世界を拡げるもの


 音を立てて床に転げた竹刀を、絢女は呆然と見下ろした。
「負けちゃった…」
 彼女の呟きに、ギンが小声で、
「ごめん」
と返す。ふるふるとかぶりを振って、絢女は竹刀を拾い上げ、防具を外した。
「ありがとうございました」
と作法に則って礼を交わした後、二人は道場の隅でおとなしく見物している冬獅郎のところに向かった。
 弟の傍らに、ぺたんと座り、
「冬獅郎、姉さま、負けちゃった」
と絢女は言った。
「ギン、すげぇなぁ」
 冬獅郎が尊敬のまなざしを向けてきたので、絢女に対する申し訳なさとこそばゆさがないまぜになって、ギンは返す言葉も見つからないまま、冬獅郎の隣りに腰を下ろした。
「ねえさま、つよいんだぞ」
 反応の薄いギンにむきになって、冬獅郎は言い募った。
「なのに、すげぇ」
「うん。おおきに、若さん」
 冬獅郎の言う「絢女は強い」というのは、小さな子供の身内びいきでも何でもなく、厳然とした事実である。わずか六つの歳から、この剣術道場に通い続けている絢女は、師範の山浦儀輔ぎすけが、
女子おなごにしておくのは惜しい」
と公言するほどの剣術の才があった。実際、絢女と同じ年頃の兄弟弟子はまず彼女の相手にはならない。彼女の稽古は、四つ、五つほども年上の、ふたまわり以上も体の大きい兄弟子が相手をするのが常だった。
 ギンは市丸家に養子に入って間もなく、絢女とともに山浦道場に通い始めた。日番谷家は武家ではないが、一族の者はなにがしかの武術を修めるのが慣わしだったのだ。ひとつには精神修養の為、もうひとつには悪霊や魔物と対峙する際、武術の心得があるのとないのとでは反撃を受けた際の身ごなしが違ってくるからである。日番谷家筆頭用人たる市丸家の嫡男となったギンにも、当然、武術の心得は求められたので、道場に通うことになったのである。
 師の儀輔が、ギンの許に歩み寄ってきた。
「短い間に、よくお姫を負かすほどに腕を上げたな」
「ありがとうございます」
「才があったのはむろんだが、ずいぶんと努力もしたのだろう?」
「ボクは姫さんや若さんを守らんならん立場です。それなのに、姫さんに負けとったら役目を果たせへんから…」
「ギン、守る為に必要なのは力だけではないぞ。努力は大切だが、そればかりにがむしゃらになりすぎると見失うものもある。お姫に勝つほどに腕を上げたことでもあるし、少し立ち止まってみることだな」
「はぁ…」
 師の言っている意味がよく分からない様子で、ギンは首を傾げている。儀輔は笑って、ギンの肩をぽんぽんと軽く叩いた。
「そのうち、分かる」
 儀輔はギンの養父の主計や絢女の父親の鷲一郎とは、親友と呼べる間柄だった。彼の父親がここの道場主だった頃、二人は儀輔と兄弟弟子で、だから、儀輔とは今でも「俺、おまえ」の仲であるし、異形の髪色や瞳を隠す為の目くらましの術を儀輔にはかけない。必要がないからだ。それほど親しい友であるので、ギンが市丸家に入った事情や、それ以前の彼の越し方は、包み隠さず打ち明けられていた。
 庇護してくれる者もいないまま、浮浪児として生きてきたギンは、当たり前のことであるが文盲で無教養だった。生き延びる為に身につけた体術は喧嘩術と言い換えていい代物で、まともに武道を修めた者に通用するものではなかった。
 市丸家の嫡男が無教養で武術の心得もないのは、困る。だが、鷲一郎にせよ、主計にせよ、それらはギンが市丸の家を継ぐまでにゆっくりと身につければいいと思い定めていた。ひとりぼっちで迫害されていた彼に早急に必要なのは、学問でも、武術でもなく、人の優しさに触れ、絢女や冬獅郎と子供らしく笑いあい、友達と呼べる間柄の者を見つけることだと、鷲一郎たちは考えていた。ギンを山浦道場に通わせることにしたのも、武術を身につけさせるのはもちろんだが、それ以上に、同じくらいの年頃の少年たちと交わって、友を得てほしいという願いがあったのだ。
 だが、肝心のギンは周りの少年たちに追いつくことに必死だった。自分を拾い上げてくれた鷲一郎や主計に恩義を感じている彼は、一刻も早く、市丸の嫡男に相応しい教養や武技を身につけたいとばかり考えていた。無教養では主や養父に恥をかかせてしまう、絢女に負けるようでは姫と若君を守れないと、その一心で文字を覚え、夜遅くまで書物を読みふけり、血豆がつぶれるほどに素振りや形稽古を繰り返すギンのことを、鷲一郎らは案じていた。そして、彼らの心配は儀輔にも痛いほど伝わっていたのだった。立ち止まれ、と告げたのも、余裕のないギンを諫める意味があった。
 だが、ギンは理解出来ずに困っていた。
「もっと、ゆっくり強くなりなさいって、先生はおっしゃっているのよ」
と、絢女が笑った。
「ギンってば、強くなるの早すぎよ。そのうちに負けるのは分かっていたけれど、もうちょっとくらい、わたしに威張らせてくれててもいいじゃない」
「かんにん、姫さん」
「わたしに勝ったんですもの。もうこれからは強くなるの急がないでね。ギンが強くなりすぎたら、一緒にお稽古できなくなっちゃうもの」
 勝ったとはいえ、試合は接戦だった。まだ、ギンと絢女の技量は拮抗している。彼が強くなりすぎてはともに稽古することさえ出来なくなる、という言い方で、ギンの必死さを止めようとする絢女を、
(お姫は上手いな)
と、儀輔は感心した。
「市丸、すごいな」
 不意に横から声をかけられ、ギンは顔を上げた。
 将来は力士になれそうなほどの巨漢の少年とおっとりと育ちのよさそうな小柄な少年が懐っこい笑みを浮かべて、ギンを見ていた。
「僕なんか、全然、お姫に歯が立たないのに」
「恭之介はお姫じゃなくても、歯が立たないだろ?」
 お姫じゃなくても、と言われたおっとりした少年は岡野恭之介、巨漢の方は城島きじま三千代みちよだったと、ギンは記憶をさぐった。確か恭之介は北町与力の、三千代は上州沼田藩の江戸詰め藩士の子息だったはずだ。
 二人はギンの隣りに並んで座ると、
「入門して、まだ四月よつきなのにさ」
「すごいよな」
と口を揃えて称えたので、冬獅郎から尊敬の目を向けられた時のように、ギンはむず痒くなってしまった。
「ボクは姫さんらを守らんならんから…」
 師範に告げたのと同じことを繰り返したギンに、
「それにしたってなぁ」
と、恭之介と三千代は目を見合わせる。
 その時、
「ギン、だめだぞ」
と、冬獅郎が口を挟んだ。
「何がだめなん?」
 怪訝に見返したギンに、
「ねえさまはとーしろうがまもるんだから!」
と冬獅郎は高らかに宣言をした。
 絶句したギンと絢女に、恭之介たちが破顔した。
「そうか、坊がお姫を守るのか」
「坊は姉さまが大好きだもんな」
 師の儀輔がそう呼ぶからだろう。山浦道場の者たちは絢女を「お姫」、冬獅郎を「坊」と呼ぶ。姉にくっついて道場にやってくる幼い冬獅郎は、道場の皆から可愛がられていた。
「うん。とーしろうがねえさま、まもるんだ」
 だから、ギンは絢女を守ってはだめだ、という冬獅郎のいかにも幼い、子供っぽい論理を、恭之介が柔らかな口調で諭した。
「坊は姉さまが大好きだから守りたいんだろう?」
「うん!」
「市丸も坊やお姫が好きだから守りたいんだよ。だのに、守っちゃだめだなんて言われたら、市丸がかわいそうだよ」
「だって…」
「お姫を守るのは、一人しかだめって決まりがあるのかな?」
 冬獅郎は首を横に振った。
「だったら、坊と市丸と二人でお姫を守ったらいいじゃないか。用心棒が二人もいたら、お姫も大安心だろう?」
と、視線を移した恭之介に、
「ええ」
と、絢女は頷いた。
「姉さまは、冬獅郎にもギンにも守ってほしいな」
「わかった」
と、素直に冬獅郎は首肯した。
「ギン。ねえさま、まもっていいぞ」
「おおきに、若さん」
 ギンは冬獅郎に答えた後、恭之介に礼を言った。
「助けてくれて、おおきに」
「どういたしまして」
 恭之介はくすくすと笑っていた。その向こう側から、三千代が身を乗り出して来た。
「なぁなぁ、市丸。市丸の『ギン』って名は、やっぱ、わざとつけた女名おんなな?」
「は?」
 吃驚して三千代を眺めるギンに、
「いきなり、そんなこと言われちゃ、市丸も訳わかんないよね」
と、再び恭之介が助け舟を出した。
「三千代はさ、ご両親からわざと女名をつけられたんだよ」
「なんで?」
「三千代ってさ、女ばっかり五人も続いた後でようやく生まれた跡取り息子なんだよ。だから、ご両親はどうしても無事に育ってほしかったんだろうね」
「?」
「俗信なんだけどね。成人するまで男は女の子として、女の子は男の子として育てると無事に育つって言われているんだ。武家の嫡男を女の子として育てるわけにはいかないから、名前だけ言い伝えの通り、女の子の名にしたんだよ」
「そうなんや」
「うん。こいつ見てると俗信も捨てたもんじゃないって思わない? 育ちすぎなくらいにすくすくと育ってるよね」
「そ、やね…」
「市丸が入門してきた時、三千代、女名の仲間が出来たって喜んでたんだ」
「市丸も俺と同じ理由で女名を付けられたのかって思ってたんだけど、違うのか?」
と、三千代は改めて尋ねてきた。ギンはちらりと絢女を盗み見た。彼の名付け親である絢女は困惑顔になっていた。
「ボクな、小さい頃に実の両親、亡くなってん。せやから、『ギン』いうてつけた理由、知らんねや」
 ギンの答えに、三千代はどんぐりまなこをさらに大きく見開いて、
「ごめん」
と謝ってきた。
「謝らんでええよ。もしかしたら、ボクの親も城島はんとこの父上らとおんなじこと考えて、ボクの名前、つけてくれたんかしれんもん。そやったら、嬉しい思えるからええねん」
「そっか」
 三千代は安心したように、笑みを浮かべた。
「なぁ、市丸。俺も『ギン』って呼んでいい?」
「ええよ」
「俺のことは『三千代』な」
「ずるい、三千代。抜けがけ!」
と、恭之介が割り込んできた。
「市丸、僕は『恭之介』だからね」
「うん…」
 ギンと三千代たちのやりとりを少し離れていたところで見守っていた儀輔は、
(これは、主計たちが喜びそうなあんばいになってきたな)
と、内心でほくそ笑んだ。

 男の子なだけに、剣術の試合や稽古を見ると興奮してしまうのだろう。道場の帰りは、いつも途中で眠くなる冬獅郎は、今日もギンの背中ですうすうと穏やかな寝息を立てていた。
 弟がぐっすりと眠っているのを確認して、絢女は、
「ごめんなさい」
と、ギンに謝罪した。
「何のこと?」
 訳がわからないという表情を浮かべたギンに、
「名前…。言われてみれば、『ギン』って女の子の名前よね。ごめんなさい」
と、絢女は繰り返した。
「なんや、そんなこと」
 ギンは笑った。
「気にすることないで。ボク、この名前、気に入っとうし」
「でも…」
 まだ、気に病んでいる様子の絢女に、ギンは告げた。
「男名でも、女名でも、そんなんどうでもええねん」
 彼がギン・・になる前、彼を呼ぶ者は皆、怖れと嫌悪を言霊に乗せていた。拒絶の視線と、吐き捨てるような呪いを込めて、「ばけもの」と呼ばれていたのだ。
 だが、今の彼の名を呼ぶ者は、皆、温かかった。名をくれた絢女や、養親、鷲一郎はもちろんのこと、屋敷の下女や門番に至るまで、優しい親しみを込めて、彼の名前を呼ぶ。
「この名前、あったかいのん。屋敷の人も、山浦先生も、『ギン』いうて、優しゅう呼んでくれる。だから、大好きなん」
 絢女は、彼の髪が「きらきらして銀の糸みたいにきれいだから」と、ギン・・と名付けたが、ギンにとってはこの名前こそがきらきらと輝く宝玉のようだった。
「城島はんや、岡野はんも優しゅうに呼んでくれたで。絢女がこの名前をくれたから、ボクはばけもん・・・・やのうなったん。だから、絢女はちょっとも気に病まんでええ。ボク、ほんまにこの名前、好きなんや」
 嫌悪も、憎しみも、込められない名。
 ぬくもりに満ちた名。
 絢女がくれた名前はギンの宝物だったから、謝られるのはむしろ心外だった。
 ギンが本気で自分の名を好きだと思っていることが分かったので、絢女は安心して表情を緩めた。
 背中で、冬獅郎がむにゃむにゃと言葉にならない寝言を呟いた。起こさないように細心の注意を払いながら、ギンは彼を軽く揺すり上げて背負い直した。
「ねえ、ギン」
と、絢女が改めて声を掛けた。
「ん、何?」
「恭之介殿からも、三千代殿からも、名前で呼んでって言われたでしょ」
「うん」
「さっき、『岡野はん』って呼んでた。だめよ。ちゃんと名前で呼ばなくちゃ」
「あ、そうか」
「よかったわね。お友達が出来て」
「友達…なん?」
 ギンが驚いたのを見て、絢女は呆れてしまった。
「なあに? お友達だと思っていないの?」
「やって…」
「恭之介殿と三千代殿は、ギンのこと、友達だと思ってるわ。ギンと友達になりたいから、名前で呼んでって言ったのよ。ギンは恭之介殿たちと友達になりたくないの?」
 友達というのがどういうものなのか、ギンにはよく分からなかった。けれど、恭之介たちに親しげに話しかけられたのは決して不快ではなかったし、今日のようにまた話が出来たらいいとも思った。そのことを、告げると、
「だったら、ギンは恭之介殿たちとお友達になりたいのよ」
と、絢女はとても嬉しそうに笑った。

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2009.02.23