執着


 半月ぶりに十番隊執務室に足を踏み入れた絢女を、乱菊が出迎えた。
「おかえり、絢女」
「ただいま」
「隊長は?」
「総隊長たちと最後の打ち合わせよ」
 これから、護廷は空座町に陣を敷く。侵攻してくる藍染たちを迎え撃つ為である。
 二刻ふたときほど前に、絢女は身を潜めていた地下空間から出てきたばかりだ。その足で、冬獅郎とともに一番隊に赴き、厳しい修行の末に操れるようになった能力で瀞霊廷全体に秋篠の風を吹かせた。あらゆる暗示と幻惑を無効にし、浄化する風を吹き渡らせたのである。これにより、摘発しきれていない自覚的な内通者の問題は残っているが、少なくとも、藍染の暗示によって本人の意思にかかわりなく裏切るはずだった者は正気に返ったはずである。
 出陣までの束の間、親友の許に戻ってきた絢女を、乱菊は、
「ご苦労さま」
と労った。
 乱菊は襷も下げ緒も、真新しいものに取り替えていた。
「はい、絢女」
と乱菊が差し出したのは、絢女の眸の色によく似た琥珀色の新しい下げ緒で、絢女は礼を述べて、自分の下げ緒を取り換えた。
「新しい下げ緒だと、気合が入るわね」
「でしょ? 絢女、苦しいだろうけど頑張って。鏡花水月の脅威から逃れられるかどうかは、あんたにかかっているんだから」
「もちろんよ。その為に、忙しい隊長方に無理をお願いして修練してきたんですもの。乱菊こそ、気を付けてね。私は後方支援になるけど、あなたは前線に出るんだから」
「うん」
 乱菊は絢女を見つめた。絢女もまた、乱菊を見つめ返す。
 二人の女は互いに見つめ合ったまま、しばらく沈黙を続けていたが、やがて、
「ギンのことだけど…」
と乱菊が口を切った。
「ええ」
 絢女は頷いた。
「ギンの始末はあたしがつける、って隊長に言ったわ」
「聞いているわ」
と、絢女は答えた。
「隊長にギンと戦ってほしくなかったの。あたしの我儘だけど…」
「ええ。分かる」
「だから、あたしがギンと戦うわ。あたしがアイツを殺す。アイツの為に何にもしてあげられなかったあたしが、たったひとつ、出来ることだから…」
「ええ…」
 絢女はもう一度、頷いた。ギンは絢女だけは殺せない、と乱菊は考えているようだ。だが、絢女の考えは違う。むしろ彼が絶対に殺すことが出来ないのは乱菊だ、と絢女は思っていた。乱菊に向かえば、彼はきっと非情になりきれない。
「ただ、ね。あたしとアイツの実力は絢女もよく知ってるでしょ? だから、もし、あたしがアイツに敵わなかったら、」
 乱菊は親友を見据えた。
「絢女、あんたがギンを殺して」
 射抜くような蒼い眸を、琥珀の眸はかっちりと受け止めた。
    そのつもりよ」
 静かに返した絢女に、乱菊はふわりと笑みを浮かべた。
「そっか。頼むまでもなかったわね」
「ん…」
 乱菊は体をかがめ、こつんと額を絢女の肩に凭せかけた。
「ありがと、絢女。あんたに殺されるんなら、きっと、アイツも本望よ」
「本望かどうかは分からないけど…。でもね、乱菊。危ないと思ったら、すぐに逃げてね。ギンに負けるのは構わないけど、死ぬのは許さないから」
「分かってる。隊長と約束したもの。生きて帰るって」
「私とも約束して。乱菊は生きなきゃ。生きて、これからもずっと冬獅郎の側にいて欲しいの」
「そう簡単にはやられないわよ」
 顔を上げ、にっこりと笑って見せた乱菊に、絢女もまた深い笑みを返した。
「言っておくけど、私、乱菊以外の女の子に『お義姉ねえさん』なんて呼ばれるの、いやだからね」
    へ?」
 ぱちり、と瞬きをした乱菊の空色の目を、絢女は覗き込んだ。
「え…と?」
「冬獅郎って、お買い得だと思うんだけど?」
「お買い得って…、絢女?」
「護廷の隊長だから、稼ぎは尸魂界でもトップクラスでしょう? 舅も姑もいないし、性格も悪くないし、私が言うのもなんだけど、容姿だってかなりいい線をいっていると思うのよね」
「え、や、それはその通りだと思うけど、あのね…」
「まぁ、もれなく小姑はついてくるけど、この小姑は意外と役に立つわよ。出産経験はないけど、子育て経験はあるから、子供抜きでまったりといちゃつきたい時は言って貰えれば、いつでも子供は預かってあげられるし」
 滔々と、絢女は主張した。
「何より、当の本人が乱菊にべた惚れだもの。浮気の心配がないのは小姑が保証してあげる。こんなに優良なお婿物件の出物、滅多にあるものじゃないわよ。買っておきなさい」
「…絢女」
 乱菊は大きな溜息をひとつ、ついた。
「何で、あたしがあんたにプロポーズされなきゃいけないのよ!?」
「いいじゃない。私の弟のどこに不満があるの?」
「不満なんてないわよ。だけどね!」
「乱菊。私の野望はね、冬獅郎と乱菊の赤ちゃんを抱っこして、自慢して歩くことなの。あなたと冬獅郎の子供なら、絶対にみんなが振り返るくらい可愛いわ。この野望の為にも、乱菊にはちゃんと冬獅郎のところに帰ってきてもらわないと」
 拳をぐぐっと握りしめ、胸を張って言い切った絢女に、乱菊は再び大きな溜息をついた。どうやら、絢女の中では、乱菊が弟の嫁になるのは確定事項らしい。
「あんたの伯母バカっぷりが、今から目に浮かぶわ」
と呆れ顔の乱菊に、ふふふ、と絢女は悪い笑いを返した。
 執務室の扉が開いて、総隊長の許から冬獅郎が戻ってきた。
「松本、姉さま。行くぞ!」
 力強い冬獅郎の出陣の言葉に、
「はい!」
 乱菊と絢女は声を揃えて応え、十を背負った背中に従った。

 空座町の高台にある神社の御神木の枝に絢女は立っていた。
 今、絢女が見ている空座町は、空座町であって空座町ではない。浦原喜助と技術開発局は、空座町で隊長格が限定解除なしで戦えるように工作を行ったのだ。技術開発局が流魂街の外れの荒地に作り上げた精巧な空座町の複製と、現世の重霊地である本物の空座町を喜助が空間転移によって入れ替えたのだ。住民は喜助によってあらかじめ眠らされ、町ごと流魂街に送られた。従って、絢女の周りに広がる町は無人の複製品である。
 だが、彼女が立つ御神木だけは本物だった。
 決戦に備えた喜助と技術開発局の計画を聞かされた絢女は、喜助にひとつの依頼を行った。
 空座町でも歳を経た霊格の高い木を調べて、その木だけは転移をさせずに残して欲しい、というものだった。喜助はその依頼を受け入れ、一護らの通う空座第一高校にほど近い高台の神社の御神木を残したのだ。
 木々との交感。それは他の死神にはない、絢女が人間であった頃から保有する特殊能力である。絢女は御神木と語らい、その協力を取り付けることに成功した。卍解を修得したばかりの未熟さと、持久力の不足を補う為に、彼女は御神木を通じて大地の気そのものを得ようと目論んだのだ。
 伝令が護廷の布陣の完了を絢女に伝えた。間もなく、藍染一派が空座町に侵攻してくることも。
 絢女は大きく息を吐くと、秋篠を抜いた。
「噎び啼け、秋篠」
 解号と同時に、秋篠は風を纏う。ふうわりと、絢女の髪が空に靡いた。
「卍解。鷺姫秋篠」
 秋篠の刀身が消えた。風を纏っていた秋篠は風そのものになった。立ち現われた真白の鷺が、絢女の頭上を弧を描いて飛ぶ。
 絢女は指先で、自らを囲むように円を描いた。
「浄めの風。すずしろ」
 彼女を中心にして、風が空座町を吹き渡った。
 それは決して強い風ではなかった。例えるなら、草原を渡る、高原の木々の梢を揺らす、そよ風に似ていた。けれど、その風には一切のまやかしを消し去る浄化の力が秘められていた。
 全ての決着が着くその時まで、浄めの風を吹かせ続けること。
 それがこの決戦において、絢女に与えられた使命だった。
 そして、それはかなり困難な使命でもあった。
 卍解とはつまるところ、膨大な霊力の解放である。裏を返せば、卍解時の死神の霊圧はどんなに霊圧探査能力の低い死神でも、探知可能だということだ。東仙要はともかく、藍染惣右介と市丸ギンは元上司であるだけに、絢女の霊圧は熟知されている。従って、まともに卍解すれば、彼女の存在はすぐに彼らの知るところとなり、彼女が幻惑術をすべて無効化していることも覚られてしまう。周りに結界を張るという方法は、霊圧が外に洩れない代わりに浄めの風も結界外に出られなくなる為、使えない。藍染らに気取られる危険性を回避し、風を吹かせ続けるには、卍解しながらも、放出される霊力を極力抑えるという高度な霊圧コントロールを行わなければならなかった。この難度の高い方法が可能だったのは、絢女が席官時代から霊圧コントロールについては、右に出るものがいないというほどに長けていたからだ。ただし、霊圧コントロールに力を割かれる分、消耗も大きくなってしまうというデメリットはあった。
 もし、藍染や市丸に覚られて攻撃を受けたら、戦わずに救援が来るまでひたすら逃げろ、とも命じられていた。
 上空の空間に亀裂が走った。時空の歪みによる裂け目から、よく知っている霊圧と覚えはあるが異質な霊圧を感じた。御神木の梢の隙間から上空を見上げ、絢女はギンと藍染の姿を確認した。
(とうとう、敵になっちゃったね…)
 上司を敬愛し、心酔していたギンは、藍染に従って反逆者となった。まぎれもなく、今の彼は敵だ。
 だが、譬え敵であっても、乱菊がギンに対する温かな想いを捨てられなかったように、絢女も彼を憎むことは出来なかった。
 ひとつだけ、絢女は命令違反を覚悟していた。彼女の霊圧を探知され、攻撃された場合、それが藍染や破面であれば、命令通りに逃げ続けるつもりだった。戦闘を救援の死神に任せ、鏡花水月が発動できなくなるまで、秋篠の風を維持する使命に全力を尽くす。だが、襲ってきたのがギンであるならば、逃げずに戦うと決めていた。
 上空の霊圧が膨れ上がった。
「総隊長の始解…」
 圧倒的な霊圧に、絢女の背中がぞくりとざわめく。
 流刃若火の焔が走り、藍染たち元隊長を囲んだ。
 灼熱の炎の壁、城郭炎上が藍染らを封じ、十刃エスパーダたちが戦場いくさばに残された。
 決戦の火蓋が落とされたのだ。

 燃え盛る業火の壁に囲まれながら、一向に堪えていないどころか、むしろ愉快そうに、
「あつい、あつい。ムチャしはるわぁ、総隊長サン」
と、ギンはわらった。
 流石に総隊長。確かに、この業火と霊圧の壁から抜け出すのは、藍染とはいえ容易ではない。だが、彼は無理して抜け出す必要は感じなかった。十刃が死神と殺し合えばよい。藍染にとって、十刃も消耗品でしかなかった。消耗品らしく、精一杯戦って、死神を倒せばよい。崩玉によって力を与えられた十刃にはその力があるはずだった。たとえ、負けて死んでも構わない。破面など、崩玉によっていくらでも補充がきくのだ。
 残された破面はバラガンの指揮下で戦闘を始めたらしい。バラガンは№2セグンダであるが、戦いに積極的でない№1プリメーラのスタークは異を唱えなかったようだ。
 バラガンはまず空座町を転移させている柱の破壊を目論んだ。だが、柱には三番隊副隊長・吉良イヅル、九番隊副隊長・檜佐木修兵、十一番隊第三席・斑目一角、同第五席・綾瀬川弓親、および彼らの指揮下にある数名の席官が配置されていた。
 炎を眺めていたギンが、
「おっ?」
と短い呟きを洩らした。
「どうした、市丸?」
 尋ねた要に、
「いやぁ、何やえらいイヅルが怒ってるなぁ、思て」
とギンは答えた。どうやら、かつての部下の霊圧を感知したらしい。
「心配か? 棄ててきた部下が?」
「いや、元気そうで何よりや」
 愉快そうに天を仰いでギンは哂う。イヅルの怒りも、やり場のない憤りも、悲しみさえも面白がる風情で、にやにやと嘲笑わらう。
 だが。
 彼は自分でも気がついていないのだろう。その嘲笑の下に、イヅルに対する情が宿っていることに。
 気に入らない相手、どうでもよい相手には無情なほどに冷酷になるくせに、気に入った相手に対しては武装した笑みの下に情を滲ませてしまうのが、市丸ギンだった。ただし、それはたいていの場合、ひどく分かりにくいから、情をかけられた相手も周囲の人間もそれと気付かないことが多い。
 イヅルは御しやすい、役に立つ男だったから、うまく取り込めば仲間に引き入れることも可能だった。だが、そうはせずあくまで利用したのは、ギンがイヅルを気に入っていたからだ。単なる部下以上の執着心をギンに対して抱いている藍染にとって、それが有能な部下への信頼であろうと、裏表のない少女のまっすぐさへの愛着であろうとも、彼が情をかける相手は気に入らなかったのだ。
 藍染がギンを見出したのは、流魂街に見廻りに出た時のことだ。
 流魂街の見廻りは下位席官や無位の隊士の仕事で、非常事態でもない限り、隊長が自ら出ることはない。だが、藍染は敢えて、時折、流魂街に見廻りに出た。表向きの理由は、管轄地の様子を直に確認する為、地区を担当する部下を激励する為だ。しかし、真の理由は違う。その気になって見て廻れば、流魂街には藍染が望むものがたくさん転がっていたのだ。
 例えば、東仙要もそうだ。流魂街の見廻りで発見した盲いた男は、非常に純粋な心と強い霊力を内在させていた。その純粋さは藍染には都合が良かった。自分に心酔させ、腹心の部下にすることが出来れば、これほど扱いやすい者はいない。そう見極めた藍染は要を味方に引き入れる為に様々な工作を行った。
 藍染ただ独りしか知らない真実がある。要が「友」と呼ぶ、おそらく友情以上の感情を抱いていた女性。同僚を殺した夫を非難した為に逆上した夫に殺害されてしまった彼女を、真の意味で殺したのは藍染だということだ。彼女の夫は操り人形に過ぎない。一本気で単純なところのあった彼女の夫は、簡単に暗示にかかった。諍いのない平安な世界を望んでいた彼女が人を殺した夫を咎めることは計算済みだった。夫は藍染の暗示のままに愛する妻を殺害した。平和を願って死神になったはずの友が、死神であり、夫でもあった男に殺された。その不条理に怒りをたぎらせ、純粋さゆえの狭量に陥った要を取り込むことはたやすかった。彼は簡単に藍染に心酔した。盲目の彼には鏡花水月は効かなかったが、直接に暗示をかけなくとも、彼は藍染の巡らせた罠に嵌まり、自らの意思で藍染の忠実な部下となった。
 要以外にも、流魂街にはたくさんの獲物がいた。藍染が企てる計画の実験の為に必要な、それなりに霊力のある魂魄の持ち主。彼の手足となって働く死神候補となりそうな住人。流魂街はまさに宝の山だった。
 その宝の中に、市丸ギンはいた。
 あの日、藍染が見廻ったのは流魂街でも中くらいの場所だった。貧民ばかりで無法地帯に近い最貧区とは違い、それなりに秩序立っており裕福な住民も多い。しかし、貧しい住人も相当に多く、貧富の差は一番激しい地域であった。そんな場所を護廷の隊長が訪れることはまずない。純白の隊首羽織を一目見ようと集まってきた大勢の見物人の中に、ギンはいた。
 彼と目が合ったのは偶然だ。敢えて理由を探すなら、滅多にない銀色の髪が目を惹いたのかもしれない。だが、彼の瞳を見た瞬間、藍染は息を呑んだ。彼の双眸はこれまで見たこともない、鮮やかに紅い色をしていたのだ。
 鮮血の色だ。
 そう認識したと同時に、藍染の心に強い衝動が生まれた。
 この少年が欲しい、と。
「藍染隊長」
 部下から声をかけられ、振り返った一瞬の間に、鮮血の瞳をした少年は消えていた。
 少年を見失ったことは腹立たしかったが、藍染の心に焦りはなかった。あの少年はいつか必ず、彼の前に姿を現すという確信があった。藍染だからこそ察知できた、見事に抑えられているが強力な少年の霊力。藍染の目を挑むように見返した強い意志の光。遠からず、死神となった彼と再びまみえるだろうと、藍染は思った。
 その確信はやがて、現実のものとなった。
 新人隊士の中に目立つ銀髪を見出した時、あの時の少年だ、と藍染の心は浮き立った。思いがけなかったのは、確かに鮮やかな血色をしていたはずの彼の瞳が、真夏の木々の葉色に似た木賊色をしていたことだ。緑柱石エメラルドのような緑も美しかったが、彼の鮮血の瞳に魅入られていた藍染はどうしたことだと興醒めしたものだ。だが、失望する必要は少しもなかった。市丸ギンの瞳は、至高の宝石と同じ性質を持っていたのである。金緑石クリソベリルという鉱物の変種の中に「アレキサンドライト」と呼ばれる石がある。太陽光の下では暗緑色、蝋燭や松明の光の下では紫を帯びた赤色に変色する偏光性の強い希少な宝玉である。この宝石の最上級のものは「昼は緑柱石エメラルド、夜は紅玉ルビーと化す」と形容され、青みを帯びた明るい緑から鮮赤色に変化する。ギンの瞳はまさに最高のアレキサンドライトだった。通常は木賊色をした瞳が、光と見る者の角度によって美しい血色に変わる瞬間があることを知った時、衝動は確定的な欲望と化した。
 必ず彼を手に入れる、と決心した藍染であったが、ギンは要ほど容易には手に入らなかった。
 かなり治安のよい地域で、友人が亡くなるまで平穏に暮していた東仙要と違い、市丸ギンは最貧区から這い上がってきた者だった。いかに強い霊力があるとはいえ、子供の身で無法地帯を生き延びるのは並大抵ではなく、彼は世の中の汚らしい部分を嫌というほど見ていた。それだけに、精神構造の複雑さも、洞察力の深さも、計算高さも要の比ではなかった。幸い、ギンは隊長である藍染のことは尊敬しているようだった。しかし、藍染のギンに対する執着は尊敬などで満足できるものではなかった。身も、心も、全て己がものにし、貪り尽くしたいと望む藍染にとって、ギンの側にいるひとりの女は目障り極まりなかった。
 如月絢女。
 ギンとともに霊術院を卒業し、五番隊入りした死神である。
 もっとも、藍染も最初から彼女を目障りに感じていたわけではない。実をいうと、最初に排斥したいと考えたのは絢女ではなく、十番隊にいた松本乱菊であった。藍染が初めてギンと出会った日も、彼女はギンの傍らにいた。一瞬で心を奪われた少年がしっかりとその手を握りしめていた金色の髪をした美しい少女のことを、藍染は覚えていた。ギンが他の女には決して見せない優しげな眼差しを乱菊に向けることも、藍染の苛立ちを誘った。ギンは絢女とも親しくしていたが、同じ隊の同期であり、乱菊の親友でもある彼女に対して扱いが違うのは当然のように思えたので、始めのうちは気にも留めていなかったのだ。
 だが、ギンを観察し続けるうちに覚った。本当に邪魔なのは乱菊ではなく、絢女の方だと。
 ギンは確かに乱菊を愛していた。だが、その愛し方は兄が妹を、父親が娘を愛おしむのに似ていた。ギンは乱菊を庇護しようとしていたが、欲望の対象としては見ていなかった。女としての彼女を自身で幸せにしようとも考えていなかった。ただ、兄として、親友として、純粋に彼女の幸せを願っていた。
 ギンが真の意味で求めていたのは、絢女だった。彼は何故かそれを絢女にも周囲の人間にも隠そうとしていたから、ほとんどの者は彼の想い人は乱菊だと信じきっていたようである。だが、ギンに執心し、望んでいた藍染の目は惑わせなかった。
 厄介な女だった。
 ギンの心を捕えて離さないばかりではない。彼女は藍染の計画を遂げる上でも、邪魔な存在だった。
 彼女の斬魄刀、秋篠は本来の能力は風である。しかし、副産物として、藍染にとって都合の悪い能力を発動することが判明したのだ。秋篠が解放される時、その風が支配する空間は一切の幻惑術が無効と化すのである。彼女と藍染では霊力の桁が違う。それゆえ、鏡花水月の完全催眠が破られることはなかった。だが、彼女を放置し、力を付けさせることは危険だった。しかも、彼女は藍染に不審を抱いていた。斬魄刀の能力によるものなのか、もともと、勘の鋭い女だったからなのかはしらない。だが、態度にこそ表さなかったが、彼女が己が隊長を信頼しきれていないことを、藍染は気付いていた。
 人当たりの良い誠実な男。部下想いの情味溢れる上司。
 藍染が計画の為に纏い続けてきた仮面に気付いた者は少ない。そして、気付いた者を、例外なく、藍染は抹殺してきた。絢女ははっきりと彼の仮面を見抜いていたわけではないが、薄々と感じ取っているようだった。
 彼女の始末は、非常に手間がかかった。ギンに覚られるわけにはいかなかったからだ。
 絢女に新人隊士の実戦訓練を任せ、霊術院を出たての隊士を大勢引き連れて、何度も現世に討伐に赴かせた。彼女が新人を連れて現世に出かけるのが当たり前にしたのだ。そうして、満を持して、大虚に襲わせた。絢女が決して部下を見捨てる女でないことは解っていた。すべて、計画通りにいった。藍染が考えた通り、弛緩して身動きさえ出来なくなった部下を護る為に、絢女は無謀な戦いに挑んだ。予想外だったのは、彼女が二体もの下級大虚ギリアンを独力で倒してしまったことだ。中級大虚アジューカスは念を入れて送り込んだのだが、それが功を奏したことになる。ギンを救援に行かせたのも計略のうちである。
 結果として、絢女は最高の演出でギンの前から消えた。
 間に合った、助けられた、そう信じたのも束の間、目の前から消えていった女はギンを絶望の淵に叩き込んだ。あれほど、愛おしんでいた乱菊とさえいつしか疎遠となり、絢女のいない世界に闇しか見出せなくなったギンは藍染の手に堕ちた。
 四十五年前、葬り去ったと信じていた女が実は生きていたと知ったのは、井上織姫を拉致する為の囮として、ヤミーやルピを現世に派遣したからだ。先遣隊として現世に赴いていた十番隊長率いる死神との戦闘に、浦原喜助とともに割り込んできたのが絢女だった。ギンに知られる訳にはいかなかった。藍染の所有物となった今でも、ギンは絢女に対する想いを抱え続けていた。鏡花水月をもってしてさえ消し去れないほどに、ギンの心に巣食う女は強固だったのだ。
(あの娘はどこにいる?)
 敢えて護廷に奪還させた井上織姫が刑軍に捕えられたことは、内通者から報告されていた。織姫が捕えられたのと時を同じくして、絢女が消えたことも承知していた。織姫に絢女を消し去らせるつもりで送り込んだ藍染にしてみれば、予定通りである。だが、絢女と同時に十番隊長も消えた、との連絡が藍染に疑念を抱かせた。
(まさか、姉弟だったとはね)
 藍染が冬獅郎を陥れる対象に定めたのは、年若く、隊長格の先輩としての彼を尊敬していた上に、彼が利用した雛森桃の家族同然だったからだ。しかも、冬獅郎は嫌がらせを繰り返すギンのことをはなから嫌っていたから、躍らせる相手には好都合だった。しかし、その計略の中に、彼に対する嫉妬が潜んでいたことを藍染は自覚している。
 仏頂面で、小生意気な天才児。彼が隊長に就任した時から、強い嫌悪を示しあからさまな嫌がらせを繰り返すギンに不審を抱いていた藍染がその理由をはっきりと悟ったのは、乱菊が上司の誕生日祝いに花火を打ち上げた晩だった。
 瀞霊廷で産まれた貴族ならばともかく流魂街出身者に誕生日など意味がない。そう告げた少年に、誠実な年長者らしく、誕生日を知っている幸せを説いた藍染の言葉に何かを感じたらしく、冬獅郎はひどく生真面目な顔つきで礼を述べた。その顔を見た途端、藍染は内心で驚愕した。かたや、冴え冴えとした印象の銀の髪と翠の瞳。かたや、大地のぬくもりを感じさせる栗色の髪と琥珀の瞳。仏頂面と穏やかな微笑。冬獅郎と絢女の印象は百八十度かけ離れていた。だから、ずっと気付かなかった。けれど、藍染を見上げる生真面目で真摯な表情には覚えがあった。冬獅郎は如月絢女にそっくりだった。
 冬獅郎に対するギンの態度が腑に落ちたのはその瞬間だった。
 冬獅郎は助けることの出来なかった大切な女をギンに思い出させる。ギンの嫌悪は、絢女に対する強い愛着と護れなかった己に対する怒りの裏返しだったのだ。
「吉良くんも、檜佐木くんも勝ったようだね」
「綾瀬川もです」
「あとは斑目はんか…?」
 ギンが呟いた時、破壊音が轟いた。
「斑目くんは負けたようだね」
 藍染が笑みを浮かべた時だ。
「霜天に坐せ、氷輪丸!」
 聞き覚えのある解号と共に、霊圧が膨れ上がった。
 放たれた氷龍が崩れようとする寸前の柱に絡みつき、一瞬で柱を氷結させた。
「この霊圧は…?」
 要が不審気に眉を顰めた。
 知っている霊圧だ。しかし、桁が違う。
「藍染隊長」
「なんだい、市丸?」
「あれ、やっぱり日番谷はんやったみたいですなぁ」
 城郭炎上に閉じ込められる前、死神たちと対峙した短い間に目にした、見たことがあるようで見慣れない男のことを言っているのだ。
「そのようだ」
「いやぁ、何の冗談か思たけど、あれ見間違いやなかったんやなぁ」
「何の話だ?」
 尋ねた要に、
「十番隊長さんがえらい大きゅうならはっとったいう話や」
「大きく?」
「外見はもう子供やなかったで。現世の子ォやったら高校か大学生かいうとこやろね。背も乱菊と並んどったし」
 消えたはずの十番隊長がこの場にいるということは、絢女も近くにいるということだ。
 ギンが気付く前に、今度こそ彼女を葬り去らなければならない。ギンが藍染から目を逸らした一瞬の隙に、藍染と要は意思を交わした。
(どこにいる?)
 藍染は探る。
 必ず、どこかにいるはずだ。
 やがて、藍染は顔に表さずに微笑んだ。
 覚えのある元部下の微かな霊圧を感知したのだ。

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2009.08.16