秋に咲く桃花


 毎月三度、一のつく日に、絢女は笛の稽古に出かける。
 名手だった母親から子守唄代わりに笛の音を聞かされて育った絢女は、現在の冬獅郎の年の頃から母の手ほどきで笛に親しんでいた。病弱だった母は冬獅郎を産んで間もなく、産後の肥立ちが思わしくなかったところで風邪をこじらせ、あっけなく亡くなってしまった。それからずっと、亡き母の、
「冬獅郎をお願い」
という遺言に忠実に、絢女は幼い身で母親代わりになって弟の面倒を見てきた。彼女の甲斐甲斐しさは、佐和や屋敷の女中たちも舌を巻くほどであったけれども、反面、好きだった笛に手を触れようとしなくなってしまった。そんな彼女を案じた佐和の進言で、鷲一郎が娘と語り合い、母の指導を受けられなくなった絢女が自分の未熟な技量を恥じていることが分かった。名手と名高かった母親を尊敬している絢女は、未熟な笛で母の名を汚すことを怖れていたのだ。
「いつも、絢女の悪いところを母上が教えて下さっていたの。母上のおっしゃったことに気を付けたら、上手くなるのが絢女にもわかったの。だけど、ひとりでお稽古しても、どこが悪くて母上みたいに吹けないのか分からないんですもの」
と泣き出した娘の為に、鷲一郎は幕閣のつてまでも頼って、当代一の名人との誉れ高い師匠に絢女を弟子入りさせた。
 師匠は芸術家肌の気難しい人だったが、母親譲りの才を持つ絢女のことはたいそう気に入って、目をかけてくれた。絢女も師匠を敬愛し、月に三度の稽古の日を楽しみにしていた。
 龍笛の師匠は山王祭りで名高い日枝ひえ神社の近くに居を構えている。
 長月一日、この日も稽古に出向いた絢女が帰り道である江戸見坂にかかった時、坂下から、
「ねえさまぁ!」
と、呼ばわる声がした。彼女のことを「ねえさま」と呼ぶ人物は世の中に一人しかいないが、その声がこんな場所で聞こえると思わず、絢女はびっくりして声の方に目を向けた。声の主は坂の真ん中あたりにいて、ギンに右手を引かれたまま、絢女に向かって一所懸命に左手を振っていた。
「冬獅郎!? どうしたの?」
 急勾配の坂を転ばないように注意しつつも、急ぎ足で下りた絢女は、弟とギンを見比べた。
「おむかえ!」
 得意満面で答える冬獅郎に苦笑しながら、ギンが補足した。
「お天気ええし、表に出たかったみたいや。『姉さま、迎えに行こ』てせがまれてしもて、散歩がてら迎えに来たんやけど。あかんかった?」
「ううん」
と、絢女は首を横に振った。
「お迎え、ありがとう」
 たいていの場所には弟を伴ってゆく絢女だったが、龍笛の師匠のところには連れて行ったことがない。師匠が稽古とかかわりのない部外者の存在を好まない為である。
 右手をギンとつないだまま、冬獅郎は左手で絢女と手をつないだ。
「ねえさま、あたらしいのならった?」
 自分で演奏することには関心がなかったが、冬獅郎は姉の笛を聴くことが大好きだった。
「ええ。『菊慈童』っていう曲を教わったの。まだ、前半分だけど」
「そっかぁ。たのしみだな、ギン」
 冬獅郎は新しい曲が聴けると、嬉しそうにギンを見上げた。ギンもまた、
「楽しみやなぁ」
と返した。家臣の立場では冬獅郎のように演奏をねだることは出来なかったが、ギンも絢女の奏でる龍笛がとても好きだったのだ。
 江戸見坂は大名家の藩邸に沿っている。その長く続く藩邸の塀がもうすぐ終わるというところで、不意に、絢女の足が止まった。
「どしたん?」
と、ギンが絢女を見ると、彼女は塀の向こうの大きな松を凝視していた。
 さわさわと、風が佇む三人のまわりを吹き抜け、ギンは絢女が松と話していることに気付いた。幼い冬獅郎も同じことを悟ったらしく、姉を無言で見守っている。
「ここ、沼田さまの上屋敷よね?」
 やがて、ほっと息をついた絢女の問いかけに、ギンは頷いた。
「うん。そうや」
 上州沼田藩はギンの友人である城島三千代の主家である。三千代の一家は藩邸内の長屋で暮しており、ギンは何度か遊びに行ったことがあった。
「江戸家老さまのご嫡男がもののけに憑かれて、弱ってらっしゃるそうなの。助けて欲しいって、あの松の木が…」
「どうするん?」
「明日、伺うわ。松の木に頼まれてしまったし、三千代殿の上役の方のご難儀ですもの。お役に立ちたい」

 翌日、夕の七つ
*1 になる前に、絢女は鷲一郎に頼んで書き付けてもらった書状を懐に、ギンだけを伴って、沼田藩上屋敷を訪れた。
 幼い少女の来訪に不審げな門番に臆することなく、絢女は身分を告げた。
「公儀御番陰陽師、日番谷家一姫の絢女と申します。こちらは日番谷家用人、市丸主計が嫡男のギンです」
 ぺこりと頭を下げたギンを、何ごとかと覗き込んだもう一人の門番が認めて、おや、と呟いた。
「知っているのか?」
「確か、城島兵右衛門殿の息子さんの友達だ」
「はい。ギンは城島三千代殿と同門の剣友にて、親しくさせていただいております」
 はきはきと絢女は告げた。
「本日は、江戸家老さまにお目にかかりたく参上いたしました」
「滝本に何用でございますか?」
「江戸家老さまのご嫡男のご病気について、陰陽師がお役に立てることがあるかと存じまして。こちらは父からの書状です」
と、絢女は鷲一郎の書状を差し出した。門番はただちに家老に知らせを入れた。相手が子供といえど公儀御番の名乗りは無視出来なかったし、江戸家老、滝本市左衛門の嫡男が病の床に就いているのは事実だったからだ。
 間もなく、市左衛門の使いの者が現れた。使いは丁重に絢女とギンを藩邸内に招じ入れた。
 三千代の暮す長屋は訪れたことがあるギンだったが、今回、通されたのは、江戸家老の住み暮す別棟の屋敷だった。広い座敷で見るからに重役然とした市左衛門と向かい合い、ギンは緊張を隠せなかった。だが、さすがに絢女は天子にも目通りを許されたことがあるだけあって、一向に動じていなかった。
「お父上の書状を拝読させていただきました。我が息の病にお力添えをいただけるとのお申し出、ありがたく存じます」
「ご子息は悪霊に憑かれておいでです」
 単刀直入に絢女は告げた。
「ですから、お医者さまではご子息の病は癒せません。悪霊を除いて、初めて医薬の力が及びます」
「悪霊、でございますか?」
「はい。弥生太夫という名に覚えはございませんか?」
 それまで、泰然としていた市左衛門の面に動揺が走った。
「ご存知でございますね」
 たたみかける絢女に、市左衛門は吐息をついた。陰陽師である彼女に隠し事は無益と悟ったのだろう。彼はあっさりと、
「息子が入れあげておりました三國屋の花魁です。お恥ずかしい話でございますが…。ですが、弥生太夫は去年の大火で吉原遊郭が燃え落ちた際、逃げ遅れ焼け死んだと聞いております。その女が息子に取り憑いていると申されますか?」
「そう、承っております」
 絢女の返答に市左衛門は不審げな顔つきになった。しかし、誰に承ったのかと尋ねることはしなかった。
「しかし、弥生太夫は火事で亡くなったのです。気の毒とは存じますが、息子のせいではない。息子は入れあげておったくらいですから、太夫に無礼を働いたとも思えませぬし、恨まれるような覚えは…」
「恨みだけが人を悪霊にするわけではございません」
 十一、二の少女とも思えぬ大人びた眼差しで、絢女は市左衛門を見返した。
「弥生太夫はご子息を想っていたのかもしれません。愛しさが執着となり、悪霊と化すことはよくあることだと、父が申しておりました」
 市左衛門はしばらく無言で目の前の少女を見つめていたが、やがて、
「息子をお助け下さい」
と、静かに頭を垂れた。
 絢女とギンは、市左衛門の嫡子、修理しゅりの許に案内された。病み衰えた青白い顔で、修理は訪れた少女と少年を不思議そうに見つめた。
「公儀御番陰陽師、日番谷家の姫君と、そのご近習だ。おまえの病のことでお力添えにいらして下さったのだ」
 困惑を隠せずにいる修理に、絢女が弥生太夫の名を告げる。途端に、修理の顔色が変わった。
「ご家老さまは、修理さまが太夫に恨まれる覚えはないとおっしゃっておいでです。修理さまはいかがですか? 心当たりはございませぬか?」
「太夫はわたしを慕ってくれました。友人の中には花魁の手管だと申す者もおりましたが、わたしは弥生太夫を信じておりました。わたしも太夫を心から愛しく想っておりましたが、沼田藩江戸家老嫡男の立場で、吉原の花魁を身請けするはならず…」
「はい」
「太夫は『身分違いは分かっている。今だけでよい』と口癖のように言うておりました。ですが、心の底では恨めしく思っていたかもしれません。それに、わたしは太夫が死んだと聞いても、花を手向けにさえ行きませんでした」
 ずっと年下の子供に過ぎない絢女に、修理は花魁との関係を正直に打ち明けた。日番谷家一姫の気品と威厳が、子供だと侮る気持ちを消していた。
「どうしてですか?」
「悲しかったからです。あの美しかった弥生太夫が焼け死んだと信じたくはなかった。だから、どうしても行けなかったのです。太夫にしてみれば、薄情な男だとさぞかし恨んだことでしょう」
「弥生太夫は修理さまを恨んで悪霊になったのではないと思います」
 修理が告げた通り、弥生太夫は彼を愛していたのだろう。花魁の手管で甘言を弄して男を悦ばせていただけなら、死して後、男の許に現われるはずがない。それに、沼田藩邸の老松は、修理を案ずると同時に花魁を哀れんでいた。
「きっと、好きだったから…。好きで忘れられなくて、その想いが強すぎて、逝ききれなかったのでしょう」
「弥生が望むなら、わたしは一緒に逝ってもよいと思っています」
 修理の言葉に、市左衛門が覚えず、
「何を言うておる!」
と声を荒げた。怒りと悲しみで蒼白となった江戸家老を制し、絢女は修理を諭した。
「お気持ちはわかりますが、修理さまを取り殺してしまったら、弥生太夫は救われません」
「え…」
「愛しさゆえに悪霊になってしまったとしても、太夫はまだ人です。けれど、修理さまを取り殺せば、本物の鬼になってしまいます。鬼になってしまえば、心は満たされることはありません。太夫が飢えを満たす為に無関係な人たちの魂を貪り続ける餓鬼になってしまってもよいのですか?」
「いえ、そのようなことは…」
「では、わたしに力をお貸し下さい。太夫の魂を救うには、修理さまの真心が必要なのです」
 絢女とギンの目には、修理の体に絡まった鎖が見えていた。その鎖は本来は肉体と霊魂を繋ぐもので、弥生太夫が生きていた頃は、彼女の体に結びついていたはずだった。けれども、彼女が死した今、鎖は執着する男の肉体に絡みついてしまい、それゆえにこそ、彼女は逝ききれずにいるのだ。
「何をすれば…」
 縋るように尋ねる修理に、絢女は小首を傾げて考え込むしぐさを見せた。途端に表情が歳相応の幼さを帯びた。
「何か、修理さまのなさったことで太夫が喜んだことはございませんか? 例えば、贈り物とか…」
 しばらく考えてから、修理が答えた。
「桃の一枝…」
「桃、ですか?」
「弥生は桃の節句の生まれなのです。源氏名もそこから来ています。庭の桃が美しく咲いておりましたので、一昨年の節句の日に持参しましたところ、太夫はたいそう喜んで、小枝を一枝折って、髪に飾ってくれて…」
 修理は目を細めた。自分が贈った桃の枝を飾った、在りし日の弥生太夫を思い出したのだろう。
「修理さま。弱っておいでのところを申し訳なく存じますが、その桃の木のあるところに案内をお願いいたします」
 市左衛門が若党に案内させると申し出たが、絢女は首を横に振った。
「修理さまには桃の木のところまで行っていただかないとなりません。太夫が喜んだという花がどんなだったか、ご存知なのは修理さまだけですから」
 桃は江戸家老邸の中庭にあった。長月の現在、葉は茂っていたが、もちろん花など見当たらない。絢女は市左衛門に断って庭に下りると、桃の幹に両手で触れて、静かに呼吸を整えた。そのまま、目を伏せ、瞑想に入ったように動かなくなってしまった絢女に、たまりかねたのだろう。市左衛門がギンにこっそりと問いかけた。
「姫は何をしておいでなのだ?」
「桃の木と話してるんやと思います。姫さんは木ィと話が出来るんです」
 信じられぬ、という面持ちで、市左衛門は首を振る。一方、修理は真剣な眼差しで、絢女を見守っていた。
 やがて、振り向いた絢女は、
「修理さま、こちらに…」
と手招いた。近習に支えられながら修理は彼女の側に寄る。彼女は左手は桃の幹に触れたまま、右手で青年の痩せて骨ばってしまった手を取った。少女から弥生太夫に贈った桃の一枝の姿を思い出すように促され、修理も目を閉じ、あの日の桃の姿を心に描いた。彼から贈られた桃を手に微笑んでいた太夫の姿、髪に飾る為に小枝を折る手つき、そして、つややかな髪に挿された桃花の鮮やかな色あい。
「修理さま」
と呼ばれ、目を開けた彼の眼前に美しく花を咲かせた桃の枝があった。驚愕する彼に、
「修理さまの想いに応えて、桃の木が咲かせてくれた花です。うつし世の花ではございませんので、ご家老さまやご家来衆には見えませんが、弥生太夫には見えますし、手に取ることも出来る花です」
と絢女は教えた。彼女はギンに桃の枝を託すと、修理の手を離した。途端に、修理の目にも桃花は見えなくなってしまった。
 老松から、花魁が現われるのは夜の四つ
*2 頃だと聞かされていたので、絢女とギンはそれまで修理の傍らで待たせてもらった。
 やがて、四つの鐘の音がかすかに響いた。ほとんど同時に、陰風が吹き抜けた。
 絢女とギンは目を合わせた。身構える二人の前に、焼け爛れた女が現われた。恋しい男の側にいる子供には見向きもせず、女はまっすぐに男に向かう。布団に横たわる修理にのしかかろうとした彼女は、直前、弾き飛ばされた。ギンが修理の周りに結界を張っていたのだ。
 女がけだものじみた咆哮を上げる。のけぞった女の胸に大きな穴が穿たれ始めていた。
「弥生太夫!」
 凛とした呼びかけに、太夫は絢女を向いた。太夫の目に憎悪が宿り、絢女に向かって襲い掛かる。しかし、指一本触れることもかなわず、結界によって弾かれてしまった。
「太夫、やめなさい。修理さまが好きなのでしょう!?」
 再び、太夫が叫んだ。言葉にならない絶叫を残し、彼女は部屋を飛び出した。
「鷺姫」
 ふわりと絢女の体から、白いものが現われた。真っ白な鷺だった。
「太夫を追いかけて!」
 絢女の命に応えるように、白鷺は一声鳴くと、太夫を追って、襖をすり抜けて部屋を飛び立っていった。
「ギン、桃を持ってついて来て!」
 ギンは頷いた。修理の枕元に置いていた桃の枝を掴むと、絢女の後を追い、飛び出そうとする。
「姫、ギン殿、弥生太夫を救って下さい!」
 霊力を持たぬゆえに弥生太夫を見ることは叶わなかったが、絢女とギンの様子から事態を悟っていた修理が懇願する。
「姫さんが救ってくれる。大丈夫や!」
と答え、ギンは部屋を走り出た。
 あらかじめ、市左衛門を通じて断っていたので、門番はすぐに潜り戸を開けて、絢女とギンを藩邸から出してくれた。
 太夫の姿も、先ほどの白鷺の姿も見えなくなっていたが、絢女は迷うことなく道を走り、ギンは彼女に従った。
「どこに向かっとるん?」
「知らない。でも、鷺姫の跡を追っていけば、太夫のところに辿り着くわ」
「鷺姫て、あれ、何なん?」
「私の式神よ」
「式神て…?」
「終わったら教えてあげる」
 走りながらの会話は苦しかったのだろう。絢女はそう告げて、話を打ち切った。
 辿り着いたのは江戸城桜田門だった。
 まさかに、こんな夜更けに城に入るわけにもいかないだろうと困惑するギンを尻目に、絢女は躊躇いもせずに門に近づいた。
 見咎める門番に彼女は何ごとかを告げる。すると、門番は二人を中に入れた。
「何、言うたん?」
「申し訳なかったけど、しゅをかけたの」
「へえ。さすがに姫さんやなぁ」
と、感心した後、ギンは首を傾げた。
「けど、何で吉原の花魁が江戸城におるんや?」
「うん…。あのね、これはわたしが考えただけで違ってるかもしれないけど、弥生太夫は花魁の自分が悲しかったんじゃないかしら」
「太夫や、花魁や、ゆうてもてはやされても、しょせん女郎やから?」
「沼田藩江戸家老さまのご嫡男の奥方になんて、花魁の身では絶対になれないから」
「ああ。そうやろ、ね」
「自分が花魁でなければ、お城の御殿女中くらいの身分があれば、修理さまと添えるのにって、太夫は憧れていたのかもしれないわ」
 濠を渡り、絢女は真っ暗な城内の道をずんずん進んでゆく。やがて、鷺の鳴き声が聞こえた。鷺姫が絢女を呼んでいた。
 鷺姫は弥生太夫を追い詰め、逃げられないように呪縛していた。太夫の周りを円を描いて飛ぶことにより、太夫の霊魂はその円の軌跡の外には抜け出せなくなっていた。
「ごくろうさま、鷺姫」
 ねぎらいの言葉とともに差し出された絢女の右腕に鷺姫は留まった。そのまま、すうと中に融けるように消えてゆき、絢女は右手を下ろした。
 鷺姫の敷いた結界の内で喚き暴れる太夫に、絢女は桃の枝を掲げて見せた。
「これが分かりますか?」
 弥生太夫の動きが止まった。
「修理さまが太夫に差し上げた桃の枝です」
 絢女はゆっくりと太夫に近づいた。
「寂しかったのですね」
「…」
「寂しくて、本当はただ修理さまのお側にいたかっただけ、なのでしょう?」
「…」
「弥生太夫は修理さまが憎かったのですか? 恨んで、取り殺してしまいたかったのですか?」
 太夫は激しく首を横に振った。炎に舐められ、爛れた瞼の下から、涙が零れ落ちた。絢女が桃を差し出すと、弥生太夫は愛しげに枝を抱きしめた。
「太夫、体に負った怪我が魂に、魂に負った怪我が体に現われるのは生きている間のことです。太夫はもう亡くなられているのですから、体の怪我に縛られる必要はありません。どうか、修理さまに愛された美しい弥生太夫にお戻り下さい」
 絢女の手が弥生太夫の両手をとった。少女から流れ込む温かなものに満たされ、その中に、桃を手に抱いて微笑む自身の姿を太夫は見出した。桃の枝を贈られた、節句の日の彼女だった。その姿をなぞるように、醜く焼け爛れた肌が白くすべらかに甦った。ぱさついたざんばら髪がつややかに結い上げた黒髪に変じ、ぼろぼろに焼け焦げた着物は艶やかな桃花の紋様を浮かべた。
 在りし日の姿に甦った自らを検め、弥生太夫は潤んだ目で絢女に一礼した。
「弥生太夫。あなたはこの世に留まっていてはなりません」
 太夫は頷いた。彼女にも分かっていた。このまま、この世に留まり続ければ、自分は再び修理を取り殺す悪霊と成り果てることを。
「寂しゅうて、恋しゅうて、ただ、あの方の側に居たかっただけなんした」
 傍にいることを気付いて欲しかった。醜く焼け崩れた姿を知られたくなかった。矛盾する想いに引き裂かれ、恋しさが執着に、寂しさが恨めしさに変わって、太夫は般若と化した。だが、本当は彼と離れがたかっただけなのだ。
「これから、太夫をあの世に送って下さる方のところにご案内いたします。その前に、修理さまに会われますか? 最後に一目とおっしゃるなら、力をお貸し出来ます」
 霊力のない修理には、幽霊である弥生太夫は見えない。けれど、絢女の霊力の手助けがあれば、会いまみえることも、言葉を交わすことも可能だ。
「会えば、また離れとうないと狂うてしまいんす。あちきがあちきのうちに、あの世に送ってくんなまし」
 桃の枝を握りしめて、弥生太夫は告げた。絢女は花魁付きの禿かむろのように、丁寧に太夫の手を取った。
「では、参りましょう」
 太夫を連れて、絢女とギンは半蔵門から江戸城を出た。絢女が向かったのは、四谷の於岩稲荷だった。鶴屋南北の「東海道四谷怪談」で高名なお岩を祀った稲荷神社である。歌舞伎役者や、商売人、芸者らの信仰を集める社は日中であれば参詣人も多いが、真夜中の現在はしんと静まり返っている。その社に向い、絢女は、
「今井さま、おいでですか?」
と、静かに呼ばわった。
 拝殿の格子戸をすり抜けて、一人の男が現われた。真っ黒な着物に袴、腰に太刀をいたその男は、明らかにこの世の人間ではなかった。だが、幽霊とも違っていると、ギンは思った。今井と呼ばれた男は絢女とは旧知の間柄らしく、無骨な顔に似合わぬ柔和な笑みを浮かべた。
 弥生太夫に視線を走らせた彼は、
「また、絢女姫に手間をかけさせちまったようだな」
と自嘲気味に呟いた。
「去年の火事で亡くなった花魁か?」
「はい。三國屋の弥生太夫です」
「そうか。あの火事の時に、俺が魂葬を取りこぼしたばっかりに、花魁にもつらい思いをさせたな。すまない」
と頭を下げた男に、弥生太夫はゆるゆると首を振った。
「あちきをあの世に送ってくんなまし」
 太夫が懇願する。今井は腰から鞘に納められたままの刀を取り、柄を外側に向けて持った。絢女が弥生太夫に問いかけた。
「修理さまにお伝えすることはありませんか?」
「お幸せに、と」
 絢女と今井は同時に頷いた。今井の柄の先が、優しく弥生太夫に触れた。「死生」の刻印が太夫の額に浮かび上がり、彼女の姿はゆっくりと消えていった。
「ありがとうございます」
 礼を述べた絢女に、今井は苦笑混じりで答えた。
「こっちの言うことだ。俺が魂葬し損ねた魂魄だからな。絢女姫が浄めてくれたんだろう? 虚になる前に姫と会えて、花魁は運が良かったな」
 彼はギンに目を向けると、尋ねた。
「初めて見る顔だな? 日番谷の郎党か?」
「主計の養子です。ギンといいます」
と、絢女が紹介すると、
「今井喜十郎。ここら一帯を担当する死神だ」
と今井も名乗った。
 その名乗りに驚いて見返すギンに、今井は簡単に死神の役割を教えた。
 死神とは輪廻の輪を巡る霊魂を監視し、この世とあの世の霊的な均衡を保つことを使命とする調整者だった。人間は死神というと死をもたらす者と考えがちだが、実際には、死した人間をあの世に送るだけで自ら死を与えるようなことはしない。死した魂魄をあの世に送る行為を「魂葬」と呼び、死神が魂葬し損ねてこの世に留まってしまった魂魄は、早い遅いの違いはあれ、徐々に悪霊と化していき、最終的には「虚」、現世の言葉でいうと「鬼」や「ばけもの」に成り果ててしまうのだ。
「そうなっちまったら、この斬魄刀で虚を斬るしかなくなる」
「斬られたらどないなるんです? 魂が消えてしまうん?」
「いや、浄化されて、人の魂魄に戻る。だが、斬られる時にかなり苦痛を伴うからな。虚になる前なら、魂葬で済む」
 今井はギンをしげしげと眺めた。
「かなりな霊力だな。絢女姫と同じくらいか? 立派な跡取りが出来て、主計さんも喜んでるだろう」
義父上ちちうえのこと、ご存知ですのん?」
「主計さんや鷲一郎さんには世話になってるからな。魂葬し損ねて逃げられた魂魄を何度も捕まえてもらったり、浄めてもらったりした」
と、今井は答えた。
 今井と別れ、絢女とギンは沼田藩上屋敷に向かった。きっとまんじりともせずに弥生太夫を案じているだろう修理に、ことの次第を報告する為である。道すがら、ギンは何やら考え込んでいる様子で、ずっと黙りこくっていた。それが心配で、
「疲れちゃったね」
と絢女が声をかけると、ギンは、
「絢女、さっきの鷺姫て?」
と問いを返した。終わったら説明すると約束していたことを思い出し、絢女は答えた。
「わたしの式神よ。式神っていうのは陰陽師の命に従って、手足となって働いてくれる特別な霊魂なの。主の陰陽師と深く結びついていてね、普段は主の中に隠れているのよ」
「日番谷の人はみんな式神を持っとるん?」
「みんな、じゃないわ。式神は霊格の高い動物霊が多いんだけど、式になれるほどの動物霊にそうそう会えるわけではないし、会えたとしても相性とかもあるから、必ず式になるとは限らないの。父上と佐和には式がいるけど、主計にはいないわ。鷺姫とは上野の寛永寺で出会って、仲良くなったのよ。それで、わたしの式になってもらったの」
「そうか」
 再び黙り込んでしまったギンを、絢女が覗き込む。すると、
「絢女。もし、や。もしもやけど、ボクが死んでしもたら、ボクを絢女の式神にしてくれへん?」
 思いもかけないギンの言葉に目を丸くした絢女だったが、すぐに首を振って告げた。
「人の霊魂は式にはなれないの」
「何で?」
と、ギンは真剣な声音で問い返した。
「何で、人は式神になれへんの?」
「式神は主に深く結びつくって言ったでしょう? 嫌な言い方をするとね、呪縛されているのと同じなの。祓いの為に、ちょっとの間だけ呪縛することはあるけれど、人をずっと呪縛し続けるのは陰陽師としてやってはいけないことのひとつよ。…ギンこそ、どうして、わたしの式神になりたいの?」
「式神になったら、ずっと絢女の傍におられる」
と、彼は返した。
「もし死んでしもて、絢女の式神になれへんのやったら、ボク、きっと弥生太夫みたいに悪霊になってしまうわ」
 彼の声は少し震えていた。
「絢女の傍にいとうて、離れとうなくて、悪霊に、」
「ならない」
 きっぱりと、絢女は言った。
「ギンは悪霊になんてならない。ギンは強いもの」
「強くなんてない」
「強いわ。父上に捨てられて、母上に憎まれて、周りの人から虐められて、ずうっとひとりぼっちで…。わたしなら、とっくに生きたまま魔物になってしまう。でも、ギンはちゃんと人だったでしょ? あんなにつらい目に遭っても人でいられたギンはすごく強い。だから、悪霊にはならないわ。…だけど、万にひとつで、ギンが悪霊になるようなことがあったら、その時は、」
 息をつき、彼女は静かに続きを告げた。
「ギンはなんだって、わたしが思い出させてあげる」
「絢女…」
「絶対に思い出させてあげる。だから、ギンもね、もしも、わたしが悪霊になってしまったら、ギンがわたしを人に戻して」
「絢女は悪霊なんかにならへんよ」
 この清らかな少女が悪霊になってしまうなど、ギンには考えられなかった。
「絶対に悪霊にならないと言える人なんて、この世にはいないの。ギンは悪霊にはならないと信じているけれど、もしも悪霊になってしまったら、きっと、わたしが人に戻してあげるから…。だから、ギンもわたしが悪霊になったら助けてね」
 ゆびきり、と絢女は小指を差し出した。その指に、ギンは黙って自らの指を絡めた。

 夜半まで東奔西走し、絢女とギンが日番谷屋敷に帰りついたのは、暁八つ
*3 の鐘はとうに過ぎた刻限だった。くたくたに疲れ果てていた二人は、気を使った家人が起こさなかったこともあって、揃って寝坊し、目覚めたのは昼近かった。
 起きてすぐの二人に前に立ちはだかったのは、置いてけぼりを食らって、すっかり拗ねてしまった冬獅郎だった。
「とーしろうもねえさまがはらうところ、みたかったのに!」
とむくれる冬獅郎に、絢女とギンは寝不足の目をこすりながら、ご機嫌取りに終始したのだった。


*1 午後4時頃。
*2 午後10時頃。
*3 午前2~3時頃。

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2009.04.10