鷺姫
執務室の扉を開けると、すでに冬獅郎は出勤していた。
「おはようございます」
乱菊の挨拶に、
「おはよ」
と、いつものように上司は返事を寄越す。
「朝ご飯はちゃんと食べた?」
と、絢女が尋ねた。
絢女と乱菊は、昨夜、共に八番隊副隊長舎に泊まった。部屋の主である七緒から朝食を振る舞われ、つい先ほど、着替える為にいったん十番隊寮に戻ってから出勤してきたばかりである。絢女が十番隊隊長舎に帰った時、冬獅郎はすでに隊長舎にいなかった。きっと、ろくに眠れず、仕方なく、朝早くに隊寮を出たのだろう。
「ああ、適当にありあわせのものを食っといたから」
絢女は頷くと、
「よかった。それじゃ、私、修練場に行くわね」
「ああ、頼む」
絢女は任されている隊士の修練の指導の為に、さっさと修練場に行ってしまい、残された乱菊は席につくことも出来ず、固まった。
「松本」
「は、はい!」
意識しまいとしても声がうわずる。
「茶、淹れてくれ」
一方、冬獅郎は恬淡としていた。いつもと変わらぬその態度に、昨夜の出来事が夢のように思えてきて、乱菊の固まっていた体がようやく動き始めた。
冬獅郎の好みの熱いほうじ茶を淹れ、ことりと執務机に置くと、
「ああ、ありがとう」
と、やはりいつも通りに礼を言われた。
「いえ」
自分の執務机に戻ろうとした乱菊の背中に、
「松本。ゆうべのは本気だからな」
と、冬獅郎の声がかぶさった。びくり、と乱菊の肩が震えた。
「松本」
背中を向けたままの乱菊に、冬獅郎はさらに言葉を重ねる。
「返事は急がねぇから、ゆっくりと考えて答えをくれ」
乱菊は立ち尽くした。振り返ることも、前に進むことも出来なくなった彼女の姿に、はぁ、と冬獅郎が大きな溜息をついたのが聞こえた。
「 何で、あたしなんですか?」
やっとの思いで、乱菊は尋ねた。
「何でだろうな?」
と、冬獅郎は答えた。
「俺にも分からねぇ。気が付いたら、おまえしか見えてなかった」
「だって、あたし、年上ですよ?」
「ゆうべもそう言っていたな。けど、俺にはどうでもいいことだ。第一、本当におまえが俺より年上かどうかはわからねぇだろう?」
乱菊は冬獅郎の姉である絢女と同じくらいの外見年齢であった。乱菊と絢女が出会った頃は二人とも少女と呼べるくらいだったけれどやっぱり同年齢の見かけで、それから、ほぼ同じくらいの平均的な加齢速度で、二人は年を重ねてきた。だから、乱菊が冬獅郎より年上というのは一見正しい。だが、現世と尸魂界での加齢速度の違いを考慮すると、必ずしも正しいとは限らないのだ。例えば、現世で冬獅郎や絢女よりずっと後に生まれた乱菊が、冬獅郎たちが尸魂界でゆっくりと歳をとっている間に現世で成長し、絢女と同じくらいの外見年齢に達した頃に死んだとすると、現世からの年齢でいっても、尸魂界に来てからの年月でいっても、冬獅郎の方が実は年上ということになる。
「草鹿なんて成長が極端に遅えから、ガキに見えるけど、
「…」
「他には? 言いたいことがあるなら、全部、ぶちまけろ」
「…分からないんです」
と、乱菊は呟いた。
「昨日から、ずっと考えていたけど、分からないんです」
何が、とは冬獅郎は尋ねなかった。
「あたしは隊長のこと、大好きです。でも、どう好きなのか、自分でよく分からないんです」
「ゆっくり考えろって、さっき、言っただろう? 今すぐ、返事をくれとは言ってねぇ。ただ、十番隊長としての俺のことは認めてるよな?」
「当たり前じゃないですか!」
乱菊は勢いよく振り返った。
「隊長の副官でいることがあたしの誇りなんです。隊長の背中を守ることがあたしの生き甲斐です。隊長の副官でいられなくなったら、あたしは…」
「それならいい。おまえがどんな結論を出すにせよ、十番隊長としての俺にとって、松本乱菊は唯一無二の副官だ」
翡翠の瞳が、乱菊を見つめている。
「松本乱菊という女が日番谷冬獅郎という男を拒んだとしても、十番隊副隊長の松本乱菊は十番隊長の日番谷冬獅郎を否定するな。側にいろ。いや、いてくれ」
「隊長…」
冬獅郎は乱菊から視線を外し、書類を手に取った。
「松本」
「はい!」
「いつまで呆けている。仕事しろ」
「はい!」
あたふたと、乱菊は席についた。書類に集中しなければ、心臓が破裂しそうだった。
衣文掛けに掛けて陰干ししていた昨夜の着物を畳もうとして、絢女は、あら、と袂に手を入れた。
いつの間に入れられたのか、折り畳んだ紙片が出てきた。折り紙の要領なのだろう、とても変わった形に折られたその紙片には「絢女さんへ」と几帳面な字が並んでいて、絢女は首をひねりながら紙片を開いてみた。
「冬獅郎、ちょっと、出かけてくるわね」
隣の部屋で書物を読んでいる弟に声をかけると、冬獅郎は本から顔を上げた。
「こんな時間にか? どこに行くんだ?」
「昨日、朽木隊長のお屋敷に伺った時に、織姫ちゃんから相談したいことがあるって結び文を貰ったのよ」
「結び文?」
「今、袂に入ってたのに気が付いたの。いつの間に、入れたのかしらね?」
と、絢女は結び文を冬獅郎に差し出した。ルキアが現世から仕入れてきたらしい、ウサギの絵柄のついたメモ用紙に記された内容を読んで、
「十三番隊の北修練場って…」
と、冬獅郎は眉を顰めた。
十三番隊の北修練場とは、冬獅郎の霊力解放の儀式に使用してきた屋外修練場である。各隊はそれぞれ屋内・屋外修練場を持っているから、十番隊にも当然、屋外修練場は存在する。にもかかわらず、十番隊ではなく十三番隊の修練場で解放の儀式が行われたのは、十三番隊の屋外修練場が一番郊外にあるからだ。解放時に発生する霊力の暴走を万が一、本人も絢女も抑えきれず、京楽たちの結界でも防ぎきれなかった場合に、被害を最小限に留める為、あえて、辺鄙な場所にある十三番隊修練場が選定されたのである。
「こんな夜更けに女が行く場所じゃねぇだろ?」
「私が気付くのが遅かったからよ。早く行かないと。待ちくたびれて、帰っていてくれるといいんだけど…」
絢女は気が気でない様子だった。
「俺も行こう」
と冬獅郎は立ち上がると、刀掛けから氷輪丸と秋篠を取った。
「持っていくの?」
「念の為な。姉さま、この間、襲われたばっかりだし、井上も藍染に目を付けられているからな。用心に越したことはねぇ」
「そうね」
と、絢女は秋篠を下げ緒で結び、冬獅郎はいつものように氷輪丸を背負って、隊長舎を出た。
十三番隊北修練場は真っ暗だった。幸い、月が出ているので、足元は何とか見えるが、若い娘がいていい場所でないのは確かだ。
「いくら何でも、もう帰ってるだろう?」
「私もそう思うけど、万が一ってこともあるし…」
と、絢女は闇に向かって呼びかけた。
「織姫ちゃん、いる?」
「井上?」
と、冬獅郎も声をかける。
返事はない。
「帰ってるみてぇだな」
「そうね…」
と頷きながら、何故か、絢女は胸のざわめきを覚えた。何かを見落としている、そんな気がして、もう一度、あたりを見渡す。
「孤天斬盾」
「!」
冬獅郎を庇って前に出た絢女の左腕を、飛び込んできた椿鬼が引き裂いた。
「姉さま!」
続いて襲い掛かる椿鬼を、冬獅郎は氷輪丸で払う。
「井上!?」
冬獅郎は信じられなかった。織姫が自分や絢女を攻撃するなど。
それに、
「姉さま、気をつけろ! 孤天斬盾、威力が違う!!」
井上織姫は気持ちが優しく、人を傷つけることに痛みを覚える少女だった。「孤天斬盾」は織姫の唯一の攻撃術で、物質の結合を解くことで対象を切り裂く力を持っていた。だが、遣い手の心を反映してか威力はさっぱりで、雑魚虚やひよっこ死神には通用しても、席官以上の死神に通じるレベルの攻撃ではないはずだった。
だが、絢女の腕を裂いた孤天斬盾の威力は、これまでと桁が違っていた。椿鬼の動き回るスピードも速い。
自然、背中合わせになって、孤天斬盾に身構える二人を、
「双天帰盾。私は拒絶する」
双天帰盾の盾が覆った。
「なっ!?」
とっさに、冬獅郎と絢女は結界を張った。だが、
「結界が 揺らぐ!?」
冬獅郎に動揺が走った。護廷隊長の張った結界が破られてこそいないものの、大きく揺らいでいるのだ。
「結界そのものを拒絶しているのよ」
絢女が呟いた。
「織姫ちゃんの
「姉さま…」
「あの娘の能力の限界は、織姫ちゃん自身の心よ。織姫ちゃんの優しさが限界点を作っていたんだわ。だけど…」
「藍染か?」
「うかつ、だった。織姫ちゃんをあっさりと取り戻せた、その意味をもっと深く考えてみるべきだったわ」
「井上は、俺たちに何をしようと…」
「浦原さんが分析していらしたでしょう。双天帰盾は『事象の拒絶』。対象に起こった出来事を時間と空間を遡って、なかったことに出来る能力よ。織姫ちゃんが藍染の意を受けて、私たちに双天帰盾をかけている以上、目的はひとつしか考えられない」
「何…?」
「私たち、…ううん、多分、冬獅郎は巻き添えね。私の『存在』の拒絶よ」
「!!」
冬獅郎は息をのんだ。存在そのものの拒絶。それは、井上織姫の能力によって、冬獅郎と絢女が消え去ることを意味している。
「冬獅郎。あの娘は操られているだけよ」
「ああ、分かってる」
「織姫ちゃんは人間よ。こんな無茶な霊力の使い方をしたら、いずれ、限界が来るわ」
「霊力の持久戦なら、俺たちの方が有利だ。姉さま、結界を解いてくれ。霊力を無駄に使うことねぇ」
絢女が結界を解き、冬獅郎は自分の結界の中に姉を庇った。揺らぐ結界に霊力を傾注し、冬獅郎はひたすら結界を保持することに全力を注いだ。消え去るわけにはいかなかった。藍染の思い通りにはさせない、と冬獅郎は誓った。
戸が壊れんばかりの勢いで、乱暴に開かれた。
「恋次!」
駆け込んできたルキアが叫ぶ。
「井上は来ておらぬか!?」
恋次と、六番隊副隊長舎に居候中の一護たちはトランプを手にしたまま、
「来てねぇけど?」
と、間の抜けた顔で答えた。
「呑気にトランプなんぞをしている場合か!」
ルキアは怒鳴った。
「井上がおらぬのだ」
「いないって、朽木さんのお屋敷にかい?」
雨竜の問いに、ルキアは頷いた。
「夕飯まではいた。だが、私が風呂から上がったら、いなくなっていた」
世話になっている白哉やルキアに無断で屋敷を出るなど、織姫の性格からいってあり得ない。そもそも、こんな夜更けに出歩く必要もないはずだ。
「白哉には言ったのか」
「ああ。兄様は砕蜂隊長に報せに行かれた」
「とにかく、捜そう」
と一護らは表に出た。霊圧探査能力に優れた雨竜が、
「ちょっと探ってみる」
と精神を集中させる。彼の気を乱さないよう、息を詰めて一護たちが見守る中、すっと雨竜は右手を上げて、北の方角を示した。
「遠すぎて場所は分からない。でも、あっちの方から、かすかに霊圧を感じる」
「井上のか?」
「多分…」
霊圧探査が苦手な一護や恋次はもとより、探査を得手とするルキアでさえ何も感じられないほどの微かな気配なのだ。雨竜が織姫だと断言できないのも無理はなかった。
「行ってみりゃ分かんだろ」
「確かに。石田、すまぬ。案内してくれ」
「ああ」
雨竜を先頭に、一護たちは走り出した。
しばらく駆けて、雨竜が、
「間違いない。井上さんだ。だけど、もう一人、別の霊圧がある」
と、告げた。
「誰だ!?」
「分からない。知っている人のような気がするんだが…」
「日番谷隊長だ」
ルキアが答えた。織姫の霊圧はルキアにも感じられるようになっていた。そして、もうひとつの霊圧も、である。冬獅郎と余り接触のなかった雨竜は霊圧の主に思い至らなくても、ルキアにはこれが十番隊長のものだと、すぐに分かった。
「冬獅郎? 何で井上と一緒に?」
「分からぬ。だが、日番谷隊長がこれほどの霊圧を解放しておられるのは、普通ではない」
ある程度霊力が強い死神は、通常、その力を抑えて生活している。強力な霊圧を解放していれば、霊力を持たぬ者や低い者に悪影響を与えてしまう上、当人も消耗するからである。従って、霊力の強い死神は無意識のうちに、本人が一番過ごしやすい楽なレベルの霊圧で日常を送っていて、それは多少の差はあるが、おおむね平隊士と同程度くらいだった。圧倒的な霊力を誇る隊長格であっても、同様である。更木剣八のように強力な霊圧を垂れ流しているのは例外で、日常生活においては、冬獅郎や白哉のような隊長格であっても、平隊士でも、霊圧にたいして差はないのだ。
逆に言えば、こんな遠くで感じ取れるほどの霊圧を冬獅郎が放っているということは、彼が意図的に霊力を解放していることを意味している。つまり、ルキアが告げた通り、「普通ではない」状態だ。
「すっげ、嫌な予感がする。急ごう」
「おう」
得体の知れない不安に突き動かされ、一護たちは全力で霊圧の許へと走った。
冬獅郎と絢女が隊長舎を出た時、乱菊は副隊長舎の屋根にいた。
月がとてもきれいだったから、その光の下で、ゆっくりと自分の心を見つめてみたかったのだ。白く輝く月に照らされていると、自分の中のもやもやしたものが、少しずつ削ぎ落とされていくようで、心地よかった。
酒杯に満たした生酒をちびりちびりと啜りながら、ぼんやりとしていると、隣接した隊長舎から出てゆく冬獅郎と絢女が見えた。
とっさに霊圧を閉じ、屋根の影に身を隠したのは、冬獅郎に見咎められたくなかったからだ。昨晩、彼から告げられた言葉に、未だ乱菊は惑っていた。だから、会いたくなかった。
(呑みにでも行くのかしら?)
こっそりと二人を見送ってから、ふと乱菊は違和感を覚えた。何かが、変だと思った。
しばらく考えて、答えが出た。冬獅郎たちは斬魄刀を携えていたのだ。
死神が勤務中に斬魄刀を携行するのは、当然、というより、義務である。討伐であればむろんのこと、日常の見回りであっても、いつ何が起こるかわからないからだ。隊舎内で内勤している場合は別だが、勤務中の死神は基本的に斬魄刀を携行しているものとされていた。その為、瀞霊廷内の商店や飲食店などでも、死覇装姿の死神が斬魄刀を持っている分には咎めたりしない。見廻りの途中や、勤務帰りに寄ったのなら、斬魄刀を携えているのが当たり前だからだ。だが、斬魄刀は死神にとって、魂の半身であると同時に武器である。そして、武器を携えて、店や他人の家を訪問するというのは、本来、失礼なことだ。だから、いったん、隊寮なり、自宅なりに戻り、私服に着替えた死神は斬魄刀を持たないのが普通だった。まして、徒手空拳でも圧倒的な戦闘力のある冬獅郎や絢女が仕事でもないのに斬魄刀を持ち歩くなど、通常、あり得ない。
(呑みに行ったんじゃない)
と、乱菊は悟る。悟った時には、行動を起こしていた。
部屋に戻り、灰猫を掴むと、乱菊は表に飛び出した。
二人の霊圧はすでに遠くなっていて、乱菊は二人を見失ってしまった。彼女は冬獅郎たちが向かった方角に走りながら、感覚を研ぎ澄まし、二人の霊圧を捕捉しようと集中した。
(隊長、絢女…。どこに行ったのよ?)
突然、身になじんだ霊圧がどん、と膨れ上がったのを感じた。
(隊長!)
冬獅郎の霊圧が解放されている。そして、絢女の霊圧も。
乱菊は走る。
彼女が護るべき唯一人の上司の許へ、大切な親友の許へ。
霊圧を追って、走って、走って、辿り着いたのは十三番隊北修練場だった。
目の前の光景に、乱菊は反応できなかった。
井上織姫の双天帰盾が冬獅郎と絢女を覆っており、冬獅郎は結界を張って、織姫の双天帰盾を防いでいる。
事態が理解できず、
「あんた、何やって…」
と、織姫に駆け寄ろうとした乱菊に、
「気をつけろ! 井上は操られているんだ!」
冬獅郎が叫ぶ。
え、と乱菊が足を止めたのと同時、
「孤天斬盾。私は拒絶する」
「!!」
襲い掛かる椿鬼を瞬歩で避け、乱菊は必死に現状を咀嚼しようとした。
織姫が藍染に操られていることは、冬獅郎の言葉と、彼女の攻撃で理解できた。だが、双天帰盾が分からなかった。
(何を。織姫は隊長たちをどうしようっていうの!?)
双天帰盾は治癒の能力だと、乱菊は思っていた。乱菊だけではない。織姫の力を見た者は、誰もがそう信じていた。
だが、資料として、織姫の双天帰盾の映像を見せられた絢女は、それに疑義を唱えたのだ。織姫が治癒にしか使用していないからそう見えるだけで、双天帰盾の本来の能力は治癒とは別のところにあるのではないか、と。
四番隊の卯ノ花や勇音は自らの霊力を注ぎ、回復系の鬼道を駆使することで、治療対象者の霊子細胞を活性化させ回復させる。彼女たちが使う能力は、間違いなく「治癒」である。だが、織姫の「治癒」は根本的に違う。彼女は時間と空間を回帰させ、治療対象者がダメージを負う前の状態に戻しているのではないか、というのが絢女の見解だった。そして、絢女の推測は浦原喜助の分析によって、裏付けられた。織姫の双天帰盾は対象に起こった事象を拒絶する。「怪我を負った」という事象を拒絶することで、織姫は一護や泰虎たちを回復させていたのだ。
織姫はこれまで、仲間を救う為にしか、この能力を使用しなかった。だが、拒絶する事象は何も傷害に限られている訳ではない。
(まさか…)
冬獅郎も、絢女も、かつて死に瀕するほどの大怪我を負ったことがある。絢女は四十五年前、冬獅郎はほんの二月余り前のことだ。夜一に発見され、喜助の手当てを受けなければ、絢女は命を落としていたはずだし、卯ノ花がその場に居合わせなければ、冬獅郎は助からなかっただろう。今はすっかり回復している二人だが、織姫が「回復した」という事象を拒絶したらどうだろう。彼女の能力の原理からいえば、織姫はダメージを与えられた直後の状態に戻すことも可能なはずだ。
織姫の意図に思い当たり、乱菊はぞくりと背筋を凍らせた。
織姫は冬獅郎たちを瀕死の重傷の状態に戻し、止めを刺そうとしているのではないか。
「織姫!」
本来の彼女であれば、そんなことは絶対に出来ない。けれど、
「織姫、しっかりして、織姫!」
正気を呼び戻そうとする乱菊の叫びに、織姫はうっとうしそうな視線を向けた。
「乱菊さん。うるさいです」
椿鬼のスピードが増し、容赦なく乱菊に襲い掛かる。
「織姫、あんた…」
勇音の天挺空羅で、冬獅郎が藍染に倒されたことを知った時の衝撃を乱菊は想う。戻らない絢女を待ち続けた日々の空虚が甦る。
乱菊は織姫を見つめた。
「させない」
絶対に、冬獅郎も、絢女も、失いたくない。たとえ、織姫を傷つけようと、護ってみせる。
灰猫の柄に手をかけた乱菊に、
「乱菊、だめ!」
絢女が悲鳴を上げた。
「松本、やめろ!」
冬獅郎の視界の端に、こちらに向かって走ってくる一護たちの姿が映った。
「黒崎、松本を止めろ!」
一瞬、一護は動きを止めた。彼の目が、灰猫を抜き放ち、織姫に迫る乱菊を捉えた。
瞬歩で織姫の前に廻り込んだ一護は、乱菊の斬撃を斬月で受け止めた。
「何やってるんだ、乱菊さん!」
「織姫を止めるのよ! 一護、どいて!」
走り寄ったルキアが、織姫の肩を掴んだ。
「井上、何をしている!」
その手を織姫は払いのけた。
「朽木さん。邪魔」
「井上!?」
紙一重で飛びのいたルキアの前を、椿鬼が切り裂いた。
立ち塞がる一護に、乱菊は灰猫を振るう。攻撃するわけにもいかず、一護は剣をひたすら受け止める。
「どいて! 一護、どきなさい!!」
叫びながら一護に斬りかかる乱菊を、絢女は見つめた。
ルキアにためらいもなく、孤天斬盾で攻撃を加える織姫を見た。
雨竜も、恋次も、泰虎も、操られている織姫に手を出しかねている。
(乱菊…)
乱菊が織姫を傷つけてしまったら、乱菊自身が消えない傷を負う。
織姫もそうだ。正気に返った時、彼女が自分のやったことに責め苛まれるのは、火を見るよりも明らかだ。
(どこまで人の心を弄べば、気が済むの…)
ぶつり、と絢女は自分の中で何かが千切れる音を聞いた。目の前を閃光が走り、そして、その眩い光をよぎるものを、彼女は認めた。
冬獅郎が振り向いた。彼の背後で、絢女ははちきれる寸前まで霊圧を膨れ上がらせていた。
「冬獅郎、結界を解いて」
静かに、絢女が告げる。
「姉さま…」
「大丈夫。だから、解いて」
冬獅郎は頷いた。息をついた彼が、結界を解くと同時、絢女の霊圧が弾けた。
「卍解」
絢女の唇が解放の符呪を紡ぐ。
「鷺姫秋篠」
瞬間、現われたのは真白のおおとり。
おおとりは双天帰盾を突き破った。天空で羽ばたいた鳥は方向を変え、巨大な矢羽根となって、一直線に織姫に向かった。
誰も一歩も動けなかった。
おおとりが織姫の胸を突き抜ける。
ぐらり、と織姫の身体が傾いだ。
「井上!」
倒れる織姫を、斬月を放り捨てて、駆け寄った一護が抱き止めた。
「井上、しっかりしろ。井上!」
最悪を覚悟したルキアや雨竜が息をのんだ時、
「黒崎…くん?」
織姫が呟いた。
「井上!?」
織姫の身体を起こし、支える腕を伸ばして距離をとった一護は、彼女が傷を負っていないことを確認した。彼女の胸を貫いた筈のおおとりの痕跡は、どこにもない。
ばささ、と羽音が聞こえ、一護が振り返ると、彼の背後に大きな白鷺を肩にとまらせた絢女が立っていた。
「織姫ちゃん。大丈夫?」
気遣わしげに、彼女は尋ねる。絢女を認めた織姫の表情が、みるみる歪んだ。
「あたし…。あたし、何を…」
絢女は優しい笑みを浮かべた。
「もう大丈夫よ。怖い思いをさせて、ごめんなさい」
がくがくと膝が震え、織姫はその場に崩れるようにへたり込んだ。絢女を見上げる瞳に涙が溢れた。
「ごめんなさい、絢女さん。ごめんなさい…!」
織姫ははっきりと理解していた。自分が何をしていたのか。
「あたし…」
絢女はしゃがんで、織姫の顔を覗き込んだ。
「謝るのは、私たちの方よ。私たちが迂闊だったの。もっと早く気が付いていたら、こんなにつらい思いをさせなくて済んだのに…。ごめんなさい」
ぶんぶんと激しく、織姫は首を横に振った。
「あたしが…。あたしが…」
その先は言葉にならなかった。
「…織姫…」
呼びかけに顔を上げると、乱菊が織姫を見下ろしていた。
「…ごめん!」
織姫を傷つけてでも冬獅郎と絢女を護る。その選択は後悔していない。だが、たとえ、他に方法がなかったとしても、織姫を切り捨てようとした己の非情さは、乱菊に悔いとなって残っていた。
「ごめん、あたし、あんたを…」
傷つけても、もしかして、殺してしまっても、隊長と絢女が大事だった 。
織姫は再び、激しく首を振った。
「謝らないで下さい。あたしが悪いのに…。あたしが…。あたし、どうして…」
「井上。自分がやろうとしたことは覚えているんだな?」
冬獅郎の問いかけに、織姫は肯いた。
「自分の意思でやってるつもりだったんじゃねぇか?」
「うん…」
「でも、今は、何でそんなことをしようとしたか、自分で分からねぇ。違うか」
こくっと、頷いた織姫に、
「鏡花水月…」
と、雨竜が呟いた。
「すまぬ、井上! 傍にいた私が気付いていれば…!」
ルキアが織姫の腕を握りしめてうなだれた。
「無理だろう」
と、冬獅郎が言った。
「完全に操られて、井上が井上でなくなっていたのなら、朽木や黒崎には気付けたかもしれねぇ。だが、そうじゃねぇ。井上は人格を保ってた。保った上で、おそらく、思考や行動原理に干渉されて、藍染の考える通りの動きをさせられていたんだろう。井上、操られていたって実感、ねぇだろ?」
「うん…」
「催眠が醒めたって、感じもしてねぇんじゃないか?」
「うん。…どうしてだか、分からない。だけど、絢女さんがいたら、黒崎くんたちが傷付けられるような気がしたの。とても、危険な目にあってしまうように思えて、どうしても、絢女さんを消さなきゃって。でも、何でそんなふうに考えたのか、どうしてもわからないの。乱菊さんや朽木さんに邪魔されて、なんで、邪魔するのって思って、だから、椿鬼を…」
慙愧に耐えかね、ぽろぽろと涙を零す織姫の頬を、絢女が手を伸ばしてそっと拭った。
「自分を責めないでって言っても織姫ちゃんには無理かもしれないけど…、本当に、織姫ちゃんのせいじゃないのよ。それに、悪いことばかりでもないわ」
「え?」
「気付かない? 私、卍解したんだけど」
織姫が瞠目し、周りにいた恋次や一護も、今更、
「あっ!」
と叫んで、絢女の肩の白鷺を見直した。
「絢女さん、その鳥って、もしかして」
「秋篠の具象化。鷺姫よ」
絢女が優しく撫でると、鷺姫も頭をこすりつけて甘えた。
「…何か、屈服させてるつーより、異様に懐いている気がするんスけど?」
恋次の問いに、
「私が現世で人間だった時からの友達ですもの」
「はい?」
「この子、現世で私の式神だったの。私が殺された時に、この子も引き裂かれて消えてしまったんだけど…。消えたんじゃなくて、ずっと私の中にいたのね」
式神って、あんた、現世で何者だったんだ!? という、恋次たちの脳内突っ込みは、絢女には届かなかった。
絢女は織姫の前にしゃがんだまま、顔を上向かせて、背後に立つ弟を見上げた。
「ねぇ、冬獅郎。私たち、このまま、消えてしまわない?」
「あ?」
「織姫ちゃんの双天帰盾で消されたことにして、身を隠すのも一案かなって思うの。砕蜂隊長に事情をお話して協力していただいて、織姫ちゃんには申し訳ないけど、刑軍に拘束されてもらって」
「藍染の裏をかこうってのか?」
「そううまくいくかどうかは分からないけど、試してみる価値はあるかなって」
「あたし、何でもします!」
織姫が叫んだ。その必死の表情を見て、絢女の提案は藍染を欺く為ばかりでなく、織姫の心の負担を軽くする意味もあるのだと、冬獅郎は気付いた。
「確かにやってみる価値はありそうだが、いくつか問題があるな」
「何?」
「あと一回、俺の霊力解放が残っている。消えたことにするとなると、霊力解放ができねぇ」
「いい場所があるぜ」
と、一護が口を挟んだ。
「ルキアの処刑の時に、俺が卍解の修行をした地下の穴ぐら。あそこなら、広いし、冬獅郎がちょっとくらい霊力を暴走させても平気だと思うぞ」
「そんな場所があるの?」
「ああ、浦原さんが作ったらしい。浦原さんたちしか知らねぇ場所だから、藍染にも気付かれねぇだろうしさ」
「あいつ、底知れねぇな…」
「他には?」
と、絢女が問題点を質し、
「身を隠す場所」
と、冬獅郎が答えた。
「それなら、朽木の屋敷をお使い下さい。朽木の屋敷なら、部屋はたくさん余っておりますし、私は存じませんが、隠し部屋などもあると聞いております。兄様に事情をお話しすれば、きっと協力して下さるはずです」
ルキアが提案した。白哉は喜んで協力するだろうという確信があった。最愛の妻の最後の友人である日番谷絢女に対して、義兄が感謝と好意を抱いていることは、ゆうべの二人のやりとりで充分に納得していたからだ。
「あとは黒崎たちだな」
「俺たち? 何が問題なんだ?」
不審げに冬獅郎を見返す一護に、雨竜が説明した。
「井上さんが刑軍に拘束されて、僕たちが自由でいるのは不自然だと言いたいんだろう、日番谷君?」
「ああ」
まだ得心がいかない一護に、
「黒崎、もし、本当に日番谷君たちが井上さんによって消されて、井上さんが藍染一派とみなされて刑軍に捕らえられたとしたら、君はそれを指を咥えて見ていられるかい?」
「あっ!」
「分かったみたいだね。もし、そうなったら、僕たちは『井上さんは操られていただけで罪はない』と主張して、井上さん救出に動くはずだ。護廷だって馬鹿じゃない。当然、僕たちの行動を読んで、あらかじめ僕たちも拘束しようとするのが自然だ」
「そういうことだ。井上だけじゃねぇ。黒崎たちにも協力してもらわねぇと、成り立たない」
「そんなことなら、いっくらでも協力するぜ」
と、一護は雨竜と泰虎を見遣り、二人は大きく頷いた。
「私と恋次は謹慎した方がよろしいですね」
ルキアが確認し、
「そうだな」
と、冬獅郎は頷いてから、傍らに立つ乱菊に視線を移した。
「松本。こういうわけだ。悪いが留守を頼む」
「はい。任せて下さい」
雨竜が背後の闇を振り返った。
「ちょうど、協力を仰ぐのにおあつらえ向きの人たちが来たみたいだよ」
白哉と砕蜂の霊圧が近づいていた。
その夜から、十番隊長・日番谷冬獅郎とその姉で十番隊預かりの日番谷絢女の姿が瀞霊廷から消えた。
また、死神代行・黒崎一護と、その仲間である人間の少年少女も見かけなくなった。
決戦に備え、総隊長の命を受けて、現世の浦原喜助の許へ行ったのだ、と一般隊士には説明された。
だが、ひそかに噂は流れていた。
日番谷冬獅郎と絢女は現世にはいない、そして、旅禍の少年たちは刑軍に捕らえられているらしいと。