護る為の力
小用に起きて、厠に行く途中、養父の部屋から灯りが洩れているのに気付いた。
このところずっと、主計は鷲一郎ともども忙しくしていた。朝はギンが起きるよりもずっと早い時刻に城に出仕し、戻るのもギンが眠りに就いた後で、ギンはずいぶん主計の顔を見ていないような気がした。だから、厠を出た後、何となく養父の部屋を覗いてみたくなったのだ。
気配を殺し、そろりと部屋に近づく。途端に、
「ギンか。入れ」
と、声をかけられ、
「かなわんなぁ」
と溜息をついて、ギンは主計の部屋の襖を開けた。
「気配、ちゃんと消したつもりやったのに」
「陰陽師の年季が違うからな。おまえにしてやられるほど耄碌してねぇぞ」
からからと笑った主計は、刀の手入れをしている最中だった。いつも、腰に佩びしている大小のうち、太刀の手入れを終えたところで、ギンが来たので部屋に入れたのだ。
「これから、観音丸の手入れをするが、見ていくか?」
「ええの?」
「いずれ、おまえのものになる刀だ。見ておけ。ただし、手入れをしている間はしゃべるな。動くな。いいな」
「はい」
脇差の観音丸を手に取り、主計は手入れを始めた。目釘を外し、柄から抜かれて刀身だけになった刃が、行灯の仄かな灯りに煌いている。唾を飛ばさないよう、紙を咥えた主計がギンに刀身の銘を見せる。通常なら刀匠の名が刻まれているべき場所に、不思議な紋様が刻まれているのを、ギンは認めた。最後の拭いをかけ、柄と鞘に納めてから、主計は、
「持ってみろ」
と、観音丸をギンに渡した。ずしり、と真剣独特の重みが、捧げ持ったギンの掌に伝わる。
「道場で使っている木刀とは違うだろう?」
主計は観音丸を取り上げ、代わりに太刀の不動丸をギンに持たせた。
「重いなぁ。観音丸も重かってけど、不動丸はもっと重い」
「そりゃあ、太刀だからな」
「
「梵字だ。天竺の古い文字でな。観世音菩薩を意味するキリークという梵字が刻まれている」
「もしかして、観音丸いう名前はその梵字いうのから付けられたん? やったら、不動丸は不動明王?」
「ああ、お不動さまを意味するカーンの字が刻まれている」
主計は不動丸をギンから取り戻すと、代わりに、観音丸をもう一度持たせた。
「構えてみろ」
言われた通りに、鞘に納められたままの観音丸を構える。
「目を閉じて、呼吸を整えて、それから、おまえが一番護りたいものを心に浮かべろ」
「あっ」
小さく声を洩らしたギンに、
「軽くなったか?」
と主計は問うた。
「うん、いきなり軽なった。何で?」
「護る為に造られた刀なんだよ。観音丸も、不動丸も。軽く感じたってことは、おまえの護りたいって心は本物だってことだ」
「そんなこと…」
「一種の神剣なんだ。こいつらは。不動明王の降魔の力と浄化の炎を込めて鍛えられた不動丸に、観世音菩薩の通力と慈悲の心を封じた観音丸は、二本で火と水、即ち、
確かに不動丸の鍔は火炎を象っていたし、観音丸の鍔は観世水と呼ばれる流水紋様に似ていた。
「お不動さんが火いうんは分かるねんけど、観音さんの水て?」
「観音さまが持っている浄瓶に満たされている甘露を意味している」
「そうなんや」
「ああ。大切な者を護る為に鍛えられた刀だ。だから、護りたいという遣い手の想いが強ければ強いほど、刀もそれに応えて力を増す。主を護り抜く為の刀だ」
主計の言葉に、ギンがちょっと困ったような表情を浮かべたのを見て、
「ギンが思い浮かべたのは姫さまだな?」
「うん…。お館さまから、忠誠を誓う相手はお館さまと若さんや、言われとったのに…」
「別にいいんじゃねえか。ギンはお館さまや若を軽んじているわけじゃない。姫さまはおまえにとっちゃ恩人だし、護りたいのは当然だ。おまえはまだ、市丸の当主じゃねえんだから、難しく考えないでもいい」
大きな主計の手が、ギンの髪をぐしゃぐしゃと掻きまわした。
「俺としても、そうそう隠居するつもりはねぇし、おまえはゆっくり大きくなればいい。分かるか?」
「なんとのう…」
観音丸を刀掛けに戻し、
「ギン、おまえ、山浦道場で友達が出来たそうだな。佐和から聞いた。どんな子だ」
「岡野恭之介と城島三千代、いうん」
と、ギンは答えた。
「三千代はボクよりいっこ下やけど、体はものすご大きいん。力も強うてな。剣術の腕はボクや姫さんより下やねんけど、力が強いから、捨て身でぶつかってこられると姫さんも遅れを取る時があるん。剣術より相撲の方が向いてそうや」
ギンの正確な生まれ年は本人も知らない。だが、市丸の養子になるに当たって、幕府に提出する届けに生年月日を記載する必要があった為、見た目で判断して、絢女よりも二歳年長ということにしたのだ。生まれた日は絢女が「ギン」と名づけたのが長月十日だったので、その日にした。だから、三千代がギンより一歳年下というのは、彼の年の推定が誤っていなければという話になる。
「恭之介は剣術はからきしなん。本人も自分は向いてへんて思とるみたいや。けど、道場で稽古するのは好きや、言うとった。本が好きで、学問が好きで、ほんまはお父上の後を継いで与力になるより、蘭学者になりたいんやて」
「恭之介という子のお父上は与力か?」
「うん。北町の与力はんや。思慮深うてお奉行さまからも頼りにされてはる立派な方やて、山浦先生が言うてはった」
「そうか」
「恭之介、ものすご、物知りなん。なんでも、よう知っとるん」
友人が物知りだと、自分のことのように自慢げに話すギンに主計は目を細めた。やっと、年相応の子供らしい表情をみせるようになった。
「そうや…。今度、釣りに行こ、いうて誘われたんやけど」
「俺の許可をいちいち取らなくていいぞ。行って来い」
「姫さんと若さんも一緒やけど…?」
「姫さまが?」
「うん、楽しみにしてはる」
冬獅郎は知らないが、絢女は釣りには全く興味がなかったはずだ、と主計は首をひねった。だが、すぐに納得する。おそらく、絢女と冬獅郎に遠慮して、せっかくの誘いにギンは渋る様子を見せたのだろう。だから、絢女は自分も行きたいと言い出して、ギンが承諾しやすくしたのだ。
ギンを取り巻く空気が少しづつ変わってきたようだ、と佐和から報告されていたが、久しぶりに息子に会って、その変化を確かに主計も感じ取った。絢女に出会って光を見出した少年は、ようやく、世の中と対峙しようとしているのだ。かつて、彼を拒絶した世界に、しっかりと大地を踏みしめて立つ為に。
「ギン。俺やお館さまが儀輔には目くらましをかけないのは知っているな?」
「うん」
「いつか、その三千代や恭之介って子にも目くらましをかけなくて済むようになるといいな」
ギンは目を見開いた。
「そんなん…。びっくりして、気味悪いて言われる」
「儀輔は気味悪いなんて言わないだろう?」
儀輔には目くらましは必要ないと告げられていたので、ギンも師に術をかけることはしなかった。だから、儀輔の目には、ギンの銀髪も木賊色の瞳もありのままで映っているはずである。
「言わへん…。けど、三千代らは山浦先生と違うし」
「今はまだ、そうだろうな。けどな。三千代や恭之介にとって、おまえがかけがえのない大切な友となったら、髪の色とか、目の色とか、どうでもよくなるもんだ。儀輔だってな、俺やお館さまが初めて目くらましを解いた時には、腰抜かしそうになってたぞ」
その時のことを思い出したのか、くつくつと主計は笑った。
「確かに、吃驚されるかもしれない。最初は気味悪がられるかもしれない。だが、本当の友達なら、すぐにそんなことはどうでもいいことだって分かるはずだ。そう思って貰えるようになるかなれねぇかは、ギン、おまえ次第だ」
神妙な顔になった養い子の頭を、もう一度、ぐしゃぐしゃと掻きまわすと、ギンはくすぐったそうな顔をした。
ゆっくりと大きくなっていけ、と主計は願う。大切なものをひとつずつ増やしていって、世の中は光に溢れているんだと知ってゆけ。ひとりぼっちでも人の心を失わなかった強いおまえなら、きっと分かるはずだ、と。
三千代と恭之介がとっておきの釣り場だと、ギンたちを案内したのは、麻布の大名屋敷を抜けた広尾に近いところだった。細いせせらぎがあって、そこでは鮒がよく釣れるのだそうだ。
「父上も主計も、鮒の甘露煮が好きよ。ギン、頑張ってね」
冬獅郎が浅瀬で水遊びが出来るように着物を脱がせてやると、絢女自身は陽射しを避けて、葉桜の下に座り込んだ。
冬獅郎は早速に沢蟹を見つけたらしく、はしゃぎ声を上げた。その傍らで、三千代たちに教わりながら、ギンが釣り針に餌をつけようと四苦八苦していた。
梅雨が明けて、すっかり夏になった。絢女の頭上では蝉が鳴いているし、木立の向こうに広がる空には入道雲が沸き立っている。
「引いてる、引いてる!」
三千代の大声に目を向けると、恭之介が小鮒を釣り上げたところだった。
「やった、一番乗り」
「俺はもっと大物を上げるからな」
とっておきの場所と言うだけあって、恭之介も三千代も次々に獲物を上げている。まだ釣れていないのは承知の上で、ちょっと意地悪して、
「ギン、釣れた?」
と絢女が問いかけると、
「まだ、坊主だよ」
とギンの代わりに、三千代が答えた。ギンがようやく一尾を釣り上げたのは、そろそろお昼にしようかという刻限だった。
三千代も恭之介も携えてきた弁当は握り飯に香の物少々という質素なものだったが、ギンは佐和から重詰めの弁当を持たされていた。養い子が初めて友達と遊びに出かけるというので、佐和は張り切って弁当を準備したのだ。ギンが広げた弁当に目を見張った恭之介たちに、
「おむすびと玉子焼きは、わたしがこしらえたのよ」
と絢女が胸を張った。確かに、握り飯はいつもの佐和のものに比べて小さくて形がややいびつだし、玉子焼きはわずかだが焦げている。
「お姫さまなのに料理するんだ?」
道場で剣術を学ぶなど一風変わってはいるが、絢女はまぎれもなく名家の姫君である。それを承知している三千代の問いかけに、
「今、佐和に教わっているの。日番谷の女は料理が出来ないと駄目なのよ。亡くなった母上も、お元気でいらした頃は父上のお食事の世話は絶対、他の人にさせなかったもの」
と絢女は答えた。
「玉子焼き、おいしいよ」
恭之介が誉めた。
「ほんと?」
「うん。おいしい。おにぎりもおいしいで」
「佐和みたいにきれいな三角にむすべなかったの」
「初めてつくったんだよね? それで、これだけ形になっているんだから、すぐにきれいな三角にむすべるようになるよ」
「そうそう、塩加減もちょうどいいし、お姫は器用だよな」
「ねえさま、おいしい」
誉めそやす年長者に負けじと冬獅郎も賞賛の言葉を口にし、絢女は嬉しそうだった。
「三千代殿のおむすび、これ、お味噌?」
「うん。味噌を塗って焼いてあるんだ」
「初めて食べたけど、香ばしゅうておいしいなぁ」
「ギン、これ好き?」
「うん」
「だったら、今度、わたしも作ってみる。三千代殿、母上さまに作り方を教えていただけないかしら?」
「いいよ。教わるほどのもんでもないと思うけど」
答えながら、三千代は恭之介と顔を見合わせた。主家の姫が家臣の為に弁当を作るなど、普通はあり得ない。
(やっぱり、お姫のところは変わってるな)
(家臣といっても、一族だからじゃないかな?)
車座になって、わいわいとたわいもない話をしながらの食事の豊かさに、ギンは過ぎた日々を思う。村人の目を盗んで手に入れたわずかな食料を荒れ寺の床下や暗い林の奥で怯えながらむさぼっていた日々から、まだ一年も経っていないのだ。
弁当を使い終え、ギンたちは鮒釣りを再開した。冬獅郎は浅瀬で沢蟹を捕まえたり、ギンや恭之介にちょっかいを出して釣りの邪魔をしたりしていたのだが、遊び疲れたのか、絢女の許に戻ってくると、姉の膝を枕にこてんと寝入ってしまった。
朝のうちはさっぱり成果の上がらなかったギンだったが、慣れてきたのか、午後になってからは次々と獲物を上げるようになっていた。恭之介が、
「そろそろ八つ *1 を過ぎるし、切り上げよう」
と告げた時には、甘露煮をこしらえるには充分な量の小鮒がギンの
片付けを始めたギンたちの気配に、姉の膝枕で転寝していた冬獅郎が目を覚ました。寝ぼけまなこをこすりながら、身体を起こした冬獅郎だったが、
「ねえさま、どうしたの?」
と、慌てた声を上げた。幼い彼にもはっきりと分かるほど、絢女は具合が悪そうだったのだ。
ぎょっとしたギンが駆け寄ると、絢女は蒼ざめた顔で心細そうにギンを見上げた。
「どうしたん?」
「分からない…けど、
ずっと日陰にいたとはいえ、夏のことである。暑さに中てられたか、それとも、他の人間は冬獅郎も含めて大丈夫のようだが、昼の弁当に中ったかと、ギンはおろおろしながら、
「立てる?」
「ええ」
ギンに掴まって立ち上がった絢女だったが、すぐにつらそうに蹲ってしまった。
「お姫、大丈夫?」
「おなかが痛いって、どんなふうに痛いの?」
「重たいの…」
と、絢女は答えた。
「…おなかの中に漬物石があって…、ゆっくり転がってるみたいなの」
言葉を選びながら説明し、もう一度、絢女は立ち上がった。
「ねえさま、ち…」
冬獅郎が目を瞠って、絢女の足下を指さした。彼女の左足首に、血が一筋、流れていた。
「姫さん、怪我!?」
ギンの大声に、絢女は首を横に振った。怪我なんてしていない。ずっと座っていただけなのに、怪我をするわけがない。自分でも事態を呑み込めずに混乱する絢女に、三千代が、
「大丈夫だ、お姫。怪我じゃないし、病気でもないから」
と、ひとり腑に落ちたという顔で告げた。
「あの…、さ。お屋敷の女の人から、『月の障り』とか『
絢女がびくりと体を震わせ、ギンと恭之介が、
「…あ…」
「…え」
と揃って短い呟きを洩らした。
五人もの姉に揉まれて育った三千代は、男ながら、この手のことには慣れっこだった。
「ギン、恭之介、手拭い持ってるだろう? 出して。お姫も」
と、三人から手拭いを受け取る。自分の手拭いも加えた四本の手拭いを結わえて長い帯状に加工すると、それを絢女に渡し、少し離れた茂みを指さした。
「お姫がいいっていうまで俺たちはこっちを向いているから、あの茂みの向こうでさ、これを、えっと、その…。そう! 赤ん坊のおしめみたいに巻きつけて。そしたら、お屋敷までくらいなら持つから」
三千代は絢女を茂みまで連れて行くと戻ってきた。呆然と立ち尽くしている恭之介とギンの耳を掴むと、
「ほら、こっち向いて。お姫が支度出来ないじゃないか!」
と力任せに方向転換をさせた。
「大丈夫、他の人が来ないように俺たちで見張ってるから。支度が出来たら教えて」
「はい。ありがとうございます」
か細い返答の後、しばらくして、
「出来ました…」
と声がした。駆け寄ったのは、やっぱり三千代で、ギンも恭之介もまだ自失したままだった。
「ねえさまぁ、だいじょうぶ? いたい?」
不安げな冬獅郎を、三千代が宥めた。
「坊、心配ないんだ。お姫はちょっと気分が悪いかもしれないけど、これって、めでたいことなんだから」
「めでたい?」
「お祝いすることなんだ」
「おいわい?」
絢女の具合が悪いのにお祝いすることだと言われて、冬獅郎は混乱した。
「お姫は
てきぱきとした三千代の言葉を、はっと我に返ったギンが、
「あかん、ボクがおんぶする!」
と強い口調で遮った。
吃驚してギンを見返す三千代と、友人に大声を上げてしまったことに自分で驚いているギンの間に、気まずい空気が流れる。それを救ったのは恭之介だった。
「うん、お姫はギンがおんぶした方がいいよ」
意識的に暢気な口調を作って、恭之介は言った。
「姫君を運ぶのは家臣の仕事だよ」
「それもそうか」
「三千代は力持ちだから、みんなの荷物を持ってよ。僕は坊を引き受けるから」
「恭之介、さりげなく自分の荷物まで押し付けるな!」
「あ、ばれた」
ギンが絢女を背負い、三千代がギンの釣り道具や空になった重箱を持ち、恭之介が冬獅郎の手を引いて、家路を辿る。
ギンの背中で、絢女が小さな声で、
「ごめんなさい」
と謝った。
「何が?」
恭之介が笑みとともに、絢女を見た。
「無理を言ってついて来たのに、迷惑をかけてしまって…。せっかく、楽しかったのに台無しにしてしまったから」
「別に台無しになんてなってないよ。ね、三千代」
「うん。楽しかったし、散々、遊んで、帰る間際だったし、いいんだって。第一、お姫。これってお祝いごとだって言っただろ?」
「きっと、今晩は、大急ぎでご馳走を作らなきゃだよね」
「赤飯は絶対だろ。あとは…、お姫のお屋敷だとどういうご馳走だろう?」
「三千代、今までに食べた一番のご馳走って何?」
「三番目の姉上の婚礼の席で、でっかい鯛の塩釜が出たんだ。それが一番」
「あー、確か、ずいぶん、いいところに嫁がれたんだよね」
「うん。お絹姉上はばばさま似で器量よしだったからな」
「そうそう、三千代の姉上とは信じられないくらいきれいだったもんな」
「どーせ、俺はちんちくりんだよ」
恭之介と三千代は巧みに話題を逸らし、ことさら楽しげに会話を続ける。それが絢女への気遣いだと分かったので、彼女は謝罪するのをやめた。
日番谷屋敷に帰り着くと、ギンの背中でぐったりしている絢女に、門番が目を剥いた。
「姫さま、一体、どうなさったんですか!?」
「ギンの母上を呼んでいただけませんか?」
ここでも、主導権を握っていたのは三千代である。
「女の方でないと、駄目だから」
との彼の言葉に、年の功で察したらしい門番はすぐに奥向きに連絡を入れた。
飛んできた佐和に、三千代が耳打ちをする。了解した佐和は、深々と三千代と恭之介に頭を下げた。
「姫さんがえらいお世話になって。ほんまにおおきに」
「いいえ。それじゃ、俺たちは帰ります」
「お礼したいけど、遅うなったらおうちの方が心配しはるやろしなぁ。いずれ、改めて、お礼させていただきます。気ィつけてお帰りよし」
「はい。お姫、お大事にね」
佐和の指示で、絢女は母屋に運ばれた。ギンは離れに帰っているように養母に言いつけられ、悄然として、母屋から引き上げた。
「そんなとこで、どうしたん?」
「姫さんは…?」
「床についたはるよ。今はおさとが側にいてる。三千代はんから聞いたなぁ? 病気やあらへん。姫さんがひとり前の
「うん…」
元気なくうなだれている養い子の隣りに腰を下ろし、
「ギン、どないしたん?」
と、佐和は優しく尋ねた。ギンが絢女に敬慕の念を抱いていることは承知していた。大切に思う姫の初花 *4 を目の当たりにした彼が、衝撃を受けているだろうことは充分察しがつく。
「吃驚したなぁ」
「…うん」
「姫さんはえらい早かったし、うちも吃驚した」
「早いん?」
「ん…。十三、四くらいで初花いうんが、普通や。まぁ、こればっかりは早い子もおれば、遅い子もいてるからなぁ。早いいうてもあり得へん歳やおへんし、姫さんが早いかもしれへんて心構えしてへんかったうちが悪いん」
ギンはずっと俯いている。
「ギン…」
佐和がもう一度呼びかけた時、
「何も出来ひんかった…」
ぽつりと、ギンが呟いた。
「姫さん、つらそうにしとったのに、ボク、何も出来ひんかった。三千代が全部、やってくれて…」
「なんや、それでしょんぼりしてたん?」
佐和の頬に微笑が浮かんだ。
「三千代はんは、確か、
「五人、いてはるそうや。三人はもう嫁いではるけど」
「五人も
「そうなん?」
「物知りやて、ギンがいっつも感心してる恭之介はんかて、何も出来ひんかったんやないん?」
ギンは肯く。
「ほら。物知りはんでも、なぁんも出来ひん。ギンが出来ひんのんは当たり前や。いつまでもしょぼくれとったら、姫さん、心配しはるえ」
と佐和は立ち上がり、土間に転がった魚篭を覗きこんだ。
「あらぁ、ようさん釣ってきたなぁ」
佐和の弾んだ声に、ようやくギンは面を上げた。
「甘露煮にしよな。お館さまも旦那さんも甘露煮、好物なんえ。ギンの釣ってきた鮒や言うて出したら、大喜びしはるわ」
優しげに見つめる養母に、ギンはぎこちなく笑みを返した。
それから、二日後のことだった。
夕餉を終え、自室で書物を読んでいたギンの許に、佐和がやって来た。
「ギン、姫さんが会いたい言うて来てはるえ」
上がるように佐和が勧めたが玄関で待っていると聞いて、ギンはすぐに絢女のところに向かった。
「もう加減はええの?」
絢女はまだ青い顔をしていた。心配そうに表情を曇らせたギンに、
「ずいぶんいいの。心配かけてごめんなさい」
「ボクこそ、何も役に立てへんで…」
絢女はかぶりを振ると、
「ギンにお願いがあるの」
と切り出した。
絢女の頼みは、冬獅郎を風呂に入れて欲しい、というものだった。幼い弟は、いつも絢女が風呂に入れていた。けれども、彼女はまだ月の障りの最中だったから、冬獅郎とともに風呂に入るわけにはいかない。まだ小さな冬獅郎は姉と一緒に入れないことがどうしても納得できず、ずっと「ねえさまとはいる」と駄々をこねていたのだという。懸命に説明し、宥めすかし、ようやく、「ギンとはいる」ということで、冬獅郎は妥協したのだ。
「ボクは構へんけど…。でも、ボクと一緒に入ったら、若さん、びっくりしはるで。怖がらへんかな」
彼の体に残る無数の傷痕に、冬獅郎が怯えることを、ギンは懸念していた。迫害され続けてきた彼は、絢女に救われる以前にも何度も大怪我を負ってきた。浮浪児だった彼には医者の手当ても、薬も与えられなかったから、どんなにひどい怪我を負っても、誰にも見つからない場所でひとり横たわり傷を癒すしかなかった。まともな手当てを受けられなかった傷は、ギンの身体に消えない刻印となって残っている。
冬獅郎は幼かったから、ギンの過去については何も知らされていない。これから一緒に暮らす子供だ、という父の説明を少しの疑問も持たずに受け入れていたのだ。もっと大きくなれば、ギンが何者なのか、何故、市丸の家に引き取られたかと疑念を抱くだろうから、鷲一郎も絢女も、その時に説明するつもりでいた。
ギンの言葉に、絢女は考え込む素振りを見せた。だが、すぐに顔を上げると、
「冬獅郎はまだ小さいけれど、痛いとかつらいとかはちゃんと分かる子だと思うの。びっくりするかもしれないけど、きちんと説明すれば怖がったりしないわ」
と言った。
ギンは頷くと、佐和に事情を説明してから、絢女とともに母屋に向かった。
冬獅郎はすでに湯殿の前でギンを待っていた。絢女が絡むとむきになるのは相変わらずだったが、彼はギンに懐いていたから、初めて一緒に風呂に入ることにはしゃいでいる様子だった。
さっさと着物を脱いで、洗い場に行ってしまった弟を見送り、
「それじゃ、お願い」
と絢女は頭を下げた。
「わたしはここで待っているから、冬獅郎を先に上がらせてね」
「うん。わかった」
と、ギンは頷いて脱衣場の扉を閉めた。
手早く着物を脱ぐと、深呼吸をひとつして、ギンは洗い場に入った。待ち構えていた冬獅郎の笑顔が、ギンを見るなり一瞬にして凍った。予測に違わず、冬獅郎は翡翠の瞳を大きく見開き、身体を強張らせて、ギンの傷を凝視していた。
ギンは冬獅郎の前にしゃがみこんで、目の高さを合わせた。
「かんにん、若さん。びっくりさせてしもたな?」
冬獅郎の小さな指がかすかに震えながら、ギンの胸元の刃物傷に触れた。
「…いたい…?」
「痛いことあらへん。もう治っとる。痕が残っとるだけや」
「いたい?」
今度はわき腹の引き攣れた傷に触れた冬獅郎の指を、ギンはそっと外した。
「全部、もう治っとるよ。ちょっとも痛ない」
泣いてはいなかったが、泣きそうな顔で、
「なんで?」
と尋ねた冬獅郎に、ギンは答えた。
「ボクなぁ、ずっとひとりぼっちやって」
幼い冬獅郎でも理解できるように、慎重に言葉を選びながら、ギンは絢女に出会うまでの自分がどんなふうに生きてきたのかを丁寧に説明した。
実の父親から、母親ごと捨てられたこと。母親から罵られながら育ったこと。母親が野垂れ死んでからひとりきりでいたこと。
胸の刃物傷は、子供が病で亡くなったのはギンのせいだと思い込んだ女に鎌で襲われた時のものだ。自分の霊力を認識している今なら、その女の思い込みは実は正しかったのだと分かる。強い霊力を隠すことが出来なかったギンは、悪霊の類を知らずに呼び寄せていたらしいから、きっと彼女の子供は悪霊の気に中てられて耐えられなかったのだろう。だが、当時は分からなかった。般若の形相で、髪を振り乱して襲い掛かる女から必死に逃れながら、
「何もしてへん! ボクは何にもしてへん!!」
と心の中だけで叫んでいた。
背中に残る大きな裂傷の痕は、村人から追われ逃げている最中に、崖から足を滑らせた時に出来た。崖の途中に飛び出していた鋭い岩に切り裂かれたのだ。
「…そいでな、いよいよ殺されるいう時に、
冬獅郎は微動だにせずに、ギンの話を聞いていた。それでなくても大きな瞳は、極限まで見開かれていた。
「…したから、市丸の家に養子に入ることになったん」
語り終え、ギンは改めて冬獅郎を見つめる。
「ごめんなぁ、若さん。今まで黙っとって」
と、ギンが謝ったのとほぼ同時、猛烈な勢いで冬獅郎がギンに飛びついた。予測外の冬獅郎の動きに身体を支えきれず、ギンは仰向けにひっくりかえった。
ごちん、と音がして、後頭部が洗い場の床に激突する。
「あいた…」
ギンは自分の身体の上に冬獅郎が乗っかっていることを知った。首っ玉にぎゅうと力一杯しがみついている冬獅郎に困惑して、
「若さん?」
と呼びかけた時、耳元で声がした。
「まもってやるぞ」
冬獅郎を抱えたまま、ギンはゆっくりと半身を起こした。
「まもってやる。とーしろうがギンをまもってやる」
かじりついた腕にさらに力を込めて、幼い声が繰り返す。
「うん…。おおきに、若さん」
「どこにもいっちゃだめだぞ」
「うん」
「まもってやる。ギンがいじめられないように、とーしろうがまもってやるから」
「どこにも行かへんよ」
「やくそくだぞ」
「うん」
立ち上がり、湯加減を確認してから、ギンが湯船に身を沈めると、冬獅郎はようやくギンの首から腕を外した。
小さな身体が湯船に沈んでしまわぬように、自分の膝の上に冬獅郎を乗せたギンをじっと見つめて、
「ギン、すげぇなぁ」
と冬獅郎は言った。
「何がすごいん?」
「ひとりで、いっぱいいたくて…。なのに…」
鷲一郎から、心が強い、と言われたことをギンは思い出した。知識も語彙も足りない冬獅郎は自分の想いをうまく表現できなかったが、彼が父親と同様にギンの心の強さを感じ取って、すごい、と言っていることを、ギンは正確に理解していた。
ゆっくりと湯につかり、手拭いで身体を洗ってやって、ギンは冬獅郎を脱衣場に上げた。扉の向こうで待っている絢女に、
「若さん、上がったで」
と声をかける。
「はい」
返事がして、絢女が脱衣場に入ってきた。弟の身体を拭き、夜着を着せた彼女が、弟を連れて出て行ったのを確認してから、ギンも湯から上がった。
着替えを終えて湯殿から出ると、冬獅郎の手を引いた絢女がギンを待っていた。
「姫さんの言うた通りや。若さん、ちゃんと分かってくれたで」
「よかった。ギン、ありがとう。おやすみなさい」
「ギン、おやすみ」
「おやすみなさい」
と、挨拶を交わし別れようとしたところで、ギンは足を止めた。
「姫さん」
部屋に引き上げようとしていた絢女が振り返る。
「なぁに?」
「ボクを見つけてくれて、ありがとう」
絢女は吃驚してしきりに瞬きを繰り返していたが、ギンはもうそれを見ていなかった。照れくさそうに足早に離れに戻ってゆくギンを、絢女はぼんやりと見送っていた。
離れに戻ると、ちょうど、主計が帰宅したところだった。
「ギン、若は?」
佐和から、ギンが冬獅郎を風呂に入れに行ったことを報告されたばかりの主計が尋ねた。冬獅郎が人の痛みを理解できる子供だということを、絢女同様に、主計も疑ってはいなかった。けれど、まだいとけない
「守ってくれるんやて」
「え?」
「ボクがもう虐められへんように、若さんが守ってくれはるそうや」
「そうおっしゃったのか?」
ギンは肯くと、
「義父上、観音丸をもういっぺん、持たせて欲しいねんけど」
と、頼んだ。主計は無言で腰から脇差を抜き、ギンに差し出した。
主計の部屋でしたように、ギンは鞘のままの観音丸を構えた。大きく息を吐いて、心の中だけで、
(守りたい)
と念じる。この温かな場所に導いてくれた、絢女を守りたい。自分を守ると言ってくれた幼い冬獅郎を守りたい。素性の分からぬ自分を息子にしてくれた養親を守りたい。一族に迎え入れてくれた鷲一郎を守りたい。儀輔を、三千代を、恭之介を、今の自分を取り巻く優しい世界を形作るすべてのものを守りたい。
願うほどに刀は重みを失い、代わりに、ギンの中に力が満ちてくるのが分かった。
もう一度、深く息を吐いた後、ギンは観音丸を養父に返した。
以前に、儀輔に言われた「守る為に必要なのは力だけではない」という言葉の意味が、ようやく理解できた気がした。
「
まっすぐに見つめる養い子の視線を、主計も、佐和も、受け止める。
「ボクを息子にしてくれて、ありがとうございます」
深く頭を垂れたギンを、佐和が泣き笑いの顔で抱きしめ、主計は滅茶苦茶にギンの頭を掻きまわすことでこみ上げるものを紛らわせた。
*1 午後3時から4時頃。
*2 約1時間。
*3 女性の生理日のこと。
江戸期の生理用品は半紙を折り畳んで紐をつけたもので、形状が馬の腹帯に似ていた。
この為、生理用品を「お馬(または午)」と呼び、転じて、生理そのものを指す隠語と
なったらしい。
*4 初潮のこと。初めて「お馬」を使うことから「初午」とも言われた。