三筋の道
絢女の屋敷での生活は、ギンにとって
雨露に濡れることや寒さに凍えることや、野犬や彼を厭う村人に襲われることを案ずることなく眠れる夜を、彼は知らなかった。自分の為に温かな膳が用意されたり、継ぎ綻びなど全く見当たらない清潔な着物を与えられるなど思いも及ばなかった。そして、何よりも、優しい笑顔を向けられること。全てが、ひとりぼっちだった日々には想像することさえ出来なかったことばかりだ。
屋敷の誰もギンを怖れなかった。冬獅郎の銀髪と明るい翡翠の瞳を見慣れている人々にとって、ギンの髪も目も決して異形ではなかったのだ。彼らの姫さまが連れてきた少年に、屋敷の者は皆、親切だった。
ギンは自分にいつもまとわりついているものが、禍々しいもので、他の人には見えないものだということは認識していた。けれど、正体は知らなかった。鷲一郎に教えられて、初めてそれらが魔物・悪霊の類で、自分の持つ強い霊力に魅かれて寄ってきていたことや、それらがもたらす災いのせいで結果として、自分が厄病神扱いされることになったことを知った。
鷲一郎はギンに様々な術を教えてくれた。自分の霊力を身裡に留め、外に漏らさないようにする方法や、異端の髪や目を他者に意識させないようにする目くらましのやり方や、それ以外の様々な術。自覚していなかっただけで強力な霊力の持ち主であったギンは、砂に水が染み込むようにすさまじい早さでそれらの業を会得していった。
ギンにとって、めまいがしそうなほど幸せな日々だったが、彼は心の奥底の不安を拭えないでいた。彼は絢女が拾って来た行きずりの子供に過ぎない。どうして自分にこんなに親切にしてくれるのか、彼には理解できなかったのだ。もしかしたら、明日にも出てゆくように命じられるかもしれないと、彼は怯えた。日番谷家を出て、もう一度ひとりになってしまうのが恐ろしかった。絢女の傍にいられなくなることは、たまらない恐怖を彼にもたらした。
ギンが日番谷家に厄介になってから、二月ほどが過ぎた。
霜月も半ばを過ぎ、積もるほど雪の降った晩のことだった。夕餉を終え、自由に使ってよいと与えられた部屋に戻ろうとしたギンを、鷲一郎が呼び止めた。
「話がある。私の部屋に来なさい」
どくん、とギンの心臓が音を立てた。鷲一郎の表情はいつもの優しいものだったが、ギンにはとても厳しいものに見えた。鷲一郎に従って、廊下を歩きながら、自分の膝が震えているのをギンは知っていた。
鷲一郎の部屋で、向かい合って座り、ギンはおそるおそる切り出した。
「あの、話って何ですのん?」
「おまえの今後の身の振り方のことだ」
どくん、どくんと心臓の鼓動が大きくなる。
「出て行け、言わはるんですか?」
「いや。だが、今のままでここに置いておくわけにはいかぬ」
「何でもします。何でもしますから、ここに置いたって下さい」
ギンは必死に頭を下げた。
「頭を上げなさい、ギン。人の話は最後まで聞くものだ」
鷲一郎がこれまでギンに教えてきた術は、日番谷の一族に限らず、霊力の強い者が身を守ると同時に周囲に災いをもたらさぬようにする為の、いわば心得のようなものだった。ギンはその心得を、鷲一郎も驚くほどの早さで修得してしまった。だが、鷲一郎が教えた心得以外にも、日番谷の一族は様々な術を使う。それは、政ごとを裏で支える為に一族が練り上げたもので、一族以外には伝えてはならないものだった。日番谷家に仕える一般の使用人たちは霊力を持たないから、彼らは家にいたところで術を覚える恐れはない。しかし、ギンは違う。彼ほどの霊力の者が日番谷家に暮らせば、鷲一郎や絢女に教えるつもりはなくても、彼は自然に術を見覚えてしまうに違いなかった。
「一族でないおまえに術を漏らす訳にはゆかぬ」
「ほんなら、やっぱり、出て行け、言わはるんやないですか?」
ギンは俯いた。膝の上で握り締めた拳が悔しさと悲しみで震える。気まぐれに優しくして、捨てるなんてあんまりだと、罵れるものなら罵りたかった。
「ギン、おまえには択るべき道が三つある」
と、鷲一郎は告げた。
「第一の道は、市井の、普通の人間として暮らす道だ。この場合、日番谷の家には置けぬゆえ、どこか奉公先を見つけてやろう。武家でも、商家でも、職人でもよい。霊力と見目さえ隠せれば、厭われることなく、普通に生活してゆける」
「…」
「第二の道は出家することだ。僧侶となって、おまえの強い霊力を迷える霊魂を救う為に使うのは、世の中の為にも、おまえ自身の為にもなることだ」
そこまで話して、鷲一郎は言葉を止めた。第三の道を話そうとしない鷲一郎に、不審をつのらせたギンがうつむかせていた頭をおそるおそる上げて鷲一郎を見ると、彼は穏やかな微笑を浮かべてギンを見つめていた。
「ギン、おまえは主計をどう思う?」
「はぁ?」
問いかけの意図が掴めず、ギンは目をしばたたかせた。
「主計はおまえを気に入っておるようだが、ギンはどうだ?」
「おっさんには感謝しとるんです。絢女のこと、説得してくれたんおっさんやし。置いて行かれとったら、ボク、どないなっとったかわからへんし…」
だが、こんなに温かな場所を教えられた挙句に出て行けと言われるくらいなら、置いていかれていた方がましだったかもしれない。あの時も、どうしても絢女の傍にいたかった。けれど、今はもっともっと傍にいたいと願う。彼女の傍らにいられること、それだけがギンの望みだった。彼女が共にいてくれるのなら、どんなにつらい生活に逆戻りしたとしても構わなかった。
「主計が、おまえを養子に欲しがっている」
鷲一郎は静かに告げた。
「は…? あの…?」
瞬きを繰り返すギンに、鷲一郎は言葉を重ねた。
「主計と佐和の間には子がおらぬ。昔、一度だけ、佐和は身籠ったが、難産の末に赤子は死んで産まれた。以来、二人の間にはどうしても子が出来なかった」
「…」
「主計にとって、佐和は恋女房でな。子の産まれぬことを案じた周りの者が側女を勧めても、主計は佐和以外の女はいらぬとはねつけてきた。だが、このままでは、市丸の家は絶えてしまう。それゆえ、跡取りとなる養い子を探しておったのだ。しかし、市丸は日番谷一族に連なる家筋。人物だけでは養子に迎えるわけにはいかぬ。それなりの霊力を持たねば務まらぬのだ」
「それで、ボクを?」
やっと、事情が呑みこめたギンが鷲一郎を見返す。
「けど、ボクはどこの馬の骨とも知れんし」
「そうだな」
と、鷲一郎は否定をしなかった。
「家柄だけなら、市丸の家に迎えるにふさわしい候補はいくらでもいた。養子の口を求めるお武家の部屋住みの次男坊、三男坊は多いゆえな。しかし、先ほども言ったが、市丸家は日番谷家筆頭用人だ。跡取りに望むのは家柄や血筋ではない。霊力と日番谷家に対する忠誠心だ」
事情は呑みこめたものの、思ってもみなかったことを告げられ、ギンは固まっていた。微笑を崩さぬまま、鷲一郎は、
「おまえの霊力は絢女にも匹敵するほどだ。霊力については申し分ないと、私も思っている。それに、おまえは心が強い」
「え?」
「おまえの生きてきたこれまでを振り返れば、もっと荒んでおってもおかしくはない。世の中を憎み、恨み、魔のものと同化しておっても不思議はないものを、おまえは人の心を失わなかった。心が強い証だ」
「あの…」
「市丸の家に入り、日番谷の家臣として仕える。これが、第三の道だ。ただ、ひとつ、釘をさしておかねばならぬが、市丸家が仕えておるのは日番谷家だ。当主は私で、跡取りは冬獅郎。絢女は一姫だが、いずれ、家を出る身だ。ギンが市丸の家に入るのなら、忠誠を誓う相手は絢女ではなく、私と冬獅郎だ。それだけは肝に銘じて貰わねばならぬ」
ギンは茫然としたままだった。その肩に優しく手をやって、鷲一郎は、
「下がってよいぞ。おまえの行く末のことだ、ゆっくり考えて、自分にとって一番よい道を選びなさい」
と、諭した。
ギンは深々と一礼すると、立ち上がった。鷲一郎の告げた三つの道が頭の中をぐるぐると駆け回っていた。
自分でもどう歩いたか分からないまま部屋に戻ると、ギンに与えられた小部屋の前の廊下に、きちんと正座して彼を待つ絢女がいた。
「父上のお話って、ギンのこれからのこと?」
ギンを見上げて尋ねる絢女に頷いて、彼女の隣に座る。
「父上は何て?」
「今のまま、ここに置いとくわけにはいかへんて」
「そう…」
「ここを出て、どこかの家に仕えるか、出家するか…」
「…出家するか?」
「おっさんの息子になるか」
「…主計…の?」
「うん。ボクを養子に欲しいて言うてくれとるらしい」
「ギンは何て答えたの?」
「何も。頭、真っ白なってしもて、どうすればええのか分からへん」
「そう」
ギンは絢女を見つめた。
「絢女はどうしたらええと思う?」
と、意見を求めたギンに、
「ギンが自分で決めることだもの」
と、きっぱりと絢女は答えを拒絶した。
「そうか…。そう、やね」
「でも…」
絢女の言葉が揺れた。
「遠くに行かないで」
はじかれたようにギンは絢女を見た。絢女は俯いて、ギンと目を合わせないまま、小さな声で続けた。
「どこかのおうちに仕えるのなら、近くのおうちにして。出家するのなら、近くのお寺にして。会えないような遠くに行ってしまわないで」
「絢女…」
「ギンのこれからのことだもの。ギンがどうしたいのか、自分で決めないといけないのは分かっているの。でも、わたし、ギンに会えなくなるのはいや。ギンが決めたのなら、ここを出て別のおうちに行ってもいい。お坊さんになってもいいけど、ちゃんと会えるところにいて。お願い、遠くに行かないで…」
ぱた、と零れ落ちた涙が絢女の着物に染みを作った。
傍にいたいと願っているのは、自分だけだとギンは考えていた。絢女は立派なお屋敷の姫君で、優しい父親も、可愛がっている弟もいる。主計を筆頭に、彼女を大切にして、仕えている者たちもたくさんいる。何でも持っている絢女にとって、自分はかわいそうで放っておけなかっただけのゆきずりの者だと信じていた。だから、きっと、彼がこの家を出るとしても、平然としているだろうと思い込んでいた。けれども、絢女は、遠くに行くなと言った。会えなくなるのは嫌だと言った。自分が絢女から離れたくないと望んでいるのと同じように、絢女もギンの近くにいたいと願ってくれていると知って、ギンは夢を見ているようだった。
「ボク、絢女の傍におってええのん?」
「遠くに行ってしまわないで」
と、絢女は繰り返した。
「行かへん。約束する」
と、ギンは答えた。
「まだ、どうすればええか決められへんけど、遠くには絶対に行かへん。ボク、絢女の傍におっときたいねや。絢女と会えへんようになるくらいなら、死んだ方がましや」
俯いていた絢女が顔を上げた。涙に濡れて、ぐしゃぐしゃになった彼女の顔を、ギンは着物の袂で拭いてやった。
「ゆびきり…」
きまり悪そうに、困ったような笑みを浮かべながら、絢女は右手の小指を差し出した。その華奢な指に、ギンは自分の小指を絡めた。
「げんまん」
ぱっと指を離すと、絢女は勢いよく立ち上がった。
「おやすみなさい」
と、どこか慌てたような口調で告げた絢女は、ぱたぱたと、彼女らしくもなく小走りでギンの前から去って行った。
ギンの出した結論は、市丸の家に入ることだった。
彼を養子に望んでいた主計も、跡継ぎの出来ないことを気に病んでいた彼の妻の佐和も、ギンの決心を喜んだ。
鷲一郎によって一族にお披露目が行われ、ギンは正式に市丸家の跡取りと定められた。