想望
「大川は失敗しました」
「やはり、な」
「邪魔が入りましたようで」
「ほう?」
「十一番隊、草鹿やちると斑目一角です」
「ああ、あの娘と親しかったな…。だが、邪魔が入らなくても結果は同じだよ。大川ではあの娘は始末できない」
「断言されますね」
「可愛い部下だったからね。実力は知っている。あれを始末するのにずいぶん苦労をしたというのに、生きていたとは誤算だったな」
「悪運も強い女のようですね」
「まったくだ。どこまでも邪魔な娘だ」
「どうなされますか?」
「次の策は練ってある。心配は要らないよ」
昼間は十三番隊、夜は朽木邸で保護されている織姫とともに自宅への帰路を歩んでいたルキアは、
「今、帰り?」
と、絢女から声をかけられた。
「はい」
と、姿勢を正して答える。
「絢女さん、お出かけですか?」
織姫が尋ねた。絢女は死覇装を身に着けていなかった。象牙色の縮緬に臙脂や赤紫を基調にした更紗紋様を描いた小紋に深蘇芳の半襟を覗かせ、秋明菊の織柄に
「ええ。会えてちょうどよかったわ。これから、ルキアちゃんのお宅に伺うところなの」
「私の家に? 兄様にご用事ですか?」
「ええ。緋真さまのお参りをさせていただこうと思って。朽木隊長に折り入ってお願いしたいこともあるし」
絢女の返答に、ルキアは目を丸くした。
「絢女殿は姉のことをご存知なのですか?」
「緋真さまが亡くなられる前、ほんの一年くらいの短い間でしたけど、親しくさせていただきました」
と、絢女は微笑んだ。
「ルキアちゃんのことも緋真さまから伺ってたの。緋真さまは本当にルキアちゃんのことを心配して、ずっと捜していらしたのよ」
ルキアは柔らかな口調で語る絢女の横顔を見つめた。
「緋真さまによく似ている…。本当に姉妹ね」
「ありがとうございます」
「緋真さまも一目だけでも会いたかったでしょうに…。会わせて差し上げたかった」
うっすらと絢女は涙ぐんでいるようだった。
一緒に朽木邸への道を辿りながら、絢女はぽつぽつと緋真との想い出をルキアたちに語った。
流魂街に預けている弟を常に案じていた絢女と、過ちから手放してしまった妹を捜し続けていた緋真。肉親を想う強い心が通い合っていたのだろう。絢女の語る緋真は温かかった。屋敷の使用人を除けば、白哉以外の者から姉の話を聞いたのは初めてで、ルキアは一言も聞き漏らすまいと耳をそばだてた。
屋敷に着くと、家令が丁重に絢女を出迎えた。
「如月さま、お久しぶりでございます。いや、日番谷さまでございましたな」
「はい。ご無沙汰をいたして申し訳ございません」
「いえ、ご帰還、何よりのことと白哉さまともども喜んでおりました」
家令の老人の対応は賓客に対するものだった。それは取りも直さず、当主である白哉が絢女の訪問を歓迎していることを意味している。
すぐに、絢女は緋真の遺影が祀られた祭壇の間に通された。遺影の前には、白哉が端座して待っていた。
「朽木隊長。お参りに伺うのが遅くなってしまい申し訳ございません」
「いや。貴女が緋真を忘れずにいてくれたこと、感謝する。緋真も喜んでおろう」
絢女は携えていた風呂敷包みを解くと、中から塗りの小箱を取り出し、蓋を開けて遺影の前に供えた。
「茶巾しぼりか。わざわざすまぬ」
「このようなものをお供えするのもどうかと思いましたが、緋真さまがお好きでしたので」
そっと絢女は緋真の遺影に手を合わせた。白哉とルキア、織姫が見守る中、絢女はかなり長い時間、遺影に向き合っていたが、やがて、面を上げて、白哉へ直った。
「ありがとうございます」
「礼を言うのはこちらだ。ところで、私に頼みたいことがあると聞いているが」
白哉の方から切り出した。絢女はその心遣いに感謝するかのように微笑を浮かべると、単刀直入に告げた。
「私の修練にお付き合いいただきたいのです」
「ほう?」
「藍染…元隊長の鏡花水月による『完全催眠』を私の秋篠で無効化するには、卍解を修得するのが必須だと、浦原さんは分析されております。弟の封じを解いたことで、私の霊力は上昇しておりますが、未だ、卍解には至っておりません。それにもし仮に卍解出来たとしても、卍解時の膨大な霊圧を制御し、意のままに扱うにはそれなりの修練が必要だと聞いております。敵の準備は、こちらの予測以上に整っている様子で、あまり時間もございません。霊力解放を終えるまでは強引な修練は差し控えておりましたが、次の解放が最後です。弟も私も本来の霊力を回復いたします」
「なるほど。その後で、貴女が卍解を修得できるように修練を、というわけか」
「卍解の修得には転身体を使用してはどうかと、現世の浦原さんと夜一さんから提案されていて、山本総隊長も賛成して下さっています。卍解修得後、卍解状態を自在に操り、安定して保持する為の修練にお力添えをお願いしたいのです。もちろん、弟も修練の相手となる予定ですが、弟も隊長職を奉じております以上、私の相手ばかりをさせるわけにもまいりません。京楽隊長、狛村隊長、更木隊長にも協力をお願いし、ご快諾をいただきました。朽木隊長にも是非にもお願いいたします」
「他ならぬ貴女の頼みだ。何より、藍染の鏡花水月を封じるは護廷の至上事項。その為に必要とあらば、協力を惜しむ理由はどこにもない。いくらでも修練のお相手をいたそう」
「ありがとうございます」
「そうだ。恋次にも相手をさせよう。あれも未熟ながら、卍解を修得している。肩慣らしくらいの役には立とう」
と、白哉は立ち上がった。
「夕餉の膳を準備させている。帰りは責任を持って送り届けるゆえ、馳走させてもらえぬか?」
「いえ、そのようなご迷惑…」
「久方ぶりに緋真の想い出話がしたいのだ。ルキアも姉の話を聞きたかろう?」
と義兄に顧みられ、ルキアはこくこくと首を上下に振った。
「絢女殿。私からもお願いいたします。どうか、姉の話をお聞かせ下さい」
ルキアはきらきらした目で訴える。
「では、お言葉に甘えさせていただきます」
と、絢女は頷いた。
祭壇の間から出る前に、ルキアは姉に供えられた小箱を覗き込んだ。中には五つほどの茶巾絞りの菓子が納められていた。
「如月さまの手作りのお品ですよ」
控えていたルキア付きの侍女がそっと耳打ちした。
「白花豆を裏ごししたものに挽き茶を混ぜて茶巾絞りにされているそうです。緋真さまはこれをたいそうお好みでした。病が癒えたら、如月さまに作り方を教わってご自分でも作ってみたいとおっしゃられておいででしたが…」
侍女の言葉に、ルキアは姉の代わりに自分が作り方を教わろうと決めた。
執務室に地獄蝶がひらひらと飛んできた。
冬獅郎の指先に止まったそれが、預かってきた言葉を伝える。
自分の方を見ている副官に、冬獅郎は、
「姉さまからだ」
と教えた。
「朽木の屋敷で夕飯をご馳走になるから、俺は適当に食っといてくれってさ」
「うわぁ。朽木隊長のお屋敷の晩御飯なんて、さぞかし豪勢なものが出るんでしょうねぇ」
「だろうな」
「いいなー、絢女。いいなー」
繰り返し始めた乱菊に、冬獅郎は彼女の前に積みあがっている書類を指差した。
「それ、」
「わかってますよぉ。今日はさぼりません。是が非でもこれだけは上げて見せますって」
小言を言われる前に、と早口で一気に言ってのけた乱菊に、冬獅郎はくっと笑いをかみ殺す。
「何です?」
「それ。宣言通りに上げたら、呑みに行くか? 久しぶりに奢ってやるぞ」
「ほんっとですか?」
乱菊は目を輝かせた。
一時期のように避けられることはなくなっていた。表面上は以前とまるで変わらない主従であった。けれど、何となく、冬獅郎との間に、以前は決して感じることのなかった壁が生じたように乱菊は感じていた。彼が成長、それも、戸惑うほどに急激な成長を遂げてしまったことが大きな理由だろう。
ほんの一月と少し前まで幼い子供の外見をしていた十番隊長は、あれよあれよという間に成長し、現在は外見年齢十七歳前後。少年から青年に脱皮する一歩手前といったところである。身長も副隊長である乱菊と並んだ。四度目の霊力解放が終わって、四番隊を退院する時に計測した結果は、五分に満たないほどであったが、まだ乱菊の方が高かったが、最後の霊力解放が完了すればおそらく抜かれるに違いなかった。
「霊力の上昇だけが理由じゃなくて、私が歪めてしまった時間も正そうとしているみたい」
と四度目の霊力解放の前に、絢女は乱菊に語っていた。
「私が封印したり、霊力を抑えたりせずにいて、あの子が私や乱菊と同じように平均的な速度で成長していたとすれば、冬獅郎は多分、現世の人間なら十八歳くらいの外見に成長していたはずなの」
冬獅郎の成長は、乱菊に複雑な想いを抱かせていた。彼が力を得、それに見合う姿になることは喜ばしいことだった。子供の姿の隊首が小さな背中に隊を背負って、弱音も吐かずに歩む姿は、時折、痛々しい気がしていた。だから、彼の背が大きく広くなって、力強く隊を支えられるのは、きっと、彼にとっても、十番隊にとってもよいことなのだ。けれど、一方で、そんなに急いで大きくならなくてもいいのに、と惜しむ気持ちもまた強かった。
肉体的にも、霊力的にもピークを迎えた死神はその後、外見的な加齢速度は極端に遅くなる。霊力のない魂魄同様に、ほとんど外見が変わらないまま、長い年月を過ごすのだ。だからこそ、成長し、変われる時代は貴重だと乱菊は知っている。その貴重な時間を、冬獅郎は瞬歩で駆け抜けようとしているのだ。勿体ない、と乱菊は思わずにいられなかった。
彼がまだ少年の域にあるとはいえ、「子供」ではなく「男」と呼べる見かけに変貌したことで、彼を見る周りの視線も変化していた。いや、正確に言えば、周りが全部変わったわけではない。浮竹や京楽、卯ノ花といった隊長たちが同僚である冬獅郎をみる目はそう変わっていない。十番隊の隊士の隊首を見る視線も同様だ。
変化したのは他隊の、それも下位席官や席次のない平隊士といった隊長格との接触がほとんどない者たちの視線だった。
一番、あからさまに変わったのは中でも、若い女性死神である。
もともと、冬獅郎は女性死神協会が出版した写真集が即完売するほど女性死神に人気があった。だが、隊長に対する憧れや尊敬を脇に置いてしまえば、主に美少年を愛でるという鑑賞性に力点が置かれた人気だったと乱菊は思う。現世で少女たちがアイドルに黄色い声を上げるのに近い目で、若い女死神は冬獅郎を見ていたのだ。
だが、現在、冬獅郎を見る女死神の目は、明らかに彼を「男」と見なしていた。露骨な秋波を送る者さえいる。そして、彼女たちの乱菊を見る目も少しばかり変化しているようだった。乱菊が冬獅郎に抱きついたり、神々の谷間と称される豊満な胸を彼の顔に押し付けるといった過剰なスキンシップをとっても、以前なら、そう、まるで仲のいい姉弟がじゃれあっているのを見るような生ぬるい視線を送られておしまいだった。けれど、今は、ただ側にいるというそれだけで、敵意に近い視線を感じることがあった。
冬獅郎自身も、ぶつぶつと文句を言いながらも決して拒絶しなかった乱菊のスキンシップを、現在、微妙に避けている節がある。ともに食事に行ったり、呑みに行ったりといったことも以前は頻繁にあったのに、それもなくなった。四十五年ぶりに帰還した絢女が嬉しそうに弟の世話を焼いているので、乱菊の出る幕がなくなったという面もないではない。だが、それ以上に、冬獅郎が乱菊と執務以外で二人きりになることを、さりげなく回避しているように思えて、乱菊は内心で途方に暮れていたのだ。
だから、冬獅郎から本当に久しぶりに呑みに行こうと誘われて、乱菊は小躍りしたい気分だった。
「上げたら、だからな」
「わかってますって。ちゃちゃっと終わらせてみせますから、待ってて下さい!」
と、乱菊はテンションの上がった声で書類に没頭した。
白哉は絢女に告げた通りに、夕餉の後、彼女を十番隊隊長舎まで送り届けた。
絢女は固辞したが、白哉は譲らなかった。彼とても、絢女の力は充分に評価していた。しかし、何といっても、刺客に襲われたのはつい先日のことだ。彼女が藍染に邪魔にされているのは明らかであったし、用心に越したことはなかった。もっとも、これが例えば、卯ノ花や砕蜂であっても、やはり白哉は送り届けただろう。四大貴族の当主である彼は騎士道精神に近いものを身につけており、女性は尊重し、守るものだという考えがあったからだ。
「わざわざ、申し訳ございませんでした。ありがとうございます」
「いや。今宵は楽しかった。ルキアも緋真の話を聞くことが出来て嬉しかったようだ。あれには、姉との想い出がない。良かったら、また話を聞かせてやってくれぬか」
「もちろんです」
と絢女は頷いた。
「それではこれで失礼する。日番谷隊長によろしく伝えてくれ」
「はい。朽木隊長、ありがとうございました。おやすみなさい」
「ああ、おやすみ」
帰ってゆく白哉を絢女は隊長舎の玄関先に佇んだまま、見送った。
白哉の背中が小路の角を曲がって見えなくなってから、絢女は隊長舎に入ろうとして、ふと動きを止めた。
(…?)
隊長舎に冬獅郎の気配はない。おそらく、外に食事に出ているのだろう。それはいいのだが、近づいてくるこの霊圧は…。
(乱菊?)
それは確かに乱菊の霊圧だった。だが、ひどく乱れていた。普段はきれいに押さえている霊圧があふれかえっている。
彼女は瞬歩で十番隊寮に向かっているようだった。だが、近くまで来たと思った瞬間、くるりと方向を変えた。
「八番隊に行ったわね」
おそらく、七緒のところに逃げ込んだ。そう見当を付けて、絢女は近づいてくるもうひとつの霊圧を待ち構える。
駆け込んできた冬獅郎は、姉の姿を認めるなり、
「松本は!?」
と、叫んだ。
「落ち着きなさい、冬獅郎」
「松本は? 戻ってねぇのか?」
先ほどの乱菊は、更木剣八並みに霊圧だだ漏れだった。にもかかわらず、乱菊を見失っている冬獅郎もまた、相当に狼狽しているのは明らかだった。
「七緒さんのところに行ったわ」
無言で八番隊に向かおうとする弟の腕を、絢女は掴んだ。
「落ち着きなさい。大体、今、何時だと思っているの? いきなり女の子の部屋を訪ねる時刻じゃないでしょ? 京楽隊長に殺されるわよ」
「でも、松本が」
「でもじゃありません」
ぴしゃり、と絢女に言い切られ、冬獅郎は立ち尽くした。これが浮竹や恋次なら、強引に振り払って行くところだが、相手が絢女では冬獅郎に分はなかった。
「何があったの? 乱菊も相当霊圧を乱していたし、冬獅郎のうろたえようも普通じゃないわ」
問い質す絢女に、冬獅郎はわずかに視線を逸らす。その途端、絢女の霊圧が尖った。
「冬獅郎、乱菊に何をしたの?」
「何もしてねぇ」
「ふーん」
半眼になって絢女は弟を見つめた。そのまま、数秒、睨み合う。いや、正確には、絢女が冬獅郎を睨んでいて、冬獅郎は蛇に睨まれた蛙も同然に小さくなっていた。
やがて、
「本当に、何にもしてねぇんだ。ただ…」
「うん?」
「好きだ、って言った」
冬獅郎の言葉に、絢女はようやく合点がいった。朴念仁の弟のことだ。ムードもへったくれもなく、いきなり、告白したに違いない。それで乱菊は動揺して、
「逃げられたのね」
「『冗談はやめて下さい』っつったから、冗談でこんなこと言えるか、って言ったんだ。そしたら、いきなり、逃げやがった」
絢女は溜息をついた。
「冬獅郎、乱菊は私が迎えに行くから、あなたはちょっと頭を冷やしなさい」
「…」
「冬獅郎」
ようやく、冬獅郎は姉に任せた方がいいと納得したようだ。
「わかった。頼む、姉さま」
「ええ。もしかしたら、乱菊と一緒に七緒さんのところに泊まるかもしれないから、私のことは待たずに先に寝ていてね」
「ああ、わかった」
冬獅郎が隊長舎に引っ込んだのを見届け、絢女は八番隊副隊長舎に向かった。
「夜分、恐れ入ります。ごめんください」
と声をかけると、奥から七緒が現われた。
夜も更けた時刻である。のんびりとくつろいでいたに違いない。七緒は風呂上りらしく、夜着の上に半纏を羽織り、生乾きの髪をゆるい三つ編みにしていた。
「夜遅くにごめんなさい。乱菊、来てるでしょ?」
「ええ。つい、先ほど駆け込んで来られました。一体、何があったんです? 乱菊さんに尋ねても、ちっとも要領を得ないし…」
「冬獅郎がね」
「日番谷隊長ですか? どうなさったんです?」
「乱菊に告白したそうなの」
「え、ついにですか!?」
「ええ、ついに。それで、逃げられた、と」
「ああ、そうなんですね。それにしても、日番谷隊長、思い切りましたね」
「逃げられて、死ぬほどうろたえてたけど」
「乱菊さんもうろたえてますよ」
「でしょうね。霊圧撒き散らしていたもの。上がらせてもらっていいかしら?」
「もちろんです」
乱菊は居間でへたり込んでいた。放心しているようで、入ってきた絢女にも反応を示さない。覗き込んで、目の前で手を振ってみても無反応だ。
「重症ね…」
「そのようです」
絢女は乱菊のまん前で、猫騙しの要領で、ぱん、と大きく掌を打ち鳴らした。
びく、と乱菊の肩が震え、彼女はようやく絢女を認めた。
「絢女ぇ~」
ふにゃりと乱菊の表情が崩れる。
「隊長が…」
「聞いたわ。冬獅郎から『好きだ』って言われたんでしょ?」
「何でぇ? どうして、あたしなの?」
「どうしてって言われても…」
「何でよ。そんな素振り、全然なかったのに!」
乱菊の言葉に、七緒と絢女は顔を見合わせた。
「今、ものすごく冬獅郎のことがかわいそうに思えたんだけど…。私だけ?」
「いいえ、私もお気の毒に思いました」
「冬獅郎って、わかりやすいと思ってたんだけど」
「ええ。わかりやすいですね。でも、もっとわかりやすい人のことも、乱菊さん、気付いてらっしゃらないですから」
と、七緒。
「…もしかして、射場さんと檜佐木くん?」
「ええ、そうです。いつも、こうやって粉砕してるんですよ」
「乱菊って、人のことはやたら鋭いくせに、自分のことはものすごく鈍いと前々から思っていたんだけど、ここまでひどいとは想像してなかったわ」
「市丸隊長の過保護の弊害でしょうか?」
「そうかも。あの人、ほんっとに乱菊に対して過保護だったもの。どこの頑固親父なのって、突っ込んだこと、十遍や二十遍じゃきかないわよ」
「私、乱菊さんがお嫁に行く時、市丸隊長は絶対に泣くって信じてました」
「実は私も…。乱菊のお婿さんに『一遍殴らせろ』って言い出しかねないと思ってた」
こそこそと話す二人を、乱菊は恨めしそうな目で見上げた。
「あんたたち、勝手なこと言わないでよ」
絢女は乱菊の前にしゃがみこむと、
「詳しい話、聞かせてくれる?」
と、尋ねた。
「冬獅郎があなたに『好きだ』って言ったってことだけは聞き出してきたけど、どういう状況で言ったのか、詳しい話は全然聞いてないの。よかったら、聞かせて」
七緒が酒を用意しに台所へ立った。
「 仕事が終わって、隊長と一緒に居酒屋に行ったのよ」
注がれた熱燗を飲みながら、ぽつりぽつりと乱菊は語った。
冬獅郎との間に距離を感じて不安だったこと。久しぶりに冬獅郎の方から誘われて酒食をともにし、とても嬉しかったこと。
「おなかいっぱいになって、二人でなんとなくぼーっとしてた時に、隣の話し声が聞こえたの」
冬獅郎たちは個室に入っていた。だが、庶民的な居酒屋のことである。広い座敷を障子で仕切った程度の代物だ。隣の声は筒抜けだった。
隣に入っていた客は、他隊の下位席官のように思われた。あるいは、平隊士だったかもしれない。すぐ側に、冬獅郎と乱菊がいるとも知らず、冬獅郎について聞くに耐えない下卑た噂をしていたという。
冬獅郎は女性死神に人気がある反面、他隊の下位の男性死神には常に冷ややかな目で見られていた。幼い外見で隊長職に就いた彼に対して、嫉みややっかみを抱く者は多かったからだ。
実際、彼が隊長に就任した直後は、十番隊内でもその幼さを不安視する声は大きく、どうしても我慢できないと他隊に異動した隊士も決して少ない数ではなかった。それでも、間近に接していれば、彼が確かに隊長に相応しい力量があることは分かるし、外見を裏切る老成した精神年齢も、心栄えの
他隊の隊士であっても、上位席官ともなれば、自隊の隊長格から冬獅郎に対する評価を耳にすることも多く、また、何やかやで直接、冬獅郎に接触する機会も少なくなかったから、彼を表立って悪く言う者は少ない。だが、冬獅郎と接触することのほとんどない下位の男性死神にとっては、彼は常に侮蔑の対象だった。
ガキのくせに。総隊長に取り入って隊長になったくせに。あんな子供で隊長が務まるなら、俺だって隊長になれる。十番隊はガキのお守りをしている。
すべて、乱菊が過去に実際に耳にした陰口である。その度に、はらわたが煮えくり返りそうになるのを、乱菊は処世術となった笑顔でかわしてきた。内心で、
「だったら、一日でも隊長を務めてみなさいよ。隊を背負うということがどれほどの重責か、知らないくせにえらそうにしないで」
と、軽蔑の視線を向けながら。
冬獅郎が急激な成長を遂げ、まだ少年の範疇であるとはいえ「ガキ」と蔑むことが出来なくなったことが、彼をねたむ死神の劣等感を刺激したらしい。その上、女性死神が彼に男としての憧れの視線を向けるようになったことが、反感に輪をかけた。
隣の個室の男たちはそういった、冬獅郎に嫉みを抱いている者らしく、酒が入っていたこともあって、大声で冬獅郎を
「どんなことを話してたんです?」
何となく想像はついたが、敢えて、七緒は尋ねてみた。
「隊長は雛森の傷に付け込んでモノにしようとしている、とか。もう出来てるんじゃないか、とか。あたしのことも
一番ひどい噂は、さすがに絢女の前では言えなかった。彼らは「姉とも出来ているんじゃないか」と言って、げたげたと笑っていたのだ。
「くだらない」
と七緒は吐き捨てた。
「あたし、腹が立って、文句言ってやろうとしたんだけど、隊長は『取り合うな』って言って、さっさと店を出ちゃったの」
自分が弟の立場でも同じ態度を取っただろう、と絢女は思った。こういう下種な想像しか出来ない者には、何を言っても無駄である。反論すればしたで、それをネタに「むきになって否定するのは疚しいところがあるからだ」と尾鰭をつけて噂を広げるに決まっていた。並外れた美貌ゆえに嫉みを受けることの多かった絢女はそれが身に沁みていたし、乱菊も同様のはずだった。それでも、我慢がならなかったのは、噂が自分自身ではなく、冬獅郎のことだったからだろう。
「追いかけて、何で言いっぱなしにさせとくんですか、って隊長に文句を言ったら、『相手にするなっておまえが言ったんだぞ』って…」
昔、言い寄って袖にされた男が腹いせに、乱菊について「あばずれ」だのなんだのとひどい噂を流したことがあった。その時、いきり立つ冬獅郎に、確かに、乱菊はそう言った。
「あんな奴、まともに相手にするだけで、こっちの品性が下がりますから。放っておけばいいんですよ」
と。
「でも、だからって! あんな根も葉もないこと言われて…」
「根も葉もねぇ訳でもないだろ?」
と、冬獅郎は答えた。
「邪推もいいところだけどな。俺が雛森を気にかけて、しょっちゅう見舞いに行ってるのは事実だ。端から見りゃあ、雛森をモノにしようとしているように見えるんだろ。おまえのことも、隊長副隊長だから当然とはいえ、いつも一緒にいるし、俺がガキのなりしてた頃、松本、しょっちゅう抱きついてただろうが」
「それは…」
「姉さまとのことはさすがにきれそうになったがな。おまえが昔言った通りだ。ああいう輩、相手するだけでこっちが穢れる」
「だけど! 夜な夜な女漁りなんて、それこそ根も葉もない!」
乱菊の叫びに、一瞬、冬獅郎は黙り込んだ。
それが気になって、
「隊長?」
と、覗き込んだ途端、顔を背けられた。
冬獅郎は大きく溜息をつくと、
「夜な夜なってのは嘘だ。だが、花街に通ってるのは事実だ」
と告白したのである。
「…嘘…」
乱菊の知る冬獅郎は潔癖な少年だった。彼が女を金で抱くとは信じられず絶句する乱菊に、
「いいことじゃねぇのは分かってる。だが、自分がでかくなって、どうしようもねぇ時もあるんだって思い知った」
と、彼は言ったのだ。
盃を口に持っていきかけていた七緒の手が止まった。
「日番谷隊長が花街に!? まさか」
「だって、隊長はそう言ったのよ」
「でも、絢女さんだって隊長舎にいらっしゃるのに…」
と、絢女を盗み見た七緒に、
「仕方ないの」
ぽつりと絢女は答えた。
「昔ね。一角に言われたことがあるわ。『女と違って、男は物理的に溜まるんだ』って」
「…」
「冬獅郎を見てたら、それがすごく納得できた。きっと、普通の男の子なら、体の成長に見合って、ゆっくりと性欲も強くなったでしょうし、対処の方法を覚える時間もあったはずよ。だけど、あの子は私のせいでものすごく成長が歪んでしまったから…。確かにいいことじゃないけど、必要悪というか、緊急避難として仕方がないと思ったわ。だから、私…」
「絢女さん?」
「あの子の様子を観察して、危うそうだと思ったら、乱菊を連れて外泊するようにしてたの。私がいたら、冬獅郎は出かけられないし、乱菊にも知られたくないだろうから」
「もしかして、私を呑みに誘って、そのまま、乱菊さんと一緒にここに泊まってたのって…」
「ごめん、七緒さん。利用してた」
七緒も子供ではない。事情がわかれば、絢女の言う通り、必然性のあることだと承服できた。
「日番谷隊長がお一人で花街に行かれるとは思えませんね。どうせ、京楽隊長が手引きなさったんでしょう?」
「京楽隊長のこと、怒らないで。冬獅郎、本当に切羽詰ってたのよ。京楽隊長が気が付いて下さらなかったら、どうなってたか分からないわ。私は気付いてても、おろおろするばかりで何にも出来なかったし、京楽隊長にはとても感謝しているの」
「怒ったりしませんよ。そういうことなら、しようがありません。むしろ、うちの隊長もたまには役に立つんだと感心してます」
と、七緒は眼鏡のずれを直すと、
「話の途中でしたね。それで、乱菊さん。日番谷隊長から花街通いを告白されて、それから?」
と、軌道修正した。
乱菊は息をついた。
「今、絢女の話を聞いて、あたしも仕方なかったんだなって思えたけど、その時は信じられなくて、何で花街なんかに行くんですか、って詰め寄っちゃったの。そしたら 」
「好きだ」
唐突な言葉に、乱菊は呆然となった。
「たいちょ…、何を言って…」
「ずっと好きだった。けど、おまえには手、出せなかったから、花街の
乱菊を魅了してやまない翡翠の瞳は、まっすぐに彼女を貫いていた。真摯な光を宿した
「…冗談…止して下さい」
「冗談だと思うのか?」
「だって、隊長…。あたし、年上ですよ」
「だから?」
「絢女だって、反対しますよ」
俯く乱菊に、
「乱菊ほどいい娘はいないんだからね。逃すような不様な真似は許さないわよ」
と、何故か冬獅郎は女言葉で告げた。
「はぁ!?」
乱菊が見返すと、
「姉さまの台詞を忠実に再現してみた」
「はぁっ?」
「姉さまが反対しようが、俺の気持ちは変わらねぇ。けど、そもそも、姉さまは反対してねぇよ」
「隊長。からかわないで下さい。冗談が過ぎます」
「冗談じゃねえっつってるだろう。ふざけてこんなことが言えると思うか?」
そう、間違いなく、冬獅郎は真剣だった。
だからこそ、怖かった。
ずっと築いてきた関係が壊れそうで、冬獅郎を失ってしまいそうで、とても怖ろしくなった。だから、冗談にしてしまいたかったのに、彼はそれを許してくれなかった。
怖くて、怖くてたまらなくなって、どうすればいいのか途方に暮れて、
「逃げ出したんですね?」
「そ…です」
消え入りそうな声で乱菊は肯定した。
絢女は先ほどから、文字通り、頭を抱えてしまっている。
「どうしよう? あたし、明日から、どういう顔して隊長と会えばいいの?」
日頃の豪放さはすっかり鳴りを潜め、乱菊は困惑しきっていた。
どうしよう、と問われた七緒にしても、答えようがない。思案に困って絢女を見遣ると、七緒の視線に気付いたかのように、不意に、絢女は頭を上げた。
「乱菊」
「何?」
「冬獅郎に避けられてるって、前に、私に相談したことがあったでしょ?」
「…うん」
「あの時、私、言ったわよね。冬獅郎の問題だって。これがその答えよ」
絢女の言葉に、乱菊は、あっ、と短い呟きを洩らした。
「冬獅郎は乱菊が好きだった。好きだから大事にしたくて、守りたくて、傷付けるなんて絶対にしたくなかった。でも、好きだからこそ、乱菊のことを求める気持ちも強くて…。急激な成長のせいで、自分を抑えきれなくなっていたの。だからね。だから、何とかして最悪の事態を避けたくて、乱菊を側に寄らせないようにしていたのよ」
「絢女、あたし…」
「冬獅郎の言った通りよ。私は乱菊と冬獅郎のことを反対するつもりはないわ。それどころか、乱菊が好きなんて、女を見る目があるって、ほめたいくらい。だけど、乱菊の気持ちは乱菊のものだから」
「…」
「乱菊が冬獅郎を男として受け入れられなくても、それはどうしようもないことよ。たとえ、乱菊があの子の気持ちを拒絶したとしても、冬獅郎は怒ったりしない。それは、乱菊も分かるでしょ? 怒って、副隊長としての乱菊まで切り捨てるような心の狭い子じゃないから…。だから、お願い。乱菊も逃げないで。ちゃんと向き合って。乱菊にとって冬獅郎は隊長でしかないのか、それとも、別な気持ちがあるのか、もし、別な気持ちがあるのなら、それはどういう感情なのか。きちんと向き合って、答えを出してほしいの」
お願い、と深々と、絢女は頭を下げた。
乱菊は目の前の栗色の髪を、ただ見つめていた。