欲心
冬獅郎たちが瀞霊廷から姿を消してから、乱菊は執務室にこもりきりで、ひたすら、仕事に励んでいた。
冬獅郎たちが身を潜めていることは、各隊の隊長のみに明かされ、副隊長にも秘密にされた。副隊長のうちで真相を知っているのは、織姫の事件の時に現場に居合わせた乱菊と恋次だけである。
そこまで慎重に扱われたのは、織姫のこの一件によって、護廷が抱える深刻な問題が露呈したからだった。
それは、無自覚な内通者の存在である。
井上織姫は、藍染に味方するつもりはこれっぽっちもなかった。彼女にとって大切なのは、一護や雨竜たち仲間であり、たつきやみちるや千鶴といった友人たちだった。藍染の許に走ったのは、そうしないと仲間を殺されると思い込まされたからに過ぎない。大切な人たちが暮す空座町の命を根こそぎ贄にしようとする藍染の計画は、織姫にとって許しがたいもので、彼に与するなどあり得ないことだった。
にもかかわらず、彼女は藍染の妨げとなる能力を秘めた絢女を消し去ろうとした。明らかに藍染の意を受けてのことだったが、問題なのは、織姫にその自覚が全くなかったことである。彼女は、何故か、絢女の存在が一護たちを脅かすと考えた。根拠など何一つないのに、それを信じ込んだ。そして、一護たちを護る為には、どうしても絢女を消さなければならないと、極めて短絡的な行動に出たのだ。彼女の暴挙を阻止しようとした乱菊やルキアに攻撃を加えるという行為も、本来の織姫であればあり得ないことである。
何もかもがちぐはぐで不自然な行動だったのに、織姫は全て自分の意思で行っているつもりだった。絢女の卍解により、藍染の完全催眠から脱した後も、やはり、それらは自分の意思から出たものと思えてならなかった。絢女のことをどうして危険だと感じたのか、どんなに考えても理由はわからない。ルキアさえ平然と攻撃できた自分が信じられない。けれど、その時はそれが正しいと思っていたのだ。
この事件を起こす直前までの織姫に不審な点が見当たらなかったこと、前日に絢女と会った際の態度もごく普通だったことから、織姫は何らかの事象を引き金にして行動を起こす、時限爆弾のような暗示をかけられていたのではないかと見られていた。しかも、その暗示は、醒めた後も自覚することが出来ない巧妙なものだった。
砕蜂が統括する隠密機動は、反乱後、何人もの内通者を発見、拘束した。だが、彼らが拘束したのは、自分の意思に基づいて藍染に付いた自覚的な内通者である。鏡花水月に囚われ、護廷を裏切っているという自覚もないまま、藍染を利する行動を取っている者については、本人に自覚がないだけに隠密機動にも発見は困難である。まして、それが、織姫にかけられたような、何かのきっかけで発動する潜在的な暗示であるのなら、事前に摘発することは不可能だ。
つまり、護廷はいつ裏切るかも分からない、しかも、自分が裏切るということを当の本人さえ知らない、厄介な内通者を抱えている可能性が高いのである。藍染が護廷隊長を務めていた期間は、かなり長い。無自覚な内通者を作り出す為の時間は、たっぷりとあったはずだ。
ただし、護廷側にはこれらの自覚のない内通者を一掃するすべが残されていた。
絢女の卍解である。彼女の卍解が吹かせる風は幻惑場を吹き払うことで幻惑術を無効にするばかりか、精神の深層にかけられた暗示までをも消し去る力があった。卍解を修得したばかりの彼女にはまだ無理だったが、秋篠の風を瀞霊廷全体に吹かせることが出来れば、暗示による内通者はおそらく本人も気付かぬうちに正気に返るはずだ。
護廷は、彼女を鏡花水月に対抗する為の切り札とみなしていた。それだけに、彼女の存在は藍染から隠し通す必要があった。織姫によって消し去られたのだと藍染に信じさせる、それが無理でも、少なくとも居場所は突き止められてはならない。それが、山本の厳命であった。
砕蜂や白哉と話し合い、総隊長を始めとする他の隊長とも諮った結果、鏡花水月の能力を考慮すれば、朽木邸といえど安全とはいえないという理由で、冬獅郎と絢女は双殛の丘の地下空間に身を潜めることになった。現世の浦原喜助から送られてきたキャンプ道具一式を駆使しての、野宿生活である。
野宿六日目になって、現世から夜一がやって来た。冬獅郎の最後の霊力解放時に結界を施す為である。霊力解放の際の結界は、これまでずっと京楽と白哉に任されていたが、藍染の目をくらます為に冬獅郎たちが隠棲している今、京楽と白哉、救護の卯ノ花が揃って護廷を留守にすれば、不審を抱かれかねない。従って、今回は京楽が外れ、白哉は激しく嫌がったが、夜一が京楽の代わりに白哉と協力して結界を張ることになったのだ。
夜一は自分が瀞霊廷をうろついていて藍染の手の者に見られてはことだと理屈をつけて、実家である四楓院家には戻らず、冬獅郎たちの野宿生活に合流した。黒猫に変じることの出来る夜一は最も堂々と瀞霊廷をうろつけるのではないか、と冬獅郎も絢女も思ったが、口にはしなかった。自由奔放な彼女が、単に堅苦しい実家に戻りたくないだけだと理解っていたからだ。
夜一は冬獅郎と絢女のキャンプにやってくるや否や、
「今晩は、カレーが食いたいのう」
と言い出した。
「カレーライスですか?」
「うむ。実はな、これを持ってきたのじゃが」
夜一が差し出したのは、現世で市販されている板状のカレールゥだった。
「わしのお気に入りでな、絢女、おぬしは料理が得意らしいのう」
と、夜一は絢女に作るように
絢女はカレールゥのパッケージをしげしげと眺め、
「現世はどんどん便利なものが出来ているんですね」
と感心しつつ、夕飯の準備に取りかかった。
絢女が失踪した四十五年前には、すでに尸魂界にもカレーは存在しており、絢女も作ったことがあった。ただし、カレールゥは存在しておらず、カレー粉と小麦粉で作る黄色っぽいものだった。現在一般的になっている板状の固形カレールゥは、現世でも、ちょうど絢女が失踪した頃に発明されたものだったから、当時、尸魂界に入ってきていないのは当然だった。
手際よく米を研ぎ、野菜や肉を切り、炒め、ほどなく、スパイシーな、食欲をそそる匂いが漂ってきた。
「ほう、うまそうに出来たな」
鍋を緩やかにかき混ぜる絢女の手元を覗き込み、夜一がにやりと笑った。
「どうじゃ? わしの嫁にならぬか?」
「ありがたいお申し出ですが、ご遠慮させていただきます。浦原さんと砕蜂隊長を敵にまわしたくはありませんから」
「そうか。絢女が嫁なら、毎日、うまいものが食えると思うたが。残念じゃ」
飯盒で炊き上げた白飯を皿によそい、カレーをかけて、
「どうぞ」
と、絢女は夜一に差し出した。
「うまいのう」
地べたに胡坐をかき、カレー皿を抱えて食べる姿はお世辞にも行儀がよいとは言えず、とても四大貴族・四楓院家の姫君とは見えない。けれども、とても夜一らしく似合っているのも確かだ。この奔放さが、浦原や砕蜂には好ましく、堅苦しい白哉は苦手なのだろうと考えながら、絢女は弟に視線を移した。
「おかわりは?」
「いる」
と、冬獅郎は空になった皿を差し出した。
「冬獅郎もカレーは好きなの?」
「まぁな。俺はもっと辛い方が好みだが」
空になったカレールゥのパッケージ改めて見直して、絢女は、
「甘口、と書いてありますが、辛口というのもあるのですか?」
と尋ねた。
「うむ。甘口、中辛、辛口とあるぞ。色んな会社が色々と出しておってな。これ以外にも、『バーモントカレー』じゃの、『こくまろカレー』じゃの、『二段熟カレー』じゃの、ああ、『カレーの王子さま』というのもあったな。選ぶのに迷うほどじゃ」
「…王子さま…」
「これがあれば、誰でもうまいカレーを作れると思うじゃろう?」
「はい」
「それでも、料理上手が作るのと、料理下手が作るのじゃ、味が違うものでなぁ。この間、砕蜂に作らせたが、とんでもない代物じゃったぞ」
「そう…、ですか」
「その前に、砕蜂、料理が出来たのか?」
「初めて包丁を握ると言うておったが」
「初めて料理をする砕蜂と姉さまの料理を比べるのが、そもそも間違っているとは思わねぇか?」
「思わぬな」
きっぱりと夜一は言い切り、冬獅郎は溜息をついて反論を呑み込んだ。
「日番谷、よかったな」
意味ありげに視線を投げられて、冬獅郎は不審げに夜一を見返した。
「松本が絢女に負けぬ料理上手で」
「何で、ここに松本が出てくるんだ?」
「惚れておるのじゃろう?」
にやにやと笑いながら見遣る夜一に、怒鳴り返そうとして冬獅郎はかろうじて踏みとどまる。夜一は絢女の命の恩人である。姉想いの冬獅郎としては、姉の恩人には礼を尽くしたかった。
「六日も会えぬと淋しいのう?」
「…」
「今宵は二十六夜。夜半まで月は出ぬぞ?」
「だから?」
「夜這いにはもってこいだと思わぬか?」
冬獅郎は怒鳴る代わりに、深い溜息をついた。これ以上の会話は無意味と、黙々とカレーをかき込む冬獅郎と、にやにや笑いの夜一を見比べつつ、かけるべき言葉に窮して、絢女も無言で食事を続けた。
夕食の後、夜一は織姫の様子を見てくると、黒猫に変じて出かけていった。
絢女は後片付けを終わらせると、愛用の龍笛を取り出した。夕食を終え、眠りに就く前に笛を奏でるのは、この地下空間に来てからの慣わしになっていた。
「姉さまは、笛をどこで覚えたんだ?」
傍らで笛の音に耳を傾けていた冬獅郎が、一曲、奏で終わった絢女に尋ねた。
「多分、現世」
「そうなのか?」
「ええ。この笛はね、流魂街にいた笛の名人からいただいたの。その方は現世に転生が決まっていて、愛用の笛との別れを惜しんでいらしたのよ。私はたまたま近くを通りかかったんだけど…。笛の音を聴いたら、何だかたまらなくなって、声をかけてしまって…。そうしたら、『吹いてみなさい』って、この笛を渡されたのよ」
「吹けたんだ」
「吹けたわ。自分でも無意識だった。その方は、自分が転生した後のこの笛の行く末が心配だったけれど、託せる相手が見つかってよかったっておっしゃって、私にこれを与えて下さったの」
「そうか…。今の曲、好きだな。何て曲?」
「菊慈童」
「あー、齢八百年で、なお少年の姿をしてたという桃源郷の伝説だな」
「ええ。そう…」
と、絢女は目を伏せた。
「ごめんね、冬獅郎」
突然、謝罪されて、冬獅郎は怪訝な顔になった。
「私は身勝手で思い上がっていたから」
彼の成長を歪ませてしまったことを謝っているのだと気付き、菊慈童からそう来たか、と冬獅郎はめまいがした。
「姉さまはいつもそうやって謝るんだな」
「え?」
「護ってあげられなくてごめんなさい、ひとりぼっちで封じ込めてごめんなさい、一緒に暮せなくてごめんなさい、俺を残して行方不明になってごめんなさい、霊力解放で苦しい思いをさせてごめんなさい。ごめん、ごめんて、俺には謝られなけりゃならねぇ覚えはこれっぽっちもねぇのに、姉さまはそうやって謝る。謝らなくちゃならねぇのは、俺だろう? 俺を護る為に、姉さまは色んなことを諦めてきたんだから」
「諦めたんじゃないわ。選んだのよ」
「あ?」
「私はいつも自分の意思で選べたの。冬獅郎のことを見捨てて、好き勝手に生きようと思えば出来たのよ。そうしなかったのは、私にとって、冬獅郎がいることが一番大事だったからだわ。あなたを捨てて、私は幸せになんてなれない。だから、冬獅郎を守ると私が決めたの。冬獅郎を守ることが私の幸せだった。でも、冬獅郎は選べなかったでしょう?」
と、絢女は息をついた。
「小さかったあなたは私の選んだことに反対なんて出来なかった。あなたを眠らせたことも、霊力を封じたことも、おばあちゃんに預けたことも、全部、私が決めたことよ。冬獅郎が決めたことじゃないの」
「だから、その結果、起こった不都合なことは全部自分の責めだと思うんだな?」
「そうよ」
きっぱりと答えた絢女に、
「もう、やめよう」
と、冬獅郎は言った。
「姉さまは、俺のせいで姉さまが犠牲になったって、俺が考えるのいやだろう?」
「ええ」
「だったら、俺だって同じだって、分かんだろ? 俺は姉さまに感謝してる。姉さまは自分のせいで俺につらい思いをさせたって考えてるかもしれねぇけど、姉さまが、自分の身もろくに守れねぇほど幼かった俺を護ってくれなかったら、俺は今、こうして、ここにいねぇかもしれねぇんだ。姉さまがしたことは全部正しかったんだよ」
「冬獅郎…」
「だからさ。俺は、もう俺のせいで、なんて言わねぇから。その代わり、姉さまも、もう謝らないでくれ。頼む」
自分が幼かった頃に姉がよくしてくれたように、冬獅郎は姉を軽く胸に抱くと、あやすように背中を軽く叩いた。
「姉さま。今までありがとう。明日の霊力解放ではまた迷惑かけちまうけど、これからは、俺が姉さまを護るから」
「ありがとう、冬獅郎。でも、あなたが護らなければならない人は、他にちゃんといるでしょう?」
と告げた絢女に、
「松本のことは、もちろん、護ってみせる」
冬獅郎は断言した。
「本気で惚れた女だからな。護る。けど、」
と、彼は絢女を胸から離すと、真正面から彼女を見据えた。
「姉さまも護る」
絢女はゆっくりと瞬きをした。
「俺は欲深なんだ。松本は大事な女だから護りたい。姉さまはたった一人の大切な肉親だから護りたい。雛森は妹同然の幼馴染だから護りたい。ばあちゃんも、十番隊の部下たちも護りたい。それから、これ聞かれたら、生意気言うなってしかられそうだけどな、浮竹や、京楽や、卯ノ花たちも好きだから護りたい。護ってみせる」
他のことは全て忘却してしまっても、絢女は冬獅郎のことだけは生まれた朝の光景まで覚えている。半ばふざけて、やちるや一角に語ったけれど、おしめを換えていたことも、食事や風呂の世話をしていたことも、全て記憶に残っている事実である。だからこそ、彼が十番隊の隊長職を奉じ、自分が守る必要のないほどの力を持っていると理解していても、彼がたくましく成長して、視線を上向かせなければ目を合わせられなくなってしまっても、幼かった弟の面影を拭い去れず、絢女はどこかで子供扱いしていたのだ。
けれど、彼はもう、とっくの昔に自分よりずっと大きくなっていたのだと、絢女は悟った。
「冬獅郎は強くなったのね」
「そうか?」
「ええ。あなたなら、きっと護れるわ。乱菊も、桃ちゃんも、おばあちゃんも、みんな護れる」
「姉さまも、だ」
「そうね。当てにしてる」
絢女は微笑んだ。
「姉さまもさ」
「うん?」
「もっと、欲張っていいと思うぞ」
絢女は首を傾げた。
「よく、ばる?」
「欲しいものは欲しいって、言っていいんだ」
彼の言わんとすることに気付き、絢女はぎゅっと膝の上で着物を握りしめた。
「今度から、そうする」
小さな声で呟く。その後、彼女は顔を上げて、じっと冬獅郎を見つめた。
「何?」
その視線の意味がよく分からなくて質した冬獅郎に、
「冬獅郎は欲張りなんでしょ?」
「ああ」
「だったら、会いたくないの?」
と、絢女は問い返した。
「居場所を隠し通さないといけないのは、私だけよ。夜一さんのおっしゃる通り、今晩は遅くまで月は出ないし、十番隊長の力があれば、こっそり隊寮に忍び込めるわよね」
姉の言葉に、冬獅郎は苦笑を浮かべた。
「姉さままで唆すのか?」
「夜這いしろ、とは言ってないわ。でも、会いたいでしょ?」
「そりゃ、まぁ」
「冬獅郎の方がよく分かっているかもしれないけど、あの娘、淋しがりやよ」
「知ってる」
「彼女もきっと、あなたに会いたがってるわ」
「だったら、いいけどな」
その夜、絢女も、夜一もぐっすりと寝入った頃、冬獅郎はむくりと寝袋から起き上がった。
彼と同様に寝袋にくるまっている絢女と夜一の気配を、慎重にさぐる。二人が熟睡しているのを確認し、冬獅郎は寝袋から抜け出した。二人を起こさぬように気配を殺し、冬獅郎はテントを出た。
彼が完全に遠ざかってしまってから、熟睡していたはずの夜一がにんまりと笑みを浮かべて呟いた。
「行ったな」
やはり、ぐっすりと眠っていたはずの絢女が答える。
「行きましたねぇ」
「やれやれ、素直でないのう」
「申し訳ございません」
「わしの裏をかこうなぞ、百万年早いわ」
横になったままで胸を張る夜一に、
「ですねぇ」
くすくすと笑いながら、絢女も同意した。
眠れない。
布団の中で、乱菊は何度目かしれない寝返りを打った。
冬獅郎が留守になってから六日間、ずっと好きではない書類仕事に没頭していたのだ。精神的にも、肉体的にも、疲れきっているはずなのに眠れない。
仕事が終わって、檜佐木修兵から呑みに誘われたが断った。奢ってくれるという話で、いつもなら飛びつくところだったけれど、その気になれなかった。胸に大きな風穴が開いたようで、とても酒を楽しむ気分ではなかったのだ。
「雛森を嗤えないわね」
と、乱菊は苦い笑みを浮かべた。
たった六日、隊長と会っていないというだけで、こんなにも不安に感じる自分がいる。自分は一体、どれほど冬獅郎に依存していたのだろう。藍染は桃のことを「自分がいなければ生きられないように仕込んだ」と語ったらしいが、自分だって似たようなものかもしれない、そう考えると、乱菊は息苦しくなった。
冬獅郎と藍染は違う。けれど、もしも、あの反乱の首謀者が藍染ではなく、冬獅郎だったとしたら、自分はどうしていただろう。どうなっていただろう。
「狂ってたかも…」
十番隊副隊長ともあろう者が情けないと思うが、乱菊は自分は正気を保てないと確信した。家族同然だったギンに裏切られ、その背を守ることを生き甲斐とするほど信頼した冬獅郎にまで裏切られたら、きっと自分は狂ってしまう。未だに藍染の幻影に縛られているとはいえ、一応、正気を保っている桃の方がまだましだ。
会いたい。
乱菊は願う。
せめて、声だけでも聞きたい。
討伐や、調査任務で、冬獅郎と数日間別行動をしたことは何度もあった。けれど、離れていても、必ず定時連絡は行っていたから、連絡すらも禁じられ、声を聞くことも出来ないのは、今回が初めてだった。
「たいちょお…」
弱々しく呟いたその時、
「何だ?」
「ひええっ!?」
乱菊は思わず叫び声を上げた。
「相変わらず、おまえの悲鳴は色気がねぇな。若い女なら『きゃあ』とか叫ぶとこだぞ」
横たわった乱菊を、枕元に立った冬獅郎が真上から見下ろしていた。
「た、隊長!?」
乱菊は飛び起きた。ほとんど反射的に足を触った副官に、冬獅郎は眉を顰めた。
「何やってんだ、おまえ?」
「ちゃんと足がある…」
「上司を幽霊扱いする副官がどこにいる!」
というより、一回、死んでいる自分や乱菊は今現在が現世でいうところの幽霊なんじゃないか、と冬獅郎は脳内で自己突っ込みを入れた。
「だって…」
だって、どうしてここにいるの?
言葉にならなかった乱菊の問いに、
「夜這い」
と、簡単に冬獅郎は答えた。
「へ!?」
「つーのは冗談だが、会いたかったんだ。だから、来た」
どかり、とその場に胡坐をかいた冬獅郎を乱菊は茫然と見つめた。
「絢女は…? あの娘、ひとりにしてもしものことがあったら…」
「明日に備えて、四楓院が来ている。第一、姉さまだって、修得したてとはいえ、卍解出来るほどの霊力があるんだ。そうそう手、出せねぇって」
「でも」
「おまけに、俺が必死で我慢してるってのに、四楓院に、姉さままで夜這いに行けと唆してくれたからな」
「は? あの…」
「会いたかった」
ふわり、と抱きすくめられて、冬獅郎の腕の中で乱菊は硬直した。会いたいと思っていたはずなのに、いきなり現れた冬獅郎に、乱菊は現実に追いつけずにいた。
「おまえ、人のこと、散々、窒息死寸前まで追い込んでおきながら、こっちが仕返ししたら、石になってんじゃねぇよ」
からかいを含んだ笑みとともに、彼の拘束が外れた。ほっとすると同時に、惜しいと思っている自分に気付いて、乱菊は再び混乱する。
「松本」
「はい!」
声が裏返った。
「隊の様子はどうだ?」
「隊長と絢女が突然、いなくなったことにみんな驚いていましたが、現世に行ったというあたしの説明に納得してくれています。何と言っても、隊長とあたしが長期出張してた間も、滞りなく隊を運営してくれた優秀な席官が揃っていますから。うちは大丈夫です」
仕事の話を振った途端、副隊長の顔に戻って、冷静に報告をする乱菊に冬獅郎は頷いた。
「そうか。松本も無理するんじゃねぇぞ」
「は?」
「さっき、執務室に寄ってみた。未処理の書類は全然なかったな」
「…」
「俺がいる時も、あれくらい執務に精を出してくれると助かるんだがな」
「あ…、ええ、と」
口ごもる乱菊を、冬獅郎はもう一度、緩く抱きしめた。彼女が拒絶するつもりなら、即座に振りほどける程度の軽い拘束だった。
「松本」
「はい」
「ゆっくり考えていい、おまえの返事を待つ、と俺は言ったけどな」
「は…い…」
「おとなしく待ってるとは言ってねぇから」
「は?」
思わず冬獅郎の顔を見返した途端、彼の眸に捕まった。
「好きだ、松本」
成長に伴って男っぽく変化したテノールが、乱菊の耳に甘美な毒を流し込む。
「…たい、ちょ…」
あっという間に、捕らえられた眸が近くなり、乱菊の唇に柔らかくて冷たいものが触れた。
乱菊は大きく目を見開く。それが冬獅郎の唇だったと理解した時には、彼はすでに乱菊を放し、立ち上がっていた。
「帰る」
「え?」
「これ以上いると、理性が保ちそうにないからな。自分を抑えられるうちに退散する」
「隊長…」
冬獅郎の姿がふいと視界から消え去り、乱菊は寝床に横座りしたまま、腑抜けていた。
今のは現実だったのだろうか。会いたいと、余りに思いつめすぎた挙句の幻影ではなかったか。
けれど。
乱菊はおそるおそる指を伸ばして、自分の唇に触れた。落とされた
乱菊の意思を一切無視した、一方的な口接けだった。けれど、怒りは感じなかった。嫌悪感もなかった。
「あたし…」
馬鹿だ。
乱菊はようやく悟った。
答えはとっくに出ていたのだ。それなのに、解答を迷っていた。
冬獅郎を子供だと思ったつもりはなかった。しかし、自分もやっぱり、彼の子供の外見に惑わされていたのだと、乱菊は理解した。最初から、彼女は彼に惹かれていたのだ。きっと、流魂街で幼い冬獅郎の猛る霊力に触れた時から。翡翠の瞳でまっすぐに見上げられた時から。それなのに、自分の気持ちに気付かなかった。副官である限り隊長の背中を守りぬくのが当然という職務上の忠誠に、個人的な感情が混じっていることさえ分からなかった。
どうして、彼があんなに大切だったのか。信じられたのか。側にいて安心できたのか。
信頼するに足る上官だったからだ。自分が導いて死神にしてしまった少年だったからだ。全て、正しい。だが、一番大きな理由が欠落していた。
冬獅郎が好きだ。
「乱菊は自分のことやと、有り得へんくらい鈍うなるからなぁ」
昔、ギンに言われた言葉が、初めて身に沁みた。
「ホント、あたし、鈍い」
こんなにも冬獅郎に惹かれていながら、どう好きなのか分からない、なんて鈍すぎる。
「ギン、あんた、もしかして、あたしの気持ちに気付いてた?」
遠く、遠くなってしまった幼馴染に、心の中で問いかける。多分、彼は気付いていたのだろう。本人さえ自覚していなかった乱菊の想いのありどころに。彼は顔を合わせる度に厭味と嫌がらせを繰り返し、冬獅郎を怒らせ、不機嫌にさせていた。しかし、乱菊に対して、冬獅郎を中傷したり、貶める発言をしたことは一度だってなかった。それどころか、冬獅郎のことで乱菊が不安や怖れを感じている時、いつの間にか傍らにいて、大丈夫だと励ましてくれた。
おそらく、ギンは本気で冬獅郎を嫌ってはいなかったのだ。絢女を思い出させる冬獅郎の顔を見るのがつらかった、というのは推測に過ぎないが、間違いなく正解だと乱菊は信じている。ギンは他人を理由なく嫌ったりはしなかった。
「実力もないくせに、家柄だけで高い地位に就いて威張りくさっとる」
という尤もな理由から、
「顔が暑苦しゅうて、うっとうしい」
という言いがかりに近いものまでさまざまだったが、誰それを嫌いだと述べる時には、ギンは必ず具体的な理由を挙げていた。だが、冬獅郎のことだけは、
「なんや、気ィ食わんのや」
と言うばかりだった。
ギンが絢女の名を呼びうなされたのは、まだ乱菊と暮していた子供の頃だ。とすると、ギンが絢女と出会った時、絢女もまた子供だったはずである。幼い頃の彼女を知っていたのなら尚更、冬獅郎は絢女によく似て映ったに違いない。守ることの出来なかった大切な女を思い起こさせる少年を見るのはつらかった。けれど、愛した女の面影を宿した少年を嫌えるわけもなかったのだ。
「あたし、隊長が好きだ」
ギンに告げればきっと、
「今頃、気ィ付いたん? ほんま、乱菊は鈍うてかなわんなぁ」
と彼は
ようやく悟った己の心を一番聞いてほしい相手は、もう手が届かない。次に
「ギンの馬鹿野郎…」
罵る乱菊の声は力なく震えていた。