刺客
ずっと避けられていたのが嘘のようだった。
「松本、悪い。茶のおかわりをくれ」
と告げる時も、処理済の書類を渡される時も、冬獅郎は以前のように、しっかりと乱菊の目を見てくれた。
(京楽隊長ってば、どんな魔法を使ったの?)
昨晩、京楽とどんな話をしたのか聞きたかったが、何となく聞いてはいけないように乱菊は感じていた。頼まれたお茶のおかわりを用意しながら、乱菊は訳が分からないなりに嬉しかった。自分をちゃんと見てくれている、ただそれだけのことにこんなに心が躍るなんて、我ながら単純だと思った。
「どうぞ」
と、満面の笑みで湯飲みをことりと置くと、照れくさそうに視線が逸らされた。
「ねぇ、たいちょ?」
と、話しかけようとした時、ひらりと地獄蝶が舞い込んできた。
がたん、と椅子を蹴り倒しそうな勢いで冬獅郎が立ち上がり、乱菊も硬直する。
「ついて来い、松本!」
そう言った時にはすでに冬獅郎は執務室を飛び出しており、乱菊もはっと我に返って、急いで上司を追いかけた。
扉を蹴破る勢いで絢女の病室に駆けつけると、部屋は無人で、床に色とりどりの金平糖が散乱していた。
「日番谷隊長、松本副隊長、こちらです」
部屋の入口で立ち尽くす冬獅郎と乱菊に、四番隊士が声を掛けた。
「姉は?」
「腕に怪我をされて、虎徹と荻堂が治療に当たっております」
案内された別室に、寝台に半身を起こした絢女がいた。寝巻きの袖を肩まで捲り上げて、絢女は勇音らの治療を受けていて、傍らに、何故か、草鹿やちると斑目一角が立っていた。
「あ、ひっつー、らんちゃん!」
冬獅郎らを目ざとく見つけて、やちるが部屋の入口に駆け寄った。
「あやあや、危なかったんだよ!」
冬獅郎たちに向かって、ばつが悪そうに絢女は苦笑した。
「不覚を取りました」
「怪我は? 大丈夫なの?」
「たいしたことないわ。それより、冬獅郎からもお礼を言って貰える? やちるちゃんと一角に助けてもらったのよ」
という絢女の言葉に、冬獅郎は一角を見返した。
「ちょうど、見舞いに来たとこだったんスよ」
「そうか。二人ともありがとう」
と、冬獅郎は頭を下げた。
その様子に、絢女に関わることだとずいぶん素直に頭を下げるな、と一角は心の中で思った。
冬獅郎の三度目の霊力解放時に負った怪我が癒えず、四番隊で療養していた絢女を襲ったのは三番隊の八席だった。本来の絢女であれば、八席相手に遅れを取ることはない。だが、怪我、ことに右足と利き腕の怪我が彼女の動きを鈍らせた。三番隊副隊長のイヅルの使いで来たという八席に不審を抱いた絢女は最初の一太刀は完全に避けて、寝台から逃れた。続けざまに繰り出された斬撃は秋篠で受け止めた。だが、利き腕でなかったのと、足の痛みで最後まで踏ん張りきれずに態勢を崩し、腕を斬られたのだ。さらに、追撃されようとしたところを、見舞いに訪れたやちると一角に救われたのである。
「せっかく、あやあやにとっておきの金平糖を持ってきてあげたのに!」
散乱していた金平糖は、やちるがとっさに目潰しとして、襲撃者にぶつけたものだった。
「悪かったな。草鹿」
冬獅郎が成長したせいでずいぶん小さくなってしまったやちるの頭を、冬獅郎は撫でた。
治療を終えた勇音が、
「申し訳ありません」
と、頭が膝頭にくっつきそうなほど深く頭を垂れて、冬獅郎に謝罪した。
「虎徹のせいじゃねぇだろう」
「ここは四番隊が管理する救護病棟です。不審者が侵入したのも、異変にすぐに駆けつけることが出来なかったのも、私たちの責任です」
「それはそうかもしれねぇが、姉さまも無事だったんだし、頭を上げてくれ」
勇音はおそるおそる頭を上げた。気持ちが優しく、実力に反して気の弱いところがある勇音は半分泣きそうになっていた。その背中をどやしつけるように、乱菊が叩く。
「もう。四番隊副隊長ともあろう者がなんて顔してんのよ! それより、絢女を襲った奴は?」
「刑軍に引き渡しました。砕蜂隊長が取り調べていらっしゃいます」
と、勇音が答えた時、ばたばたと慌しい足音を立てて走ってきた人影が、部屋に飛び込んでくるなり土下座した。
「すみません、すみません!」
吉良イヅルだった。
自隊の八席が絢女を襲ったと報せを受けたイヅルは、顔面蒼白になっていた。
「まさか、大川が、こんなこと…」
絶句したイヅルをその場にいた者が痛ましそうに見つめる。
「吉良くんのせいじゃないわ」
と、絢女が言った。
「内通者が残っていることは分かっていたことだし、それをあぶり出しきれないのは護廷全体の責任よ。今回はたまたま三番隊だったけれど、五番隊でも、九番隊でも、考えたくはないけど十番隊や、十一番隊にだって、絶対に内通者がいないという保証は、今のところないわ」
「しかし…」
「あんまり思いつめると、胃に穴があくぞ」
と、一角がイヅルの襟首を掴んで、引きずり上げて立たせた。
三人もの隊長が反乱を起こし、尸魂界から消えた時、混乱する護廷で一番の問題は内通者の存在だった。十番隊副隊長の乱菊も、反乱者である市丸ギンの幼馴染だったことで、当初はかなり疑いの目で見られていたものである。反乱を起こした三・五・九番隊長が統括していた三隊は特に疑われ、刑軍による苛烈な取調べの結果、十数名の隊士が内通者と断定されて拘束された。しかし、内通者がすべて見つかったわけではない、と皆、うすうすと感じていたのである。今回の件は、口にしないまま誰もが抱えていた不安が具現化したわけで、ようやく落ち着き始めた護廷にとってはかなりの痛手である。ことに、内通者を出した三番隊は、どちらかというと線の細いタイプであるイヅルが必死に支えて、ようやく立ち直る兆しをみせ始めた矢先だけに、隊の動揺が心配だった。
「とりあえず、俺は刑軍に行ってみる。虎徹、姉のことを頼んでいいか?」
と、冬獅郎が勇音を見た。
「もちろんです」
「俺と副隊長も、もうしばらく、ここにいます」
と、一角が言い添え、
「頼む」
と、冬獅郎は軽く頭を下げた。
十を背負った背中が部屋を出てゆき、乱菊とイヅルが後に続いた。
「日番谷」
と、「如月」と呼ぶのをやめたらしい一角が絢女を顧みた。
「おまえの弟は、よっぽどおまえが大切らしいな」
「そう?」
「俺なんぞに頭を下げる日番谷隊長なんて、おまえがらみでないとお目にかかれねーよ」
「それは…、困ったわね」
絢女は薄く笑った。
刑軍の拘置施設に赴いた冬獅郎たちは、すぐに、砕蜂がいる隠密機動総司令官室に通された。
真っ青な顔で震えながらも、イヅルが、
「大川は…? やっぱり内通…」
と尋ねると、砕蜂は頷いた。
「残念ながらな」
「あの…、話はできますか?」
「今は無理だ」
「無理…?」
「拷問にかけたのか?」
イヅルに代わって、冬獅郎が眉を顰めながら尋ねると、
「いや」
と、砕蜂は否定した。
「強力な自白剤を用いた。今は副作用で意識が混濁している」
「そうか…。それで、何か分かったのか?」
「いいや、大川を含めて、内通者たちはろくな情報を持ってはおらん。最初から、捨て駒にするつもりで残して行ったのだろう」
「姉が襲われたのは、やっぱり秋篠が…?」
「おそらくな。だが、大川は具体的には何も知らされていなかった。『如月絢女は藍染の計画の妨げになる者だから抹殺しろ』という指示だけが、市丸から下されたらしい」
「市丸?」
冬獅郎の後ろで乱菊が息をのみ、イヅルが、
「まさか」
と絶句した。
「何が、まさかだ?」
砕蜂は目を眇めて、イヅルを見た。
「市丸は藍染に従った反逆者だ。藍染の為に、日番谷絢女を抹殺しようとしても不思議はあるまい」
「そうです。でも、市丸隊長は絢女さんを…」
言葉は尻すぼみになって途切れた。
冬獅郎は小さく息を吐くと、
「砕蜂、悪いが、大川の意識が戻ったら教えてくれ。直接、話したい」
「構わんが、さっきも言ったように、ろくな情報は持っておらんぞ」
「それでも構わねぇ」
「分かった」
刑軍拘置施設を出て、三人はしばらく無言だった。
やがて、冬獅郎の背中から、
「隊長…」
と震える声が聞こえた。
「何だ?」
「ギンじゃありません」
と、乱菊は言った。
「 」
「絢女は…。絢女だけはギンには殺せません。絢女はギンの…」
乱菊は先を続けることができなかった。双殛の丘でギンに告げられた、「ご免な」という言葉が耳鳴りのように頭の中に響いていた。
「日番谷隊長。僕も松本さんの言う通りだと思います。市丸隊長が絢女さんを殺そうとするなんて、あり得ません」
毎年毎年、絢女の誕生日と命日とされてきた日に、彼女が好きだった菓子を用意していたギンの姿をイヅルは覚えている。イヅルが買ってきたそれを受け取る時の、寂寥を感じさせる笑みも鮮明に記憶に焼き付いているのに、それさえも演技だと言うのなら、イヅルは最早何を信じればいいのか分からなかった。
山本総隊長のところから戻ってきた卯ノ花と相談の結果、絢女は四番隊を退院して、冬獅郎が引き取ることになった。夜は十番隊隊長舎、日中は十番隊執務室にいれば、常に傍らに冬獅郎か乱菊がいることになるので、他に内通者がいてもそう簡単には手が出せないだろうという判断だった。治療は、卯ノ花か、勇音が十番隊に赴くことになった。
自分で歩ける、怪我して寝ていたくせに無理するな、と押し問答の末、冬獅郎に強引に横抱きにされて四番隊を引き上げることになった絢女は、傍らの乱菊を情けなさそうに見上げた。
「何、しょぼくれた顔してんのよ」
暗い気持ちを吹き払おうと、乱菊がわざと豪放に笑ってやると、
「だって、ずっと私が抱っこしてたのよ」
「いいじゃない。隊長に抱っこされて不満だなんて、隊長ファンの女の子から恨まれるわよ」
「でも、この体勢って…」
「あー。よりによってお姫様抱っこはないだろう、と。そう言いたい訳ね、絢女は?」
こくこくと、絢女は頷き、冬獅郎は思いっきり眉間の皺を増やした。
「足の怪我だって、まだ治ってねぇだろ? 歩くのは無理だ」
「だって!」
絢女は妙に力のこもった声で続けた。
「ずっと、私より小さかったのよ。それなのに、あれよあれよで、私を抜かすなんて反則でしょう?」
現在の冬獅郎の身の丈は五尺五寸 *1 。ほんの一寸ほどだが、絢女より高い。
「成長しちまったんだから、仕方ねぇだろう」
「…おしめだって、私が」
「姉さま!」
冬獅郎の遮りは遅かった。
「何、何? あやあや、ひっつーのおしめ替えてたの!?」
やちるが喰いついて来た。
「そうよ。おしめを替えてたの」
「姉さま、やめっ!」
「油断してると、替えてる最中におしっこ引っかけられたりしてね」
「うわぁ、最悪」
「男の子だと、その危険性は確かに高いわね~」
「…替えたばっかりのおしめにうんちをされた時は、本当に泣きたくなったものよ」
「あー、それはきついわね」
「でしょう?」
「姉さま、頼むから…」
ここまで情けなさそうな顔になった十番隊長は見たことがなく、一角もやちるも身を乗り出した。
「おしめだけじゃないわよ。子守唄歌って寝かしつけて、」
「うんうん」
「お乳…はさすがに無理だったけど、ご飯も『あーん』ってやって食べさせてたし、お風呂だって私が入れてたし、」
「ほぉ」
「添い寝もしてたし、夜中のはばかりにも付き添ってやって、」
「あやあや、大変だったんだね」
「そうよ。そうやって、本当に可愛がって大事に育ててきたのに、この仕打ちよ。ひどいと思わない?」
「何百年前の話だよ…」
と、冬獅郎はがっくりと頭を垂れた。
「ええと、百四十年と…四年前ね」
真顔で返答されてさらにうなだれる。
ふ、と微笑を零した絢女は、
「おんぶ」
と言った。
「あ?」
「おんぶで妥協してあげる。姫抱きは勘弁して」
溜息をつきながら、絢女をいったん下ろし、背中を向けてしゃがみこむと、冬獅郎の背中にふわりと重みがかかった。
「かたなしッスね」
にやにや笑う一角を、冬獅郎は横目で睨みつけた。
このふざけ方に冬獅郎は覚えがあった。つらい時、絶望的な状況の時、乱菊はよく場違いなテンションで場を浮上させていたものだが、今の姉の言動はそういう時の乱菊によく似ていた。
(松本が落ち込んでいるからか…)
乱菊の気持ちは、冬獅郎にも分からないでもなかった。
ギンが藍染に従い、護廷を裏切ったことは、言ってみれば信条の問題である。この世界のありようを藍染は是とせず、それにギンは賛同した。藍染のやり方は腹に据えかねていたが、彼の目指す世界は絶対に誤っていて、護廷が守ろうとする世界が絶対に正しい、とまでは冬獅郎には言えなかった。彼らは自分たちが正当だと信じ、こちらの世界に残った冬獅郎や乱菊は今の世界が正しいと思っている。目指すものが違ってしまったからこその敵対である。だから、乱菊はギンが敵になってしまったことを、きちんと現実として受け入れたのだ。だが、乱菊には、たとえ敵であっても、ギンは懐かしい幼馴染で命の恩人だった。敵になったことは受け入れられても、ギンが絢女の暗殺を目論むような非情な男になってしまったことは、乱菊にとって受け入れがたいことなのだろう。
だが、冬獅郎も今回の件には違和感があった。ギンが絢女を絶対に殺せない、とまでは冬獅郎は考えていなかった。だが、他人に殺させることはしないだろうとは思えるのだ。乱菊やイヅルが語ったように、ギンが絢女を愛していたのなら、彼はむしろ敵となった愛する女を自分の手で葬りたいと願うだろう、と冬獅郎は感じていた。
笛の音が聞こえたので、風呂上がりで濡れた髪を手拭で拭きながら、冬獅郎は姉が起居している座敷に行ってみた。絢女は座敷の縁側に座って、愛用の龍笛を奏でていた。
哀調を帯びた旋律が高く低く流れている。咽び泣いているような曲だ、と冬獅郎は感じた。
曲が終わって、笛を下ろした絢女に、
「姉さま。風邪ひくぞ」
と、冬獅郎は声を掛けた。
「そんなに寒くないわ」
と、振り返って絢女が答える。
「久しぶりに聴いたな」
「そうね。四十五年ぶりですもの。…音が狂ってなくてよかった。乱菊がきちんと保管してくれてたおかげね」
「さっきの、ずいぶん哀しそうな曲だったな。初めて聴いた。なんて曲?」
「即興よ」
流魂街にいた頃、訪ねて来てくれた絢女は、よく冬獅郎や桃の求めに応じて笛を吹いてくれた。冬獅郎たちの為に奏でる曲は、祭囃子のような明るい曲が多かったので、さきほどのようにもの哀しい曲を聴いたのは、冬獅郎は本当に初めてだった。即興だと聞いて、もしかすると、絢女は涙を流す代わりに笛を吹いていたのかもしれない、と冬獅郎は思った。
「…京楽から貰った酒があるんだ。呑まねぇ?」
「あら、いいわね」
絢女が微笑って提案を容れたので、冬獅郎は手早く、酒をぬる燗にして縁側に持って行った。
姉の傍らに腰を下ろし、杯を差し出すと、
「冬獅郎と呑める日が来るなんて思ってなかったわ」
と、絢女は口許をほころばせた。
「松本が言ってたけど、姉さまは松本より強えらしいな」
「ええ。乱菊は『ざる』だけど、私は『うわばみ』ですもの。でも、冬獅郎も強いんでしょう?」
「まぁな。ガキのなりしてても隊長だから、偉いさんの宴席には呼ばれるし、行ったら面白がって勧められるしで呑んでみたら、いける口だったんだよな。酒が強いのって、日番谷の血かな?」
「かもね」
見上げた先に、
「ねぇ、冬獅郎」
と、絢女は話しかけた。
「乱菊のこと、気を付けてあげてね」
「市丸のことか?」
「ええ。敵でも、ギンは乱菊の大事な幼馴染なの。つらい思いをしているはずだし、…それに、乱菊って、泣かないでしょう?」
絢女の言う通り、冬獅郎は乱菊の泣き顔を見たことがない。些細な出来事で涙目になったのは幾度か見たことがあったが、本当につらい時や悲しい時、悔しくてたまらない時は、乱菊は泣かない。泣いてしまえばいいのに、と痛々しい想いを抱いたことは、冬獅郎には数えきれないほどあった。
「あの娘、泣けないのよ。死神になってからも、流魂街で私と一緒だった頃も、私は乱菊が泣いたのを見たことがないの。ギンと暮していた小さな頃でさえ、泣かなかったって、ギンが言っていたわ」
絢女は冬獅郎の杯に酒を注いだ。
「私は、冬獅郎が乱菊の泣ける場所になってくれたらいいなと思う」
注がれた酒を口にしていた冬獅郎が激しく噎せた。
「姉さま!?」
「好きなら、ちゃんと護れる男になりなさい」
「って、何を…?」
「まぁ、乱菊はおとなしく護られてくれるような女の子じゃないけどね。護られるより、護るのを選ぶ娘だけど、だからこそ、安心して泣ける場所が必要だと思うの」
「いや、それは分かるけど、何で、俺…」
「あのねぇ」
と、絢女は冬獅郎を見て、苦笑を浮かべた。
「冬獅郎の気持ちなんて、再会して三日で気が付いたわ。言っておくけど、乱菊ほどいい娘はいないんだからね。逃すような不様な真似は許さないわよ」
さらり、と爆弾発言をかます絢女を、冬獅郎は呆然と眺めた。
絢女は可憐としか形容できない微笑を浮かべつつ、手酌でくいくいと杯を重ねている。顔だけはほんのりと桜色に上気して、触れなば落ちんという風情を醸し出しているが、これに騙されて自滅した男は掃いて捨てるほどいる、という乱菊の述懐が冬獅郎の頭によぎった。
姉は市丸のことをどう思っていたのだろう、と冬獅郎は疑問を持った。
同僚として、上司として、信頼していたとは以前に聞いた。けれど、女としての絢女がギンをどう見ていたのかは、絢女の口からも、乱菊からも聞いたことがなかった。
「姉さまは市丸のこと、どう思ってたんだ?」
「どうって?」
「松本や吉良が言うには、市丸は姉さまに惚れてたらしい。姉さまは、それ、知ってたのか?」
一瞬の沈黙があった。
それから、
「知っていたわ」
と、肯定が返って来た。
「応えられなかったけれど…」
「何で?」
「ギンは同期で、同じ隊の同僚で、直属の上司だったの」
「うん?」
「それだけ」
くいっと、絢女は杯を干した。
「松本は、市丸は姉さまだけは殺せねぇ、ってたけど、姉さまはどう思う?」
「どうかしら、ね? ギンは確かに私のことを好きでいてくれたと思うけど、でも、藍染隊長のことも尊敬していたわ。藍染隊長の目指す世界の実現に私が邪魔になるのなら、私情は捨てるかもしれない。それと、大川…だっけ? 彼女が直接ギンと接触して指示を受けたのか、誰かからギンの指示だと伝えられたのかも分からないし…、今は判断できないわ。ただ…」
「ただ?」
「彼が私を好きだったとしても、それは四十年以上前のことなの。彼の想いに応えようとしなかった女のことなんか、とっくに忘れていても不思議はないでしょう?」
忘れてねぇよ、と冬獅郎は思った。
忘れているのなら、誕生日と命日に絢女の好物を用意するわけがない。表面上は愛想がよく、世渡りのうまかった男が、絢女によく似た顔立ちの少年が絢女とよく似た表情を浮かべるのがつらくて、それを見たくない一心で少年に嫌がらせをしていたのだ。忘れているのなら、嫌がらせだって必要なかったはずだ。
もうひとつ、冬獅郎には訊きたいことがあった。今、思いついた顔で、さりげなく、彼は続けた。
「そういえば、最近は髪留めしないんだな」
不意を突かれた様子で、絢女が目を瞠った。
「昔、綺麗な蒔絵の髪留めをしていただろう?」
まだ絢女が失踪する前。冬獅郎が桃や祖母と共に潤林安に暮していた頃に、流魂街に冬獅郎を訪ねてきた絢女がつけていた髪留めのことである。黒漆に金銀の蒔絵で
「ああ、あれね。大虚にやられた時に壊れてしまったのよ」
「そうか。新しいの買ってやろうか?」
「ありがとう、冬獅郎。…嬉しいけど、いいわ。死神なんてしていたら、どうせすぐに壊してしまうし、今みたいに紐で括るのが一番いいみたい」
「そっか…」
それ以上、冬獅郎は髪留めのことには触れなかった。けれど、あの髪留めを絢女に贈ったのはギンだと、彼には確信めいた予感があった。
翌朝、冬獅郎の許に、大川が自殺したという報せがもたらされた。
意識が混濁しているからと見張りが油断していた間に、手首の動脈を喰い千切るという凄絶なやり方で、彼女は自分の始末をつけた。
彼女の死によって、冬獅郎が問い質したかったことはすべて藪の中に消えてしまった。
*1 五尺五寸=約167cm