帰還
井上織姫が破面に拉致された。
十刃の襲撃を受け、冬獅郎たちが絢女に再会した翌日、その報せが護廷からもたらされた。
尸魂界で修行を続けていた朽木ルキアと織姫のもとにも、十刃の襲撃の報は入った。一報を受け、ルキアはただちに現世に戻ったが、地獄蝶を持たない織姫は断界を安全に通過できるよう界壁固定の完了を待たねばならず、ルキアに遅れて現世に向かった。この移動の際、破面、それも完全に人形を保った
去り際の織姫が、黒崎一護の傷 十刃に受けた重篤な手首の傷を治癒して行ったことから、護廷は織姫が自ら破面のもとに走ったと判断し、彼女を裏切り者とみなしている。だが、黒崎一護はむろんのこと、日番谷先遣隊のメンバーは誰一人、その見解には同意していない。
四体もの十刃の襲撃は、護廷に衝撃を与えた。敵の準備が護廷の見込み以上に整っていることを意味していたからだ。対して、護廷側の準備は進んでいない。現世での情報収集の為に派遣された日番谷先遣隊には、即時帰還命令が下された。破面の攻撃に備え、尸魂界の守護に就く為である。織姫のことで帰還に抵抗されることを見越した山本総隊長により、朽木白哉・六番隊長、更木剣八・十一番隊長が派遣され、日番谷先遣隊は強制的に帰還させられ、一護にも待機が命ぜられた。
だが、一護は浦原喜助の協力を得、石田雨竜、茶渡泰虎とともに
朽木ルキアと阿散井恋次もまた、無断で尸魂界を抜けた。
「黒崎一護らと合流すべく虚圏に向かったものと思われます」
相変わらずの無表情で、朽木白哉は報告したものだ。
「私の監視の目が行き届かず、申し訳ございません」
しれっと言い放った白哉に、「嘘つけ」と心の中で突っ込みを入れたのは冬獅郎だけではないはずだ。ルキアと恋次の尸魂界脱出を白哉が手引きしたとまでは思わないが、黙認したのは確実だった。
本音を言えば、冬獅郎も織姫を助けに行きたかった。突然現われた死神の乱菊を頼まれるまま居候させ、成り行きで冬獅郎まで受け入れることになった織姫は、二人に対して少しも迷惑がるそぶりを見せなかった。大勢で食べるご飯が楽しいと笑い、戦いで傷ついた冬獅郎や乱菊を必死な表情で治癒し、強くなりたいと前へ進もうとしていた織姫を覚えている。織姫が尸魂界に修行に行ってしまった為、生活をともにしたのはほんの一週間強の短い間であったが、織姫の人となりを見極めるには充分な期間だった。あれほど仲間思いの、強い目をした少女が裏切ったりするものか、と冬獅郎は思う。譬え自ら破面のもとに向かったのが事実だとしても、それが即、裏切りにつながるとは冬獅郎には考えられなかったし、乱菊も同意見だった。冬獅郎が十番隊の隊長でなかったら、そして、乱菊が隊長の背中を護ることを至上としていなければ、冬獅郎と乱菊も、ルキアらと行動をともにしていたことだろう。
次々にもたらされる凶報の中、唯一の吉報と受け止められたのが、絢女の生還である。
極めて優秀な五番隊第三席として、絢女は他隊の隊長格からも目をかけられていた。だから、絢女が生きていたことを、彼女を知る隊長格はみな喜んだ。まして、彼女が三席だった当時、部下だった五番隊士たちの喜びようはいうまでもない。絢女が消息を絶った件の討伐に同行していた当時の八席は、おしだしのよい、いかつい大男だったが、穿界門から現われた絢女を認めるなり、大声を上げて泣き出した。同じく、絢女に護られて生還した当時の新入隊士たちも、涙ぐむ者、号泣する者、
「如月三席!」
と感激のあまりしがみついて離れない者、絢女は文字通り、もみくちゃになって歓迎されていた。冬獅郎が隊長権限で五番隊士たちを引き剥がさなければ、絢女は穿界門から離れることさえ出来なかっただろう。
総隊長への報告を終え、絢女は当面の間、十番隊預かりとなることが決まった。
死んだとみなされていた絢女は、護廷からは除籍されていた。彼女が就いていた五番隊第三席にはもう別の人物が納まっているので、そこに戻すわけにはいかない。それに、隊長であった藍染が護廷を裏切って虚圏に去り、頼みの副隊長は心身に深い傷を負って療養中の五番隊は、まともに隊として機能していない。かつて第三席だったとはいえ、四十五年も隊を離れていた絢女を受け入れられる余裕はなかった。
総隊長の山本をはじめとした隊長格は冬獅郎の報告 絢女と冬獅郎が姉弟であること、冬獅郎の霊力は絢女によって一部封じられたままであること、絢女の斬魄刀で藍染の「鏡花水月」を無力化できる可能性があること に驚きを隠せなかった。
正式の処遇が決まるまでの間、絢女が十番隊預かりの身となったのは、山本の厚意といってよいだろう。通常なら、一番隊預かりとなるのが妥当な線だ。
「寝泊りも十番隊の隊長舎でよかろう。しばらく、姉弟、水入らずを楽しむことじゃ」
と告げた山本に、冬獅郎は無言で深く頭を下げた。
身寄りがないと考えられていた絢女が、行方不明になる前に隊寮で使っていた家財道具はすべて処分されてしまっていた。だが、衣類や小物だけは乱菊が引き取って保管しているというので、冬獅郎は乱菊の暮す副隊長舎に取りに行った。物置に仕舞われていた長持ちを開け、中を改めて、冬獅郎は落ち込んだ。予測はしていたが、長持ちに納められていた着物は「どこのばあさんのだよ」と言いたくなるほどくすんだ地味な色合いのものばかりで、若い女の持物とは思えない代物だったからだ。
「俺のばあちゃんでも、もうちょっと派手な着物を着るぞ…」
「絢女はこんなのしか着なかったんですよ。一緒に着物を買いに行っても、あたしには華やかなのを勧めてくるくせに、自分はどんなに勧められても地味な無地とか絣ばっかりで」
「瀞霊廷でも、こんなのばっかり着てたのか」
流魂街に冬獅郎を訪ねて来る時の絢女は、いつも目立たない地味な着物を着ていた。若い娘らしく装うことをせず、ただ弟を守ることに一所懸命な絢女に、冬獅郎はすいぶん悔しい思いをしてきたものである。それでも、もしかしたら、流魂街に来る時は目立たないように敢えて地味にしていただけで瀞霊廷内では違ったかも、と少しだけ期待をしていた。だが、冬獅郎の期待を裏切ってというか、予想通りというか、絢女の着物は隅から隅まで地味だった。
知っている。
姉が自分を目立たせまいとしていたことを。
知っている。
彼女が弟に罪悪感を持っていたことを。
彼女は八十年もの間、弟を結界の中で眠らせ、彼の時を止めた。冬獅郎の霊力を力ずくで押さえ込み、いまだに解放していない。それは、正体も目的も分からない敵から冬獅郎を護る為、やむを得ずしたことだったが、結果として、冬獅郎の成長や力を歪ませたのは事実である。だから、絢女は女としての自分も封じた。綺麗な着物で装うこと、誰かを恋すること、そういった若い女らしい営みの一切に蓋をして、鍵をかけて、絢女はひたすら敵の正体を見極めようと努力してきた。
「もう、いいよな…」
独り言ちた冬獅郎に、乱菊は怪訝な目を向ける。
「松本、頼みがある」
「何です?」
「明日、姉さまを連れて、使いに行ってくれないか?」
「え、はい? 構いませんが、どこにです?」
「香田呉服店」
と、冬獅郎は言った。
乱菊が贔屓にしている呉服商である。店自体はこじんまりとしているのだが、店主の目利きがよく、上質で趣味のよい品が揃っている。乱菊に教えられて以来、冬獅郎自身も気に入って、私用の着物はもっぱらこの店であつらえることが多い。
冬獅郎の意図を十二分に理解した乱菊は、
「はいっ! りょーかいしましたぁ!」
と、満面の笑みで了承する。
「そうだな、当座に着る分でとりあえず仕立て上がりを何枚かと、帯とか襦袢とか小物類もひと揃え。後は、落ち着いてからじっくり買うつもりだから、姉さまに似合いそうなのを見繕っとくように店主に伝えておいてくれ」
「はい」
「それと、松本。これは隊長命令だ。姉さまがまた、ばばくせぇ着物を選びそうになったら、全力で阻止しろ。払いは俺につけて構わねぇが、俺が納得のいかねえのが混じってたら、その分は松本に払わせるからな」
「えー!?」
乱菊はわざと不満そうな声を上げて、頬を膨らませてみせた。けれど、本気で不服を申し立てる気はない。冬獅郎が乱菊の見立てに信を置いていることは承知しているのだ。むしろ、明日、絢女の抵抗を封じる為の武器として、冬獅郎の言葉は乱菊に与えられていた。
「俺が納得するのを選ばせればいいだけだろ?」
にやり、と笑って言ってのけたのがその証拠だ。
「その代わり、俺が満足したら、おまえにも一枚、買ってやる」
「ほんとですかぁ! やった!!」
途端に、嬉しそうに顔をほころばせた副官に、
「現金なやつ」
と、冬獅郎は苦笑した。
翌朝、手持ちの着物でいい、新しいのは必要ない、と抵抗する絢女を力ずくで引きずって、乱菊は呉服店に向かった。
午後になって、いささかぐったりした面持ちの絢女とハイテンションな乱菊が執務室にやって来た。運び込まれる品々に、
「松本、命令はちゃんと遂行したんだろうな?」
「もっちろんです。あたしが隊長のご命令に背いたことがありまして?」
「『仕事しろ』っつー命令には、いつも背かれているような気がするが」
「気のせいです。…で、確認します?」
「する」
乱菊は唇をほころばせて、戦利品を開陳し始めた。
菖蒲色の地に霞色で小さな雪輪を散らした小紋。それに合わせたという半幅帯は、銀糸を織り込んだ灰白を基調に紅納戸や
「これなんか、大絶賛だったんですよ。普通の人だとこの色に負けちゃうけど、絢女は美人だからよく映えるって」
と、自分が褒められたように得意げに広げてみせたのは、鮮やかな
「よくやった。松本」
「満足しました?」
「ああ。満足した」
「やった!」
喜ぶ乱菊に、こいつのことだから、ちゃっかり自分の分もすでに目を付けているんだろうな、と冬獅郎は思った。
乱菊のテンションに負けて、すっかりなすがままだった絢女が申し訳なさそうに冬獅郎を見た。
「ごめんなさい、冬獅郎。散財させてしまって」
と、謝ってくるのを見て、冬獅郎は溜息をつきそうになった。
「姉さまも三席だったんだから、隊長格の給金は承知してるだろ?」
「それは…」
「こんくらいの着物の代金なんて、どうってことねぇよ。それより、俺には」
と、絢女の目をまっすぐ見据えて、冬獅郎は言った。
「姉さまがばばくせぇ、地味な着物を着てる方がよっぽど痛ぇ」
絢女がなんとも形容のしがたい表情を浮かべたのを見て、乱菊が、
「絢女も着せ替え人形になって、疲れたでしょ? お茶を淹れてくるわね」
と、話題を変えた。
「着せ替え人形にしたのは、主に乱菊でしょ?」
「だって、楽しかったんだもん。やっぱり、人形が美人だと着せ替え甲斐があるわぁ」
「乱菊…。私が言える立場じゃないけど、仕事したら?」
「はいは~い、お茶入れて来まーす」
そそくさと給湯室に消える乱菊を見送ってから、絢女は冬獅郎に向き直った。
「ありがとう、冬獅郎」
「…ん」
「最初にお礼を言わなくちゃいけなかったのに、ごめんなさい」
冬獅郎は姉に笑顔を向けると、
「さっき、浮竹が蕗屋の大福を持ってきてくれた。姉さまの好物だったからって。松本が茶ぁ淹れて来たら食おう」
と、机の端に置いてあった四角い箱を示した。
乱菊が香ばしいほうじ茶を淹れて戻ってきた。絢女とともに大福餅を食べながら、こうして、姉と、親友と、のんびりとお茶を飲める幸せを、十番隊正副隊長はかみ締めた。
その提案が乱菊から出されたのは、冬獅郎が四番隊の健診から戻ってきた時のことだった。
冬獅郎に施した封じを解くに当たって、絢女はいくつかの依頼をしていた。そのひとつが健診だった。
絢女の封印は五回に分けて施されている。そのすべてを一度に解くのは、冬獅郎の負担が大きい上、はね上がった霊力が暴走してしまう怖れがあり危険なので、ひとつずつ解いていくことになっていた。だが、たとえひとつの封印でも、霊力が一気に解放されることには変わりがない。冬獅郎が心身ともに万全な状態の時でなければならない、というのが絢女の主張で、それは隊長格会議でも了承され、四番隊の健診の結果を見て封印解放の日程が組まれることになっていた。
「それで、健診の結果は?」
「詳しいことは分析してみないといけねぇらしいが、見たとこ、問題はなさそうだと言われた」
「よかった。でも、緊張しますね」
「まあな」
と、冬獅郎は乱菊の淹れた茶を飲みながら、話を促した。
「で、提案って?」
「絢女のことなんですけど、絢女にうちの子たちの修練を見て貰ったらどうかなぁと思って」
十番隊預かりの絢女は、毎日、冬獅郎とともに執務室にいたが、お客さま状態ですることがなかった。事務処理において、彼女は弟と同様の高い能力を持っていたので、十番隊正副隊長としては現世派遣の間に溜まった仕事の片づけを手伝ってほしいのはやまやまだった。だが、今の絢女は護廷の隊士ではない。いくら十番隊長の姉で、副隊長の親友で、かつ、五番隊元三席とはいえ、自隊の隊士でない人間に護廷の書類を任せるわけにはいかない。抹消された護廷の籍を回復する為の事務手続きやら、藍染らの反乱の資料の確認やら、といったことが一通り完了してしまうと、絢女はなすべきことがなくなってしまったのだ。
「ここで、ぼーっとしてても無駄でしょう? 冬獅郎も乱菊も事務処理で手一杯で隊員の修練にまで手がまわらないでしょうし、私はこれでも三席だったから、下位席官くらいまでなら見てあげられると思うの」
と、絢女も口添えする。
「絢女は強いですから、上位席官でもちゃんと指導できますよ」
隊士の修練の指導も、隊長・副隊長の重要な仕事のひとつである。だが、一ヶ月強の現世派遣に、帰還してからは山積みの書類の処理で、隊士たちはずっと指導を受けられないまま自主鍛錬に励んできたのだ。
「俺は姉さまの技量を知らねぇが、任せて大丈夫なんだな?」
「もちろん。あたしも保証しますし、五番隊に行けば昔の部下が太鼓判打ってくれますよ」
と、乱菊はそこで悪戯を思いついたように、空色の目を輝かせた。
「百聞は一見に如かず、ですよね」
乱菊は絢女を見る。乱菊のたくらみに気付いたのか、絢女も楽しそうに笑った。
二人は執務机を廻ると、左右からひょいと持ち上げて、冬獅郎を椅子から引き剥がした。
「お、おい。松本、姉さま!?」
慌てる冬獅郎の抗議を揃って無視して、そのまま、彼を引っ張って執務室を出る。とびっきりの美女二人に腕をとられる冬獅郎の姿は、男死神にとっては是非とも替わってほしい垂涎ものの立場であったが、本人にしてみれば焦るばかりで少しも嬉しくはない。もちろん、本気を出せば逃れられるのだが、姉に頭が上がらず、副官に無自覚に甘い冬獅郎に逃げるという選択肢は浮かばない。ずるずると引きずられて、辿りついたのは十番隊西修練場だった。
中からは、鍛錬に励む隊士たちの激しく打ち合う木刀の音が響いている。
「みんなー、頑張ってる?」
場違いに陽気な声を上げながら入ってきた乱菊に、隊士たちはいっせいに鍛錬の手を止めた。
忙しくて修練の指導どころではないはずの隊長・副隊長と、敬愛する隊長の姉だという淑やか美人の出現に、隊士たちは一瞬固まり、次にかしこまった。
乱菊はにこにこと笑みを浮かべて、隊士たちを見渡した。
「みんな、出張から帰って来たのに、忙しくて指導できなくてごめんね」
乱菊の言葉に、
「とんでもない、副隊長」
「お忙しいのは承知しています」
と、隊士たちは首を横に振った。
「そこで、みんなに朗報です」
乱菊は現世で見たテレフォンショッピングの口調を真似て、言った。
「なんと隊長のお姉さまがみんなの指導をしてくれます」
(確定か!?)
提案は受けたが、まだ許可した覚えはない。だが、冬獅郎の突っ込みは脳内に留まっていたので、乱菊には届かなかった。
隊士たちの反応は微妙だった。それはそうだろう。いくら尊敬する隊長の姉とはいえ、隊士たちは絢女の技量を知らない。五番隊第三席だったことは知られているので、それなりに強いとは認識していても実感しているわけではない。五番隊時代の絢女を知る隊士でも、隊が違えば、合同演習や討伐で一緒にならない限り、その戦闘力を目にすることはなかったのだ。絢女がかつて十一番隊士から一目置かれていたのは、合同討伐で一度その実力を知らしめていたことと、三席の斑目一角、五席の綾瀬川弓親と親しく、よく十一番隊で二人を相手に修練していたからだ。
それに、絢女が隊士の指導が出来るほど強そうには見えないのも、隊士たちの戸惑いを助長していた。外見年齢は年端のいかない子供を隊首に、護廷一と称せられる妖艶美女を副隊首に戴く十番隊士は、人の強さを外見で計ることの愚かしさをよく知っている。それでも、たおやか、淑やか、清純、可憐といった単語の似合う絢女は、剣を振るう姿を想像できない女だった。
「ま、突然、そんなこと言われてもびっくりだと思うので」
話を続ける乱菊は、いつの間にか木刀を二本、手にしていた。
「今から、ちょこっと、絢女の実力を見せようと思います」
ぽんと、無雑作に木刀の一本を絢女に投げて寄越す。やはり無雑作な手つきでそれをキャッチした絢女は、にこにこと穏やかな笑みを浮かべていた。
「と、言う訳で、隊長」
と、乱菊は冬獅郎を見る。絢女も弟に視線を移す。
「審判をお願いします」
乱菊と絢女の声がきれいに重なった。
修練場強制連行の理由がようやく分かった。はぁ、と溜息をついて、冬獅郎は修練場の中心に足を運んだ。隊士たちは隅に避け、乱菊と絢女は向かい合って立った。
「鬼道はなし。剣術だけでいってくれ」
「りょーかいです、隊長」
「私も了解」
副官と姉ののんびりした返事を受け、冬獅郎は簡単に、
「始め!」
と、告げる。
瞬間、二人の空気が変わった。
ぴり、と帯電しているかのような、刺すような緊張感が高まる。
二人とも動かない。向かい合ったまま、相手の間合いを計っている。
先に動きを見せたのは、絢女だった。じりじりと、少しずつ
ふ、と乱菊の頬に笑みが浮かんだ。
瞬間、乱菊が踏み込んだ。
かん。
高い音がする。乱菊の一撃を読みきっていた絢女によって、刀はがっちりと受け止められていた。ぱ、と二人は飛び退り、一間ほどの間合いを取って再び向き合った。
「はあぁ!」
「やぁ!」
裂帛の気合とともに、一気に間が詰まった。
かんかんと、木刀の打ち合う音が響く。
今や、二人の試合を十番隊士たちは息を殺して見守っていた。二人の剣さばきが余りに速すぎて、太刀筋が追いきれない。
「さすが、副隊長。腕を上げたわね」
「絢女こそ、四十五年ぶりと思えないわ」
「だって、四十五年分、霊力、温存してたもの」
「あ、なるほど」
のんきな会話を交わしながら、剣は激しく打ち合っていた。
突く。かわす。打つ。止める。
受ける。押す。引く。流す。
互いに一歩も譲らぬ打ち合いが四半刻ほど続き、不意に、木刀がひとつ跳ね飛んだ。
「あっ!」
勝負がついた、と隊士たちは思った。
だが、冬獅郎だけはそうではないことを悟っていた。乱菊の打ち込みをかわし切れないとみた絢女が、敢えて木刀を離すことで勝負を分ける一打を避けたのである。かわしきれなくても、太刀筋は読んでいた絢女は飛ばされた木刀をきれいに掴んで態勢を整え、一方、渾身の一撃を狂わされた乱菊は態勢を崩していた。
絢女が乱菊の間合いに飛び込んでゆく。
体をひねって、一瞬で体を入れ替えた乱菊が、絢女に木刀を振り下ろす。
静止した。
水を打ったような静寂が広がる。
体を低くして相手の懐に入った絢女が突き出した刀の切っ先は、乱菊の心臓を貫くすれすれで停止していた。
左上から斜めに打ち下ろされた乱菊の刀は、絢女の頚動脈を刎ね切れる位置でぴたりと止まっていた。
「引き分け!」
我に返った冬獅郎の宣言に、隊士たちがどよめいた。
乱菊は強い。六番隊副隊長の阿散井恋次が卍解の力を獲得する以前までは、副隊長最強は松本乱菊というのが、隊長格の間の共通認識であった。いや、恋次が卍解した今でも、純粋に剣術の腕なら、乱菊の方が上だとみなされていた。霊力の差を抜きにして、剣だけで戦ったら、隊長とも互角に近く渡り合える力量だと認められている十番隊副隊長と、絢女は引き分けたのだ。
「すげぇ!」
「さすがは日番谷隊長の姉上」
「強ぇなあ」
「俺、ぞくぞくした」
「太刀筋、見えたか?」
「速すぎて、見えなかった」
興奮した面持ちで話す隊士たちを尻目に、乱菊と絢女はのんびりと互いを讃えあっていた。
「一瞬、負けたと思ったわ」
「あたしも勝ったと思ったんだけどな。あそこで刀を放す?」
「放さなきゃ、負けてました」
「何か、悔し~。四十年以上も惰眠をむさぼってた相手に引き分けに持ち込まれるなんて…」
「悪かったわね、惰眠むさぼってて。おかげで、四十五年分、霊力満タンだもの、簡単には負けないわよ」
「う~、そうなんだけどっ!」
笑いあう乱菊と絢女を見遣り、冬獅郎が、
「松本」
と声をかけた。
「何です、隊長?」
「おまえ、姉さまの実力を見せるってのは口実だろう?」
「あ、バレました?」
乱菊はちろりと舌を出す。
終わりの見えない事務処理にいい加減、乱菊は飽いていたのだ。絢女が失踪するまで、乱菊と絢女は親友であると同時に好手敵であった。しょっちゅう、剣や鬼道を競い合っては、勝った負けたと大騒ぎした日々は、乱菊にとって宝物のような想い出である。
「いやぁ、ひさびさに絢女とやってみたくて」
「ずっと、事務処理ばっかりだと根が詰まるしね」
と、絢女。
その姉の顔も妙にすっきりしているのを見て、共謀してストレス解消を図ったことを冬獅郎は悟る。
「いいじゃないですか。絢女の実力ははっきりしたでしょお」
確かにデモンストレーション効果は絶大で、隊士たちの絢女を見る目が明らかに前と違う。いや、冬獅郎自身、姉の力量がここまでと思っておらず、必死に平静を保っていたのだ。
「それで、日番谷隊長?」
絢女が冬獅郎をからかうように見た。
「十番隊預かり日番谷絢女。隊士の指導を任せていただけるのでしょうか?」
どうやら、冬獅郎の動揺などお見通しらしい。
「よろしく、お願いします」
と、素直に認めるしかなかった。