言霊の力
市丸家が暮す離れから母屋へ向かっていると、背後から名を呼びかけられた。振り向くと、絢女がひどく慌てた様子で小走りに走り寄ってきた。
「ね、ギン。冬獅郎を見なかった?」
「今日はまだ会うてへんけど。どないしたん? おらんの?」
「あの子、
「もしかして、センセの薬が嫌で逃げたん?」
「多分、そう」
と、情けなさそうに絢女は肯定した。
「こんなに寒いのに、どこに隠れているのかしら。こじらせたらどうしよう」
冬獅郎は霊力の強さに御する能力が追いついておらず、一人ではうまく霊力を隠せない。だから、彼が屋敷の外に抜け出したのなら、絢女はすぐに発見できる。だが、日番谷屋敷は全体に鷲一郎が結界を施している為、屋敷の中にいるとかえって弟の霊力を探知できず、彼女は困り果てていた。
「お屋敷、広いんも考えもんやなぁ」
「もうすぐ、先生もいらっしゃるのに」
「手伝うわ、絢女。手分けして捜そ」
と、ギンが言った時、ふわっと強い風が吹き抜けた。直後、
「いた」
と、絢女は呟いた。
「
「とりあえず、行ってみよ」
二人が走って向かったのは屋敷の北東のはずれだった。そこには、樹齢千年に近い大楠があった。江戸に本拠を移した日番谷の先祖はこの大楠を目にし、この老木を鬼門の守りに屋敷を建てたのだ。絢女が「主さま」と呼ぶのは正しくこの大楠である。いまだに、ギンは信じられずにいるのだが、絢女は主さまと話が出来るらしいのだ。いや、主さまだけではない。正門脇の老松は「おじいちゃん」、前庭の木蓮は「紫御前」で白梅は「白姫」、馬場の楓は「おばあちゃん」と屋敷中の古木には絢女がつけた呼び名があり、すべて、絢女のおしゃべりの相手である。その話をギンに教えた鷲一郎も、絢女よりずっと高い霊力の冬獅郎も、そのような
風に乗せた主さまからの報せに、絢女とギンが駆けつけると、冬獅郎は主さまのかなり高く張り出した枝にまたがっていた。走ってくる姉を見つけ、冬獅郎は無邪気に、
「ねえさまぁ!」
と声を上げた。
「ねこさん、おりられないの」
冬獅郎の言葉に目を凝らすと、彼は懐に仔猫を抱きかかえていた。
「冬獅郎、主さまが枝が折れそうだって。慌てないでいいから、ゆっくりでいいからね、もっと下がって」
姉の指示に、冬獅郎は仔猫を懐にしたまま、幹に近いところまでずり下がって行った。体を支えるのに充分な強度のある場所に弟が辿りついたのを見極め、絢女はほっと肩の力を抜いた。
「主さま、ありがとうございます」
と、まず、弟の居場所を報せてくれ、彼が落ちてしまわないように折れそうな枝で踏ん張ってくれた大楠に礼を述べる。
「小さいのに、ようあんな高いトコまで登ってんなぁ」
上を見上げて、ギンが感心した。
「降りられる、冬獅郎?」
絢女が尋ねる。すると、冬獅郎は首を横に振った。
「おりられない」
少しも悪びれずに告げる冬獅郎に、
「助けに行って、自分が降りられへんようになっとったら世話ないし…」
と、呆れたようにギンが呟く。絢女は途方に暮れて、
「どうしよう。主計を呼んできた方がいいかしら」
とギンを見た。
見かけによらずおてんばなところのある彼女は木登りも得意だったから、弟のいるところまで登ることは出来る。だが、さすがに弟を連れて降りるのは無理で、それはギンも同様だと彼女は考えていた。
「主計なら、冬獅郎を連れて降りられるかも」
「わざわざ、おっさん呼ぶことないで」
ギンは絢女を制すると、冬獅郎に向かって呼びかけた。
「若さん。まず、猫さん、降ろそ。ボクが受け止めるから、猫さん、落として」
「はぁい」
一瞬も躊躇わず、冬獅郎は仔猫を懐から出すと、手を離して真下に落とした。とさ、という音がして、仔猫は下で待ち構えていたギンの両手に納まった。ギンは仔猫を地面に放すと、
「次、若さんや。飛び降りて」
と、こともなげに言ってのけた。
驚いた絢女が制止する暇もなく、冬獅郎は無雑作に枝から飛び降りていた。
どさ、という仔猫とは比べものにならない重たい音とともに、冬獅郎の体はギンに受け止められていた。反動でしたたか尻餅をついたギンを、
「大丈夫!?」
と、絢女が覗き込む。
「若さんに怪我なんてさせてへんよ」
「冬獅郎じゃなくて、ギンは大丈夫なの?」
「平気や」
ギンは尻餅をついた姿勢のまま、右手を冬獅郎の額に当てた。
「うっわ、えらい熱。あかんやろ。こない熱があるのに外に出たら」
「だって…」
「センセの薬が嫌で逃げ出したんや?」
「だって、まずいもん。へんなあじだ」
む、と口をへの字に曲げてしまった冬獅郎に、
「どうしても薬、飲みたくないん?」
「うん」
「姫さんがこないに心配しとるのに?」
「やだ」
「薬、飲まんと熱下がれへんで?」
「やーだ」
「分かった」
と、ギンは抱えていた冬獅郎を脇に下ろした。
「そないにいややったら、しょうもないな。飲まんでええよ」
言うと、絢女の手首を掴み、冬獅郎に背を向けた。
「姫さんも言うことを聞かへん若さんなんて嫌いやねんて。行こ、姫さん」
と、冬獅郎を残し、絢女を強引に引っ張って立ち去ろうとした。絢女が振り向いて、弟に声をかけようとするのを、
「あかん。黙っとき」
と強く制する。三間 *1 ほど離れたところで、
「ねえさまぁ!」
冬獅郎は叫ぶと、姉に向かって全力で走ってきた。
「やだ。ねえさま。とーしろう、きらい、やだぁ!」
絢女はギンの手をほどくと、しゃがみこんで弟と目の高さを合わせた。
「姉さまは冬獅郎のこと、好きよ」
涙目になっている弟の柔らかなほっぺたを両手で挟んで、絢女は言った。
「ほんと?」
「うん、本当。大好き。だから、お熱があると心配なの。先生のお薬は苦いけど、冬獅郎はもう五つ *2 になったんですもの。ちゃんと飲めるわよね?」
「うん…」
「ちゃんとお薬を飲んで、お熱が下がるまでおとなしくしている冬獅郎のことは、姉さま、もっともっと好きよ」
「ちゃんとのむ」
「いい子ね、冬獅郎」
絢女は弟を抱き上げると、母屋に向かって歩み始めた。彼女の後ろから付いて来るギンに、冬獅郎は姉に気取られないようにこっそりとあっかんベーをする。噴き出しそうになるのを、ギンはかろうじてこらえた。
冬獅郎は、彼の表現でいうと「おそろい」の髪と目をしたギンのことを基本的には気に入っていたし、懐いてもいた。だが、絢女が絡むと、ギンに対してむきになることがよくあった。姉の情愛を一身に受けていた冬獅郎にとって、どうやら、ギンは絢女の寵を奪う敵でもあるようなのだ。
(ボクが若さんに勝てるわけあらへんのに。難儀な子ォやなぁ)
と考えていたギンは、絢女に話しかけられたのを聞き逃してしまった。
「何、姫さん? かんにん、聞いてへんかった」
「まだ、主計のことを『父上』と呼べないの?」
と、絢女は問いを繰り返した。
返答に詰まったギンに、絢女は溜息をつく。
「どうして? 佐和のことはちゃんと『母上』って呼んでいるのに…」
「
ギンが市丸の家に養子に入ってから、すでに一月以上過ぎている。お披露目も済んで、一族の者と認められたというのに、彼はいまだに養父である主計を「おっさん」呼ばわりしていた。
「主計ねぇ、ギンが息子になるのをとっても喜んでいたの。ギンに『父上』って呼ばれるのを楽しみにしていたのに、かわいそうよ」
「う…ん」
彼の旗色が悪くなったのを見て取った冬獅郎が、さきほどの仕返し、とばかりに、
「『ちちうえ』いわないギン、ねえさま、きらいだぞ」
と言った。
「冬獅郎、いつも父上がおっしゃっているでしょう? 『きらい』という言葉は冷たいから気をつけて使いなさいって。ギンは使っていい相手?」
絢女にやんわりと諭されて、冬獅郎はみるみるしょんぼりとなった。
「それに、姉さまは『父上』と呼べなくてもギンのことが好きなの。お薬を飲まなくても冬獅郎のことが好きなのと一緒よ。でも、主計を『父上』と呼ぶギンのことはもっと好き」
と、最後の一言はギンに向けて告げる。返事が出来ずに絶句するギンに、絢女は提案した。
「百回くらい、父上、父上って唱えれば、呼べるようになるかもしれないわ。冬獅郎はお熱があるからお外で遊べないし、冬獅郎、今日はギンが『父上』って呼ぶ練習のお手伝いをしましょうね」
「はぁい!」
「あの…」
「父上、父上、父上…」
節をつけて、唄うように繰り返し始めた絢女に、
「ちちうえ、ちちうえ、」
と冬獅郎も唱和する。
「いや、だから、姫さんらが唱えてもしょうがないし…」
ギンの言葉は尻切れとんぼに消えていった。
鷲一郎と松道から逃げ出したことをこってりと叱られた後、冬獅郎は泣きそうになるほど苦い薬を飲まされた。
あまりのまずさにうっすらと涙を浮かべた冬獅郎に、
「ちゃんとお薬を飲んだごほうび」
と、絢女は榮太樓の梅ぼ志飴を与える。ギンにも飴を渡した後、
「それじゃあ、練習しましょう」
と絢女は朗らかに言ってのけた。
彼女の思いつきから逃れられず、「父上、父上」と散々に繰り返させられて、ギンがいささかぐったりとなった時分のことだった。
「ギンのめ、あかい…」
不意に不思議そうに冬獅郎が呟いた。ギンはぎくりと体を強張らせる。自分で確認することは出来なかったが、彼の瞳は時折紅く見えるらしかった。彼の知る限り、そんな瞳の者は他に会ったことがない。彼とよく似た目をした冬獅郎も、瞳は常に翡翠色で決して紅く見えることはなかった。
人々から「血の色」、「人喰いの証」と怖れられた瞳を冬獅郎に覚られ、身構えるギンに、
「ギンの目は特別なのよ。きれいでしょう」
にこにこと笑って、絢女が言った。玉虫の羽が光の加減で色を変えるように、ギンの目も光の当たり方で紅く見える時があるのだろうと、鷲一郎から教えられていた。絢女は冬獅郎のすぐ横に顔を寄せると、
「ここから見ると紅く見えるわね。でも、ほら、ちょっと動くと、いつもの木賊色でしょ」
「ほんとだ。ねえさま、とーしろうは? とーしろう、あかい?」
「冬獅郎の目は紅く見えたりしないわ。ギンは特別なの」
「そっかぁ。すげぇ」
すごい、すごいと冬獅郎は感心する。
「気味悪いことあらへんの?」
たまりかねて訊ねたギンに、姉弟は心底不審そうな顔をした。
「どうして? きれいなのに」
「なんてんのみ、みたいだぞ」
「そうね、南天の実の色にも似ているわね。でも、姉さまはおてんとうさまが昇る前のお空の色だと思うわ」
「夕焼けやのうて?」
紅い空の色なら目にするのは夕焼けが多いだろうに、わざわざ朝焼けだと言った意図が分からず質したギンに、絢女はあっさりと答えた。
「だって、夕焼けはおてんとうさまが沈んで夜になる色でしょう? ギンの目はね、これからおてんとうさまが昇って、明るくなる時の色よ」
絢女も冬獅郎も、血の色とは言わない。そもそも、そんなことを思ってもいないようだった。
「若さん、お加減はいかがどすか?」
襖の向こうからおっとりとした声がした。佐和だった。
「おかゆさん、こしらえたんやけど、食べられますやろか?」
と、入ってきた佐和は冬獅郎の傍らに養い子の姿を認め、口許をほころばせた。
「なんや、どこに行ったんやと思うとったけど、若さんの相手をしてたん?」
おかゆの入った土鍋を佐和から受け取りながら、
「みんなで、『父上』って呼ぶ練習をしていたの」
と、絢女が教える。
「ほんまどすか? それは旦那さん、喜びはるわ」
「さわ。ギンのめ、あかい。しってた?」
おそらくは身長差のせいで、これまでギンの目が紅く見えることを知らなかった冬獅郎は、この発見がうれしいらしく、早速、佐和に教えていた。彼女はとっくに気付いていたのだが、得意げな冬獅郎に合わせて、
「あらぁ、ほんまや。すごいなぁ」
と、初めて知ったかのように感心してみせた。
「あのね、冬獅郎は南天の実みたいに見えるんですって。わたしは夜が明ける時のお空の色だと思うの。佐和は何の色に見える?」
「離れの玄関の脇に
養母は紅い椿の花色だと答えた。やはり、彼女も血の色とは言わなかった。
鷲一郎が朝の祈祷を終えて道場から出ると、中庭に立ち尽くすギンの背中が見えた。
ようやく、夜が明け染め始めた時刻である。
「ギン、そんなところで何をしている?」
「お館さま」
「どうした、こんなに早くに。朝は冷え込みも厳しい。風邪をひくぞ」
「朝焼けを見とったんです」
と、ギンは鷲一郎に歩み寄った。
「お館さまもボクの目が時々紅いん、気ィついてはるでしょう?」
「ああ」
「血ィみたいな色や、思いません?」
「そう見えぬこともないな」
「姫さんはあの空の色や、言わはるんです」
と、ギンは茜に燃え立つ東の空を指した。
「おてんとさんが昇って、明るくなる時の色やて…。若さんは南天の実や言わはるし、義母上は紅い椿の色や言わはる。血ィの色やて、誰も言わへん」
「血の色と言われて、つらかったか?」
ギンはかぶりを振った。
「血ィの色や言われた時も、人喰いの証拠や言われた時も、つらいなんて思わへんかったんです。けど、若さんがボクの目が紅いいうん気づきはった時、血ィの色や言われるんが怖かった。なんでですやろ? 姫さんや若さんには血ィや言われとうなかったんです」
鷲一郎は道場の廊下近くに植わっている南天に歩み寄ると、その実をひとつ、手に取った。それから、懐から小刀を出すと、南天の実を載せた左手の小指に浅く刃を立てた。鷲一郎の小指から滲む血を、ギンは驚いて見つめた。
「よく似た色だろう?」
自らの血と、南天の実を示して、鷲一郎は言った。
「あの空の色とも似ているな。血の色、南天の実の色、朝焼けの色、紅椿の色。皆、同じギンの目の言い表しているに過ぎぬ。だが、ギン、おまえは冬獅郎や絢女に『血の色』と呼ばれるのを怖れた。どうしてだか分かるか?」
再び、首を横に振ったギンに、
「言葉には『言霊』というものがある」
と、鷲一郎は教えた。
「血は誰の体の中にも流れているもので、本来、厭うようなものではない。だが、血が人の目に触れるのは怪我や、病といったよくないことが起こった時がほとんどだ。人は血の色に病や戦や死を見てしまう。それゆえ、『血の色』と言う時、その言葉は不吉な、忌まわしい言霊を帯びてゆくのだ。おまえが怖れたのは、『血の色』という言葉そのものではない。不吉な言霊を告げられることが怖ろしかったのだろう」
「…」
「南天の実や朝焼けと言われた時はどう思った?」
主の問いに、
「なんや、あったこうなりました」
と、ギンは答えた。
「南天は魔よけとされる。正月飾りにも使われるし、着物や漆器の紋様にも描かれるめでたい木だ。そういうものを指す言葉は自然と優しい言霊をまとう。空が明るくなる時の色、美しい花の色、皆、やわらかな言霊を帯びている。だから、温かく感じたのだろうな」
鷲一郎は手を伸ばすと、ギンの左胸に触れた。
「おまえはずっと、ここが眠っておったのだ」
鷲一郎の言っている意味がわからずに戸惑うギンに、
「心がな、眠っておったのだ。ずっとひとりでいたおまえは、生きのびる為に心を眠らせた。だから、以前、血の色だと言われた時は何も感じなかったのだ。だが、心は死んでいたわけではない。冷たい言霊に切り裂かれるのを怖れて、感じないふりをしていたに過ぎぬ。おまえは本当はずっと傷ついておったのだ」
そうか、とギンは納得した。この温かな場所で、彼を厭わない優しい人たちから「血の色」と言われるのは、彼にとって暗がりに戻されるのと同じ意味だったのだ。だから、怖ろしかった。だから、「血の色」と言われたくなかった。
「ギンはずっと、冷たい、醜い言霊ばかりを投げかけられてきた。おまえの心は、おそらく、おまえが考えている以上の傷を負っていることだろう。言霊で負った傷を癒すのは、やはり言霊だ。だから、ギンはこれからたくさんの言霊を聞かねばならぬ。おまえの傷を癒してくれる温かな言霊を、な」
昨日、絢女が言っていた、「きらい」という言葉は冷たいから気をつけて使え、というのはそういう意味だったのか、とギンは思い当たった。
「それと、おまえも日番谷の一族に名を連ねた以上、言霊の使い方は気をつけねばならぬ。よいな」
「はい」
頷いたギンに、鷲一郎は優しく笑いかけた。
「昨日は、『父上』と呼ぶ練習をしておったそうだな」
「はぁ。何回『父上』と唱えたかわかりませんわ」
苦笑しながら、ギンは答える。
「無理強いは出来ぬが…、早く呼んでやれ。佐和は『母上』なのにと悔しがっておったぞ」
鷲一郎の言葉に、ギンははっと目を伏せた。
「難しいか?」
「お館さま、『おっさん』いうんは、冷たい言霊ですやろか?」
俯いたままで、ギンは問いかける。
「冷たくはないな」
と、鷲一郎は答えた。
「だが、主計には寂しい言霊かもしれぬ」
その言葉は、ずしりとギンの胸に堪えた。
*1 およそ5.5m。
*2 数え年による表記。満年齢で3歳と数ヶ月。
*3 関東系の椿の名称。
濃い赤の一重咲きで、中心部に米粒状の白色のシベが密集しているのが特徴。