庇護
狛村と冬獅郎はほとんど同時に、藍染の姿を捉えた。
「藍染!」
左から、正面から、斬りかかってゆく二人の胸に去来したのは、あの叛乱の日の敗北だった。
まん前にいたはずの藍染に、背後から胸を刺し貫かれた。
剣を振り下ろした先の藍染は微動だにしていないのに、死角にいた藍染からの黒棺を受けた。
完全催眠。
藍染の弁によれば、蝿を龍に、沼を花畑に誤認させることが出来るという能力の恐ろしさを、二人はその身に叩き込まれている。見えている藍染の姿に翻弄され、倒された。体も、霊圧の残滓さえ、藍染の遺体そのものとしか思えなかったものは斬魂刀だった。
本当に今、目の前にいるのは藍染なのか。もしかしたら、彼は別の場所にいて、そこには誰もいないのではないか。いや、誰もいないならばまだいい。あれは藍染に見えているが実は味方かもしれない。日番谷絢女の斬魂刀、秋篠は浄化の風を吹かせることで催眠能力を無効にする。しかし、秋篠が本当に鏡花水月を無力化したという保証はないのだ。浦原喜助は絢女が卍解すれば鏡花水月に対抗可能と分析したが、その彼だって、藍染と彼の斬魂刀の能力をすべて知り尽くしているわけではない。
だが。
冬獅郎は感じていた。寄り添い、包み込むように彼を護る姉の優しい霊圧を。彼が人の子として産まれ落ちたその時から、庇護し続けてくれた絢女は、今、その能力の全てを懸けて冬獅郎を護ろうとしていた。
(あれは藍染だ)
迷うな。信じろ。絢女を。
藍染が恐れ、抹殺しようとした秋篠の能力を。
( 姉さま!)
冬獅郎と狛村。二人の刃が藍染に達する直前。
「破道の八十八。飛竜撃賊震天雷炮」
冬獅郎の腹に衝撃が走った。そのまま、弾き飛ばされ、レプリカのビルの壁面に叩きつけられる。
「ぐっ…、う」
壁面を滑り落ちた冬獅郎は起き上がろうとして、胸を押さえた。せり上がってきた何かを咳き込んで吐き出す。
血が塊になって唇から溢れ、隊首羽織に自らの血染みが広がった。
(片肺をやられた。それと、肋骨を二本、いや三本か…)
詠唱破棄の破道だった。それが、ここまでの威力を持っていることに、改めて冬獅郎は戦慄する。けれども、
「あれは藍染だった」
膝に力を入れて立ち上がった時、
「冬獅郎くん」
瞬歩で現れたのは京楽だ。
「大丈夫?」
「ああ、これくらい平気だ」
笠も、派手な女物の羽織も纏っていない京楽を、冬獅郎は初めて見た。
「十刃は?」
「倒したよ」
ほんの少しだけつらそうに見えるのは、おそらく十刃の傍にいた、幼い少女としか見えなかった従属官ごと倒したからだろう。
「二人して輪廻の流れに還ったんだ。辛気臭ェ顔すんな」
「まいったねぇ。そんなに辛気臭い顔してるかな?」
「もの凄ぇ不景気な面。おっさんはやっぱ、へらへら笑っててくれねぇとこっちの調子が狂う」
「…ずいぶんな言われようだなぁ」
と京楽は苦笑した。
「狛村は? 俺と一緒に藍染の破道で吹っ飛ばされたはずだ」
「東仙くんと戦ってるよ。冬獅郎くんと違って、ビルのない方に飛ばされたからね。君よりダメージは少なかったみたいだ」
「そうか」
「あれ、惣右介くんだったね」
「ああ。間違いねぇ、藍染だ。 って、おい、藍染は!?」
「更木くんが喜々として向かって行ったよ」
「あー」
強い相手と戦うことにだけ生き甲斐と執念を感じる更木剣八にしてみたら、藍染は願ったりの相手なのだろう。手出しをすれば怒りかねないが、今は剣八の戦闘願望を満たしてやるわけにはいかない。藍染を倒すことは護廷の最優先事項で、その為には隊長格が総力戦で当たる覚悟をつけていた。
「更木くんは怒るかもしれないけど、加勢に行かないと」
冬獅郎と同じことを考えていたらしい。京楽が上空を見上げて告げた。更木は凄まじいまでの霊圧を解放しているが、対する藍染の霊圧に乱れはない。
「ああ、行こう」
と、二人が地を蹴ろうとしたその時。どん、と衝撃波が響いた。
「あれは!」
「黒棺だ」
かつて、狛村が倒された九十番台の強力な鬼道である。
宙に浮かんだ漆黒の棺桶がふっと消え去り、塊が地に堕ちていった。
「更木!」
冬獅郎らが息を呑んだ時、
「剣ちゃん!」
近くのビルの屋上から桃色の塊が顔を出し、堕ち行く剣八を追いかけた。
「剣ちゃん!!」
「破道の八十八。飛竜撃賊震天雷炮」
「縛道の八十一、断空!」
破道を放つ藍染の声と、縛道を放つ京楽の声が交錯した。
「草鹿!!」
「やちるちゃん!」
咄嗟に京楽が放った断空は間に合わなかった。剣八しか目に入っていないやちるの背後から襲い掛かった飛竜撃賊震天雷炮は、彼女の小さな体を叩きのめした。剣八に遅れるように、やちるが地に堕ちてゆく。
冬獅郎と京楽の意識が、ほんの一瞬、藍染から完全に逸れた。
「しまった!」
先に気付いたのは京楽だ。
「絢女ちゃんが危ない!」
「えっ?」
「鏡花水月が封じられていることを、惣右介くんも気付いたんだ」
「あっ…」
おそらく、やちるを攻撃したのは冬獅郎と京楽の注意をそちらに向ける為。
「京楽、草鹿たちは任せた!」
冬獅郎は身を翻した。
浄めの風を吹かせ続ける使命を担った絢女は充分に戦えない。浄めの風が途切れれば、護廷の者は皆、藍染の鏡花水月に囚われてしまうからだ。
(姉さま、無事でいてくれ)
絢女の許に急ぐ冬獅郎を下級大虚が阻んだ。
「邪魔するな!」
一体一体ならば冬獅郎の敵ではない。だが、群れとなると別だ。心は急いても、道は切り開けない。
「隊長!」
呼ぶ声の直後、乱菊が冬獅郎の傍らに来た。
「松本、市丸は!?」
「それが…」
大虚を退けながら、乱菊は手短に経緯を話した。
「隊長、ギンは知らなかった。あいつ、絢女が生きてることを知らなかったんです」
「ああ」
だが、絢女の存在に気付いたギンがどう行動するか、冬獅郎にも読みきれなかった。想いを抱え続けるギンには、絢女を斬り捨てることは到底出来ないだろう。だが、
(無理心中なら、どうだ)
藍染の野望の妨げとなる女を排除し、かつ、自らの想いを遂げるたったひとつの手段。それは、絢女を殺して自分も死ぬことだ。それに思い至り、冬獅郎に悪寒が走る。
「てめぇらの相手をしてる暇はねぇんだ!」
冬獅郎は決断した。氷輪丸を天に向ける。
「天相従臨」
空がみるみる翳った。あっという間に、曇天となった空に、冬獅郎の背中で乱菊が息を呑んだ。
「氷天百華葬」
意識を失っていた乱菊はハリベルに止めを刺した氷天百華葬を目にしていなかった。初めて見た隊首の奥義に、彼女は言葉を失った。
みるみると凍ってゆく。
二人の前に群れていた下級大虚が、氷の華に埋もれ、巨大で複雑な氷の彫像と化してゆく。
冬獅郎は氷輪丸の切っ先を大虚を閉じ込めた氷像に向けた。
「氷散華」
切っ先から躍り出た氷竜が身をくねらせて彫像に突き入った。
崩れる。
氷像は一瞬のうちにダイヤモンドダストと化した。翳ったのと同じ早さで明るさを取り戻した空に、きらきらと、きらきらと、氷の結晶が輝きながら舞い散った。
怖ろしく、そして、美しい煌きに魅入っていた乱菊の耳に、
「はぁ」
と苦しげな息が届いた。はっと我に返った乱菊が視線をめぐらすと、額に脂汗を浮かべ、荒い息を洩らす冬獅郎がいた。
「隊長!?」
慌てて、手を差し伸べる乱菊を冬獅郎は制した。
「大丈夫だ」
「でも…」
氷天百華葬は冬獅郎の切札ともいえる大技だ。それだけに、霊力の消耗も著しい。その技を二度も、しかも怪我を負った身で操ったのだ。かなり無理が来ている自覚はあったが、休んでいる暇などなかった。
「ぐずぐずしてる暇はねぇ。行くぞ、松本!」
力を込めた隊首の言葉に、乱菊は頷いた。
「はい」
二人は絢女の許へ、彼女が陣を置く神社へと奔った。
気配を感じて飛び退いた時には、遅きに失していた。
「縛道の六十三。鎖条鎖縛」
巨大な霊圧の鎖に身体を封じられ、絢女は地に転げた。
「絢女殿!」
万が一、絢女が見付かった場合、彼女を逃がす時間を稼ぐ為に十番隊と七番隊の席官が付けられていた。だが、二人は走り出た瞬間に屍となって伏した。敵の姿さえ認識できないほどの刹那の出来事だった。
「藍染 隊長!」
「久しぶりだね、如月くん」
穏やかな微笑。昔、絢女が下位席官だった頃に、本気で尊敬し憧れていた微笑があった。笑みの形はその頃と変わってはいない。しかし、絢女の心は冷えた。霊圧は完全に閉じられているのに、男の眸で見下ろされるだけで精神の奥底を侵されるような禍々しさに全身が震えた。
「元気そうで嬉しいよ」
ぎりぎりと、縛道の鎖でかつての部下を締め上げながら、藍染は微笑み続けていた。
「縛道の一。塞」
無雑作に放たれた一桁の縛道で、絢女は口の動きを封じられた。符呪の詠唱を妨げるのが目的だ。
絢女は藍染を見つめた。上位席官に昇進し、彼に近づけば近づくほどに強まっていった違和感の正体を、彼女は知った。霞の向こう側に見え隠れしていた藍染は、この男だ。闇よりもなお昏い暗黒を纏うこの男を感じ取り、絢女は怯えたのだ。
「事故に見せかけようと考えたのが失敗だったな」
と藍染は自嘲した。
彼の眸にはっきりとした憎しみが浮かんだ。その目に射竦められながら、絢女は逸らすことなく彼を見返した。
「もっと早く、こうするべきだったよ」
低い、小さな声で、彼は詠唱を始めた。絢女と藍染との間には距離があり、詠唱の声はとても小さかったので、符を聞き取ることは出来なかった。だが、
(破道…。それも、九十番台が来る)
絢女は身構えた。
四十五年前、事故を装ったばかりに暗殺に失敗した藍染は、今度こそ確実に絢女の命を断とうとしていた。剣で殺さないのは、鏡花水月が彼女に近寄ることを拒否しているからだ。浄めの風の源である絢女に、藍染の斬魂刀は強い反発を見せていた。
(東に坐しませ降三世明王。南に坐しませ軍荼利明王。西に坐しませ大威徳明王。北に坐しませ金剛夜叉明王。
言霊は封じられても、心で符呪は唱えられる。九十番台の破道なら断空では防げない。だからこそ、鬼道ではなく、絢女は人の
(南無、五大明王神。南無、大日如来尊。光明至りて千妖万邪、悉く退け給え!)
「破道の九十。黒棺」
死の棺が絢女を囲った。
棺の内部で膨れ上がる圧倒的な霊圧は、絢女の張った五明王結界の守護の力を凌駕した。
灼熱が走った。
藍染は自らの身体に視線を下ろした。
一本の刃が、彼の左胸を貫いて背中から切っ先を覗かせていた。
それは刀としてはあり得ない長さの刃だった。黒棺の壁の向こうから刃は伸びていた。
「市丸 !?」
棺が崩れる。
棺桶の中に立っていたのは、ギンだった。
今にも崩れそうに上半身を揺らし肩で呼吸をしながらも、彼は立っていた。詠唱破棄してさえ、隊長を一撃で戦闘不能にする破壊力を持った九十番台の破道だ。詠唱して放たれたそれは、相手を即死させるほどの威力があるはずだった。にもかかわらず、彼は倒れることなく、血色の眸で藍染を見上げていた。
彼の背後に絢女がいた。鎖条鎖縛に捕らわれたままだったが、彼女は無傷だった。
「空間転移か」
禁術の鬼道。
「いつの間にそんな業を身に付けた?」
ギンの頬に笑みが浮かんだ。唇が動いて、藍染に向かって何かを告げる。その声は小さくかすれていて、藍染には届かなかった。だが、ギンのすぐ近くにいた絢女には辛うじて聴こえた。
「三度目はなしや」
はぁ、と肩を大きく上下させ、ギンは続けた。
「三度も殺させへん」
(三度…?)
ギンは神鎗の柄を両手で握り締めた。
ギンの手の中で、神鎗が歓喜に震えた。
護る為の剣だった。
共鳴し、屈服し、その半身となった主である者を、主が護りたいと願う大切な相手を、護る為にこそ神鎗は存在していた。
けれど、主である男は余りに長く、護ることを忘れていた。主の命のままに殺戮を繰り返しながら、神鎗はいつか彼が護ることを思い出す日をひたすらに待ちわびていた。
ようやく、護れる。
主は、市丸ギンは見失っていた護るべき者を見出したのだ。護る為に戦える悦びの中で、神鎗はギンの命を待った。
腰を落とし、渾身の力で、ギンは神鎗を横に薙いだ。
同時に、ギンはのけぞるように後ろに倒れた。神鎗を胸に突き刺したまま、瞬歩でギンの目の前に来た藍染が、ギンの胸元を斜めに斬り上げたのだ。
鎖条鎖縛が解けた。
神鎗によって左半身を切断された藍染が膝を付く。
倒れ込んでくるギンの身体を、絢女は抱き止めた。
「どうして…?」
支える彼女の腕を、ギンがやんわりと外した。ずたずたの身体で、彼はなおも立ち上がった。
その真向かいで、藍染もまた身体を起こした。
闇を宿した目がギンを見据える。
「おっさん、つくづくしぶといわァ」
「君もだ」
完全に捉えたはずだった。
しかし、今、ギンは藍染に牙を剥いた。
剣が奔った。
茫然と見つめる絢女の頬に、死覇装に、飛び散った血が点々と降りかかった。
立ったままの藍染は、腿を深く斬り割られていた。
対峙するギンの身体が揺れた。がくりと崩れたその肩から、血が勢いよく噴き出した。
「破道の六十三、雷吼炮」
反撃する力を失ったギンに、藍染の掌底から衝撃波が放たれる。
しかし、
「縛道の八十一、断空」
絢女の縛道が雷吼炮を寸前で遮断した。破道と縛道がぶつかり合い、凄まじい爆発音が轟いた。断空の壁の向こうで土埃が舞い上がり、視界を遮った。
ギンは藍染がその場を去ったのを知った。同じことを絢女も悟ったのだろう、背後から抱きかかえるようにしてギンを支える腕が僅かに震えた。
懐かしい霊圧。
背中越しにぬくもりが伝わり、首筋に呼気を感じた。ギンは刀を持っていない左手を持ち上げ、彼を支える手に自らの掌を重ねた。
「絢女」
ずっと。
ずっと、呼び続けていたその名を、四十五年ぶりに音にして呼びかける。
「絢女」
彼は懸命に首を巡らせて、右肩越しに後ろを振り返った。彼の眸が覗き込む琥珀の双眸を捉えた。
「会いたかったぁ」
言葉が零れた。重ねた掌に僅かに力を込めて、ギンは繰り返した。
「会いたかった…、絢女」
彼は
応えたいのに、どうしても言葉が出て来ない。やっとの思いで、絢女が、
「…ギン」
と呼びかけたその時、彼ははっと目を見開いた。
どん、と絢女は後ろに突き飛ばされた。
「!?」
ギンは身体を転がすようにして、少しでも彼女から離れようとしていた。
「ギン!」
腹部が弾けた。
「ギン!!」
倒れ伏したまま、ぴくりとも動かなくなったギンを、絢女は両手で抱え上げた。彼の身体を反し、真正面から検める。
腹部に洞穴が穿たれ、内臓がぐちゃぐちゃに潰れていた。
腹に仕込まれていた何かが爆発したのだ。
東仙要が同じ手段で爆殺されたことを、絢女は知っていた。この空座町を吹き渡る風そのものである秋篠がそれを見ていた。虚化し帰刃した要は、彼に対する友情からどうしても本気で戦えない狛村を圧倒した。だが、狛村に止めを刺そうとしたところで、副官であった檜佐木修兵に急所を突かれて倒れたのだ。要に対する尊敬と思慕を、消そうにも消せない想いを、彼を倒すことで止めるという意思に変えた修兵の一太刀は要に致命傷を与えた。
放っておいても、彼は助からなかったはずだ。その彼を藍染は爆殺した。
要に歩み寄り、看取ろうとした狛村を。帰刃の影響下で視る力を得た要の「顔を見せてくれ」という最期の望みのままに、近づいた修兵を。葬り去る道具として要は爆破された。間一髪で二人が飛び退いた為、藍染の目的は果たされなかった。だが、藍染に心酔し、忠実に仕えて来た男は、敬愛していた上司の手で粉々の肉片にされた。
ギンに突き飛ばされた時、絢女の脳裏に要の最期が過ぎった。
だから、咄嗟に風を放った。
ギンを粉々に砕こうとする力を風で押さえ込んだ。
しかし、爆発そのものは防げなかった。
辛うじて息はある。だが、黒棺に蹂躙され、胸と肩を深く切り裂かれ、腹部を潰されたギンはぼろくずも同然だった。今すぐに息が止まったとしても不思議はない。絢女は彼を抱きしめると、届かないと承知で絞り出した。
「死なないで…」
彼の状態は、自分の手には負えない。絢女は断を下すと、立ち上がった。