零した。
「手分けして捜したいトコやけど、絢女の傍に付いてとるモン以外は、鏡花水月の幻術に対抗出来ひん。別れるんは得策やないなァ」
「一乗寺の屋敷は、今、どうなっているのでしょう?」
と絢女が砕蜂を顧みた。
「刑軍の監視下にある」
「私たちが入って調べてもよろしいでしょうか?」
絢女の言葉に、ふむ、と砕蜂は考え込んだ。
「そうだな。我らでは目眩ましされて気付けぬこともあったかもしれん。いいだろう」
と彼女は頷いた。
「私は十二番隊に行ってみよう。涅が一乗寺貴紗をどうにかしていないか確認する」
「頼む」
と冬獅郎が頭を下げた。乱菊を救い出す為に、何でもいいから手掛かりが欲しかった。涅マユリが貴紗に対してどんなに非情なことを行おうと、それで乱菊を救う糸口が見つかるのなら今回ばかりは非難しない。それどころか、冬獅郎自身が拷問してでも貴紗の口を割らせたいとまで思い詰めていたのだ。
砕蜂は無言で頷いた。彼女は大前田と真鍋を促して、十二番隊に向かった。
冬獅郎とギンは絢女を連れ、祈るような心地で一乗寺の屋敷に走った。
虚に引き裂かれた腕も、階段で強打した背中も、鏡花水月による幻覚に過ぎなかった。精神的には疲弊しきっていたものの、乱菊の体に外傷は全くないことが確認された。
烈は一晩、四番隊に入院することを勧めたが、乱菊は帰りたいと願った。
怪我がないのなら、冬獅郎の傍にいたい。四番隊で休むよりも、冬獅郎の顔が見えるところの方が安心できるという乱菊の意見に、
「そうかもしれませんね」
と烈も認めて、十番隊に戻ることを許された。
十番隊の執務室に戻ると、乱菊の身を案じていた部下たちから歓喜の声で迎えられた。乱菊は思わず涙が出そうになった。志藤が十番隊副隊長であったり、冬獅郎から見知らぬ女だと切り捨てられたのが幻惑で良かったと、乱菊は心の底から安心した。
安堵が行き過ぎて興奮状態の部下たちを宥めて席官室に戻した後、冬獅郎は、
「今日はゆっくりしていろ」
と乱菊を彼女がいつも昼寝をしているソファに座らせた。
だが、乱菊としては、ゆっくり休んでいろ、と労られると却って、のうのうとだらけているのが申し訳ない気持ちになっていた。
「あたしを捜し回って下さったせいで、書類、溜まっているんじゃないんですか? 怪我もないし、あたしも仕事しますよ」
普段に似合わぬ殊勝な言葉を吐露してみても、
「いいって、無理するな」
と冬獅郎は是としなかった。
「無理なんて…」
「いいから、今日はおとなしく休んでいろ。ったく、普段は『仕事しろ!』って怒鳴られないとしないくせに、何だって、休まなくちゃならない時に限って仕事をしようとするんだよ、おまえは?」
「だって…」
「ゆっくり休んでいろ、って」
と言った後、彼は嗚呼と何ごとか思い付いた様子で言葉を繋いだ。
「そうだ。どうしても仕事してえってのなら、茶を淹れてくれ」
「はぁ?」
「おまえの今日の仕事はお茶汲み。それで決まりだ」
他の者が淹れた茶では駄目だ。乱菊の茶でなければ美味しくないし、落ち着かない、とまで言われて、
「はい」
と乱菊は嬉しそうに笑みを浮かべた。
「すぐに淹れて来ます」
給湯室に入った乱菊は、茶筒を取り出しながら、ここに一人で入るのも久し振りだと気付いた。最初の悪夢と鏡花水月の消失が重なったあの日から、目的の分からない幻惑攻撃を警戒し、冬獅郎は茶を淹れる為に給湯室に立つ時さえ、一緒に付いて来て見守ってくれていたのだ。それを思い返し、
(あたしって、凄く愛されているかも)
幸せに、ふふっ、と乱菊は笑みを零した。
急須に茶葉を入れようとした時、給湯室の入口が翳った。
あれ、と振り向くと、冬獅郎だった。彼が給湯室に入ろうとしていた。
「どうなさったんですか?」
問うよりも早く、背中から抱きしめられた。いや、何故だか、逃げられないように拘束された気がした。冬獅郎の唇が耳許に押し付けられ、ぞわりと震えた乱菊は茶筒を取り落とした。
茶筒から零れた茶が流しに散らばる。始末しようと手を伸ばしかけた途端に、さらに強く抱きしめられて動きを阻まれた。
「…冬獅郎…さん?」
愛しい人の腕の中にいるというのに、どうして、悪寒がせり上がって来るのだろう。
湧き上がる違和感は何だろう。
惑乱する乱菊の耳に、冬獅郎の低い囁きが届いた。
「かごめ、かごめ」
「え?」
籠の中の鳥は
いついつ出やる
囁きではなかった。低い声で、彼は童唄を謡っていた。それに気付いて、乱菊は水を浴びせられた気がした。
夜明けの晩に
鶴と亀がすべった
(まさか…)
乱菊を拘束する腕の力が更に強まった。まるで、彼女の疑心を見透かして、肯定するかのようだ。
「…たい…ちょ?」
後ろの正面 だぁれ
かたかたと乱菊の身体が小刻みに震えた。
振り向いて確かめたいのに、縛道をかけられたように身体が動かない。
「言っただろう?」
(言ったでしょう?)
冬獅郎の声に被さるように、別な声が響く。
「俺からは逃げられないと」
(私からは逃げられないって)
後ろの正面 だぁれ
気力を振り絞って、後ろを向いた乱菊の目に自分自身と同じ顔をした女が、にやりと酷薄に笑ったのが映った。
*1 八丈=約24m。