情動


 ウルキオラに連れられたその少女の後ろ姿を見た途端、声をかけずにはいられなかった。
「その子なん? 藍染はんが連れて来い、言うてはったんは」
 ウルキオラは振り返り、いつもの無表情で肯定を返した。
「はい、市丸さま」
「ふーん、雛森ちゃんといい、あのおっさん、ロリコンちゃうか?」
「ロリコン?」
 無表情のまま訝るウルキオラに、
「ああ、何でもないねん。はよ、藍染はんのトコに連れていき」
 ひらひらと手を振って去ってゆくギンの表情は、背を向けていた為、ウルキオラには見えなかった。
(ちっとも、似てへんのに…)
 間近で見た少女は思ったより背が低かった。顔立ちも、彼女・・とはまるで似ていない。ただ、少し離れた所から後姿を見た時、彼女・・を思い出してしまったのだ。    多分、彼女とよく似た栗色の髪のせいだろう。背は彼女よりもいくらか低かったけれど、髪の長さと後ろから見た体形がよく似ており、遠目には彼女に見えた。
(未練がましいなぁ)
 ギンは苦い自嘲の笑みを漏らした。彼女を失ってからもう何十年も経つというのに、未だに、彼女がいないという現実に納得することが出来ない。虚夜宮ラス・ノーチェスの自室で寝台に横たわり、ギンは自分の左手を見つめた。
「触れたんやけど…な」
 地上に墜ちゆく彼女に伸ばした指は、確かに彼女の手に触れた。だが、摑むことは出来なかった。直後に虚の襲来を受け、彼女を追うことさえ出来なかった。
 ぼんやりと左手を見つめ続けていると、誰かが室内に入ってきた気配がした。誰かは確認をしなくても分かっていた。
「何をしている?」
「見て分かりません? 手ェを見とるんです」
 その腕を摑まれ、強引に体が起こされる。
「あの娘…、織姫ちゃん…ゆうたか、あの娘の能力のお披露目は済んだんですか?」
「ああ、見事にグリムジョーの腕を再生させた」
「で、どうなりましたん?」
「ルピは死んだよ」
 淡々と答える男の横顔を見て、計算通りにことが運んだのだと知る。グリムジョーの腕が復活した場合、彼が自分の地位を侵したルピを許すはずがなかった。それを承知の上で、敢えて彼の腕を再生させた男は、最初からルピを抹殺するつもりだったのだろう。ルピが何をしたのかは知らない。ギンにとってはどうでもいいことだ。分かっているのは、ルピはこの男には用済みだったということだけだ。
 男がギンに口接けてきた。ギンはそれを拒むことなく受け入れる。
 ギンは上司であるこの男を尊敬し、敬愛していた。だからこそ、家族同然だった幼馴染も、「仕事をして下さい」と小言を言いながらも自分を慕ってついてきてくれる副官も裏切って、男に従った。男が求めるので体も許した。だが、ギンはこの男に対して、情愛だけは抱いていなかった。
 ギンにとって、性交は単なる手段に過ぎない。流魂街の最貧区にいた頃、食べ物や、食料よりももっと手に入れにくい衣類や薬といったものを入手するのに一番手っ取り早い方法は、身を売ることだった。ギンの銀色の髪と木賊とくさ色の瞳は珍重されたので、客はすぐに付いた。死神になって、身を売らなくても必要なものが手に入るようになってからは、純粋に生理的な欲望を満たす為だけに、花街のおんなや、一夜限りの情けを求める女を抱いた。
 子供の頃、身を売ること自体は苦にならなかったが、ともに暮らす乱菊にだけは絶対に知られたくなかった。
 飢え死にしかけている乱菊を拾ったのは、ギンが大切に胸にしまっていた少女と同じくらいの年頃だったからだ。たわわに実った麦畑を思わせる黄金に輝く髪と、青空を映した目をした乱菊は、外見や性格は彼女・・と似ていなかったが、それでも放っておけずに成り行きでともに暮すことになった。そして、知った。乱菊と彼女とは魂の本質的な部分がよく似ているということに。例えば、自分のことよりも他人のことを考えて行動してしまう優しさや、例えば、無意識に弱いものを庇おうとする強さ。何より、こちらが与えた些細な愛情を、何倍にもして返そうとする情の豊かさがとても似ていた。ギンは乱菊が愛しかった。その感情は彼女に向けていたものとは種類が異なっていたが、大切に思う気持ち、護りたいと願う心は、かつて彼女に対して抱いたのと同じだった。だから、乱菊だけは汚したくなかったし、自分のしている行為を乱菊に知られて、罪悪感を持たれることも、軽蔑されることも嫌だった。
 その心のありようを「情」と呼ぶのなら…。
 相手が女であれ、男であれ、抱くにせよ、抱かれるにせよ、ギンは性交の相手に情を感じたことはない。それは単なる体の交わりで、一度たりとも情交・・であったことはなかった。
 それは、今、ギンの体を玩ぶ男にしても同じだった。この男に対して、彼女や乱菊に対して抱いたような、情は湧かない。体を与えたのも、単に男がそれを望んだからに過ぎなかった。屈辱も感じない代わり、満たされもしないギンは、ただ男が満足するまでなすがままになっていた。
 男に揺さぶられながら、ふと、ついさっき見かけた栗色の後ろ姿がよぎった。その面影が、何十年も前に失った二度と会えない愛しい背中に重なる。
(絢女…)
 心の中だけで、彼女・・を想う。忘れられない名前を、声に出さずに呼び続ける。
 男はまだ満足しない。

 微かな呻き声で、絢女は目を覚ました。
「冬獅郎…?」
 半身を起こし、隣の部屋の気配を窺う。呻き声はもう聞こえず、冬獅郎が目覚めている気配がした。
 彼の霊圧が僅かに乱れている。そして、その乱れた霊圧のまま、冬獅郎が自分の気配を探ろうとしているのに気付き、絢女は寝たふりを決め込んだ。隣の部屋で、冬獅郎が安堵したように溜息をつく。どうやら、絢女が眠っていると思ったらしい。
 わずかな物音から、冬獅郎が立ち上がり、箪笥を開けたのを感じた。灯りもつけず、彼は箪笥から何かを取り出すと、廊下に出て行った。風呂場に向かっているようだ。
 何となく、理由が察せられて、絢女は布団の中で息を吐いた。
「…まずいなぁ…。どうしよう…」
 ぽつり、と呟く。
 三度目の霊力解放は三日後に迫っている。おそらく、再び急激な成長が訪れることだろう。

 小料理屋の個室で、乱菊と絢女は酒を酌み交わしていた。
「絢女」
「何?」
「あたし、隊長の気に障るようなことしたかな?」
「うん、どうして?」
「隊長に避けられてるの」
 肉じゃがの鉢を無意味に突付きながら、乱菊が言った。心なし、しょんぼりと肩が落ちているように思えるのは、決して、自分の気のせいではないと、絢女は思った。
「仕事中もあんまり目を合わせてくれないし、なんか、不自然にお使いに行かせたがるし…」
 他隊に書類を届けに行くという名目で執務室を逃げ出そうとするのはいつも乱菊で、冬獅郎は、
「逃げんな、松本!」
と、怒りながら彼女を追いかけるというのが、少し前までの十番隊ツートップのありようだった。だが、ここのところ、冬獅郎は乱菊を外に出したがっていた。他の書類とまとめて届ければよい急ぎでない書類や、席官で事足りる書類まで、乱菊に命じて行かせるし、些細な用事を言いつけては執務室から出て行かせる。部屋にいる時も、極力目を合わせないようにしている。
 それは、絢女も気付いていた。
「隊長があたしに腹を立ててるのなら謝りたいけど、心当たりないし…」
 だんだん、乱菊の声が小さくなってゆく。
「絢女。あたし、何したのかな? 知ってる?」
 絢女の手が伸びて、ぽんぽんと乱菊の肩を叩いた。
「乱菊は何にもしてないわ。第一、冬獅郎は怒ってないから」
「嘘。じゃ、どうして避けられるの? 気のせいとか言わないでよ」
「言わない。確かに、冬獅郎は乱菊を避けてる」
 絢女の断言に、乱菊は俯いてしまった。絢女は、乱菊の猪口に酒を注ぎ、
「冬獅郎の問題なのよ」
と、微笑を浮かべた。
「どういうこと?」
「私からは言えない。でも、乱菊。自覚してないだけで、あなたも理由は知っているはずなの」
 そう。乱菊は知っているはずだ、と絢女は思う。ずっと冬獅郎の側にいたのは、自分ではなく乱菊なのだから。絢女よりもずっと近くで彼に寄り添い、慈しみ、その豊かな情愛を注いできたのは乱菊だ。だから、乱菊は本当は解っている。ただ、自覚していないだけだ。
 謎かけのような絢女の言葉に、乱菊は混乱した。
「何、それ? どういうこと? 教えて」
「だ~め。乱菊が自分で気が付かないと意味のないことだもの」
 混乱したまま、自棄になって、乱菊は酒をあおった。
 このままだと、四十五年ぶりに潰れた乱菊を連れ帰る羽目になりそうだ、と絢女は心の中だけで苦笑した。

 どん、と今までにない衝撃で弾き飛ばされ、結界に叩きつけられた。
「う…」
 立ち上がろうとするが、うまく体が動かない。両手を地につけて、四つんばいのような格好で上半身を起こしかけた途端、目の前に、龍の尾が翻った。
 一撃で体を叩かれ、再び地に転がる。体の中で、骨が折れる嫌な音がした。
 結界が内部の圧力に必死に耐えて震えている。結界内では至るところに氷柱が発生し、できたそばから、のたうつ龍に砕かれていた。砕かれた氷の破片は鋭い刃となって、絢女の体に容赦なく降り注ぐ。死覇装はずたずたに裂け、にじむ血で真っ赤に染まっていた。
 結界の壁に手を付いて、ようやく絢女は立ち上がった。そのまま、壁沿いに回りこむようにして、慎重に冬獅郎に近づいてゆく。秋篠は解放しない。今の氷龍の状態では押さえるどころか、かえって暴れさせることになると感じていた。地面に転げ、己の身の裡の龍と同様にのたうちまわって苦しむ冬獅郎の側に行くこと。それ以外、絢女に策はなかった。
 幾度か氷龍に叩かれ、そのたびに地に崩れながら、ようやく冬獅郎にたどり着いた。呻き声を上げ、転げまわる弟の腕を捕らえ、力を振り絞って、絢女は彼を胸に抱いた。冬獅郎の白い隊長羽織に絢女の血がにじむ。
「冬獅郎…」
 ありったけの霊力を込めて、弟の名前を呼ぶ。
「冬獅郎。冬獅郎、ごめんなさい」
 こんなに苦しい思いをさせて    
「ごめんなさい。冬獅郎、ごめん…」
(護りたいなんて独りよがりで傲慢な考えで、あなたの生を歪ませて、傷つけて…)
「ごめんなさい。私の勝手で、苦しめて」
 絢女の頬を伝う涙が、冬獅郎の白銀の髪に零れ落ちた。許してほしい、とは言わない。ただ、謝りたかった。心が冬獅郎に届けばよかった。暴走し、猛る力は冬獅郎自身のもの。彼があまりの苦痛に外してしまった心の箍を取り戻せれば、治められるはずのものだから。
 彼の心に届くように、
「冬獅郎。冬獅郎」
と、彼の名を言霊の符呪に変えて呼び続けた。
「ごめんなさい、冬獅郎。冬獅郎」
 だらりと、力を失っていた冬獅郎の手が、絢女の死覇装の袖を掴んだ。
「冬獅郎」
「姉さま…」
 朦朧とした冬獅郎の視界が徐々に焦点を結んでゆく。
 紅い    
 冬獅郎は思った。何故、こんなに紅いのか、と。感じる温かな雫は何だろう、と。
 答えを知りたくて、自分の名を呼び続ける姉を見上げる。四肢が引きちぎられるような鋭い痛みに逆らって顔を上げると、頭部から流れる血で真っ赤に染まった絢女の右頬と、涙を零し続ける琥珀の目が視界を領した。
「姉さま    !!」
 息が止まりそうになった。護りたい、大切な姉を己の力が傷つけたことを、今までにも増してはっきりと悟る。
 自分で自分の力を抑えられないせいで。
 自分の身裡の凶暴な衝動を治めきれないせいで。
 前二回の解放では、暴走した力を絢女が鎮めてくれた。絢女に抱きしめられ、温かな霊圧に包まれ、子守唄を聞いていると、少しずつ少しずつ狂い惑う力が治まっていった。呼吸が楽になって、冬獅郎の意思を離れて外に溢れていた霊力が、自分の中に還ってゆくのを感じながら眠ってしまった。
 だが    
(落ち着け…)
 冬獅郎は絢女の袖を握る力を強めた。
(落ち着け。落ち着け)
 自分に暗示をかけるように、心で繰り返す。
「冬獅郎」
 頭上から、絢女の声が降ってきた。
「姉さまはここにいるわ」
「…姉さま」
「乱菊もいる。桃ちゃんもいる。おばあちゃんもいる」
 絢女が並べたのは、冬獅郎が護りたい者たちの名前だった。
「浮竹隊長も、京楽隊長も、冬獅郎を心配してくれている。十番隊のみんなも、あなたを待っているの」
「うん…」
 さらに力を込めて絢女の袖を握り、ぎゅっと目をつぶった。唇を血が滲むほどかみ締めて、沸き起こる苦痛に耐える。
 信頼する副官。大切な家族。温かな同僚。慕ってくれる部下たち。
 護りたいのは彼らがいる世界。藍染が正しいのか、間違っているのかは知らない。それは藍染が否定した世界の側に立つ冬獅郎には、判断が出来ない。けれど、冬獅郎は藍染が壊したいと願う世界が愛しい。乱菊に逃亡されながら書類整理をして、非番の日には流魂街の祖母に会いに行って、桃が「日番谷くん」だの「シロちゃん」だの呼ぶのをしかめっ面で訂正して、絢女も戻ってきてくれたこの世界は、冬獅郎がどうしても護りたいものだ。
 愛しい世界で、護りたい者たちで心を満たす。
 ゆっくりと、呼吸が整っていった。
 溢れて暴れる霊力を手繰り寄せ、己が裡にしまってゆく。分身の龍が暴れるのをやめ、その凍る瞳で冬獅郎を見下ろした。
「還って来い」
 冬獅郎の命に、氷龍は従った。冬獅郎の体に飲み込まれるように、龍は消えていった。
「冬獅郎」
 絢女が微笑んだ。そのまま、ふっと絢女の体から力が抜け、冬獅郎に倒れ込んできた。
「姉さま!」
 慌てて抱きとめた絢女の背中で、ぬるりと手が滑った。夥しい出血が絢女の背中を朱に染めていたのだ。
 絢女を抱き上げようとして出来なかった。霊力の暴走とは別種の、体の中から湧き起こる強烈な痛みが冬獅郎の力を奪った。立ち上がることも出来ず、姉を腕に抱きこんだまま蹲った。
 すうと結界が消え、同時に、
「隊長!」
と、叫びながら駆け寄ってくる乱菊の姿が目に入った。彼女の後ろから、四番隊の席官たちも走ってくる。
「隊長!     絢女!?」
 乱菊は目を瞠った。冬獅郎の腕の中で、絢女は血塗れで倒れ伏していたのだ。
「松本」
 翡翠の目が久方ぶりに、まっすぐに乱菊を射抜いた。
「姉さまを頼む」
「はい!」
 乱菊は冬獅郎から絢女を受け取り、四番隊士たちとともに卯ノ花の許へと運んでゆく。別の四番隊士が冬獅郎に肩を貸してくれた。
 冬獅郎の視界の端に、力尽きたように蹲る京楽の姿が映った。副官の七緒が、その背中をさすっている。
 心の中で、冬獅郎は京楽と朽木白哉に感謝した。俺の霊力の暴走からみんなを守ってくれてありがとう、と。
 卯ノ花のところに辿り着き、彼女が治癒を施している姉の容体を確認する。
「大丈夫ですよ」
と、微笑む卯ノ花の顔を見た途端、張りつめていた気が緩んだ。意識が遠ざかり、冬獅郎はその場に崩れ落ちた。

 病室を出て廊下を歩いていると、三番隊副隊長の吉良イヅルと行き会った。
「雛森の見舞いか?」
「ええ。日番谷隊長も先ほど行かれたそうですね」
「おう」
 成長に伴う筋肉痛と関節痛が治まって退院を許可されたその足で、冬獅郎は桃を見舞ったのだ。その後、病室に戻り、まだ寝台から動けない絢女に桃の様子を教えて、出てきたところだった。
「姉さまも雛森のことを気にかけていてな。相変わらずだと言ったら、つらそうにしてた」
「五番隊には絢女さんの昔の部下がたくさんいますから、絢女さんも気がかりでしょうね」
「まあな。雛森のことも可愛がってたからな」
 桃が護廷入りしたのは絢女の失踪後なので、絢女は死神としての桃は知らない。だが、流魂街で冬獅郎と暮していた頃の桃のことはよく知っており、妹のように可愛がっていた。
「絢女さんは、まだ退院できないのですか?」
「今回はひどい怪我だったからな」
 救護詰所の待合室のベンチに何気なく座ってしまって、何故か、二人は話し込む態勢になってしまった。
 イヅルは桃と同期なので失踪前の絢女のことは知らなかったのだが、市丸ギンの直属の部下として苦労した日々が共通しているせいか、すぐに打ち解け、思い出愚痴話を語り合う仲になっていた。
「そういや、おまえが持ってきてくれた見舞い。姉さま、ずいぶん喜んでたぞ。大好物なんだって言ってた」
 イヅルが持って行ったのは、現世で買い求めてきたみたらし団子だった。京都に古くからある小さな店のもので、四角い小さな切り餅状の団子を香ばしく焼き、たれをつけて更に軽くあぶったものだ。
「そうですか、よかった」
 微笑んだイヅルの頬に、一瞬、翳りがよぎったのを冬獅郎は見逃さなかった。
「吉良?」
と、怪訝な目を向けると、イヅルはふぅと大きく息を吐いた。
「日番谷隊長。絢女さんのお誕生日って五月十一日なんじゃないですか?」
「おう。よく知ってるな」
「あのみたらし団子…。市丸隊長が、毎年、五月十一日と十月七日にどんな手を使ってでも手に入れてたものだ、と言ったら、どう思われます?」
 四十五年前の十月七日、絢女は討伐に出て大虚に襲われ消息を絶った。だから、その日は、瀞霊廷に帰還を果たすまでは虚に喰われたとみなされていた彼女の、命日とされてきた日だった。
 黙り込んでしまった冬獅郎に、イヅルは、
「すみません」
と頭を下げる。冬獅郎を目の仇にしていたギンが絢女に想いを寄せていたという事実はやはり不快だったか、とうなだれたイヅルに、
「いや。気にすんな。松本から聞いてるから」
と、冬獅郎は言った。
「そう、なんですか?」
「ああ。松本からその話を聞いて以来、どうも、市丸が哀れに思えてな。…あいつ、不器用だよな」
「他のことは何でもそつなくこなす方でしたけど…」
 毎年毎年決まった日に、ギンがみたらし団子を買い求めるのに気付いて、理由を尋ねたイヅルをギンははぐらかした。その頃、イヅルは三番隊でやっと上位席官に昇進したばかりだったのだが、霊術院での虚事件の縁もあってか、隊長であるギンには目をかけられていて、みたらし団子も毎年のように買いに行かされていたのだ。理由はずいぶん後になって、五番隊時代の上官から教えられた。
「絢女さんのことを知った時には意外でした。市丸隊長がお好きなのは松本さんだとばかり思っていましたから」
 今でも、かなりの死神がそう信じているだろう。ギンが乱菊に言い寄る男にことごとく圧力をかけていたのは、有名な話だ。
「俺もそう思っていたんだがな。松本によると、兄が妹を心配する心境だったらしい。ちょっと脅されたくらいで尻尾巻いて逃げ出すような奴が松本を幸せに出来るはずがない、つーのが市丸の言い分だったそうだ」
「市丸隊長らしいご意見ですね」
「まあな。それ聞いた時は呆れたが、最近、どうも、その点に関しては市丸に賛同したい気になって、正直、自分で驚いている」
「絢女さん、ですか?」
 今でこそ、護廷一の美女といえば、まず名前が挙がるのは乱菊だが、絢女が失踪する以前は、乱菊と絢女は東西両横綱状態だったらしい。この話題が出る度に、乱菊派と絢女派が熱い、だが、かなり不毛な論戦を繰り広げていたという話を、イヅルも先日、浮竹から聞いたばかりだ。かつて、熱心な絢女信奉者だった男死神は絢女の生還に色めきたっており、その筆頭が、二番隊の大前田だと知った時には、イヅルも他人事ながら彼女に同情したものだ。
「姉さま目当てに、俺に尻尾ふる奴があんなに多いと思わなかった。雛森目当てに、俺に近づく奴もいねぇじゃなかったけどな」
「…」
「別におまえがそうだとは言ってねぇよ」
 顔を伏せたイヅルに、冬獅郎は呆れた様子で苦笑をした。
「むしろ、吉良にはもっと頑張ってほしいと思ってるんだが」
「は?」
「俺は雛森を支えてはやれる。けど、藍染を忘れさせてやることは出来ねぇ」
「あの、それは、どういう…?」
「俺と雛森は家族なんだ。雛森にとって俺は弟。俺にとって雛森は姉貴、…と言ってやりたいとこだが、どっちかつーと、妹だな、あれは」
「…」
「俺は雛森を女としては意識できない。雛森も俺を男とは思ってない。血のつながりはなくても、俺たちは家族だ。家族だから、つらい時に支え合うのは当然だろう? 支えてやれる。守ってやれる。けど、家族だからこそ、忘れさせてやることだけは出来ねぇ。そういうことだ」
 イヅルは戸惑って、冬獅郎を見返した。一月足らずで急激な成長を遂げた冬獅郎は、背も伸び、ずいぶん男っぽい顔になっていた。姉譲りだと判明した、男には無駄としか思えない美貌は健在だったが。精神面はともかく、外見上は少し前まで子供としか見えなかった十番隊長は、今は現世の人間で言えば、十五歳くらいの見た目だ。その彼が語る言葉は妙にしみじみとしていた。
「雛森があんなだから余計そう思っちまうのかしれねぇが、今回の件じゃ、けっこうおまえのことを見直しているんだ。隊長がいなくなっちまってがたがたの隊を、おまえ、よく踏ん張って支えてると思う」
「ありがとうございます」
「だから、もっと頑張れっつってんだ。雛森に関して、少なくともおまえに対しては、市丸の真似をする気はねぇから安心しろ」
 これは、家族公認を貰ったと思っていいのだろうか、と思いがけない展開にイヅルは呆然となった。冬獅郎が桃に対して家族以上の気持ちを持っていないことが確定したこと、イヅルの想いを知っていてむしろ応援する気でいるらしいことは、イヅルにとって舞い上っていい事実だった。だから、聞き逃してしまった。
「雛森とは普通に話せるんだけどな…」
という、冬獅郎の呟きを。

 十三番隊の野外修練場で絢女を受け取った時、確かに、冬獅郎は乱菊をまっすぐに見ていた。見慣れているはずの翡翠がやけに懐かしく感じたのは、彼がずっと乱菊と目を合わそうとしなかった証拠だ。けれど、見てくれた。
 だから、乱菊は期待していたのだ。四番隊から戻ってきた冬獅郎が、以前と同じように乱菊を見てくれることを。
 けれど、冬獅郎は執務机に就くなり、乱菊の顔を見ないまま、
「松本、茶を頼む」
と言った。乱菊の淹れてきたお茶を受け取る時も、書類から目を離さなかった。
 どうして、ですか。
 聞きたいのに聞けない。これは冬獅郎の問題で乱菊に非はない、と絢女は言った。理由を乱菊は知っているはずだ、とも。
 けれど、乱菊には分からない。冬獅郎の問題が何なのか、何が理由なのか、そもそも本当に乱菊に非はないのか。
 しおしおと自分の席に戻り、乱菊は情けなさに泣きたくなった。
(どうして、聞けないのよ)
 少しも頭に入ってこない書類を見つめ、乱菊は、同じだ、と思った。ギンと暮していた子供の頃、自分を置いてどこかに行ってしまうギンに、どこへ行くのか聞けなかった。絢女を失って苦しむギンを慰めることが出来なくて、手を離した。そうやっているうちに、彼は乱菊と袂を分かち、本当に手の届かないところに行ってしまった。
(大事な人の手を離すな、なんてえらそうに隊長にお説教したくせに、何よ)
 聞こう、ちゃんと。
 もう失くしたくないと決心はつけたものの、いざとなると言葉に出せずにいるうちに終業時間となった。
「上がっていいぞ、松本」
 相変わらず乱菊を見ないまま発せられた一言に、
    隊長」
と、乱菊が意を決した時、
「八番隊京楽だよ。冬獅郎くん、いる~?」
 訪いをいれた京楽の声が、乱菊をさえぎった。
「入れ」
と、冬獅郎。すぐに、執務室の扉が開き、京楽とその後ろから七緒が現われた。
「冬獅郎くん、退院おめでとう」
「ああ、ありがとう」
「でね、退院祝いに夕飯でも奢ろうかなと思って来たんだけど」
 冬獅郎は京楽の緩い笑みを浮かべた顔を見つめた。
「姉さまはまだ動けずに入院中なんだ。気持ちはありがたいが…」
「絢女ちゃんは君がそんなふうに責任を感じてることに、責任を感じてると思うよ?」
「…」
「ちょっと、これからのことで話したいこともあるし」
とまで言われて、断ることは出来なかった。
「乱菊さんも行きましょう」
と、己の副官が七緒に手を取られて立ち上がるのを見て、冬獅郎は内心で動揺する。他隊の隊長の前でうろたえた姿を晒せないという矜持が、ぎりぎりのところで冬獅郎の態度を保たせた。
 四人で表に出て、彼らがよく行く小料理屋がある方角に歩いてゆく。そのまま、四人で食事かと思いきや、
「それでは、日番谷隊長、京楽隊長、失礼いたします」
 生真面目な礼をして、七緒が乱菊を連れて去ろうとするのを見て、冬獅郎は目を丸くした。
「うん、気を付けて。呑み過ぎないないようにね」
「それは京楽隊長の方でしょう? 日番谷隊長、乱菊さんをお借りしますね」
「あ、おう」
 乱菊が一緒でないのはありがたかったが、展開が意外で京楽を見上げると、
「ちょっと、男同士の話をしたいな~なんて思ってね。七緒ちゃんには乱菊ちゃんと女同士の話をしてもらうように頼んだんだ」
「そうか」
 いきつけの小料理屋で、夕食を食べ、軽く酒を飲んだ。話がしたいと、わざわざ誘ってきた割に、京楽はいつも酒席でするようなたわいのない話しかしない。冬獅郎が訝っていると、
「もうそろそろ、いい頃合だねぇ」
と、京楽が立ち上がった。
「冬獅郎くん、河岸を変えよう。いい店があるんだ、付き合ってよ」
 訳が分からないまま、冬獅郎は京楽について歩いていたが、途中で気が付いた。
「おい、京楽!?」
「ん~?」
「この方角って、まさか」
「あ、気が付いた? 花街だよ」
「てめぇ、何、考えてやがんだ!」
と、冬獅郎は思いっきり怒鳴った。
「帰る!」
 くるりと背を向け、足早に立ち去ろうとした冬獅郎の手首を、京楽が強い力で摑んだ。
「何しやがる、放せ!」
「冬獅郎くん」
 呼びかけた京楽の声が思いもよらず厳しくて、冬獅郎は息をのんだ。
「この間の霊力解放の時、絢女ちゃんにあんな怪我をさせるほど暴れたのは、本当に霊力の上昇だけが原因?」
「なっ?」
「ずっと、乱菊ちゃんを避けてるのはどうして?」
 答えることは出来なかった。黙り込んだ冬獅郎に京楽は表情を緩めた。
「ねぇ、冬獅郎くん。君は乱菊ちゃんのことが好きだろう?」
「…副官だ。当たり前だろう」
「そういう意味じゃなくて」
 冬獅郎は返事をしなかった。だが、それは肯定を意味している。
 自覚したのはかなり最近だが、冬獅郎は乱菊に単なる部下以上の感情を持っていた。彼女が側にいてくれれば満たされる。笑っているのを見るのが嬉しい。彼女が自分以外の誰かを見ていると悔しい。隊長に就任して以来、ずっと側にいて、乱菊の優しさと愛情に包まれてきたのだ。惹かれたのは必然だったかもしれない。
 冬獅郎は京楽から目を逸らしてしまった。そんな彼を気にするでもなく、京楽は問いかけた。
「生き物の三大欲求って、知ってる?」
    一般的には、食欲、睡眠欲、性欲…」
「うん。そのうち、食欲、睡眠欲は個体の生命維持にかかわることだから、赤ん坊のうちからある欲求だけどさぁ、性欲は種の保存に関わることだから、体がある程度成熟するまで眠っているんだよね」
「ああ、そうだな」
「それで、そいつが目覚めてしまうとねぇ。男なんてみんな、自分の中に凶暴なけだものを飼っているようなものだよ」
「…」
「だけど、冬獅郎くん。目覚めにも段階というものがあってね。いきなり、けだものが全開で暴れだすなんてことは普通はないんだよ」
 噛んで含めるように話す京楽の声音は優しかった。冬獅郎は立ち尽くしたまま、京楽の言葉に耳を傾けた。
「最初は具体性のないもやもやした夢精から始まって、友達同士で情報交換したり、猥談したりしてね。春本のまわし読みなんてのもするね。そうやって少しずつ強くなっていく衝動と向き合うんだ。自己処理のやり方を覚えたり、逃がしたり、ごまかしたりする方法を身につけて、男はけだものをゆっくりと時間をかけて飼い馴らしていくんだよ」
「…」
「絢女ちゃんは冬獅郎くんを守りたい一心で、こんなことになるとは思っていなかったんだろうけど、結果的に、冬獅郎くんの成長はとんでもなくいびつになってしまった。急激な成長のせいで、冬獅郎くんのけだものは飼い馴らす暇もないまま、全開で暴れだしているんじゃないかい?」
 冬獅郎はぎゅっと拳を握り締めた。気持ちを落ち着ける為に、息を大きく吐いて、それから、逸らし続けていた視線を京楽に戻した。
「松本が側にいると苦しいんだ」
と、冬獅郎は正直に告白した。
「あいつのこと、大切にしたいはずなのに、ぐちゃぐちゃにしてしまいたい気持ちがどんどん強くなって…」
「だから、乱菊ちゃんを避けてたんだね?」
「ああ。そうしねぇと理性が持ちそうになかった。そのことで、松本が傷ついてるのは知ってたけど、そうしないともっと傷つけちまいそうで怖くてたまらなかった」
 冬獅郎が「怖くてたまらない」などという弱音を吐いたのは初めてで、京楽は表情には出さないまま驚いた。すぐに、それだけ切羽詰っていたのだと、この少年に深い同情を覚え、思わず、頭を撫でてしまった。普段なら、
「子供扱いすんな」
と、振り払われるはずの手は、拒絶されることはなかった。
「好きな女の子が目の前にいたら、触れたい、抱きしめたいって思うのは自然なことだよ。ボクだって、七緒ちゃんのことが好きだから、抱きしめたいと思うからね。冬獅郎くんの場合、問題なのは、好きな女の子を抱きしめたいっていう、恥ずかしくもなんともない当たり前の欲求の上に、暴れまくる男の本能が乗っかっちゃってることなんだ」
「…」
「だからね。花街が必要なんだよ。手っ取り早く本能を鎮めて、けだものを飼い馴らす為に、ね。冬獅郎くんは潔癖だから、好きでもない女を金ずくで抱くなんて嫌だろうけど、でも、衝動に任せて好きな女の子を傷つけちゃうよりずっといいでしょ?」
    ああ」
「それにさぁ。花街のたちは、金を取る以上、玄人だから。冬獅郎くんは色んなことを覚える暇もないほど、急に大人になってしまったから、初めては玄人の方がいいと思う。彼女たちなら、冬獅郎くんが理性を失くしても、あしらったり、宥めたりする方法を知っているけど、乱菊ちゃんはそうはいかないよ」
 京楽はぽんぽんと冬獅郎の頭を軽く叩いて、手を離した。
「ま、そんなに難しく考えることないよ。うん、いつか、乱菊ちゃんと晴れて結ばれる時にちゃんと彼女を労わってやれるように、女の子の抱き方の勉強に行くんだと思って」
 にへら、といつもの緩い微笑を浮かべて、京楽は歩き出した。派手な花柄の羽織の後に、冬獅郎は素直に従った。

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2008.07.20