刑戮


 中央四十六室の下した市丸ギンへの刑罰は、「色絶無しきぜつむ三十日」というものだった。しかも、刑を終えた後、護廷が承認すれば隊長職への復帰を認めるという附文もあった。
 死刑ではなかったことに安堵して、ほっと息をついた冬獅郎だったが、すぐに、他の隊長たちの反応がおかしいことに気付いた。しんと静まり返った室内には、まるで死刑宣告が下されたかのような重苦しい気が満ちていた。慌てて絢女の様子を確認すると、唇を血が滲みそうなほど噛みしめて、蒼白な顔色になっていた。
「絢女隊長」
 山本が絢女に向き直った。
「すまぬ。力及ばなかった」
 頭を下げた山本に、冬獅郎は瞠目する。絢女は緩く首を横に振った後、深々と頭を下げた。
「総隊長のご尽力、感謝いたしております…」
「すまぬ」
「申し訳ございません。気分が優れませんので、退出…させていただいてもよろしいでしょうか」
「構わぬ。日番谷隊長、付き添って…」
「いいえ。一人で大丈夫です。どうか…」
 山本の言葉を強い口調で遮って、絢女はもう一度頭を下げた。
「どうか…」
「退出を許す。吉良副隊長も退出して構わぬぞ」
「ありがとうございます」
 イヅルが力なく立ち上がり、夢遊病者のように定まらない足取りで絢女と共に会議室を後にするのを、冬獅郎は呆然と見ていた。
「色絶無三十日てなぁ、死刑も同然、いや、もっと性質の悪い代物だ」
と、冬獅郎の横で更木剣八がぽつりと告げた。
「やれやれ、素直に処刑された方がまだマシだったろうに。市丸も気の毒なコトだヨ」
と、涅までもが同情とも取れる言葉を吐き、一人、事態を飲み込めない冬獅郎は助けを求めるかのようにあたりを見回した。
「色絶無の刑というのは、東仙隊長の卍解『閻魔蟋蟀』を究極の形にしたモンですよ。視覚、聴覚、嗅覚、味覚、霊圧知覚も含めてすべての感覚が奪われた空間に閉じ込められるんです」
 檜佐木修兵が冬獅郎に説明した。
「『閻魔蟋蟀』は触覚と痛覚は残りますが、色絶無はそれさえも残らないそうです」
「刑が執行されている間は、空腹も覚えないし、咽喉が渇くことも、眠くなることもない。時間感覚すら奪われてしまうんだよ」
と、京楽が補足した。
「何一つ感覚がない。自分の独り言さえ聞こえない空間…。想像できるかい、冬獅郎くん。正気を保とうと自分で自分をひっぱたくことさえできない。触覚も、痛覚も失っているんだからね」
「隊長格でさえ、どんなに長く保っても半月と言われています」
「先々代の七番隊長は、色絶無十二日の刑を受けて廃人になったんだ」
 二人の言葉に、冬獅郎は絶句した。
「ボクもね、もうずいぶんと昔だけど、五日の刑を受けたことがあってね。あと何日か刑期が長かったら正気を保てなかったと思うよ」
と、京楽は溜息と共に続けた。
「絢女君も確か、部下の不始末を庇って、二日ほど刑を受けたことがあるはずだ。身をもってその恐ろしさを体験しているだけに、とてもじゃないが楽観なんて出来ないだろう」
 浮竹も横から言葉を挟む。
「望み通り、助命だけはしてやったってことか。絢女ちゃんも、乱菊ちゃんも、三番隊のみんなも…、これじゃいたたまれないよ」
「護廷が承認すれば隊長職へ復帰、か…。市丸が廃人になるのを確信しておきながら、嫌がらせとしか思えないな」
「実際、嫌がらせなんだよ、多分」
と、京楽が呟いた。

 懺罪宮の一室で、ギンはかつて刑場だった丘をぼんやりと見ていた。あの日、砕かれた磔架はいまだにその残骸を曝している。どんよりと曇った空は今にもひと雨降り出しそうだった。
「市丸」
 呼びかけに振り返れば、隠密機動総司令官にして二番隊隊長の砕蜂が廊下の壁に背を預け、腕組みをして彼を見ていた。
「中央四十六室の裁定は聞いたな」
「ん、聞いたで」
と、ギンは答えた。
「色絶無三十日やてね」
「ああ」
「かなわんなぁ。処刑されるんは覚悟しとってんけど、殺してさえもらえへんとはなぁ」
「死刑を望んでいたのか?」
「別に望んでたわけやあらへんけど、死刑やろなとは覚悟しとったん。廃人になれ、言われるとは思てへんかった」
「廃人になるとは限るまい」
「色絶無三十日もくろたら、間違いのうて廃人や。ボク、そこまでしぶとくあらへんで」
 うっすらと微笑して、ギンは言った。いつもの感情の読めない笑い方だった。
 対して、砕蜂はくっと皮肉な笑みを浮かべた。
「きさまには願ったりの刑だろう? きさまが廃人になれば、日番谷絢女は永遠にきさまだけのものになるからな」
 すっと、ギンの表情から笑みが消えた。無言で見返す彼に対抗するように、笑みを深めながら砕蜂は続けた。
「日番谷絢女がぬけがらになったきさまを見捨てられると思うか? 弟を護ることに全てを捧げてきた彼女は、これからは廃人になったおまえを養うのに生涯を賭けるというわけだ。良かったな、市丸。彼女は一生、おまえのものだぞ」
「そんなこと、望んでへん」
 ギンの反論を、砕蜂はせせら笑った。
「嘘をつけ。死刑になって、彼女の心を一生縛るのが望みだったくせに」
「何、勝手なこと、」
「彼女が処刑されたおまえのことを忘れられるわけがなかろう。つきあいの浅い私でも分かることだ。おまえに分からないとは言わせんぞ。それなのに、いなくなった方がいいだの、いらないだの、勝手なことばかりほざいておっただろうが。だから、願ったりの刑が下されて良かったと祝福してやっているんだ。きさまが処刑されないのは彼女の責任だからな。生涯を賭けて、償うだろうよ」
「絢女の責任て、どういう意味?」
 砕蜂は腕組みをほどいた。ギンは真剣な眼差しで、砕蜂を見つめている。
「彼女は五番隊長就任を受けるのと引き換えに、きさまの助命を嘆願した。叶えられないなら、護廷に忠誠を誓えないとまで言ってな。その結果が『色絶無三十日』というわけだ。確かに、助命は叶ったな。色絶無で廃人になることはあっても、命を落とすことはないからな」
「…」
「吉良を初めとした三番隊からも、松本と日番谷からも、助命嘆願は出されていた」
「…」
「今、彼らがどんな想いでいると思う?」
 砕蜂は壁から体を起こすと、ギンに歩み寄った。格子ごしに手を伸ばし、ぐいと彼の襟元を掴む。
「思い残すことはない、だと? 護れたからもういい、だと? きさまはそれでいい。自己満足して、自分に酔ったまま処刑されれば終わりだ。だが、遺された者はどうなる?」
 百年前、夜一に残された日のことを、砕蜂は今でも忘れられない。自分も、他の部下たちも、家族さえあっさりと捨て去って、浦原喜助を助ける為に動いた夜一のことを。
 彼女には彼女の信念があった。砕蜂を置いていったのも、夜一なりに部下を想ってのことだったと、今では理解している。それでも、置いていかれた痛みは消えない。信頼し、心から慕っていた者に置き去りにされた絶望は、夜一と和解した今でも、時折、古傷のように砕蜂を疼かせるのだ。
 ギンに下された刑を知り、震えながら退出を願い出た絢女の顔を見た時、砕蜂は自らの古傷がじくじくと疼き始めるのを感じた。遺される絢女の打ちひしがれた瞳に、百年前の自分を見た気がしてざわつく心を静められなかった。
 絢女の後を追うように退出していったイヅルの覚束ない足取り。色絶無の刑の恐ろしさを知らされ、呆然としていた冬獅郎の顔。 全部が、夜一に置いていかれた自分の姿のように思えた。
「『何があっても護ろう、何と引換えにしてでも護ろう』か…。一番肝心なものを護る気がないくせに、ほざくな!」
 ぎりぎりとギンの体を格子に押し付けていた砕蜂の手がいきなり襟元から離され、ギンは反動でよろめいた。
 砕蜂は姿勢を正すと、口調を改めた。
「刑の執行は四日後の辰の上刻
*1 からだ。廃人になってしまったら、何も言えぬだろうからな。己があるうちに伝えたいことがあるなら、せめてもの情けで言付かってやるぞ」
「何もあらへん」
「そうか」
 砕蜂はくるりとギンに背を向けた。隠密機動総司令官らしく、足音ひとつ立てずに遠ざかってゆく背中の「二」の文字を、ギンは見つめた。やがて、その姿が廊下の角を曲がって見えなくなってから、彼は溜息をひとつついた。
「三十日なぁ…。きっついなぁ」
 いつの間にか、外は雨が降り出していた。
 どさり、と寝台に体を横たえ、彼は真っ白な天井に絢女の顔を思い描こうとした。笑っている顔を描きたかったのに、どうしても泣くのをこらえているようなゆがんだ表情になってしまう。諦めて、乱菊の笑顔にしようとしたが、やはり出来なかった。意地っ張りな彼女の泣きたくて泣けない顔ばかりが思い出されて、笑顔にならないのだ。
「あかん。笑ろた顔、思い出せへん」

 その夜、ギンは雨音にまぎれるように響いてくる笛の音を聞いた。
 ともすれば、雨音に消えそうなその音色は、「小夜啼鳥」という曲の旋律をつむいでいた。ギンの好きな曲だ。
 窓の外は闇で、奏者の姿は見えない。殺気石によって霊力を封じられている彼には霊圧を探ることもできない。けれど、誰が笛を吹いているかなど、探るまでもなかった。全神経を笛の音に集中させて、彼は聞き入った。
 昔、護廷の新年の賀会で、絢女がこの曲を奏した時のことをギンは思い出した。新年賀会は持ち回りで各隊が座興の演を行うことになっていた。その年は五番隊の輪番で、出し物は絢女の笛と決まった。貴族の面々や、中央四十六室のお偉方も招待される席で披露できるほどの腕前ではない、と絢女は抵抗したが、藍染の鶴の一声に封じられてしまった。ふだんは地味すぎるほど地味な格好をしている絢女だったが、新年の祝賀会の舞台でいつもの格好が許されるはずもなく、面白がった部下の女死神たちと話を聞きつけてきた乱菊によって完璧な化粧を施され、藍染が用意した衣装に身を包んで舞台に立つことになった。
 天女のように、いや、天女さえ顔色を失くしそうなほど、舞台の絢女は美しかった。もともと、化粧の必要もないほど整った顔立ちの彼女が、ほんのりと紅を差し、これまで身につけたことのない華やかな晴れ着を纏ったのだ。その凄絶なまでの美貌に、観客は息をのんで見入っていた。さらに、笛も完璧だった。尸魂界きっての笛の名手と呼ばれる貴族の老人が、文句のつけようがないと褒めちぎっていたと、後日、上機嫌の山本総隊長から伝えられた。
 綺麗だった。
 綺麗で、綺麗で、だからこそ触れられなかった。
 小夜啼鳥の最後の一節が、ギンの耳に届いた。笛の音が途切れ、雨音だけが辺りを支配する。けれど、すぐにまた、龍笛が雨音に混じった。
「菊慈童…」
 この曲もギンは好きだった。連想ゲームのように、彼は思い出を手繰った。
 新年賀会で演奏する曲の相談を受けたギンが候補に挙げた曲目を聞いて、絢女は苦笑したものだ。
「何、自分の好きな曲ばっかり並べているの? もっと、お正月らしい定番曲があるでしょ」
「そんな曲、つまらんし。どうせ聴くなら、好きな曲の方がええやん」
「あのね、ギンの為の演奏会じゃないのよ? 新年の祝賀会よ、分かってる?」
 そう言って呆れながらも、結局、彼女が演奏したのは、ほとんどギンが選んだ曲ばかりだった。
「小夜啼鳥、菊慈童…。ほんなら、次は『月宮桂精』かな?」
 予測通り、彼が一番気に入っている曲が流れてきた。「月宮桂精」は難曲で、他の倍以上に演奏すると疲れると、この曲をねだる度に、絢女は言っていた。
「乱菊も、この曲好きやったなぁ」
 絢女の笛に合わせ、楽しそうに舞っていた乱菊の姿が甦り、ギンは笑みを零した。
 一刻ほど、笛の音は続き、やがて、途切れた。
 けれども、ギンの耳にはずっと、龍笛の音は鳴り止まずにいた。
 その日から、毎晩、懺罪宮の外で、龍笛は響き続けた。
 そして、夜が明ければ、「色絶無三十日」の刑が始まるという晩、龍笛は一晩中鳴り止まなかった。笛の音が途切れたのは、未だ昇らぬ太陽が暁闇を染め始めた頃だった。ギンの一番好きな「月宮桂精」を最後に笛の音は消えて、東の空が東雲しののめ色に変わった。

 間もなく、刑場に連れてゆかれる。

 ギンが最後の覚悟を決めた時、廊下を近づいてくる足音を聞いた。
 格子の前にやってきた人物は、彼にとって意外な人物だった。
「日番谷はん…」
「元気そうだな、今のところは」
 いくらか皮肉っぽくギンを見る冬獅郎に、
「おかげさんで」
と、ギンは意味も誠意もない返答をする。
「日番谷はんは、改めて見ると、ほんま、えらい大きゅうならはったね」
「おかげさまでな」
と、冬獅郎も誠意なく応じた。
「どうしたん? 懺罪宮なんて十番隊長さんの来るところやあらへんで」
「砕蜂に話をつけて、四半刻だけ許可を取った。市丸、手を出せ」
「はぁっ?」
 怪訝そうに冬獅郎を見返しながら、それでも素直に格子の隙間から右手を差し出したギンに、冬獅郎は藤色の縮緬の小さな包みを渡した。
「何やの?」
と、縮緬を開いたギンは、中から出てきたものに表情を失くした。
 それは、小さな木片だった。かつては美しい細工を施された髪留めだったその木片は、ばっきりと斜めに割れて、無残な木地を露呈させていた。割れた片割れは失ってしまっている。それでも、表面の黒漆とわずかに残った蒔絵が、無傷だった頃の細工を偲ばせた。
「昔、」
と、冬獅郎はギンを見据えて言った。
「俺がまだ流魂街にいた頃、俺を訪ねてきてくれる姉さまは、いつもばあさんでも着ねぇような色気のない、地味な格好だった」
「うん、知っとるよ」
「俺はずっと、それが悔しかった。弟の俺が言うのも何だが、姉さま、美人だろう?」
「うん、別嬪やね」
「ガキの頃の俺は姉さまよりきれいな女を知らなかったから、周りの若い女たちが華やかな着物で着飾っているのを見る度、姉さまならもっと似合うのに、もっときれいなのにって悔しくてたまらなかった。姉さまがことさら地味な格好をしているのは俺のせいだって分かってたから、余計に腹が立った。だから、ある日、姉さまがきれいな細工の髪留めをしているのを見て、嬉しかったんだ」
 ギンは手の中の木片に視線を落とした。
「着物は相っ変わらず、ばばくさかったけどな。髪だけでも、きれいなもんをつける気になってくれたのが嬉しかった。どうしたのか尋ねた俺に、姉さまは友達から貰ったと言った」
「…」
「ガキの俺が見ても高価だとわかるくらい綺麗な細工物で、おまけに蒔絵の図柄は、姉さまの名前と同じ菖蒲あやめときた。ただの友達がそんなもんくれると思うか?」
 冬獅郎は意味ありげに、ギンに視線を投げた。
「絢女に惚れとったけど、友達としか思われてへん哀れな男はようさんおったからなぁ。その中の誰かが、気ィ引こ、思て寄越したんちゃう?」
「そうかもな。けど、市丸。てめえの方が姉さまの近くにいたから知っているだろうが、松本がどんなに勧めてもばばくせえ格好をやめようとしなかったくらい、俺の姉さまは頑固だったりするんだ。その姉さまが、ただの友達に貰ったもんを使うと思うか?」
「友達に気ィ遣うたんやないん? 絢女は優しいから」
「なら、その友達の前でだけ使えばいいじゃねえか。流魂街にまで付けてくる必要はねぇ」
「何が言いたいん?」
と、ギンは溜息をついて、冬獅郎を見返した。冬獅郎はそれには直接答えずに、一方的に話を続けた。
「行方不明になってた姉さまが見つかって尸魂界に戻って来た時、俺はもう姉さまがばばくせえ格好でいるのを見たくなかった。だから、遠慮する姉さまに、強引に着物とか帯とかを山ほど買ってやったんだ。散財させてごめん、て謝りながらだったがな、俺が買ったもんを姉さまは喜んで使ってくれた。着物も、帯も、半襟とかの小物も全部だ」
と、ここで冬獅郎は言葉をいったん止めて、けれども、すぐに続けた。
「でも、髪留めだけはいらねぇって」
「いらない?」
「ああ。色気のねぇ黒い紐でくくってたからな。新しい髪留めか、かんざしでも買ってやろうと思ったんだが、いらねぇと言われた。死神なんてやってたらすぐに壊してしまうから、とか言い訳してたけどな」
「これ、みたいに?」
「ああ、それみてぇにな」
 冬獅郎の視線が、ギンの掌に乗ったかつて髪留めだった破片に注がれる。
「それ、な。四楓院が大怪我した姉さまを見付けた時、側に転がっていたらしい。念を感じたから、大事なものかもしれねぇってんで拾って保管してたそうだ。尸魂界に戻る時に四楓院から渡されて、もうぶっ壊れてて使えねぇってのに、姉さまは後生大事に取っているんだ」
「…そうなん?」
「ああ。時々こっそり取り出して、悲しそうな顔で眺めてる。だから、かっぱらってきた」
「かっぱらって、て、日番谷はん?」
「姉さまが持ってても、姉さまを悲しませるだけだが、てめえが持ってりゃ、お守りがわりくれぇの役には立つだろ? だから、やる。その代わり、出てきたら姉さまに新しい髪留めを買ってやってくれ」
「髪留めはいらん、言うてるんやろ、絢女は?」
「俺が買ったのは、な。多分、買っても、姉さまは使わねぇよ」
「可愛い弟が買うたったモン、使わへんことない思うで?」
「他のものだったらな。だが、髪留めだけはそれを寄越した奴から貰うもの以外、使う気はねぇらしい」
 ギンは木片を縮緬で包み直すと、懐に入れた。
「お言葉に甘えて、お守り代わりに貰っときますわ」
と飄々とした笑みで武装して冬獅郎を見つめる。対して、冷ややかな表情を崩さずに、冬獅郎は続けた。
「あと、松本から伝言」
「何やの?」
「『戻ってきたら、一発、ぶん殴らせろ』だそうだ」
「うっわ、かなわんな。多分、出てきた時はふらふらやろから、手加減してほしいわ。日番谷はんからも頼んだってくれへん?」
「考えといてやる」
「市丸、時間だ」
 足音を立てずに近づいてきた砕蜂が告げた。
 彼女の後ろに控えていた檻理隊の隊士が牢の鍵を開き、ギンを獄から連れ出した。
 砕蜂が顎を引いて頷くと、檻理隊士はギンを囲むようにして、刑場に向かった。
「耐えられると思うか?」
 ギンの姿が見えなくなってから、砕蜂が冬獅郎に尋ねた。
「さぁな…」
 隊長格でさえどんなに持っても半月しか正気を保てないと言われる刑である。それでも、
(帰って来い、市丸。姉さまと松本が大事なら、耐えてみせろ)
 冬獅郎には、最早、祈るしか出来なかった。

 ゆっくりと扉が開く。
 暗闇にうっすらと光が差して、中にいる男の姿をぼんやりと浮かび上がらせた。
 両手、両足を拘束された男はがっくりと首を垂れていて、檻理隊士が室内に入ってきても反応しなかった。
 近づいた檻理隊部隊長が、慎重に男の顔を覗き込んだ。げっそりと痩せ衰えた男の落ち窪んだ眼窩に、ガラス玉のような無機質な瞳があった。何も映していない、生きながら死んだ人間の眼だ。
 男の目を確認した部隊長が頷き、部下の檻理隊士が男の四肢の拘束具を外し始めた。
「…に…たん…」
 拘束具を外すがしゃがしゃという音にまぎれて、かすかに声が聞こえたような気がした。不審に男を見た檻理隊長は、驚愕に大きく目を見開いた。
 男の瞳に弱々しい、けれど、確かな意思の光が宿っていた。かさかさに乾いた男の唇が小さく動く。
「…三十日、経ったん…?」
 男の口許に耳を近づけていなければ、聞き取ることさえ出来なかっただろう。それほど、か細く、掠れた声だった。しかし、男は間違いなくそう尋ねた。それは、生きながら死んだ者には    廃人となった者には決して口に出来ないはずの言葉だった。
「はい。あなたの刑期は終わりました」
と、部隊長は答えた。
「これから、四番隊にお連れします」
「…そうか…、終わったんや…」
 ふ、と男の口許に微笑が浮かぶ。
 直後、拘束が外れた男の体はぐらりと傾いた。
「市丸殿!」
 檻理隊長が崩れ落ちる体を支えた時、男はすでに意識を失っていた。


*1 辰の上刻=夜明けから1~2時間後。おおよそ午前7時ごろ。

駄文倉庫へ戻る
前のお話へ
次のお話へ
トップへ戻る
2010.05.04